世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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「雨に唄えば」。

言わぬは、聞こえぬ。
それでも、踏み込み過ぎは怪我の元。



#0x03 Singin' in the rain (原作第三話)
#0x03 Singin' in the rain (1/2)


「隼矢さんはさぁ」

 

 それは、僕と千束さんが買い出し当番として二人で外へと出ていた日のことだった。近くのスーパーで食材を調達した帰り道のさなか、隣を歩く千束さんが、ふと声を上げた。

 

「たきながなんでウチに来たか、知らないんだっけ」

 

 向けられたのは、一つの問いだった。

 時節はすっかり梅雨に入っていて、僕たちの間を吹き抜ける初夏のどこか温い風が、その中に湿り気を帯びて肌を緩く撫でていく。

 降り注ぐ陽の光は厚い雲に遮られて、どこか憂鬱さすらも覚える灰色が、視界の中に塗りこめられていた。

 

「ああ、いや……特に、聞いてないかな。それが、どうかしたの?」

 

 その風景を何とはなしに眺めながら、訊き返した。

 僕はたきなさんという少女がこの店に来た経緯について、特に訊こうと思ったことは今までなかった。知りたいとも、特段思わなかった。

 DAという組織からすれば部外者でしかない僕にとって、それは知る必要のない情報だと思っていたし、また知るべきものでもないと考えていたのだ。彼らの意思にも、決定にも、僕が介在すべき余地など何一つ存在しないのだから、当然のことだろう。

 

 それでも千束さんがそれを言うべきだと思ったのであれば、話は別とするべきか。

 そう思って投げかけた僕の言葉に、数秒の沈黙の後、彼女は口を開いた。

 

「どう、ってわけでもないんだけど……」

 

 足を止めて、彼女はこちらに向き直る。そして少しばかり言葉を選ぶようにして、それでもきっぱりと、千束さんは言い切った。

 

 

 

「左遷、なの。追い出されたんだ、あの子って、DAから」

 

 

 

 思わず、目を見開いていた。

 

「あんなに優秀な子が? どうして」

 

 そう問うた僕に、また彼女は黙り込んだ。俯きがちなその姿勢からは、どこか迷いすらも窺えた。言おうか、言うまいか、そんな風な迷いが。

 

 また、無音が僕たちの間に横たわる。互いに何も言わず、動くこともない。

 しかしその末、「言いたくないのであれば」と口を開きかけた僕にほんの少しだけ先立って、千束さんはふるふるとかぶりを振った。

 そして決心したかのように顔を上げ、どこか上目遣いにこちらを見遣って、彼女は一言、声を発した。

 

「『独断専行、仲間殺しのリコリス』」

「……それは」

 

 思わず、声が漏れた。いくら怜悧な印象ばかり先行していても、人を助けることに喜びを感じて、人の死を悼むことのできるあの子が、そんなことを。

 信じられない、そう言いかけて、千束さんに手で制された。

 

「そう『なった』の。DAがなに考えて『そう』したかなんて分かんない……でも」

 

 湿った、吐息交じりの声の上に、苛立ちすらも帯びた言葉が載る。

 

「仲間を助けるために考えて、悩んで。それしかないって、なって。頑張って助けたのに、そんな風に言われて。それでここに連れてこられて」

 

 俯きがちに、ぽつりぽつりと呟くように話す彼女は、そこまで言って、空を仰ぎ見た。

 

「それでもたきなは、今でもDAに戻りたがってる。ここで経験を積めば、DAに帰れるって、信じてる」

 

 そして絞り出すように、声を上げる。

 

「信じてるんだよ、たきなは」

 

 吐き出された言葉は、梅雨の風、鈍色の空に、溶けて消えた。

 

 

 

#0x03 Singin' in the rain

 

 

 

 この一月あまりの間に、奥間の押し入れの中はもはやクルミの定位置となっていた。

 そして当然にして今日も、その半開きの襖から、彼女がモニタと向かい合っている姿が窺える。

 

「クルミ」

「……どうした、隼矢」

「結局、あの画像のアップコンバートってどうなったんだ?」

 

 それを認めつつ、ノックしてもしもし。襖を開けて、そう訊ねた。

 問うたのは二月前、僕が見つけ出した「例の画像」の話だ。即ち篠原さんが撮ってしまった武器取引の現場の画像に関して、何かそれから進展があったかどうか。

 

「あの画像? ……ああ、あれか」

 

 一瞬だけ眩しげに目を瞬かせた彼女は、頷きつつも一つのソフトを立ち上げた。自作と思しき画像処理ソフトのUIの中には、取り込まれた件の写真が鎮座している。該当する部分をクリッピングし、マクロを走らせると、クロップされ拡大された映像が、くっきり鮮明な人影を映し出していた。

 

「1600%アップコンバージョンと、高感度ノイズのデノイジングまではできた。こんな感じだ」

「……相変わらず、呆れるレベルの補完技術だな、これは」

 

 それを見て、思わずそんな言葉が口から洩れていた。

 つまり、ビットマップの画像データというものはベクトル情報を持たない。それを超解像処理させようというのは、基本的には機械学習モデルに頼らなければならない類のタスクだ。しかし彼女は昔からこうしたデータ加工に関するスキルは他の追随を許さなかった。それこそまともな精度を持ったディープラーニングの画像処理モデルが機械学習の学術界に現れるよりも、ずっと前から。

 いったいどんなモデルを隠し持っているのやら。論文にして発表すれば、あのあたりの学術界は上を下への大騒ぎになるに違いない、などと。そんな益体のない考えが、頭に浮かんだ。

 

「褒められても、何にも出ないぞ? しかもこれじゃ……」

「……人相は、分からないか」

 

 クルミの言葉を継ぐ。写真の画角の問題で、人物全体が映っていることが確認できたのは手前の赤く髪を染めた男一人だけ。しかもそれすらも後ろ姿で、顔面を拝むことはできない。そして残りの人物はそれぞれ頭部から上半身を窓縁に阻まれて、分かるのは服装ぐらいのものだった。

 

「殆どの連中はピジョンブルーっぽいツナギだが、これは……」

 

 そう言って、指をさす。ツナギを身に纏った男たちの集団の中に、一人だけ異物が混じっている。

 黒い全身コートを纏った、一つの人影だ。頭部は隠れているが、背格好から考えれば恐らくは男だろう。

 

「武器取引の代表者か、或は一連の騒動の主犯格か……このナリで下っ端という可能性も、まああるが」

「ボクがやったようにか?」

 

 茶化すように返してくるクルミに、失笑しつつ言葉を返す。

 

「まあ、大掛かりな取引にまで替え玉を用意するとは、あんまり思えない、かな」

 

 そして、努めて真剣な表情を作って、言葉を継いだ。

 

「この人物について、ちょっと調べてみてほしい。頼めるか?」

「分かった。やってみよう」

 

 クルミがそう頷くと同時に、彼女のスマホがアラームを鳴らした。お、そんな時間か、と独り言ちた彼女に、ホールの方から声がかかる。千束さん主催で週に何度か行われている、常連たちとの閉店後ボードゲーム会への、誘いの声だ。よっしゃ、と小さく声を上げて、彼女は小柄な体で駆けてゆく。彼女が開けっ放しにした襖はしっかりと閉めて、そして僕もそちらを目指した。

 

 

 

 いつも通りというか、「ボドゲ会」のテーブルでは元気印の千束さんが場を盛り上げて、そしてそれを受けた常連客たちが和気藹々とはしゃぎ続けている。しかしそれを尻目に、一人たきなさんはレジに向かっていた。僕がカウンター裏にやってきたのは、彼女がレジ締めのためにか開いていたキャッシュドロアを閉じるのと、ほぼ同じタイミングだった。

 

「あ、お疲れ様、たきなさん。レジ締めかな?」

「お疲れ様です、真弓さん。レジ誤差ゼロ、ズレなしでした」

 

 こちらを一瞥しつつ短く答えた彼女は、小さい会釈だけを残してバックヤードの方へと歩き出す。

 

「たきなー、そんじゃボドゲ一緒にやろうよー、ね?」

「……いえ、結構です」

 

 そこにかけられた千束さんの呼びかけに振り向いた彼女は、表情一つ変えることなくその提案を切って捨てた。えー、と口を尖らせて、千束さんは今度はこちらに水を向ける。

 

「んじゃ、隼矢さんはどう?」

「まだちょっと後片付けがあるから、その次のセッションからでいい?」

「おっけー! んじゃ、待ってるからー」

 

 呼びかける彼女にひらひらと手を振って、僕もバックヤードに引っ込む。

 

 その足で、食器の整頓がてら、僕はたきなさんに声をかけた。

 

「たきなさん」

「……何でしょう」

 

 返ってきたのは、いつもよりも冷たく、そして硬い声だった。更衣室への扉を開ける直前の姿勢で、彼女はこちらへ振り返った。

 

「千束さん、残念がってたよ。行ってきたら?」

 

 こちらに何の興味も認めていないような冷め切った目線を受けて、それでも言葉を投げかける。

 しかしそれを口にした瞬間に、僕は自分が地雷を踏んだことを自覚した。

 彼女が帯びる、空気が変わる。身体ごとこちらに向き直り、たきなさんは僕を睨みつけた。

 

「そうすれば、DAに戻れますか?」

 

 苛立ちを隠さないその声色に、数日前の千束さんの言葉が、脳裏を過ぎった。

 

 ――『それでもたきなは、今でもDAに戻りたがってる。ここで経験を積めば、DAに帰れるって、信じてる』。

 

 悲しいほどに、それは事実だった。まるでそれは、親に見捨てられた幼子のような。無垢で、素朴で、まっすぐで、そしてとても痛々しい。

 

「……すみません。あなたに言ってもしょうがないことでした」

 

 ぶつけられた感情は、あまりに分かりやすく読み取れる。

 焦りに苛立ち、そしてもどかしさ。そんなやり場のない激情に囚われた今の彼女には、ホールの喧噪の声ですらも、きっと耳障りな騒音にしか聞こえないのだろう。部外者の僕が何かを言って、今の彼女に響くものがあるとは思えなかった。

 

 そしてそもそも僕に、彼女に対して何かを言う資格は、きっとない。()()()、僕はそれをどうしようもなく自覚させられた。

 ただそれでも、これだけは言っておかなければならなかった。

 

「千束さんが、心配してたんだ。君のこと」

「っ……何、を」

「ごめん、僕に何かを言われる筋合いはないとは思う。だけど、でも」

 

 一息を入れる。気を強く持って、腹に力を込めた。彼女のどこまでも鋭い眼光を、それでも真っ向から受けて立って、言葉を継ぐ。

 

「千束さんは、君と話したがってる。君のことを一番気にしているのは、間違いなくあの子なんだ。だから……」

 

 それでもなお、僕が言えたのはそこまでだった。

 続けるべき言葉はきっとあるはずなのに、どうしてもそれが見つけられない。中途半端な言葉の切れ端が宙に浮かんで、二人の間には無言の時間が流れるばかり。

 

 そのまま数秒、二人ただ見合ったそののちに、動いたのはたきなさんだった。ふっと目線だけを逸らして、その口が開かれた。

 

「……考えておきます」

 

 たった一言、それだけを投げ返して、彼女は更衣室の扉へと手をかける。話は終わりだと言いたげな彼女にかけるべきそれ以上の言葉を、僕は持っていなかった。

 だから今僕に残されたのは、課されている自分の作業だけ。背を向けて、持ち場へと歩く。

 

「ねーえー、たきなー」

「何です?」

「一緒にゲームやろ? ね?」

 

 僕と入れ違いにたきなさんに絡み始めた、千束さんの声を、聞きながら。

 

 

 

 その後僕も参加したボドゲ会は、盛況のうちに終了した。相変わらずの凄まじい引きの強さと戦術眼を持つクルミに、ギリギリの形で食いつく僕、そして乾坤一擲の博打を乱発して、大勝ちと大負けを繰り返す千束さん。勝ったセッションの数は大体この順番で多く、またそれはいつものことでもあった。

 

 そして、明日は定休日だ。もともと千束さんは店を締めきっての一日ボドゲ会と洒落込むつもりのようだったが、それはミカさんに窘められていた。曰く、DAのリコリスとしてのライセンス更新の期限が明日だというのだ。不承不承と言った形でDAの本部へライセンス更新に出向くことを決めた千束さんに、「楠木さん」――話の流れからしてDAの司令官の名前だろう――に会うと聞くや同行を願い出たたきなさんの二人は、そういうわけで明日は店には来ないことになった。最低でも、日中は。

 

 常連たちが店を去り、この店の主たるミカさんすらもが帰って行ったったがらんどうの店の中、ひとり退店前の最終チェックを進める。火の元、戸締り、レジの錠前と、一通りのそれを済ませて、居住スペースに居ついているクルミを除いて誰もいなくなった店から、僕は一人、外へ出た。

 

 見上げた空は、もうすっかりと夜のそれだ。時間は午後の十時、小雨の降る店の軒先の灯りだけが、辺りを煌々と照らしている。

 表口を施錠して、傘を開いて。いざ帰宅の途へ就こうと前を向いたところで、横から声をかけられた。

 

「やあ」

 

 弾かれるように振り向く。

 視線の先、店の灯りを受けて輝く白金の髪が、宵闇に浮かんで見える。次いで臙脂色の制服と、それによく似た色の雨傘に、僕の意識が向いた。

 焦点が合う。その視線の先に佇むのは、傘の下、僕の方を真っ直ぐに見る一人の少女。

 

「ちょっとだけ、話さない?」

 

 千束さんが、僕を待っていた。

 

 

 

「ありがとね、隼矢さん」

 

 店近くの駐輪場へ向かう道すがら、横を歩く千束さんが、そう口を開いた。

 

「何が、かな」

「たきなのこと。気にかけてくれたでしょ?」

 

 ああ、と声が漏れた。

 

「聞いてたんだ、千束さん」

「えへへぇ……ごめんね?」

 

 手を合わせて、ウインク一つ。誤魔化すように詫びた彼女に、しかし僕は黙って首を振った。

 謝られる理由なんて、どこにもない。いや、それでも彼女に()()を聞かれてしまったのであれば、僕は言わなければならなかった。

 いや、言ってしまいたかった。

 

「……そうじゃ、ないんだよ」

 

 ポツリと言って、もう一度首を振る。――本当に、情けないばかりだ。

 ほえ、とすっとぼけた声を上げて首を傾げた彼女を見つめて、僕は話し始める。

 そしてきっと僕にとって、これは()()に他ならなかった。

 

 

 

「クルミの作戦の後、さ」

「ん?」

「偉そうに講釈を垂れただろ、僕、たきなさんに」

 

 意識のずれが隙を生むんだ、とか。千束さんと仲良くしろ、とか。

 

「知らなかったんだ、僕は。千束さん、君に聞くまで。……たきなさんが、どれだけ悩んで、ここにいるか」

「まあ……言ってなかったし」

 

 怪訝そうな顔で、彼女はそう返す。違うんだ、と。もう一度首を振った。

 

「僕は何にも分かってなかった。知ろうともしなかった。だから、たきなさんに何かを言う資格は、僕には初めからなかったんだ」

 

 千束さんから、たきなさんの転属の理由を聞かされた日のことだ。彼女と別れた後の僕は、どうしようもない憤りを持て余していた。無論それは自分に対してで、羞恥心で死ねるなら、僕はあの時三回は死んでいたに違いない。

 クルミ救出作戦のあと、たきなさんにかけた僕の言葉が、頭の中でガンガンと響き渡る。

 何が『意識のずれ』だ。何が『人には添うてみよ』だ。得意げな演説で、うまいことを言ったつもりで。顔から火が出そうだ。

 彼女の自尊心をくすぐってその気にさせれば、二人の関係はもっとうまくいくに違いない。そんな思い上がった発想で、僕は彼女の心の傷跡に塩を塗った。何も知らないままに。

 いや、知らなかったなんて言い訳にならない。人に何かを助言したいなら、その人のことをもっと知ってからにすべきだった。当たり前の話でしか、なかったのに。

 後悔はぐるぐると頭をめぐり続けて、それでももう手遅れでしかないという事実が、何度も僕を打ちのめす。

 

 それでも彼女はひたむきで、同時に聡明だった。だから僕のそんな筋違いな物言いに文句の一つも言わず、そして今も努力を重ねている。千束さんに一歩でも歩み寄ろうとしている。してくれている。

 ――それに比べて、僕はどうだ。今の今までそんな彼女のことを、上から目線で「頑張っているなぁ」などと、無責任に思っているばかりではなかったのか。

 

「隼矢さん……」

 

 思い出して、自分にまた腹が立ってきた。苛立ちをそのままに頭を掻き毟る僕のことを、横を歩く千束さんが覗きこんでくる。気遣わしげな目の色に、心は痛くなるばかりで、その情けなさには笑いたくなってしまうほど。

 ただそれでも、一つだけどうしても言っておきたいことがあったのを思い出す。

 だからなのか、気づけば立ち止まっていた。雨粒が傘を叩く音が、やけに大きく感じた。

 

「だけど、千束さん、君が」

「私?」

 

 自らを指さした彼女に、一つ頷く。

 

「……あの時の君が、たきなさんのことを話してくれた時の、君のことが。僕にはどうしても、ずっとずっと、気がかりで」

 

 だってあの時の彼女は、どうしようもなく悲しそうに見えたから。寂しそうに見えたから。

 ――だから、僕は。

 

「僕に何かを言う資格はなくても、それでも、どうしても、何とかしたかった。何か言えることは、出来ることはないのかって……だから」

 

 言いながら、気づく。これでは僕の体たらくを、千束さんのせいにしているようなものではないのか。

 それに寸前で思い至って、思わず頭を垂れる。

 

「――いや、エゴなんだ、これは。僕自身の、独り善がりでしかないんだ。だから君が僕に感謝することなんて、何にもない。ないんだよ」

 

 合わせる顔もないように思えて、視線を向けるのも憚られた。

 僕の言葉が途絶えて、しばしの静寂が場を満たす。ちらとだけ向こうを見遣れば、彼女もまたその目を伏せていた。

 

 そのまま二人向かい合って、何も言わない、言えない時間が続く。或は数分にも感じたその静けさは、しかしその末に、千束さんの言葉で破られた。

 

「……やっぱり、優しいんだね、隼矢さん」

 

 その言葉につられるように、顔を上げる。

 向けた視線の先では彼女もまた顔を上げていて、僕と目が合うなり、ふわりと柔らかく笑みかけてきた。光り輝く存在感を放ついつもの彼女とは違う、それは穏やかで、包み込むような表情だった。

 それを正面から見たせいか言葉を失ってしまった僕を、彼女は真っ直ぐに見つめて、そして一つ頷いた。

 

「――うん、決心ついた」

 

 そのまま小さく独り言つ。首を傾げた僕に、千束さんは言葉を継ぐ。

 

「明日、しっかり話そうと思う。たきなと」

 

 せっかく二人でお出かけなんだし。言葉はそう続けられて、もう一歩だけ、その影が近づく。

 

「私のありったけを、たきなにぶつける。言いたいこと全部言うよ。嬉しいことも、寂しいことも。ちょっぴり不満なことだって――だから」

 

 その一歩だけ詰まった隔たりの中、彼女はだらりと垂れ下がったままの僕の手を、優しく取った。

 

「やっぱりありがとう、隼矢さん。あなたがどう思っても、私はあなたに感謝してる」

 

 そのまま、ぶん、ぶん、と。二度ほど掴んだ手を振って、そしてぱっと離したそのままに、二歩三歩と進んで、そこで今一度振り返る。

 

「帰ろ、隼矢さん。――あ」

 

 一言告げて、しかしそこで何かに気づいたように、彼女は最後とばかりにこちらに駆け寄ってくる。

 

「明日のボドゲ会、主催しといてねー。多分夕方、()()()()()()()()()()()()()

 

 ――たきなさんと、一緒に。

 恐らく目を見開いたであろう僕に、彼女は得意げに笑いかける。そして一言、頼んだぞ、と続けた。

 その言葉と共に僕の肩を一つだけ小突いて、今度こそ彼女は歩き去っていった。

 

 

 遠くなる背を見送って、暫し立ち尽くす。

 握られた手には、まだ彼女の温もりが、残っているような。そんな気がした。




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