世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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「誰も寝てはならぬ」。

この夜を通して、歌い明かそう。
歌声を部屋に満たし、交わす杯で喉を潤して。
空が白んで、曙色の光が世界を満たすその時まで。

誰も、寝てはならない。



――否。誰も眠れない、の間違いかもしれないが。



再掲ですが、リコリコ円盤第二巻と第五巻付属の特典ドラマCDを下敷きにした話です。
皆さんも買って聴きましょう(ダイマ)。



Apdx. 04. Nessun dorma (502号室編)
Apdx.04-01


 それは七月も後半、重くのしかかる梅雨の長雨からようやっと光明が見え始め、この東京にも夏の訪れが感じられるようになった頃の話だ。

 

 ここ数日にわたり降り続いていた雨は今朝になって嘘のように上がり、抜けるように澄み切った青空の中、南天に高く架かる夏の太陽がこの街に遍くその陽射しを届けている。

 朝の天気予報によれば、ここから一週間は同じような晴れの日が続くという。ともすれば明後日にも、関東に梅雨明けの報が入りそうだとも。

 

 そんな今日の最高気温は、猛暑日までとはいかないものの三十度のラインは軽く超えていたらしい。この店のカウンター横に備え付けられているテレビが、そう昼時に喋っていた。

 確かにそのあたり、所用だからと十分と少し外に出れば、忽ちのうちに肌にうっすらと汗が浮かぶほどの暑さが町全体を覆っていたことを思い出す。

 事程左様に、季節の移り変わりというのはあっという間にやってくるものだ。それを、つくづく実感していた。

 

 そして斯くなる日には、このコンクリートジャングル、灼熱の都東京の中で、ついつい涼を求めてこの和風の趣豊かな喫茶店に足を運びたくなるものなのだろうか。或は長く続いた雨の日からの解放感が、人を外へと誘うものなのか。

 つまり今日この日、喫茶リコリコはここ一月の中でも屈指の大繁盛を迎えていた。それは今年の春、僕たちがハワイから帰還した直後の忙しさに匹敵するか、ともすればそれすらも上回りそうなほどの凄まじさとなって、僕たちリコリコのホールスタッフに牙を剥いていた。

 

 

 

Appendix 04. Nessun dorma

 

 

 

 絶え間なくやってくる人の波を捌いて捌いて、気づけば時刻は午後五時を回っていた。凄まじいまでの客の入りも、漸くにして落ち着きを見せ始めている。

 基本的にスイーツ以外に食事のメニューを出さないこの店は、夕食時に近づくこの時間帯に一度客足が遠のく。夜になれば常連の人たちがボドゲや客同士の憩いのためにまたやってくるのだが、ともかくここからの二時間程度は僕たちスタッフにとっては一息つけるタイミングだし、また或は一度店を閉めて支度をするための時間として使うこともままあった。

 

 ともかくそういうわけで、この時間帯最後の客を満面の笑顔で見送った千束が、その表口の扉が閉まると同時に座敷席へとふらふらと歩を進めて、そのままどっかりと腰を下ろした。

 

「――いやぁ、今日凄かったわぁ、お客さん」

「ほんっと、ようやく一段落って感じよぉ……」

 

 ぐぐっと伸びをしながら、些か疲労を隠せない声色で以てそう口に出した彼女に、隣で同じように座り込んでいるミズキさんが同調した。そちらもまた腰を落ち着ける暇もなく色々忙しなく歩き回って注文を捌いていたこともあってか、その声はどこかあくび交じりのものにも聞こえる。

 

 さすがにみんな疲れているということだ。二人のそんなやり取りをただ黙って聞いているだけのたきなさんにしてもそうで、彼女にしては珍しく、カウンターの上に肘をつきつつ顎をその上に載せて休んでいた。

 まさしく疲労困憊、死屍累々といったところだろうか。そんな様子の彼女たちを視野に入れつつも、僕は上にドリンクを載せたお盆を持ちながらホールの真ん中に躍り出た。

 

「お疲れ様。取り敢えず一度休憩入れられそうだし、よかったらどうぞ」

 

 そしてそう、みんなに向かって呼びかける。

 運んでいるのは、僕を含めたホールの人数分のアイスコーヒーだった。

 

「ミカさんが今いないから、生憎僕が淹れたやつだけど」

 

 その声にまず反応したのは千束だ。ばっと顔を上げて、こちら側に駆け寄ってくる。そして輝く笑顔で以てグラスを一つ手に持った。

 それまで座敷で萎びていたのが嘘のように歓声を上げながら、空いている左手で僕の肩を叩く。

 

「ありがと~っ! いやぁ、ホント気が利くなぁ隼矢さんってば! さっすが私の()()()()()()!」

 

 その言葉に、思わずドキリとさせられる。

 それは即ち、二週間前のことだ。かねてからの約束通り、二人連れ立って婚約指輪のための指のサイズ取りと予約を済ませた辺りから、千束はいよいよ僕を含めた周りに対してこういう態度を隠さなくなっていた。

 外聞のこともあってか客にこそ知られてはいないものの、しかし彼女の発する空気感や振舞いに、何人かの常連はどうにも察するところがあったらしい。特に女性はそういった嗅覚が優れているのか、漫画家の伊藤さんには数日前のボドゲ会で相当に揶揄われたのを覚えている。あとカナさん――堅さんにも。

 

 ――チッ、と音が聞こえた。舌打ちだ。

 音の出元は、千束の背後だった。どうやら彼女の醸し出している空気がよほどに気に食わないらしい。

 誰によるものかは、もはや言うまでもないだろう。

 

「当てつけか、テメェ」

 

 語るに落ちるというか、ミズキさんのその恨み言を背後に聞いて、溜息をつきながら千束が振り返った。

 

「そうやっていちいち突っかかるから掴めるチャンスも掴めないんだぞぉミズキィ……」

 

 座敷席に再び腰を落ち着けながら、睨むように彼女を見るミズキさんをそう諭す。

 まあ、僕自身としてはかねてからミズキさんが何をあそこまで焦っているのかは未だによくわかっていないのだが、ただ今の僕がそれを言ってもそれこそ厭味か当てつけだろう。

 

「まあ、そこまでで。ミズキさんも、これを」

 

 こういうのは言わぬが花、触らぬ神になんとやらというものだ。彼女の方まで歩み寄り、盆ごとずいっと近づける。

 

「……サンキュ」

 

 さっきまでもやり取りもあってかジト目でこちらに振り向いたミズキさんだったが、どうやら冷たいコーヒーがいらないわけではないらしい。

 一応といった風情でそう言いつつ、彼女は差し出した盆から自分の分のグラスを取っていく。斯くして載っているグラスが残り二つとなった漆塗りの盆を掲げて、僕は最後の一人、カウンターにいるたきなさんの許へと踵を返した。

 

「たきなさんも、はい」

 

 ほど近くまで寄って、声をかける。たきなさんが顔を上げた。彼女の菫の双眸がすっとこちらへ向けられて、そのまま目が合った。

 

 改めて彼女の顔を見る。

 つい最近、それこそ二週間ほど前の例のライセンス更新の日まで、彼女がリコリコのホールスタッフとして働いている時は、基本的にはおさげよりやや高い位置で結ばれたツインテールに髪を結っていた。

 これは彼女がこの店にやってきて、ホールスタッフとして働き始めた日からのある種の習慣だった。

 その日ホールにやってきたお仕着せ姿のたきなさんを見て、千束が面白半分にその髪をまとめたのがそもそものきっかけだ。それからというもの、寝坊しない限りにおいてはたきなさんの髪をセットするのは決まって千束であって、一方でそこそこの頻度で起こる千束の寝坊に際しても、たきなさんは同じようなやり方で自分の髪をまとめるようになっていた。

 「それが一番楽だから」という、身も蓋もない理由によるものであった。

 

 しかし、今は違う。彼女は自らの長い黒髪を一つ結びにして、身体の前に垂らしている。世に言うルーズサイドテールに近い。

 その毛先を彩っているのは、()()()()()()()()()()()()だ。それはライセンス更新の次の日、千束がたきなさんに渡した自らの髪紐のスペアだった。前日にした約束を、千束はすぐに果たした形になる。

 それからというもの、たきなさんは普段からその髪紐を身に着けるようになった。例えばリコリスの制服を纏うような時には、彼女は自らの横髪を編み込む形にして、それをその髪紐で留めている。千束とは反対、右の横髪を結い上げるそれは、ある種のリンクコーデとも言えるだろう。

 そしてそれら全てを、たきなさんは今己の手で行っている。自らの身だしなみに頓着することがほとんどなかった彼女の、それは画期的なまでの意識改革だった。

 

 ともかく、そんな出で立ちで僕の方を見上げている彼女は、しかしすぐに会釈がてらに残り二つのグラスのうち一つを手に取った。そのまま静かに、口をつける。

 ほどなくして、一頻りアイスコーヒーを口にしたであろう全員から人心地ついたような溜息が漏れた。僕も自分のための最後のグラスをカウンターに置いて、そしてその前の椅子に腰掛ける。

 

「けどまあ、ここ何日か暇で暇でしょうがなかったのとは大違いだね、本当に」

「ええ。……本当に」

 

 全員の方を向いて問いかければ、随分と実感の籠もった声でたきなさんが返してきた。

 

「ってか、アイツはどうしたのよ」

 

 そこでふと、思い出したかのようにミズキさんが言う。

 「アイツ」。この場にいない残り二人の中で、彼女がそう呼ぶのは一人だけだ。

 

「クルミですか? 多分いつもの押し入れだと思いますけど」

「はぁ? こんのクッソ忙しいのに、あのガキ……!」

 

 僕の答えに激発したかのように、ミズキさんは立ち上がって大股でバックヤードへと向かっていく。

 そしてほどなく、奥間の方からはドタバタとした音が聞こえはじめた。

 何が起きているかは、おおよそ察しが付く。果たしてその末、五分としない内に、彼女は一人の小柄な少女の首根っこを引っ掴んでこちらへと戻ってきた。言うまでもなく、それはクルミだった。

 

「……おいミズキ、何でボクがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」

 

 半分投げ出されるようにしてホールへとやってきたクルミが、連れてきた張本人に向かってそう怨嗟の声を上げている。

 

「『何で』だぁ? アンタ今日の忙しさ知ってんでしょ、働けっつってんのよアタシは」

「いや、今は別に暇じゃないか……というかボクは働いてるぞ、この店のために」

 

 心底心外だといった声だ。彼女は続ける。

 

「大体今『裏』周りの仕事は誰のおかげで回ってると思ってるんだ。隼矢もそうだけど、ボクだって相当頑張ってるんだぞ」

「ざぁんねん、今はそっちの話はしてませぇん!」

「はぁ!? そっちもこっちもあるか! そもそもSNSの宣伝戦略考えてるのはボクなんだ。『食べモグ』の写真素材の選定だって。だから最近の新しい客はボクが連れてきてるようなもんなんだぞ?」

 

 丁々発止というか、やいのやいのというか、つまりいつも通りのミズキさんとクルミの言い合いだ。相変わらず、この二人は仲がいいんだか悪いんだかと思わされる。

 

「確かに。クルミパゥワーは絶大だよねぇ、今年に入ってからお客さんめっちゃ増えてきて、私嬉しい!」

「ほら、千束だってこう言ってるじゃないか!」

「つったって、アンタねぇ……!」

 

 とまあ、千束も含めて場が多少ヒートアップしてきたそのあたりで、表口の鈴が鳴った。つまりそれはこの店への来訪者を報せる音だ。

 弾かれたように立ち上がったたきなさんが、それを迎えるべく表口に立つ。

 

「いらっしゃいま――」

 

 しかしそこまで言って、その必要がないことに気づいたか、口を噤む。

 カウンターから表口の方を見れば、今しがた入ってきた人影の正体はすぐに分かった。

 上背の高い、菫色の羽織を纏った、和装の男性。

 

「戻られましたか、ミカさん」

「ああ、ただいま、隼矢くん。みんなも」

 

 つまりそれは他でもない、外回りの用事から帰ってきたこの店の主、ミカさんだった。

 

 

 

「おかえり、先生。あれだっけ、町内会だっけ? お疲れさまー」

「ありがとう。そうそう、そのことでだな」

 

 千束の労いに礼を返したミカさんが、早速とばかりに話題を変える。

 掲げたのは、手に持っているそこそこ大きな紙袋だ。行きの時には持っていなかったそれを見せびらかすようにして、彼は笑顔を浮かべた。

 

「みんなに、土産があるぞ」

 

 その言葉に、千束が立ち上がって目を輝かせる。しかしその横、クルミと言い合いしていた姿勢のままのミズキさんが顔を顰めた。

 

「土産ぇ? ったって、町内会のあれだとまた年寄り臭い和菓子とかでしょ? なんか乾いたゼリーみたいなやつ、何度ももらってきてるけどさぁ」

 

 口を尖らせて、不満たらたらな態度だ。

 彼女の言う「年寄り臭い和菓子」というのは、この錦糸町北エリアの町内会の一員として、そして提供する和菓子の原料の調達先としても度々お世話になっている和菓子屋さんから、おすそ分けにもらってくる寒天飴のことである。

 たしかにあの類の和菓子は一般にお供え菓子として使われるし、人を選ぶ甘味ではある。

 とはいえ言うに事欠いて「年寄り臭い」とはあんまりだろう。何せこの店には、ああいう寒天菓子が好きな人間がいるのだから。

 

「えーいーじゃんアレぇ。私ああいうの好きぃ」

 

 つまりそれは、千束のことだ。

 彼女のその言はお世辞でも何でもない。四月の面談の帰り、誰かの出張土産なのか、自由に持っていってよいと居室に置いてあったみすゞ飴を一袋持ち帰ったら、千束が大喜びでそれに飛びついていたのは今でも記憶に新しい。さらに言えば僕にしても、みすゞ飴や寒天ゼリーの類は決して嫌いではなかった。

 

 ただいずれにせよ、今回はそういったものではないらしい。首を横に振りながら、ミカさんが口を開く。

 

「すまんが千束、今回は違うんだ。でもいいものだぞ。まずは……」

 

 がさごそと紙袋の中を探って、取り出したのは一本の瓶だった。かなり大きい。恐らくは一升瓶だ。

 となれば、その正体は自ずと知れたものだろう。

 

「細田さんからおすそ分けだ」

 

 どん、と大きな音を立てて、カウンターにそれが置かれる。

 果たしてそれを見て、いきなりミズキさんのテンションが降り切れた。

 

 うひょーと言うか、うひゃーと言うか、そんな凡そ女性が出してはいけない種類の奇声を発して、ミズキさんが駆け寄ってくる。

 

「大吟醸じゃないこれぇ!」

 

 明らかに浮かれた様子で、彼女はカウンターに置かれた瓶を両手で掲げた。

 大吟醸と言ってもその種類にはピンからキリまであるが、しかしこれは僕も知っている銘柄の、かなり値の張る日本酒だった。産地は確か石川県だったはずだ。

 

 とまあ、ミズキさんにとってそれは間違いなく降って湧いた僥倖だったわけだが、逆に今度は千束の方が不満げに声を上げた。

 

「酒ぇ? んなん喜ぶのミズキだけでしょぉ……」

 

 間違いない。僕も酒は嗜む程度に飲まなくはないが、最低でも店の中で飲む趣味はない。千束やたきなさんもまた、当然ながら酒類は無縁のものだ。あらゆる意味においてである。

 クルミに至っては、もはや論ずる意味すら見いだせないだろう。

 

 当然そのことは、ミカさんとて分かっている。まだ早いといわんばかりに顔の前で指を振り、もう一度紙袋の中に手を突っ込んだ。

 そして彼はそこから、クリアファイルに入った一綴の印刷物を取り出して、どこか得意げに声を張った。

 

「まだあるぞ? もう一個はこれだ。後藤さんから、『カラオケ無料券』!」

 

 それを聞いた瞬間、千束の機嫌は一気に頂点に達した。

 

「え、マジ!?」

 

 やったぁ! と普段より一オクターブは高い声で歓声を上げて、ミカさんが広げるそれに齧り付くように見入る。

 程なくして、千束はくるりと振り向いた。

 

「ねね、今行こうよ、今すぐ!」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、手招きすらも交えてみんなを誘う。

 しかしそこに待ったがかかった。たきなさんだ。

 

「いや、まだ営業時間中ですよ? 行けるわけないでしょう」

 

 彼女らしい、真っ当な指摘である。現状客の姿はないとはいえ、特に知らせもなく勝手に営業時間を切り上げるのはどうなのかというのは、問われて然るべきことだった。

 

「ええぇ~? いやもう今日は十分働いたでしょぉ? ほらもう三日分ぐらい働いたよ、疲れたぁ」

 

 しかし彼女のその言い口に、千束が露骨にごねる。カウンター席に戻っていたたきなさんの方へとふらふら近づいて、そのままべたっとへばりついた。

 

「千束が疲れたかどうかはこの店の営業時間には関係ないでしょ……」

 

 引っ付き虫の如く抱きつかれて、はあ、とたきなさんは大きく溜息を吐く。

 

 ここ最近、事程左様にたきなさんは千束にかなり砕けた応対をするようになっていた。以前から千束の奇行にツッコミを入れることはないわけではなかったが、しかし彼女の纏う雰囲気それ自体が気安いものになったことは事実だ。

 まあ、いずれにせよこの場においては千束よりたきなさんの言い分の方が正しいは正しい。とは言え、千束の提案をすぐさま袖にすべきかといえば、そうでもないと僕は考えていた。

 

「まあでも、仕入れ分の在庫のストックも今日でかなり捌けてるし、これ以上営業しても在庫管理的に美味しいかどうかは……どう、たきなさん」

「それはー……」

 

 こちらの指摘に、たきなさんが額に手を当てる。

 つまり、今日は繁盛し過ぎていたのだ。計画外に客が舞い込んだこともあって、在庫の予実管理的にこれ以上店を開ける必要があるかどうかは事実微妙なラインだろう。

 場合によっては夜営業を臨時休業にしてもよい。そういう大義名分が立っていないわけではなかった。

 

 暫し思案顔で斜め上を見上げていた彼女が、ミカさんの方へと目線を向ける。

 

「店長、そのカラオケボックスって、近いんですか?」

「いや、距離はある。行くなら車だな」

 

 かけられた問いに、ミカさんが答えた。町内会の土産なら錦糸町エリアのものだとばかり思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。

 

「ミカさん、それ見せてもらえます?」

「ん、ああ。構わないよ」

 

 カウンターから立ち上がって、彼の持つその「無料券」を借り受ける。

 「券」と言いつつオンラインクーポンなのか、どこかのウェブページが印刷されたA4のプリントだ。何が書いてあるかと読み進めれば、カラオケボックスにしては些か以上に独特な文言が紙上には並んでいる。

 

「『飲食物の持ち込み可能の、部屋代十二時間無料』?」

 

 首を捻る僕だったが、その言葉にミズキさんが反応した。

 

「え? じゃあこのお酒とか持ってけるってコトぉ?」

 

 顔を上げれば、カウンターに置かれた吟醸酒の一升瓶を今一度掲げながら、彼女は僕の方を見ていた。

 

「まあ、そういうことですかね」

「いいじゃなぁいそれぇ!」

 

 その事実に、どうやらミズキさんも今からそのカラオケボックスに向かうのには乗り気になったようだ。

 千束とミズキさん、二人の空気感を察したか、ミカさんが相好を崩す。

 

「じゃあ、今日はもう閉めて、みんなで行くか!」

 

 ――さんせーい!

 千束とミズキさんが、ぴったり合った声で元気よく賛意を主張する。

 均衡が崩れた。静観の姿勢の僕とクルミに、消極的賛成のミカさん、そして積極的賛成の千束とミズキさんと、店の空気はそのカラオケボックスに出向くことを半ば既定路線とし始めている。

 旗色の悪くなったたきなさんは、そんな彼女たちの期待の視線を一身に受けて、やがて大げさな溜息を漏らした。

 

「……店長が、そう言われるなら」

 

 どうやら観念したらしい。やや渋々と言ったたきなさんの言葉に、千束とミズキさん、二人が歓声を上げつつハイタッチする。

 

 斯くしてこの店の総意は固まった。

 今までのやり取りを気のない様子で見ていたクルミも千束が強引に巻き込み、どちらに転んでもよかった僕も、特に否やはなく全員についていく。

 入り口の扉に「臨時休業」の貼り紙をして、リコリコ総出でのカラオケ大会への準備が始められることになった。

 

 

 

 急ピッチでフロアの片づけを進めつつ、口頭で段取りを確認していく。その中で出てきた懸念の一つが、現地に向かう足、車についてだった。いつも通りならばミズキさんが運転手を勤めるところなのだが、しかし今回はそうもいかない。

 

「行きの運転はアタシがしてもいいんだけどぉ、帰りのことを考えるとお酒呑めなくなっちゃうのよねぇ」

 

 そう言うことなのだ。いつもの通りミズキさんに運転を任せるばかりでは、彼女がカラオケボックスに向かう理由付けが消えてしまう。

 どうしたものかと思っていたら、ミカさんがカウンターにおいてあるクーポンを覗きこんで声を上げた。

 

「『十二時間無料、宿泊もできる』って書いてあるぞ? だから今から行って、酒が抜けるまでのんびりすればいい。どうせ明日は定休日なんだ」

 

 彼に倣って、僕もその券面を見る。確かにそこに書かれている限りでは、曰くの「カラオケボックス」には宿泊設備があって、しかも十二時間無料となれば今からなら一夜を明かすことはできるし、そうなりはするのだろう。

 ただ、僕はその言を見過ごすわけにはいかなかった。

 

「ミズキさんの飲み方で、十二時間ぽっちでアルコールなんて抜けないでしょう……この人五合は軽く呑むんですよ? お酒」

 

 不躾だとは分かっているが、酒気帯び運転になることが分かり切っている選択を思い留まらせるのは、公安とはいえ一応警官であるところの僕の仕事だ。

 と言うか、相変わらずここの人たちは順法意識に欠けるというか、時々僕がどういう職業の人間なのか頭からすっぽり抜け落ちているような言動をする。生きている世界が世界ゆえに致し方ない面はあるのだろうが、だからと言って許容する理由にはならない。

 ただまあ、それでミズキさんが持ち込んだお酒を呑めなかったり、酒量を減らすことになったら本末転倒なのは確かだろう。

 

「僕が運転します。ミズキさんは気にしないで呑んどいてくださいよ」

 

 そういうわけで僕がしたその提案に全員が賛意を示して、方針はそれで決まりとなった。

 

 

 

 しかしここまでのやり取りの中で、ミカさんが口にした()()()()()が、どうしても引っかかってならなかった。

 

「……つか、『宿泊できるカラオケボックス』って、なんなの? まいいけど」

 

 それはやり取りの終わり際にミズキさんが零した呟きだが、僕にしても同じ思いだった。

 カラオケボックスに宿泊設備が付属するなぞ、聞いたことがない。ネットカフェ併設だったりでもするのだろうか。

 

 ――まあ、行けば分かることか。

 そうとだけ思ってあまり深くは考えなかったが、果たして僕たちはその意味するところを、それこそ一時間もしない内に理解させられることになる。

 まさしく、()()()()()()ことであった。

 

 

 

 その「カラオケボックス」は、上野の辺りにあった。春日通りをひたすら西に進んで御徒町まで入り、そこから北に十分ほど進んだ場所に、()()は鎮座していた。

 建物併設の平置き駐車場に車を停めて、全員で降りる。

 

「ここみたい、だけどぉ……」

 

 その「カラオケボックス」を見上げながら、千束が呟く。どうにも曖昧な口調だ。

 理由はあまりにもわかりやすい。今僕たちの目の前にでんと建っている《モノ》が、《モノ》だからであった。

 

「なんですか? ここ。何というか……お城みたいな? 建物ですね。しかも、結構古い感じで」

 

 今度はたきなさんが言葉を発する。

 ――まあ、何も知らなければそういう反応にもなるだろうな。

 そう思いつつも、どうにも閉口させられる。

 

「おいオッサン、これ……」

「言うな、ミズキ」

「いやだって――」

「……『カラオケボックス』だ!」

 

 明らかに何か言いたげなミズキさんを、ミカさんは黙らせようとしているが、それにどれほどの意味があるだろう。

 何せ、純粋培養なたきなさんのような人間でなければ、これが何なのかは誰にだって分かるのだ。

 

 ブティックホテル。モーテル。言葉自体は誤魔化せはしても、目の前の「これ」の本質が変わるはずもない。

 とどのつまり、ここは男女が、いやそうとも限らないが、()()()()()()にある二人が愛を囁き合うための、或はその身体を重ねるための場所――すなわち、「ラブホテル」だった。

 

 というか、千束はなぜこういうことを知っているのだろうか。一瞬だけ疑念を懐いたが、直後に理解する。

 錦糸町という街にリコリコという店を構えている以上、()()いうものとは無縁ではいられないと言うことだ。あの町、リコリコのあるエリアと反対側の南側は、こういう方向での盛り場なのだから。

 

「アミューズメントパーク的なカラオケ店、最近増えてるじゃないか。ここもそう言う奴なんだろ」

 

 それにしては建物が古すぎるだろう。心中でそうツッコまざるを得ない、苦しい言い訳をミカさんが口にする。

 しかし取り敢えずそう言ってでも場を収めなければ始まらない。それを理解したであろう千束が、未だ首を傾げているたきなさんを引っ張って中へと入っていく。

 

「……あの町内会、こういう悪ふざけがちょいちょい酷いのよねぇ!」

「というか、これ入れるのか、ボクは……」

 

 ミズキさんはげんなりした様子で愚痴り、クルミはもはや引き気味に笑いながらそう零す。

 それを横目で見つつ、我々も中に入らなければ始まらないだろうと、僕は率先して一歩を踏み出した。

 

「まあ、向こうが『カラオケボックス』だと言ってるわけですし、それでいいんじゃないですか? ……だから入れるだろ、クルミも」

「いや、そういう問題か?」

 

 尚も引っかかりを隠せない様子のクルミを半ば引っ張りつつも、残りの大人連中も「カラオケボックス」――ラブホテルの中に足を踏み入れることになった。

 

 

 

「入れたな、普通に」

 

 当然と言えば当然だが、クルミも無事建物の中には入れた。結果として、彼女の懸念は杞憂に終わったことになる。

 

「そりゃそうだ。なんたって『カラオケボックス』なんだから」

「ほっとしてんじゃねーか」

 

 そう言って笑うミカさんだったが、内心焦っていたのは丸わかりである。気持ちは分かるが、誤魔化せていない。ミズキさんが反射的にツッコんだのも、宜なるかなだろう。

 しかしまあ、やはり外観通り随分と古い。下手すると築半世紀近いのではないかと思わせるものがある。宿泊設備ありと言っても、特に水回りは期待できそうもないか。

 内心若干暗澹たる思いが広がり始めたあたりで、ミズキさんが部屋を探し始めた。

 

「えーっと、502号室って言ってたからぁ……あ、ここだわぁ」

 

 その部屋は番号の通り、エレベーターから降りてすぐの場所にあった。その扉、これもまた旧式のシリンダー錠でその鍵を開けつつ、ミズキさんが取っ手を捻って押し開く。

 軋んだ音を立てながら開かれていくドアの中をいち早く覗き見て、クルミがまず声を上げた。

 

「ほぉ……広いじゃないか、随分」

 

 確かに、結構な広さはある。大体二人用が普通ゆえにそれ相応の床面積しかないかと思っていたが、ざっと見て五十平米以上はありそうか。

 ただ問題はそこではない。

 

「なんです? この部屋。真ん中のあれは……というか、部屋の壁が……」

 

 ひたすら困惑したような声が、たきなさんから漏れる。

 そうなるのも無理はない。部屋の中に進み出てすぐ、寝室部分の真ん中に鎮座するのは真円の大型ベッド、つまり回転ベッドで、その周りは一面が鏡張りになっていた。

 

 思わず表情が引きつる。

 つまりここ「502号室」は、風営法改正以前*1の、今の僕たちから見ればどう考えても悪趣味にしか見えないステロタイプな間取りで作られた、ラブホテルの一室だった。

 

「千束、これが『カラオケボックス』というものなんでしょうか」

「あ、え、えっとねぇ、これはねー、そのぉ……」

 

 たきなさんの疑問の声に、千束が明らかに挙動不審になる。ご愁傷様としか言いようがない。僕にしても千束を助けてやりたいのはやまやまだが、こればかりは無理だ。

 どこまでも無垢な瞳を受けて完全に目が泳ぎ始めた千束だったが、しかしその末、たきなさんは何か思いついたかのように手を叩いた。

 

「あ、そうか。ここ、もともとは高級なホテルだったんじゃないですか? ほら、こんな立派なベッドがあるわけですし!」

 

 惜しい。ちょっと掠っている。しかしなんにせよ勝手に結論に至ってくれたのは千束にとってはまさに天の助けだっただろう。

 

「あ、そ、そう、だねぇ! うん、そうだったんだろうねー! さすがだなーたきな! でもうーん、じゃ何が悪かったのかなぁ? あ、場所かなぁ?」

 

 全力でそれに乗っかって誤魔化しにかかる。そのさなか、恨みがましい目線が僕の方へと向けられた。

 しかし助けに行ってもミイラ取りがミイラになるだけだったのだ、分かってほしい。首を振って、目を伏せた。

 とはいえ、せめて助け舟だけは出すべきだろう。

 

「まあ、とにかくカラオケマシンがあって、カラオケできて、持ち込んだ食べ物もある。今日のところはそれでいいでしょ、たきなさん」

「……確かに、そうですね。なら、買って来た要冷蔵品を冷蔵庫に入れてきます」

 

 そういうことでこの場はどうにか収まり、その後一度各々部屋の中に荷物を置いて、腰を落ち着けることになった。

 

 しかしここまでの気疲れしそうなやり取りですら、今日のメチャクチャなカラオケ大会の、そのあくまで前座に過ぎないと、その時の僕には分かっていなかった。

 

 

 

 ――いや、実はちょっとだけ、覚悟はしていた。

*1
1985年の風営法改正により、回転ベッドがあるラブホテルは旅館ではなく風俗店扱いとなり、増改築が不可能になった。これが原因でこれら施設の老朽化が進み、今ではほとんど見られなくなっている。

特典ドラマCDは聴きましたか?(先の描写に影響する前提知識のレベルを知りたいので)

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