「『ありがとう』の日、『大好き』の夜」。
自分が読んでるリコリコ二次がどこもかしこもバレンタインネタで更新しているので、急遽最後の力を振り絞って自分も書きました、バレンタイン編。何とか当日に間に合った。
つまり推敲若干甘い気がするので、なにとぞご容赦願います。
ちなみに時系列は本編後、ハワイ編第一話の前(というか最中というか)です。
つまり、千束と主人公はまだ「そういう」関係になる前です。
Extra. 2/14: The day of thankfulness, the night of lovingness
「はいはーい、皆さんごちゅうもーく!」
快活な少女の声が、ホールに広く響き渡る。
喫茶リコリコ、時は午後三時。それは例日におけるこの店のピークタイムの一つだ。その証左に今日この日のこの店も、その席という席は客で埋まり、何人かは表口のすぐ傍で列をなして己の席につく順番を待っているほどの活況を呈している。
それほどには繁盛しているこの店であっても、しかし今日はいつものそれとはややその趣を異にしていた。
具体的には、その客層だ。普段においては常連主体とはいいつつも概ねその三分の一程度は一見さんや浅めのリピーターが占めている店内の客の構成比は、この日ばかりは全く違って、その全てが慣れ親しんだ顔で埋まっている。特にこの時間、午後三時が近づくにしたがっていつもの顔ぶれが続々と店に集まる光景は、自分の目にはひどく珍しいものにも映った。
同時にこう見ると、この店も少ないようでいてそこそこの規模の常連客を抱えているのだと改めて感じ入るものがある。まあ、この店自体のキャパシティがそこまで多くないという事情はあるのだけれども、それにしてもだ。
そんな、斯くも異様な雰囲気を帯びたこの店の空間において、唐紅のお仕着せの少女――千束がその全ての注目を一身に浴びる。
浮かぶ笑顔には興奮が隠し切れておらず、右手もうずうずと動いている。それまでわいわいとした談笑の騒音が基底に流れていたこの場所からは気づけば一切の音が消えていて、そんなどこか張りつめた静寂の中、徐に彼女の右手が上がった。
衆目の集まる中、ぐっとそれが握られる。しかし人差し指だけは、ピンと天に向かって立っていた。
周り全てを睥睨して、どこまでも勿体付けた態度の彼女が大きく息を吸い込む。
「それではそれではぁ、毎年恒例千束スペシャルパフェ・
そして張り上げられた声が、その宣言が、店内の全てに響き渡った。
わぁっ、と上がる歓声を背景に、僕たちホールスタッフは注文のために一気に散っていく。
すなわち今日は、
寒風吹きすさぶ冬の東京で、しかしこの喫茶リコリコはその寒さすらも彼方まで吹き飛ばすほどの熱気と共に、この月最大の書き入れ時を迎えていた。
その採算は、ともかくとして。
Extra. 2/14: The day of thankfulness, the night of lovingness
その日の朝のことだ。開店前のひと時、喫茶リコリコには、そのメンバー全員が一つ所に集まっていた。
本当に驚くべきことだった。ただでさえものぐさがって手伝いに表に出てくることが少ない上に朝にも弱いクルミも、看板娘を自称する癖にそこそこの頻度で開店作業をすっぽかす――主に夜更かしのせいだ――千束も、どちらもが今のこの時間、しゃっきりとした表情でこの場に顔を出している。僕にとってはその実情以上に珍しいものに映っていた。
特に、千束だ。朝一で店にやってくるときはあまり気合が乗り切らず、お仕着せに着替える前はいまいち彼女らしさが感じられない普段のあり方とはまるで違って、未だリコリスの制服を身に纏いつつも、その意気はすっかり揚がっているように見える。いったいどういう風の吹き回しだろうか。
「さぁさぁさぁさぁ、今日は大事な日ですよぉ、みなさん」
勿体ぶった声色で告げるその様は、間違いなく何かの前振りであることは明白だ。しかしそれがなんであるかが、全く読めない。
「なにをそんなに一人で盛り上がっているんです……」
「いや、千束がこの調子なのはいつものことじゃないか?」
僕の隣、既にバッチリと青のお仕着せを身に纏うたきなさんと、いつものパーカー姿のクルミの二人が、声を潜めて好き勝手なことを言っている。
「はいそこ! ぐちぐち言わない!」
そしてそれを、千束は目敏く見つけて黙らせる。ビシっと音が出そうなほどに鋭く、人差し指を突きつけた。
しかし疑問なのは僕も同じだ。何か事情が分かっていそうなのは、そんな僕たち三人をよそにいつもの態度を崩さない大人の二人、つまりミカさんとミズキさんぐらいなものだった。
大人だから、というわけではないだろう。この二人は、千束と一緒にこの店を立ち上げた、謂わば「創業メンバー」だ。それがこうした態度でいるというのであれば、千束の言わんとすることの方向性はなんとなく見えてきた。
「……お店のこと? 今日って何かあったっけ」
というわけで、そんな疑問と推論を当ててみれば、むしろ千束は信じられないといった表情で僕のことを見た。
「え? いやいやいやいや、今日が何の日か分かんないのは流石にないでしょーよ」
半ば呆れたような口調だった。首を左右に振っているが、それが分からないから僕たちは訊いているわけで、なんとも困ってしまう。
しかしそこでしょうがないなとばかりに、千束はこのバックヤードの調理場の中、飾られているカレンダーをまたも勢いよく人差し指で示して見せた。
「今日! 二月十四日!」
「はあ、確かに今日の日付は二月十四日ですが……。それがどうしたんですか?」
「はぇ!? いやマジか……」
その言葉にも、たきなさんは相変わらず合点がいっていない。
千束が驚愕の目でたきなさんの方をを見た辺りで、さすがの僕も理解が及んできた。
「……つまり、バレンタインデー?」
「そう! その通りだよ隼矢さん!」
わが意を得たりとこちらを向いて、千束が輝く笑顔で頷いた。
彼女は朗々と語る。
喫茶リコリコにおいて、バレンタインデーは一つのイベントのようなものになっている、らしい。何ぶん去年のその日は平日で、僕は客としてこの店にやってきてはいなかったから知らなかったが。
というのも、例年この日は千束発案の「スペシャルパフェ」が、チョコレートモリモリに盛り上げられた「バレンタイン限定スペシャルチョコパフェ」へと変身を遂げ、数量限定で提供されることになるのだとか。
「聞いてないですよそれ……」
戸惑いの声でたきなさんが漏らした。
そしてそれは僕も同じだ。そういう店の営業に関することが当日の朝まで回ってこないというのは、あまりに急のことすぎて些か以上に驚かされる。
「あー……ごめーん。確かに言ってなかったかも」
パンと両手を合わせて、千束が僕たちを拝む。どういうわけかと思ってみていれば、どうやら去年までのこの店はミカさんとミズキさんの三人、ある種家族経営にも近い環境で、こういうことは毎年恒例であったがゆえに言わずともそういうものだと思い込んでいたらしい。
それを聞いたたきなさんは、完全に呆れた様子で息を吐いた。
「いや、まあいいんですけど。千束が思い付きで何か言うのはいつものことで、慣れてますし」
しかしそこには親しみも含めた喜色も同居していて、千束と彼女の仲睦まじさが見て取れる。
ただそこで、たきなさんは真顔になった。一つ訊きたいことがあると、人差し指を立てる。
「……ですけど、あのパフェをそんなに大盤振る舞いして、いいんですか?」
それは経理としての視点だった。
つまりただでさえ千束のパフェは原材料費で収支ギリギリなわけで、そこへきて「スペシャルバージョン」と銘打った色々を付け加えたらどうなるかと、そういう懸念を示していた。それは無論、費用的な意味で。
「ん? ああ。……お財布的な意味では、ダメかな。多分、赤字だとは思う。というか赤字だ」
「あ、ええ……?」
千束はあっけらかんと言ってのける。つまり「スペシャル」なそれというのは出せば出すだけ損をする大赤字パフェそのものなわけだ。たきなさんが渋面を作る。
「でも、ね」
しかし。それでも千束には、それを今日この日のお客さんのために用意するだけの理由を持っていた。
彼女は言う。噛みしめるように。
「常連の人たちってさ? いつもお店に来てくれて、ここを楽しい場所にしてくれてるわけで。だからそんなお客さんって大事にしなきゃだし、そういう気持ちって、いろんな形で伝えていけたらな、って思うんだ。――ううん、伝えてきたいんだ、私は」
「それで、そのパフェを……?」
「そう! この店もたきなのおかげでいいカンジに稼げてるしさ、ちょっとぐらいなら、いいかなぁって」
たきなさんの戸惑ったような言葉に、被せるように千束は答えた。
バレンタインという日に託けて、特別メニューをお客さんに振る舞う。それは千束にとっての感謝の表れであると同時に、常連客を楽しませるための取り組みの一つでもあるのだと。
半分納得したような、曖昧な表情で頷いたたきなさんを見て、千束は大きく頷き返した。
「と、いうわけでぇ……」
そして言いながら僕たちに背を向けて、がさごそと業務用冷蔵庫を漁る。
そこからほどなくして出てきたのは、夥しい数の板チョコだった。それがずんずんとキッチンの作業台に積み上げられていく。今更だが、これをいつ仕入れたのだろうか。
更に常温の調味料を置いているはずのキッチンストッカーからも信じられない量のココアパウダーが取り出され、そして並べられた。
「今日の午前中、たきなにはぁ、パフェに盛り付ける用のトリュフチョコを作ってもらいまぁす! あ、先生もちょっと手伝ってね」
その全てを準備し終えた千束が僕たちの方に向き直って、満面の笑みでそう宣言した。
なんでも、常連の皆さんは何年もやっているこの行事のことは認識しているらしい。そういうわけで午前からの客の入りはいつもよりも少なく、一方で限定チョコパフェの用意が出来るおやつ時、午後三時辺りに店への客の入りはピークに達するのだとか。
故に今日の僕たちの仕事は、二段構えの段取りとなる。
午前中はホールに出るスタッフを減らしてでも千束のチョコパフェの仕込みを手分けして進め、午後三時の解禁からはほぼ全員でホールに立ち、お客さんの注文を捌く。
そしてその仕込みの一環こそが、千束の言うトリュフチョコの準備、ということらしかった。
調理場に立つのは、主に千束とたきなさんの二人と、ミカさんだ。リコリコの花二人がバックヤードに引っ込んでしまっている風景は、何ともこの店らしくない風情ではあったけれど。
そういうわけで午前の接客は、僕とミズキさん、そしてクルミの三人が主となって回すことになっていた。
しかし千束の言う通り、本当に客がやって来ない。
「これ、店開けている意味あるのか? 午前」
金糸雀色のお仕着せをいつの間にか身に纏っていたクルミが、僕の隣でそうぼやく。そのまま座敷席へと腰を下ろした。
「アンタいっつもそうやって言って働かないじゃない! 今日ぐらいは働いてもらうからね、特に午後!」
腰に手を当ててそんな彼女を睨みつけるミズキさんに、はいはい分かっていますよとばかりにクルミはひらりひらりを手を振る。
しかし彼女はそこで何かに気づいたかのように僕の方を向いた。
「そうだ、隼矢。お前に渡すものがあるんだった」
言いながら、腰を上げる。
「僕に?」
「ああ。だからちょっと奥に行くぞ。ああミズキ、その間頼んだ」
「はぁ!? アタシがわざわざ働けって言ったばっかりでそれぇ!?」
あっけにとられる僕と、当然というかなんというか、怒りを露にするミズキさんと、その間を颯爽と通り抜けて、クルミはバックヤードの奥へと消えていく。
「隼矢、お前もだぞ。早く来い」
「あ、ちょ……」
表口を見て、バックヤードの扉を見て、そしてミズキさんを見る。
一応今の僕はホールの担当で、勝手に持ち場は離れられない。しかし客が入る素振りなどどこにもなく、クルミには呼ばれている。
視線を彷徨わせた先、ミズキさんは諦めたように特大のため息を吐いた。
「ったく、あのガキが……!」
憤懣を飲み込むような小さなボヤキを一つ落として、それから僕を見て、顎をしゃくった。
「行ってきていいわよ。ま、確かに暫くは客は来なさそうだし」
「……ありがとう、ございます。それでは」
彼女に頭を下げながら、足早に奥間へと歩を進めた。
「遅いぞ」
「ごめんて」
バックヤードの中、いつもの四畳半の奥間に僕が足を踏み入れるなり、クルミは自らの根城たる押し入れの襖を開けて、なにやらごそごそとやり始めた。あれ、どこだっけ、などとつぶやきが時折聞こえてくるのを待つこと数十秒、その末に
「ほいこれ」
言いながら、手に持つ何かを差し出してくる。
ダークブラウンの箱だ。マゼンタのリボンが巻かれている。僕はそれに、どこか見覚えがあった。
「お? ああ……ありがとう」
くれるというのであればと、向けられたそれを受け取る。手許から見れば、その正体はすぐに分かった。
箱の正面に描かれている意匠は、百貨店にもよく入っている高級ベルギーチョコのブランドのそれだ。
そこまできて、やっと意図を察した。
「そうか、バレンタイン」
漏れた呟きに、ん、とクルミが頷く。
「去年はいろいろと世話になったからな、多少は奮発させてもらった。まあ、いつもの礼みたいなものだと思ってくれ」
今一度、手の中の包み――チョコに視線を落とす。
クルミからの、バレンタインチョコとは。なんとも新鮮な感覚だと思わされる。「ラスカル」と「ウォールナット」としてではあるが、電子回路の向こうに相見えるような関係性とは言え決して短くはない付き合いがあった僕たちの中で、しかしそれは初めての経験だった。尤も、物理的な意味では出会ってから初めてのバレンタインだから当然と言えば当然で、更に言えばそれより前、クリスマスにはオリジナルのツール群までもらっているのだから、今更のことかもしれないけれども。
「ありがたくいただくよ。でも、なんというか。……そうか、君からもこういうものが」
それでも、どうにも感慨深い。近いようで遠く、遠いようで近い、そんな曖昧さを持ったままだった「生身の人間」としてのクルミとの距離が、それによって何か実存を持って立ち現れ始めたような気がする。そんな不思議な力が、この包みからは感じられた。
「なんだ? ボクがそういうのを渡すのはおかしいか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ……うん、嬉しいかな」
「……そ、そうか」
手許から顔を上げて、まっすぐにクルミを見る。どういうつもりかを完全に察するなどできはしなくても、でも彼女にとっての僕は、この場でチョコを渡すに値するだけの人間に、そういう関係を築いた相手になれているのだ。それだけは、きっと事実だったから。
僕の視線を真っ直ぐに受けたのか、クルミが身動ぎして、半歩後ずさった。
「……なんだよ」
「え? いや、まあ。……とにかく、来月お返しはするよ。しっかりね」
約束を告げながら、もらった包みを袂に入れる。しかしそこまで言って、はたと思い出す。
「あ、でも。来月は、みんなでハワイか」
クルミもそんな僕の言葉で、その事実に思い至ったらしい。同調するように、ああ、と声を上げた。
「確かにな。なら、あっちで何か甘いものでも奢ってもらおうか」
にやり、と妖しく笑う。僕の財布へのダイレクトアタックに、今から思いを馳せてでもいるのか。まあ、なんでもいいが。
「まあ、それで君がいいのであれば」
「お? 言ったな隼矢」
さらに好戦的なまでの色を帯びる視線が僕へと向けられるも、それもまた心地よい。僕たちの間の関係はどこまで行ってもそういうものだと、ある意味ではそれは安心感のようでもあった。
そしてそこに、声がかかる。店の表、ミズキさんの方からだった。
「おーいテメェら、そろそろ表に戻らんかい! 来たぞお客さん、一人!」
こちらもまた、いつもの調子だ。途端にげんなりするクルミの表情も相俟って、何ともおかしさを覚えた。
「……だってさ。戻ろうか、そろそろ」
出た声は、どこか笑い交じりだった。視線の先、しぶしぶといった様子で頷いたクルミに、僕はとうとう吹き出していた。
それが、午前から昼頃のこと。
そこから午後イチの小休止を経て、午後営業が始まる。千束が言っていた通り、そこからは少しずつ、いつもの顔なじみが増えていった。
伊藤さん、後藤さん、阿部さんにカナさんと、次々に集まってくる。去年の夏ごろにここにやってきた、雑誌ライターの徳田さんもいた。
その果てこそが今、午後三時の店内だった。
閉店後ボドゲ会でもそうそうこうはならないだろうという異様な熱気の中、全員でフロアを駆けずり回る。
受ける注文はもちろん、千束のバレンタインパフェばかりだ。偶にたきなさん考案の
特別にと言うことで、一日限定で飲み物にもホットチョコレートが用意されていた。恐らくそれは、あまりに過剰に用意されていたトリュフチョコ用のココアパウダーや板チョコの余りでも使っているのだろうけれど。
「千束スペシャルパフェ・バレンタインバージョン」。そう銘打ってはいるものの、今年のそれは二バージョンある。いや、僕は今年のものしか知らないのだが、ともかくだ。
つまりその一つは千束のもので、そしてもう一つはたきなさんのものだった。
基本的な部分では、その二つには変わりはない。まずはいつものスペシャルパフェと同じく、焼き固めたワッフルボウルの上、求肥、白玉、ソフトクリームや抹茶アイスと、甘味がこれでもかと積み上げられている。
そしてその上、いつもは小豆や黒蜜が贅沢にかけられているところが、今日は代わりにチョコレートソースになっていた。
寒天の代わりにわらび餅チョコを埋め、栗きんとんの代わりに輪切りのバナナを敷いて、そして午前、千束とたきなさんが全力で拵えていたトリュフチョコレートを二つほど、その山麓にあしらう。
結果としてそれは、いつもの和風スイーツ盛り合わせの趣とは全く違う、しかしどこまでも華やかなチョコレートアソートのパフェの顔をしていた。
そんなこのパフェにおいて唯一違うのが、メッセージプレートだった。
チョコで作られたプレートの上、メッセージが一つずつ、転写シートを使って書き込まれている。その書き手は当然に、千束とたきなさんだ。
それぞれが思い思いに書くのは感謝の言葉に他ならない。つまりバージョン違いというのは、どちらのメッセージが書かれたものを選ぶかという、ただそれだけのことではあった。
ホワイトチョコにブラウンの文字が千束のもので、そしてミルクチョコに金の文字が、たきなさんのものだ。
ぱっと見では、どちらも同じぐらいのペースで注文されているように見える。それはこのリコリコという店において、千束とたきなさんの二人が等しく愛されているという証左のようにも思えて、自分ごとのように嬉しかった。
「はいお待ちどう! バレンタインスペシャル、私とたきなの一つずつね! こっちが私のでぇ、こっちがたきなの!」
向こうに見える座敷席の前、千束が集まって座るペアの客に配膳をしている。その声はいつもよりも高く大きく、今この店の中に漂う高揚感にも似た雰囲気にも、その喧噪にも負けていない。
――お客さんが楽しいと、私も楽しい。私が楽しんでいれば、お客さんも楽しんでくれる。
常日頃から、彼女の言っていることだった。それはこの場において限りなく正しく、千束が醸し出す浮ついた空気感はこの店の中全てに伝播していて、そしてそこから生み出される非日常感は、彼女の足取りをますます軽くさせていた。
それに当てられたか、たきなさんもいつもよりも柔らかい笑みと声で接客を続けていた。そしてきっと、それは僕もそうなのだろう。
「はい、カナさん。これバレンタインスペシャルね。千束のでいいんだよね?」
「あ、はい!」
座敷席の入り口の方、卓袱台に一人で座るカナさんの前、千束のメッセージ付きのスペシャルパフェを置く。いつもよりも多めのボリュームのそれに目を輝かせて、恐らくはほぼ反射的に己のスマホを取り出して、そしてそれをカメラに収めていた。
「あ、あの、真弓さん」
その姿を見て、仕事は終わったと次の注文を捌くべく戻ろうと一歩踏み出したところで、彼女が僕を呼び止める。
「どうしたの? 何か困ったこととか?」
「あ、いえ、そうではなくて……」
振り返って、歩み寄る。問うた僕に、カナさんは顔を伏せた。もごもごと口の中で言葉をくぐもらせ、逡巡に逡巡を重ねているのが窺える。
しかしその末、はっとこちらに顔を上げた。何か、決心したような表情だった。
「あの! ――今更ですけど、去年のこと。ありがとうございました」
言いながら、頭を下げる。
去年のことというのは、カナさん――堅香子というこの少女の身に降りかかった、一つの災難のこと*1に相違ない。
今思い返しても大概胸糞悪い一連の事件ではあったが、その末に彼女は助かった。助けることができた。それは僕たちリコリコという店の力ももちろんありはしただろうが、何より彼女自身の縁の力こそが、まさしく彼女自身を救ったのだ。
けれど、それは僕に対して言われるようなことではないように思えた。
「それは、どうも。でもそれは、千束に言うべきことなんじゃないかな。僕は、あまり何もできなくて」
言いながら、少しばかり回顧する。
あの時直接にカナさんと寄り添って、彼女の心を救って、その危機からも助け出したのは、全て千束のなしたことだったはずだ。
僕がしたことといえば、本当にその後始末に終始していた。違法薬物の流通ルートから浮かび上がった半グレ集団や、その上の反社組織の摘発にせよ、そのメンバーとのつながりのあった、複数人の若者――それはカナさんの同級生も含まれていた――と、その親権者への、警視庁経由での警告にせよ、彼女とは直接には関わりのない話なのは間違いない。
無論、それも必要なことではあった。或は薬物依存からの離脱のためのカウンセリング機関への斡旋など、「よりよい明日」のために、僕が果たした役割という意味では、確かなものはあっただろう。それでもやはり、僕が受け取るべき感謝は、ないように思えた。
それでも、カナさんは首を横に振る。
「いいえ! あの時私は、皆さんに助けられたんです。皆さんが、助けてくれたんです。真弓さんも」
そう言いながら、パフェの方に目線を向けた。その視線の先には、千束が書いたメッセージプレートがある。
――"いつもありがとう! Happy Valentine! ちさと"
記されているのはどこまでもシンプルなメッセージだ。しかしそこに籠っている感情がどれほどのものかを、僕はとてもよく知っている。
あの十一月を超えて、二ヶ月の寿命を超えて、一度店を閉める決断すらしたあの喪失の予感をも超えて、その先にこそ、今があるのだ。
故にこそ、あの時を超えて今もこの店に来てくれる
なれば今、そんな千束のメッセージプレート見るカナさんの瞳の色は、果たして何を映し出しているのだろうか。それは一度閉じられて、そして開かれた。
「だからここが一回閉店になりそうだってなったとき、本当に悲しかったんです。だってここは私にとっての恩人の皆さんのお店で、私にとって一番楽しい場所だったんですから」
首を振って、一度俯く。その後に上げられた顔は、しかしその言葉とは裏腹な笑みを浮かべていた。
「――だけど、今こうやって千束さんのパフェを食べられるんですから、まあ、なんでもいいのかも」
そして手に持つスプーンをパフェに突き入れて、口へと運ぶ。
瞬く間に彼女の顔は満面の笑みで彩られた。おいしい、と零れた言葉は、無意識のものだろうか。
ともあれ、しばしその余韻すら堪能して、それからもう一口とスプーンを構えたところで、しかし彼女ははたと動きを止めた。
――あ、そうだ。
そんな声が聞こえて、次いで何かに気づいたかのように、鞄の中を漁り始める。ごそごそとした音の末に出てきたのは、一つの包みだった。
やや大きめの赤い布の袋だ。桜色のリボンでその口は結ばれている。
それを両手で持って、カナさんは僕へと差し出してきた。
「これ、ハッピーバレンタイン、です。皆さんで食べてください」
その言葉に、気づけば目を見開いていた。それは僕にとって、思ってもみないことだったからだ。
「いや、え? お客さんからバレンタインのお菓子貰うって……」
思わず口にも出てしまう。
当然だろう。僕たちは飲食店の店員で、食べ物もお菓子も、あくまでも出す側なのだ。ここに来ているお客さんから逆に何かを貰うなどとは、全くにして想定の外だった。
しかしそれは失言だったと、口を塞ぐ。まあ、もう遅いのだけれども。
「……ごめん」
「いえ、大丈夫ですよ。確かにびっくりされますよね」
会釈のように頭を下げれば、カナさんがおかしそうに笑っている。しかしその包みを取り下げる気はないようで、もう一度敢えて彼女は僕に向かってその包みを差し出した。
「ですけど。これは感謝の気持ちなんです、皆さんへの。こんな時でもないと渡せないかと思いまして。――ですから」
思わず、その包みにもう一度目を落とす。
恐らくそれは、カナさんの手製なのだろう。彼女曰くの「感謝の気持ち」の、表れだと云うのだから。
ならば、僕には拒む理由などない。その誠意に応えるために、お盆をわきに抱えながらも両手を差し出した。
「なら、有難くいただきます。あ、ごめんだけど来月は一月お休み貰っちゃうから、多分お返しは四月になると思うけど……大丈夫?」
「いえ、お返しとかは特に考えていませんので! というか、こんな立派なパフェをいただいてしまっては、お返しなんてとてもとても!」
朗らかな笑顔と声だった。どこまでも晴れがましい様子の彼女が、少しだけ眩しく見えた。
そしてその後、カナさんからのバレンタインプレゼントを僕個人宛てのものだと勘違いしたミズキさんが千束に告げ口をしたりして、そこでひと悶着があったりはしたけれど。
ともかくも喫茶リコリコのバレンタインデーは、そんな熱気と狂騒、そして歓喜を伴って過ぎていった。
「いやぁ~……今日は疲れたわぁ」
時刻は午後八時を回った。
千束のバレンタインスペシャルはすっかり用意された材料分を提供しきって、常連の客からの反応も上々、好評のうちに完売と相成った。
そしてそれこそが今日のメインイベントであったがゆえに、所定の量を売り切った午後七時には今日の分の営業は終わりとなって、故に既に店の外には「
そんなホールの中、千束の上げたその声は、確かに疲労を色濃く帯びているものではあったが、それ以上の満足感を確実に内包していた。最低でも僕にはそう見えた。
「本当に。……うちの常連さんって、ここまで多いんですね」
座敷席に座る千束の横、同じように腰掛けるたきなさんもまた、疲れたような声で千束の言葉に答えていた。
ちなみにミズキさんはといえば、カウンターの上で突っ伏して眠っている。恐らくは晩酌、疲れた身体にストレートの焼酎を呑んだのがよほどに効いたらしい。
「まあ、固定客が多いってのはいいことじゃないか? その分だけ安定した収入が見込めるわけだし」
そして途中途中で仕事を適度にサボっていたクルミは、くたくたになった彼女たちを尻目に余裕の面持ちで真面目腐った言葉を吐いていた。そしてそのままの勢いで、彼女は僕たちに背を向ける。
「ボクはもう風呂に入るぞ、随分働いたからな」
「あ、お疲れークルミ。今日ありがとね」
かけられた千束の言葉に、後ろ手にした左手をひらひらと振りながら、彼女はバックヤードへと消えていく。
そしてそんな僕たちの様子を、いつものカウンター裏からミカさんが微笑ましげに眺めているのが、ここからも見えた。
ともかくもそんな様子で、動いている人間が四人ばかりとなったこの場所で、僕は今日のことを振り返る。
それが、自然と言葉になっていた。
「まあ利益的にはあれですけど、千束の用意した分がここまでキレイになくなると、ちょっと嬉しくなりますよね」
「そだねー。いやぁほんと、お客さんも喜んでくれてたのが私嬉しかったよ」
ミカさんの方に向けて口にしたはずのそれに、しかし千束が答えた。我が意を得たりと深く頷いて、立ち上がる。
そしてホールの真ん中へと踏み出し、ここにいる全員を見回した。
「さっ! じゃああとは準備して帰るだけ、なんだけどぉ……」
勢いよく切り出された台詞が、思わせぶりにそこで止まる。
だけど、何だろうか。一瞬だけ思ったが、しかし問う必要もないことをすぐに理解した。何となれば、今日今までやっていたことを思い返せば、言わんとするところは見えてくるからだ。
「ちょっとまっててねぇ!」
足早にバックヤードへと引っ込んだ彼女は、そう時をおかずにまたホールへと戻ってくる。
果たしてその手の中からは、二つの箱が覗いていた。
「おっまったっせぇー」
いっひっひ、とどこか浮ついた気分を引きずったままのような笑い声を上げながら、まずはといった様子でカウンターへと歩み寄る。そして手に持つ包みの一つを、ミカさんへと差し出した。
「はい、先生。これね」
「おお、今年もか。ありがとう」
その正体が何かは、言うまでもないだろう。包みからも、それが彼女自身のお手製のものだと分かる。
「今年
ミカさんもまた、それをにこやかに受け取る。
「いつもの通りのやつだから、早く食べてね」
「わかってるよ」
よろしい。そう言って頷いて、そして彼女は振り返る。
手にはまだ、もう一つの包みがあった。ミカさんにあげた茶色のそれとは違って、水色のチェック柄のラッピングに、藍色のリボンがかかっている。
その色を見て、僕は察した。彼女がそれを誰のために用意したのか。
つかつかと歩み寄ったその先で、果たして千束が包みを差し出す。
「え、あ……?」
「はい、たきな。ハッピーバレンタイン!」
未だ座敷席の上がり框に腰掛けたままのたきなさんに向かって、そう微笑みかけた。
「え、わ、私ですか……!?」
面食らったような表情のたきなさんに、千束が小首を傾げる。
「そだよ? え、何かおかしかったかな」
「いや、え、バレンタインって、……えぇ!?」
目を見開いて、のけ反る。たきなさんは完全に混乱していた。
わなわなと震える手と、唇が動く。
「いや、私は女ですよ!? バレンタインって、男の人にあげるものだと、
その末に、胡乱なことを口走り始めていた。
彼女の話を総合すると、こうだ。現代の習俗についてはDAの中で一通り習っていて、その中にバレンタインデーも含まれていた。しかしそれはあくまで女性が親しい男性に対してチョコをプレゼントするものだという認識だったから、なぜ自分がそれをもらうことになるのかわからない、と。
また随分とすごい話が出たものだ。バレンタインデーという風習について、言うに事欠いて「習った」とは。それは良くも悪くもDAしぐさといえるのだろうか。いずれにせよ、僕はそれを評する術はもたないけれども。
ただその中において、千束が困ったように笑ったことだけは見て取れた。
「いやぁ……あはは。ってかそんな習うとかいうもんじゃなくてさぁ……とにかく」
包みの持っていない方の手で頭を掻いていた千束が、その表情を真剣なものへと変える。
「この、バレンタインのチョコ。私は、たきなに渡したかった」
たきなさんの息を呑む音が聞こえた。それを聞いてか、千束はその表情を緩める。浮かべたのは、穏やかな微笑みだった。
「私はね、嬉しかったんだよ。たきなに会えて。ここで一緒にお店をやれたことも。ここじゃない『仕事』のことも。毎日一緒に楽しいことができて、それは本当に、本当に嬉しくて」
言いながらその身を屈め、千束はたきなさんの手を取る。
「ずっと、言いたかったんだ。『ありがとう』って」
その手に、少しだけ力が籠った。柔らかく落ち着いて、でも少しばかり湿ったような、千束の声がする。
「ここで会えたことは、偶然なんだろうけどさ。でもここまで私と一緒にいてくれて、これからも私と一緒にいることを選んでくれたのは、たきなだったんだから。だから、ありがとうって。――このチョコは、私のそういう気持ち」
言いながら、自らの手に持つ袋にちらりと目を落として、そしてもう一度、目の前に座る己の相棒の方へと視線を合わせた。
「だから、ね? ……受け取ってほしいんだよ、たきなに」
その目をじっと覗きこむようにして、小首を傾げる。
そのまま、ね? と念押すように訊ねた千束を見て、たきなさんはやっと頷いた。
「そういうこと、でしたら。……ですが、すみません」
「ん?」
「いえ。……私の方は、何も用意していなくて」
それはどこか申し訳なさそうな表情だった。千束がふわりと笑う。
「いやいやいや。いーのいーのそんなこと。だって私がやりたいと思っただけだもん。気にしないでいいって。ほら」
励ますように肩をポンポンと叩く。そのままたきなさんの手を取って、自らの持つ包みを載せた。
おずおずといった様子で、しかししっかりと、たきなさんがその包みを握る。それを見て、千束は満足そうに頷いた。
そして、或はそこで漸くにして、彼女は
つまりは、僕の方だ。
「それで、だね。……えっと」
そこまで言って、少し俯く。見えたのはきっと、わずかばかりの逡巡だった。
この場に千束が持ってきた包みは二つで、それはもう渡るべき人の手に渡っていた。
彼女の手元にはもう何も残っておらず、それでいてこの態度というのは、つまりそういうわけだろうか。
なんだか申し訳なさそうな。そう思ったのがよくなかったか、つい言葉が出てしまっていた。
「いや、大丈夫。気にしないでいいよ」
「あ、いや違っ……」
言った瞬間に後悔する。千束の反応がどうというよりも、僕自身に対してだ。
これでは語るに落ちているではないか。真に何も気になどしていない人間が、「気にしないでいい」などと言うわけがない。
何と浅ましいのか、僕は。思わず自分の頭を殴りつけたくなった。
しかし、どうやらそういうわけではないらしい。呼吸を二度三度、その末にきっ、と顔を上げて、僕の方へとずんずん歩いてくる。
そのまま近寄って、こちらの程近くで立ち止まった彼女が、更にもう一度深呼吸をする。何か覚悟を決めたような表情で、言葉を発した。
「隼矢さん。今日も店締めしてくれる、んだよね」
「え? ああ、うん。そうだけど」
「だったら。……その時まで、待ってるから。だからその後、ちょっと私に時間を下さい」
いつになく真剣な言葉だった。真っ直ぐに射抜く視線が、少しだけ震えている両手が、否応なしに目に入る。思わず目線を後ろにやった。
そこに見えるミカさんとたきなさんもまた、ややびっくりしたような顔で、千束と僕の方を見ている。
目の前の千束が出しているそれは、ただならぬ空気だった。気圧されるように、それへの返事を口にした。
「あ……うん。それは、はい。わかった」
同時にコクコクと首を縦に振る。千束もそれを確かめるかのように、歩調を合わせて頷いた。
しかしそこで、彼女がビシリと固まった。
恐らくは、僕の揺れる目線を見てしまったのだろう。手前と奥との間、ほぼ無意識のように往ったり来たりしていただろう、目の動きを。
ゆっくり、ゆっくりとその顔を後ろへと向ける。当然にしてその向こう、見えるのはたきなさんとミカさんだ。彼らは何とも微妙な表情のまま、僕たちの方を見ていた。居た堪れないというか、はっきり言って居心地が悪そうな面持ちだった。
それを見てしまった千束の変化は、劇的というよりない。後ろからでも分かる。彼女のうなじが、一気に血の気を帯びた。言うまでもなく羞恥によるものだろう。今更にして、自らの振る舞いを理解したらしい。
僕を見て、また彼らを見て、その数度の往復の果て、千束はじりじりと後ずさり始めた。
「あ、ま、まあ? そういうわけだから? その……」
言いながら、一歩、二歩と下がっていく。しかしそれも束の間、彼女はほぼダッシュのかたちでバックヤードの扉に飛びついた。
「ま、ま、また後でーっ!!」
そしてそんな言葉と共に、音が出そうな勢いで扉の向こうへと消えてしまった。
斯くしてこの場には、どこまでも気まずい沈黙が残される。
誰も何も言わない中、視線が僕に集中した。その目線が語っている。「どうしてくれるんだ」と。
「あれ? これ僕が悪い感じですか……?」
またも、誰も何も言わない。しかし数秒の沈黙の後に、たきなさんが首を振った。
「そうとまでは思いませんが。……いえ、まあいいです」
そんな言葉だけを残して、すっくと立ちあがる。その手の中には千束のバレンタインチョコの包みを、しっかりと抱えたまま。
「とにかく、私も用意して帰ります。お疲れ様でした。――それと」
言いながら、千束を追うようにバックヤードの更衣室を目指す彼女は、最後に僕の方へと振り向いて、その指を真っ直ぐに向けてきた。
「
「あ、うん……」
念押すように言い残し、このホールから立ち去っていく。
ミカさんはその始終において何一つ言葉を発することなく、そしてミズキさんは相も変わらず爆睡していた。
とにも、かくにもだ。僕にはやらなければならない仕事が残っていた。
それを、つまり閉店作業を、黙々と進めていく。ミカさんと手分けしながらガス栓や方々の窓の戸締りを確認して、ミズキさんについては少々手荒にでも起こして帰らせた。念のためのレジ締めも抜かりない。
そのまま、大体一時間が経った。ミカさんも十分ほど前にはこの店から立ち去っている。居候として奥間の押し入れに住みついているクルミを除いて、この店には僕だけが残っていた。
――いや、違う。ホールの隅、座敷席の上、そこに一人、臙脂の制服の少女が座っている。
千束はその場所で、僕が作業の全てを終わらせるのを、ただ待っていた。
「お待たせ」
帰り支度をすっかり済ませて、今の僕は私服姿だ。持ち帰るべき荷物を手に、千束へと声をかけた。
視界の先、びくりと肩が震える。俯いていた顔が上げられて、そこに見える唇が開かれた。
「あ、うん。……隼矢さん」
それは四、五時間ほど前、この場所でどこまでも奔放に、快活に、楽しげに振る舞っていた彼女と同じ人物とは信じられないほど、おとなしい振る舞いだった。
ともすればアンニュイさすらも感じる、そんな鎮まった声色で言葉を返して、彼女は立ち上がる。
カウンター横に立つ僕に、纏う空気をそのままに近寄ってきた。一歩、二歩、三歩と進んで、しかしそこで歩みを止める。
手を伸ばせば届くかどうか、近くて遠いその距離に、千束が佇む。どこかしらの気負いすらも、そこからは感じた。
「まあ、その、つまり」
目を逸らし、息を吸って、吐く。それが続くこと三度、その末に僕の方へと視線を戻した彼女は、意を決したかのように、後ろに回されていた手を前へとやった。
真紅の箱が、そこには握られている。かけられているリボンは、千束の髪色とどこか似ている、そんな真珠色をしていた。
ずい、とこちらにそれを差し出しながら、千束は口を開いた。
「これを、隼矢さんに、と」
それが何かなど、さすがに問うわけもない。僕への、バレンタインチョコだった。
ならばそれに返すべき言葉など、きっと一つしかありえない。
一歩進んで、手に取る。静かにその姿を見据えながら、口を開き、息を吸った。
「――ありがとう。うれしいよ」
瞳が揺れる。持っている箱越しに、千束の手が微かに震えているのが伝わった。
微かな呼吸の音を聞く。小さな頷きを見る。箱を持つ手の力が、少しずつ抜けていった。
「ごめんね? さっきは。なんかはしたないことをしちゃったような」
「え? いや、いやいやいやいや、そんなことは」
僕の言葉に、箱にかかっていた手をばっと離して、顔の前で振りながらも彼女は言う。
「悪いのは私よ私。あんな二人の分の箱を持ってきて、隼矢さんだけ仲間ずれみたいにして。……段取り悪かったなぁって、今考えると」
「いや、それは別に……」
その先を言いかけて、止めた。これは堂々巡りになりそうだと。
それでも頭をもたげてきたのは、一つの問いだった。それはどこまでもシンプルで、本当は訊くべきでない類のものなのかもしれないけれど。
「でも。どうして、今?」
ひゅっと、息を呑む音がした。目の前に立つ千束からだ。
やはり問われても困るか。そう思う。
「いや、答えてくれなくてもいいんだけど」
「いやいやいや、答えますよ? 答えますとも」
何ともぎこちない空気感だった。お互いに言うべきことはあるはずなのに、うまく言葉にできない。
それはクリスマスの日から、二人の間に流れていた空気感にも似ていた。お互いに一歩ずつ、いや二歩ぐらいは歩み寄ったようで、それでもどこか、引かれた線を確かに感じでいる。
確かに、僕たちは互いを大事な存在だと思っていた。今までずっと、そうだった。ただあくまでそれは「かけがえのない仲間」としてであって、それ以上のものを意識はしていなかった。
それが今、揺らいでいる。「リコリコの仲間」という集合の中から二人だけポンと飛び出して、しかしそれをどこに納めるべきかが、まだ分からない。
そういう据わりの悪い、どこか宙に浮いた感覚というのが、僕たちの間にはずっとあったままだった。
沈黙が張りつめる。ただ重苦しくはなかった。むしろ心地が良く、いつまでもこのままでいたくなってしまう自分がいた。
でもそればかりではいけなくて、果たして千束は横たわる静寂の中、僕の問いに答えるべくその口を開いた。
「……うまくは、言えない。分からない。でも……うん。――
こちらをじっと見据える彼女の瞳には、いつの間にか確かな意志の力が宿っている。
「あの時じゃなくて。先生とか、たきなとかと一緒じゃなくて。隼矢さん。あなたには、あなただけといる場所で、それを渡したかった、んだと思う」
力強い言葉だった。思わず、息を忘れていた。
「だからきっと私にとって、『特別』なんだ。そのチョコも、隼矢さんも」
一歩、距離が近づく。今度は千束の方からだった。手を伸ばせば届くかどうか、そんな場所にいた彼女が、もはや今は目と鼻の先にいる。身体すらも触れ合いそうで、花の薫りを微かに覚えた。
「そっ、か」
呟きが、零れていた。
彼女の言う「特別」の意味を、推し量らんとする。それはあのクリスマスの夜、互いに確かめ合ったそれと同じものなのだろうか。
隣に寄り添って、同じ時を生きていく。それこそが我が唯一の望みなのだと。
あなたの存在こそが、自分には必要なのだと。
その感情につけるべき名前は、未だ見つけ出せないけれど。
互いに向け合う視線がぶつかる。千束が見上げ、僕が見下ろす。そして互いに、身体が動いていた。
伸ばした手が背中に回る。互いの温度を感じるように、それは緩やかな抱擁だった。
暫く二人そうして、時間ばかりが流れていく。
そこからどれほどが経ったか、僕たちはどちらともなく腕を、身体を離した。互いを隔てる隙間は次第に広がり、斯くて再び、目と目が合う。気づけばなぜか、笑い合っていた。
或はそれは、さっきまでの僕たちのあまりのぎこちなさが、どうにも滑稽だったからだろうか。
「とにかく。ありがとう、これ。大事にいただかせてもらいます」
「うん。そうしてね。でも先生にも言ったけど、足が速いから早めに食べるように」
彼女の忠言に、頷く。
「できれば、感想聞かせてね」
「もちろん」
「お返しももらえれば、嬉しいな」
「必ず」
そこまで言って、ふいに昼のクルミとのやりとりを思い出した。
「あ、でもその時はハワイか。……どうしよう」
「あー……」
今気づいたとばかりに声を上げる。千束が微かに苦笑した。
「ま、だったら日本に帰って来てからでもいいや。とにかく、期待してるぜい?」
冗談めかしてそう締めた千束に向かって、深く頷いた。それに頷き返した千束が、座敷席へと踵を返す。
ずっと置きっぱなしだったリコリスのサッチェルバッグを手に取って、颯爽と背負った。
「んじゃ、また明日」
「ああ。――また、明日」
短い挨拶だった。けれどもその一言に、万感の思いが宿っている、ような気がした。
互いにそれを交わして、千束はいよいよ表口の扉に手をかける。
そして最後、彼女は飛び切りの笑顔を残して、この店から去っていった。
残滓の如くの涼やかな鈴の音が、空間の遍くを満たして、やがて消えた。
がらんどうのリコリコのホールの中、とうとう僕は一人になった。
それをぼんやり眺めるうちに、ひとりでに手が動き始めた。
リボンを解いて、横に畳む。上蓋を開いて、中を覗いた。
そこには、四つのチョコレートが入っていた。トランプのスートの形をした、恐らくは生チョコだ。ココアパウダーがまぶされたそれには、シックな高級感すら漂っている。
普段の賄いでも感じることだが、千束は本当に手先が器用だ。折々で、それを意識させられる。
そこまで見て、一度それに蓋をした。バックヤードの扉を抜けて、裏の作業台へ向かう。流しを使って手を洗い、また表へと戻った。箱の蓋を、もう一度開く。
覗きこめば、十字の仕切りで区切られて二列に並んだチョコレートが、四つのスートを象っている。
――
その中、無意識に伸びた指がつまんだ一つを、口に運び入れた。
目を瞑る。多層に組み立てられた繊細な風味を、全身で感じ取った。
さらりと溶けるような口当たりの中、微かにココアパウダーの苦みをも識る。
しかしそれでも、その表に立ってこの身の全てを包み込むような、そんなたった一つの官能が、するりと僕の口をついた。
「……甘い」
あまりに当たり前の言葉だった。けれど、それこそが僕にとっての感想となったのには、きっと何かの理由があるのだろう。そしてそれを追及するのは、野暮なことだと直感していた。
四つのスートのチョコレートの、
どこまでも丁重に鞄へとしまい込み、今度こそ僕は、帰宅の準備を始めた。
その中でふと見上げた店の時計が、僕に示す。
――午後九時半。
夜の帳が全てを包み、寒さが鎖すこの街で、鞄に眠る紅の箱だけが、この胸の中、暖かな火を灯していた。
リコリコがバレンタインに催し物をしているというのは独自設定です。
もし今後の原作の展開の中で作中描写と矛盾したら、これは別世界線の話として葬られるかもしれません。まあ、あくまで番外編の中の番外編みたいなものなので。
そしてリコリコ朗読劇を見たせいもあって、情緒がちさたきに寄っている……。
まあ、こういった感じで何の予告もなく突発的に更新する可能性はゼロではないので、どうか見捨てないでいてやってください。