世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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「備えあれば、憂いなし」。



お久しぶりでございます。
最近開かれていたリコリコ展に行ったことで、この作品に対する創作欲がちょっと出てきました。
ただどちらかと言えば、最終更新から半年ほどが経った今作品全体を見直して、「今ならもうちょっと上手く書けるよな」、みたいなのがボロボロ見つかったので、それを主に書き直していました。具体的には、本編部分全てに手を入れています。どれぐらいかと言うと、各話それぞれ千文字ぐらい加筆されて(つまり合計三万文字以上の加筆!)、描写も結構変わった感じです。気になるようでしたら、また最初から読み直していただければ、と思います。

で、それだけでおしまいではちょっとどうなのか、ということで書いてみたのがこの話です。
前半は書きたいこと十割、後半はちょっと違った毛色で。そういうこともあって、前半はぶっちゃけ蘊蓄十割です。お口に合うかどうかわかりませんが、よろしくお願いします。



Extra. 8/10: Chance favors the prepared mind

 時は夏の盛りの真昼間だというのに、その部屋は酷く薄暗かった。

 この何の変哲もないマンションの一室は今、外の光の一切から隔絶されて、代わりに橙の光を放つナツメ球の灯りだけが周囲をぼんやりと映し出している。光を取り入れるために広く取られた窓は遮光性の高いカーテンによって完全に覆い尽くされて、エアコンの冷気がかき混ぜる空気すらも、どこか重く淀んだもののように感じられた。

 

 斯くしてそこ――つまり自らの自室の中で、僕は一人リビングにあるデスクトップマシンに向き合っていた。

 

「なるほどぉ? ……一応エンドポイント暗号化はされてる、か。パリティもまあ、そりゃあるよな」

 

 モニタの上には、ブラウザ上に展開された基盤監視システムのWebユーザーインターフェースがまず見える。

 横に並ぶのは、ターミナルエミュレータの黒い画面だ。通い慣れた道をゆくが如くに、僕はそこに淡々と文字を打ち込み続けていた。

 

「んー……でもなぁ、結局エッジ側に入っちゃえばエージェント筒抜けってのはお粗末としか言いようがないよなこのシステム」

 

 呟きつつも、一つ一つ作業を進めていく。

 いや、それは表現として的確でない。

 

「まあエッジ側にどれほどセキュリティを徹底させようがってのはあるけど……お、落とせた落とせた」

 

 僕がこの場において敢行しているのは、とあるシステムに対しての()()だった。

 

「んじゃあ、ご開帳と行きますかねぇ」

 

 対象の名は、()()()()()

 

「さてさて、あなたはDAと、何をしゃべっているのかなぁ? っと」

 

 即ち僕は今、DAの情報処理の中枢を担う中央処理システムに、真正面からのサイバー攻撃を仕掛けていた。

 

 

 

Extra. 8/10: Chance favors the prepared mind

 

 

 

 それは二週間か三週間ほど前に入った、一件の依頼から始まった。リコリコの連中挙ってカラオケ大会と洒落込んだ、次かその次の日ぐらいだったか。

 差出人は楠木さん――正確に言えば、その背後にいるDAの情報部からのものだった。

 今年度に入ってからというもの、基本的に僕に対するコンタクトで、ホットラインを利用した直接のものと言うのはほぼなくなっていた。組織対組織の折衝の中で、僕に向けた任務や依頼が調整されるようになったからだろう。

 だから最近では、DAの本部からの正式な手続きか、或は僕の上(警備企画課)、もしくは内調の連中を介して()()()が降りてくるというのが通例だ。そういう意味で、特に事前の調整もなしにこのルートで何か連絡が入るというのは、異例と言えば異例の対応である、と言えた。

 

 ともかく、そのメッセージにはこうあった。

 

 そもそもの発端は、DA情報部のなかでも情報セキュリティ関連のアセスメントを担当している部隊からの提言だったという。

 去年一年という長期間にわたって、DAは一つの事件、一人の人物に大きく振り回され続けた。詳しいところは今更言う必要もないことだろうが、いずれにせよあのあと、今年度に入ってから実施されたデブリーフィングというか、()()()の中で、そうした一連の出来事に対しての一つの重大な懸念点が表出したという。

 つまり、ラジアータというDAが誇る最強の情報処理システムに対して、度々のサイバー攻撃を許したことについてである。

 そのうちいくらかは、「ウォールナット(クルミ)」という存在そのものが反則のような人物の手によるものであった以上割とどうしようもないところがあったのは確かではあるのだが、それにしても十一月、延空木完成記念式典というあの時の最終局面において、ロボ太という別のクラッカーからの攻撃を易々と許し、結果としてシステムが長期間にわたって利用できなくなる事態が発生したことを、思いのほか彼らは深刻に見ていたという。

 それで、情セキのアセスメント部隊はラジアータシステムに対してのセキュリティ総点検を提案してきていた。

 

 僕はあのシステムの全貌をとりわけ詳細に知っているというわけではないのだが、兎にも角にも日本全体のインフラの監視にせよ、SNSの投稿の収集にせよ、ラジアータが担当している業務範囲はかなり広い。物理的規模はともかくとしても、正直かなりの大規模システムであることは間違いがない。全てを検めようとすればかなりの労力を要するであろうことは容易に想像がつく。

 ただ事実として、ラジアータの情報セキュリティにおける懸念の一掃は急務だ。故にと言うべきか、彼らはそのための効率的な手法として一計を案じた。

 

 即ち僕がこの一連の流れの中で期待されている役割と言うのは、「ホワイトハッカー」だった。

 彼ら曰くの「サイバー攻撃演習」の中で、まずは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()バックアップのラジアータシステムに対してのペネトレーションテスト――有体に言えば攻撃を行う。そしてテストの結果から導き出されたシステムの脆弱性を、レポートにまとめて提出する。必要であれば、DA側の情セキ部隊に対してアドバイザリを求められることもあるだろう。まあ、そんなところである。

 

 彼らからしても、第三者目線からのアセスメントと言うのは確かな説得力を持つ、らしい。あのDAと言う組織においてさえ、と言うべきだろうか。

 ならばその対象として、去年の延空木周りの大立ち回りを通して、DAが最もその為人を知悉している情報技術者として僕に白羽の矢が立つというのは、まあ当然のことと言えば当然のことだと言えた。

 

 

 

 とまあ、かかる経緯のあった上で、僕は今この場に臨んでいる。つまり今僕が攻撃しているのは、ラジアータはラジアータでも実際にオペレーションを行っている本番環境ではない。本物さながらに複数の仮想的な監視ポイント、つまり監視カメラや信号機の管制システムなどとのネットワーク構造を作り、SNSからの情報収集そのものは本番と全く同じエンドポイントに対して実施している、そういった試験環境こそが僕の今の標的だった。さすがに本番環境に対して堂々とサイバー攻撃をぶちかますほどには僕は命知らずではなかった。

 

 

 

 過去に回帰していた認識を現実へと引き戻すべく、小さく息を吐いた。

 改めて、モニタに目を向ける。試験環境の中、監視カメラシステムのうちの一つへと侵入を果たした僕は、一つのバイナリを手元に落としていた。

 ――エージェント。主に中央集権型の情報集約システムの中で、収集対象のデータを持つエッジシステム側が、中央への情報伝達のために持っている小規模なアプリケーションのことである。

 

 ラジアータはその性質上、多種多様な監視拠点がそれぞれ個別にデータを送信する、所謂「プッシュ型」構造をシステムの中に取り入れている。

 きっかけは、十年前の電波塔事件だった。あの惨事を教訓とすべく、DAは街頭からの情報収集を大幅に強化する方針を打ち出した。

 町中に設置されている防犯カメラや街頭カメラのうち半数以上は、そういった目的からDAや、或は警察が設置したものだ。一応、その種のカメラに関しては、各組織の情報集約サーバーから一律でデータを取得している関係上、ある程度のセキュリティは担保されている。最低でも、そのはずではある。

 ただ、彼らはそれ以上に、拙速ともいえるほどの速度で以てデータ収集のカバー範囲を広げにかかった。つまり私鉄や地下鉄の監視カメラに、町内会の設置するような街頭カメラ、果ては個人の小売店舗が店頭に設置するような防犯カメラに至るまで、本当にありとあらゆる場所に彼らはその触手を伸ばしていた。

 結果として日本国内における治安は大きく向上した――そのやり方につけたい文句は十や二十では利かないが――とはいえ、そういった細々としたデータソースから情報を取得しようとなると、もはや中央システム側が情報を一方的に取得する、そういう「プル型」のシステムでは限界が出てくるというのは容易に想像ができた。

 

 とは言え情報収集と言う意味では、もう一つやり方がないわけではない。即ち各ISP*1に対して、自らが監督しているインターネット上の流路から、ラジアータに向けて情報を横流しする特別な回線を敷設することを要求する、そんな方法だ。

 ただこれには非常に大きなリスクを伴う。つまるところその手法は日本国憲法上にある通信の秘密に真っ向から反しているのだ。もしそれにユーザー側が気づいたりしたような場合、不法行為として民事訴訟を受けるのは間違いなく各ISPになる。そのリスクを彼らが受容するはずもなく、またさすがのDAとて、真っ当に法律を守って運営をしている営利法人に対して暴力で以て一方的な要求を突きつけられるほどの横暴が許される組織ではなかった。

 

 更に言えば、昨今はインターネット伝送路上を行き来しているのはもっぱらTLSによる暗号化を施されたHTTPS通信であって、如何に中間でそのデータを横取りしたとしても、そのデータを復号できないラジアータでは全く意味のないものになってしまうという事情も、そこにはあった。エシュロンが大手を振って通信の傍受を行えていた時代とは、もはや違うのだ。

 

 そういうわけで恐らく、ラジアータのシステム構築を請け負ったであろうベンダー――どこが元請けになったのかは知りたくもないが――は、そういった個別のデータソースをカバーする方策として、DAにエージェントを使ったプッシュ型のシステム設計を提案したのだろう、と推測される。

 

 そしてそのエージェントが配置されている各所の機器――つまりエッジ側についてだが、そもそも日本各地に置かれている監視カメラなどのネットワークカメラの類は、IoTデバイスに求められる必要なセキュリティ対策を実施していないことが多い。()()()多い。今回もそれを模して造られている監視カメラシステムのうち一つが、メンテナンス用ポートをインターネットに向けて開けていた上にそのパスワードを初期から全く変えていなかった。これではエクスプロイトのための腕を発揮するほどのことですらない。nmap*2で適当にセグメント全体にハーフオープンスキャン*3を掛けて、引っかかったポートに手当たり次第にtelnet*4接続し認証を試せば、どこかには必ず入れてしまうのだ。

 そしてその中の一つに無防備に置かれているエージェントのバイナリを落としてきて、そのままデバッガにかける。そうすれば、アセンブリを読むことさえできれば、中でどういう動きをしているかは筒抜けだ。

 

「んー……なるほど、基本はgRPC*5なのねぇ……認証とか暗号化も全部それに頼ってるか。まあ、実装としちゃ丸いよな」

 

 呟きつつ、解読を進めていく。その実装は手堅いというか、既存技術をうまく組み合わせた外連味のないものではあった。

 

「でもペイロード自体の妥当性ってどっかで検証できてるのかこれ? エージェント側が『そうでーす』っていったらそのまま疑うことない設計じゃないかこれ。……やってみるか」

 

 言いながら、手元のエージェントを参考にプログラムを組み上げていく。

 エージェント内部で収集したデータストリームを、内部で一度こちらが指定した攻撃用サーバーへと流す。攻撃サーバーでは、映像や音声ストリームの解析を行うオープンソースのライブラリが過去抱えていた複数の脆弱性を衝けるように、受信したデータを加工する処理を入れる。対象となる脆弱性としては、OSコマンドインジェクションや任意コード実行が可能になる危険なものを重点的に選んだ。そして最後の手段として、こちらが一個だけ持っていたゼロデイ脆弱性を用いた攻撃オプションも入れておく。

 そしてその加工されたデータをエージェント側に戻し、エージェントは自らの秘密鍵で署名の上、ラジアータ側の公開鍵でデータを暗号化、ラジアータへと送信する。

 大体三十分ほどでそれを完成させ、監視カメラシステムの中にデプロイした。元のエージェントは退避させて、そしてプロセスを再起動する。

 

 そうすればそれから数分も経たないうちに、結果が目に見える形で表れた。現れてしまった。

 SSHで接続している、攻撃サーバーのフォアグラウンドプロセスの中に、ポン、とbashのプロンプトが現れる。言うまでもなく、それはラジアータのホストOSのシェルそのものだった。

 

「あーあー、これ何の脆弱性ついたんだ?」

 

 見てみれば、今年の三月に発見されてCVEに報告されている、CVSSスコア*69超えの脆弱性を利用した攻撃が通ってしまっていた。

 基盤監視システムの方に目をやる。そのUIの中に、ラジアータのシステムに対するアラートは、()()()()()()()()()

 

「で、しかも検出もされない、か。終わってるなぁこれ」

 

 嘆息する。あの時、延空木のシステムに対する侵入を成功させたロボ太がどういう経路でラジアータのシステム内部に入り込んだのかは、これでおおよそ推測が立てられてしまった。

 恐らくは延空木のテレビ放送用電波送信設備からラジアータに向けてのデータの伝送路に、今回と同じような割り込みを掛けることで攻撃コードをラジアータに送り付けていたのだろう。或はその前、真島一味が敢行した「警察署襲撃事件」のあと、現場から発見されたらしいUSB接続式のデバイスもまた、そういった用途に使われていた可能性は否めないが。

 

「ま、いいや。それじゃ、始めよっと」

 

 開いているラジアータのシェルをバックグラウンドジョブへと移す。そして今回の攻撃オペレーションのために用意していたエクスプロイトキットを起動し、ラジアータのシェルの標準入力へとパイプした。

 攻撃開始の確認ダイアログの表示を指さし確認して「y(許可)」をタイプ、一呼吸おいて――

 

「さて、どうなるか」

 

 エンターキーを叩いた。

 

 

 

 変化は、劇的だった。瞬く間に基盤監視システムのあらゆる場所からアラートが上がり始める。内部を流通するトラフィックは増大し、そしてラジアータのシステム内部からは機密情報が次々に僕の攻撃マシンに向けてダウンロードされていく。

 特権を取得したプロセスが、基盤監視システム側のエージェントプロセスを次々と殺して回る。監視システム側の警告表示が、次第に「(危険)」から「灰色(到達不能)」へと移り変わっていった。

 

 そのあたりで、一度電話をかける。かける先はDAのホットライン、情報部セキュリティ担当のデスクだ。

 発信すれば、返答はすぐだった。

 

「真弓さん!? ステージング(試験環境)のラジアータが乗っ取られてるの、あなたですか!?」

「あ、そうですよ。というか攻撃元のIP取れないんですか?」

「それが……こちらの分析では、データの解析システムに異常が発生しているようで、なので攻撃はエージェント越しだと言うことまでは分かるのですが……」

 

 そのいまいち歯切れの悪い返答に、思わずため息がこぼれていた。

 

「ラジアータのシステムですけど、エージェントからの情報を信頼しすぎでは? WAF*7とかIPS*8とかつけてらっしゃらないので?」

「WAFはあるんですけどそこまでカバーしておらず……面目ない」

「はあ……まあいいですけど。取りあえずここら辺のことはレポートにまとめときますので。あ、攻撃オペはしばらく続けとくので、リカバリの演習に使ってもらえれば……あ」

 

 そこまで言ったところで、こちらの見ているシェルに異変が起こった。強制的にリモートサーバーから切断され、プロセスが終了している。

 

「あの、いまこちらから疎通しなくなったんですけど、どうなってます? 攻撃対処できました?」

「ちょっと待ってください……あ、いえ、そうじゃないみたいです。その……ラジアータがダウンしました」

「おおっと……」

 

 思わず、天を仰いだ。こちらの攻撃コードのどれかが、ラジアータの親プロセスそのものか、或はシステム自体を破壊してしまったらしい。

 

「ファイルシステムまで逝きました?」

「いえ、カーネルパニック*9出してるだけです。再起動自体は出来ると思いますが……」

「ならまあ、大丈夫ですか。副系への切り替えはできます?」

「それが……」

 

 そこで電話口の相手が言い淀む。数秒の沈黙ののち、言いにくそうな様子で言葉を続けてきた。

 

「ないんです、副系」

「は? いやステージングも本番と同じ構成にしないと訓練にならないよって言いませんでしたっけ」

「それは、はい。ですので、その、本番環境も……」

 

 耳を疑った。

 

「ない。副系が? 本番環境でも? 正気ですか」

「真に面目ない……」

 

 本当に申し訳なさそうに言う向こうさんに、僕もそれ以上何かを言う気力が殺がれてしまった。

 

「まあ……わかりました。じゃあ、再起動後も続けます? それとも終わりにしましょうか」

「あー……ほかに確認したい観点がなければ、ここまでにしていただければと」

「そういう意味ですと、まだ観点としては一つ目だったので……でしたら、もう少し続けますか」

「……わかりました」

 

 すっかり意気消沈と言った趣の相手に、少しだけ苦笑が漏れた。そうは言っても、僕は頼まれて、仕事でやっているのだ。手を抜くことはできなかった。

 この国の治安、安全を守るためにも。

 

「でしたら、システム再起動終わったらご連絡ください。続行しますので」

「はい。お手数をおかけします」

「いえいえ。それでは」

 

 通話が、そこで切れた。思わず、大きな溜息をついていた。

 曰く、DAが誇る最強の情報解析エンジン。また曰く、日本のどの場所における悪行も、その兆候さえ見逃さない、全てを見通す目。

 そう吹聴され、そして実際その期待を凡そ満足する活躍をしているラジアータと言うシステムではあるが、まさかこれほどまでに攻撃に対して脆弱であるとは思いもしていなかった。

 ただ去年の延空木事件での彼らの体たらくから考えれば、それは想定されてしかるべき状況ではあったのかもしれない。いずれにせよ、僕のこれから書かなければならない報告書は、凄まじい枚数になってしまうのではないだろうか。

 

 そんなどこか暗澹たる気持ちで、DA側からの連絡を待とうと椅子に腰を落ち着け直す。

 

 

 

 しかしその時、不意に後ろから伸びた手が、僕を椅子ごと抱き竦めた。

 

 

 

 花の薫りがする。後頭部に、どこか柔らかな感触が当たった。胸の前に合わされた手が、緩く僕の身体を締め付けている。

 

「いったん終わり?」

 

 少し気の抜けるような、でも安らぎを齎す声が、上から降ってきた。

 肩越しに見上げる。こちらを労うような、それでも少し退屈を主張するような面持ちの千束が、僕にその頬を寄せていた。

 

 

 

「まあ、まだ続くは続くと思うけど、多分あと十五分ぐらいは暇かな、この分だと」

 

 画面に目を戻して、口にする。監視ツールのUI上は、未だすべてのシステムが灰色のステータスを示していた。

 

「そっか、でもま、お疲れさん」

「ありがと。……だけど、ごめんね。せっかくウチに初めて来てくれてるってのに、こんなんで」

 

 言葉でも僕のことを労ってくれている千束に、謝った。

 今日はリコリコの定休日だ。そして千束にとっては、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 千束は「おうちデートだ」、などと舞い上がってはいたが、しかしそれとほぼ前後する形でぶつかってきたのがこの仕事だった。

 

「んーん、いいんだよ全然。だって私分かっててここ来てるし。前も言ったじゃん」

「……そう、だったね」

 

 椅子を回して見上げた視線の先、千束が微笑む。しかしすぐに、「それにしても」、と思い出したかのように口を開いた。

 

「いやぁ、カッコイイね隼矢さん。いや別にいつもカッコいいけど、でもなんかこう、ハッカさんやってる隼矢さんのこと、初めて見た気がした」

 

 少しだけ目を輝かせながら、そんなことを言う。

 

「そう? ああでも確かにいつも僕が作業してるときは、千束は接客してるか、戦ってるかだもんね。それもそっか」

 

 言いながらも、一人納得した。確かに僕は千束に、こういう類の作業をしている姿を直接の形では見せたことがなかったかもしれないと。

 

「クルミとは違うでしょ、全然」

「え? うーん……クルミもじゃあ言うほど見てるかってーとあれだけど、まあ」

 

 千束は言葉をそこで一度切って、そして僕の前、モニタに目を向けた。しばらく眺めて、ポツリと口にする。

 

「でも、うん。……地味、なんだね、意外と」

 

 しみじみとした感慨の吐露に、思わず吹き出してしまう。なんだよ、とでも言いたげに僕の方をジト目で見た千束に、弁解した。

 

「まあ、クルミはあれは特殊過ぎるよ。ホント映画の中みたいだし。千束も、やっぱハッカーがどうこうってなると、映画みたいなのを思い浮かべるでしょ」

「そりゃ、そうだよ。なんか黒い画面に文字バーってなって、キーボードずっとカチャカチャして、ッターン! みたいな?」

 

 大袈裟にエンターキーを叩くジェスチャーをしてから、まるで同意でも求めるように僕の方を振り返る。

 また、笑ってしまった。すごく()()()姿だったからだ。

 

「実情は、こんなものさ。そもそもライブで攻撃コード打ち込むなんて、まあやらないよ。大体は用意してあるツールから使えそうなもの選んで、ポチ。それでおしまいって感じでさ」

 

 まあ今回は、エージェントのバイナリから攻撃のための即席のアプリケーションを組み上げたわけで、その分の見ごたえぐらいはあったかもしれないが、せいぜいがそんなものだ。

 

「がっかりさせちゃった?」

「え?」

 

 千束が少しだけ面食らったように、僕の問いに反応する。しかし数瞬ののちに、首を振った。

 

「いや、全然。さっき言ったじゃん、めっちゃカッコよかったぜ、って」

 

 そう言って親指を立てながら、明るく笑う。そしてすぐにその手で持って、モニタの方を指さした。

 

「だってほら、なんかすぐにびびびって動いて、DA(ウチ)の担当にもぱぱっと指示だして、なんかよく知らない難しいことめっちゃ言ってるし。なんつーか、『デキる男』って感じがした」

 

 身振りを交えながらも続けられた言葉に、僕もまた笑う。

 

「曖昧だね、随分と」

「だってしょーがないじゃんさー! 私にゃどうせここら辺のことは分かりませんよーだ! 『USB』なんて用語? も、こないだ初めて知ったし!」

 

 そして憤慨する千束を可愛い可愛いとあやそうとしたそのタイミングで、また電話が鳴った。

 当然にしてそれはDAの情報部からのものだ。ラジアータが再起動できたので攻撃オペレーションを再開してほしい、との連絡だった。

 僕の予想に比べて随分と早い復旧だ。まあ、それならそれでよい。

 

「ごめん。そういうわけだから、また作業戻るね」

「あ、うん。……頑張ってね」

 

 離れていく千束にひらひらと手を振って、僕はまた「仕事」に戻った。

 

 

 

 

 

 斯くしてその後、ラジアータは都合三度ほどクラッシュの憂き目にあった。SNSからのスクレイピングを行うための中継サーバーに対するバッファオーバーフロー攻撃がまともに刺さったり、複数の監視点からのデータを集約するエージェント中継サーバーにMITMの脆弱性があったりと、正直なところラジアータのセキュリティ対策はかなり不安点が多く、その都度ステージングのラジアータは僕からの攻撃を許していた。尤もそういうものを浮き彫りにするのが今回の仕事である以上、その役目は果たせたというのは間違いなかったわけだが、いずれにせよ僕も大層疲れたし、そして向こう側でラジアータのシステム異常が起こるたびに対処に当たらざるを得なかった情セキ部隊の心労はいかばかりか、同情したくもなった。

 そういうわけで、一通りの攻撃オペレーションを終え、デブリーフィングとレポート提出のスケジュールについての合わせも済んでその場がお開きになったのは、もう午後も四時に近くなったころのことだった。

 

 ターミナルを閉じ、ブラウザを最小化して、そしてモニタを切る。ずっと椅子に座って作業を続けていたからか、腰も何となく重くなっていた。椅子から立ち上がり、そして伸びをする。

 

「おっ! 隼矢さんお仕事終わり?」

 

 そのあたりで、僕の様子を観察していたであろう千束からそんな声がかかった。その声色はやはりと言うべきか、どこかしら弾んでいるように聞こえた。待ちくたびれた。そんなところだろう。

 

「あ。……うん、これで終わりだね、取り敢えず今日は。ま来週までにレポート作んなきゃなんだけど、今日はいいかな」

 

 言いながら、窓際へと歩いていく。中央に立ち、よいしょと掛け声ひとつ、固く合わさっていたカーテンを大きく開け放った。中天に未だ高く架かる陽の光がたちまち目の中に入って、少しだけ驚きに声が漏れた。

 そしてそこに、千束が駆け寄ってくる。僕の横、カーテンの片方を持って、それを完全に開けきってくれた。

 

「いやぁ、天気いいですなぁ」

 

 窓に覗く街と空を眺めて、千束が言う。空は抜ける青さで眼前に広がっている。まさに千束の言うとおりだった。

 しかしそこで、彼女が僕の方を見た。人差し指を突きつけてくる。

 

「というか、何でさっきからずっとカーテン閉じてたのさ」

 

 訝しげな声だった。さらに続く。

 

「いや、まあそれはいいんだけど、だったらしっかり電気つけようよ。何で豆電球だけつけてんの」

 

 天井を見る。その通り、そこに灯っていたのは山吹色に光るナツメ球だ。窓を開けた今、別につけ続けている必要はないわけだが。

 

「カーテンはまあ、DAに言われてね。『これやってる間、外から一切見られるな』って。豆球だけつけてたのは……あー、ま、好みの問題と言うか」

 

 その指摘は尤もだ。頭を掻きながらそう答える。

 DAからの要求に関しては、まあ当たり前と言えば当たり前だろう。千束もそれにはとやかく言うまい。ただもう一個の方については、これでは答えになっていないのは自分でも自覚していた。事実千束は未だ、「納得してません」と顔に書いているほどの勢いで、僕のことをジト目で見ている。

 

「好みぃ? こんな暗いのが?」

「いや、暗いのが、と言うよりはね。……あんまモニタのバックライト点けたくなくて。目に悪いし」

 

 ほー。そんな声が、千束から聞こえた。これで納得したのか、していないのか。そこから奇妙な沈黙が二人の間を結んで、しかし暫くの後、気を取り直したように千束が表情を変えた。

 

「ま、いいや、なんでも。んで」

 

 ぱちん、と手を打って、僕を上目遣いに見てきた。

 

「お仕事終わったんなら、もういいよね?」

 

 何がか。訊こうかと一瞬思って、別にその必要もないな、と気づく。

 これからは、二人の時間なのだ。僕の家でゆっくりしよう、というのがもともとの趣旨だったはずだ。

 

「勿論。待たせちゃったし、そっちにお任せするよ」

「えー、もてなしてくれるんじゃないのかよー」

 

 おっと、これは僕の落ち度だ。口を尖らせた千束を前に僕は苦笑いして、そして徐に跪いた。

 

「では、仰せの通りに、お嬢様」

 

 

 

 

 

 食卓に座る彼女に、コーヒーを一杯振る舞う。無論それは、クリスマスの時にプレゼントされたコーヒーセットを使ってのことだ。

 今年に入ってから、僕はミカさんに直々に頼みこんで「よいコーヒーの淹れ方」なるものを教えてもらっていた。せっかくコーヒーセットをもらったのだから、自分でもいいコーヒーを淹れられるようになりたかったからだ。

 そして主にリコリコの空き時間を使ってのミカさんからの指導は凡そ半年に亘って続き、その最後、「皆伝記念だ」と少しおどけた態度と共に、ミカさんが手ずからローストした、ハワイで仕入れたコナコーヒーの豆を、ざっと三百グラムほど頂いてしまっていた。確かそれが、今年の六月ぐらいのことだったか。そういうこともあって、今では本当にたまにではあるが、ミカさんに代わって僕がリコリコのコーヒー係になることもあったりしている。

 

 予め冷蔵庫から取り出しておいたコーヒー豆を、コーヒーメジャーに取って、ミルの中に入れる。そして把手を回して挽き始めれば、辺り一面にコーヒーの香りが漂い始めた。千束は目を輝かせて、僕の方を見ている。

 

「おー……! 手挽きするんだ」

「貰ったやつ、電動のじゃなかったからね」

 

 二人分、大体二十五グラム前後の豆を挽くのには、五分とかからない。挽き終わった容器をそのままに、抽出の準備を始める。

 今回はペーパードリップでコーヒーを淹れることにしていた。千束はブラックを好むとは言え、サイフォンで淹れたような苦みの濃いコーヒーが好みというわけではない。どちらかと言えば軽く、香り高いものの方がいいらしい。そう言うこともあって、淹れ方次第で調整の利くこちらを選んだわけだ。

 沸騰させてあるお湯を使って、フィルターを湿らせつつ、サーバーとカップに湯通ししていく。それが終われば今度はコーヒー粉をフィルターにセットしていくわけだが、これもまた随分と繊細な作業だ。

 

「お、計量までしっかりやるんだ、やるねぇ」

 

 横から千束が茶々を入れてくる。まさしくその通り、ミカさんに「これを買え」と強く推された電子天秤の上にコーヒーサーバーを載せて、風袋でゼロ合わせしてから、少しずつ粉をドリッパーへと投入していく。

 目標となるのは、コーヒー粉を正確に二十二グラム。そしてその後、湯温を八十八度に調整した熱湯を合計四百ミリリットル、四十五秒間隔で三回、三等分にして入れる、と言うのが、ミカさん曰くの「千束の好きなコーヒーの淹れ方」、らしい。

 僕もミカさんに習うまで、コーヒーのドリップという作業がここまで緻密なものだとは想像すらもしていなかった。

 しかし言われてみれば、抽出と言うのは化学だ。ならば再現性のある手順によって、味もまた固定できる。見識が広がった思いだった。

 

 そしてそんな作業の末に、僕たちの前には二杯のコーヒーが並んだ。

 

「では、どうぞ」

 

 そう言いつつ、千束の前にまずカップを置く。両の手を合わせて、出されたコーヒーカップを彼女は見つめていた。

 そして自分のカップを持って対面の椅子に座り、そのまま二人、カップを掲げる。

 

「ありがと。……いただきます」

 

 その言葉と共に彼女は手に持つカップに口をつけて――そしてその瞬間に、目を瞠った。

 

「これ、()()()の……!」

 

 思わず、と言った調子でそこから二口三口と飲んで、丁寧にテーブルへと置き直してから、彼女は僕の方へと身を乗り出した。

 

「え? いやこれ、先生のやつじゃん! あれ、でも、え? なんで隼矢さんが……?」

 

 言いながら、手許とキッチンのドリッパーとの間で視線をうろうろとさせている。

 まさしくしてやったりな反応だった。思わず笑みがこぼれていた。

 

「どーだ。いや、ミカさんに前々から習ってたんだよ、いいコーヒーの淹れ方って。それで、君が好きな淹れ方も教えてもらってさ」

「マジか……」

 

 呆然と言った様子でそう零し、千束がまた、思わずと言った調子で置かれたカップに視線を落としている。

 

「あ、でも確かに最近お店でたまーに淹れてるの見るな、先生じゃなくて」

 

 ぽつり、小さくそう続けて、顔を上げる。僕の方をまじまじと見た。

 

「……いやでも、ホント凄いわ。お店開けるよ」

「そうかな? でもこれ、ただミカさんの見様見真似だし。オリジナリティなんてとてもとても」

 

 それに、と言葉を継ぐ。

 

「リコリコの外になんて出ないよ。君といたいんだから、僕は。みんなともだけど」

 

 

 

 言い切った台詞に、目の前の千束の動きが止まった。そこにしばらくの沈黙が生まれる。

 ゆっくりとした手つきでカップを手に取って、一度二度と啜る。そしてそれを再びテーブルに置くその乾いた音が、部屋の中に響いた。

 

 目線を合わせ、そして千束が徐に口を開く。

 

「知ってる」

 

 ぼそりとした声だった。そう言って、微笑む。

 

「何度も聞いたし」

 

 動きは緩慢に、けれど僕の目を惹いた。少しずつ己の座る椅子を引いて、彼女はそこから立ち上がる。

 

「だけど……」

 

 テーブルを回り、歩み寄ってくる。そして見上げる先、両手を広げて――千束は僕を、腕の中に包み込んだ。

 

 

 

 分かっていても、驚きの声が漏れてしまう自分が止められなかった。

 彼女は今、見慣れたリコリスの制服ではなく、部屋着であろう薄手のTシャツをその身に纏っている。だからだろうか、触れ合ったところからは、彼女の内包する熱やその女性らしい身体の柔らかさまでもが、否応なしに伝わってきていた。

 心臓が、跳ねた。体温が上がっていくのも自覚する。彼女は自らの行いを、果たして客観視できているのか、いないのか。

 

「嬉しいよ。嬉しい。何回言われたって、聞いたって」

 

 そう言って、さらにぎゅっと抱きしめられた。耳元に響く声がこそばゆい。背筋が震えた。……本当に、自覚しているんだか、いないんだか。

 覆いかぶさるように僕を抱き竦める千束の横髪を、空いている左の手で撫で梳いていく。滑らかな白金が、指に心地よく流れた。

 むず痒そうに身動ぎする千束が、その右の手を僕の背中から離していく。そしていきなり身体の中心、心臓の辺りに這わせてきた。その感触に思わず、身体が一瞬だけこわばった。

 

 あ、と何かに気づいたような声がする。ふふ、と小さく笑う音も聞いた。

 

「……隼矢さん、今ドキッとしたでしょ」

 

 言いながら、至近で僕のことを覗きこむ。悪戯な目の光が、僕を射抜いた。

 

「だってほら、ここ」

 

 言いながら、胸を右手でさすってくる。それはどこか蠱惑的な手つきにも思えて、どうにも反応に困ってしまう自分がいた。

 それでも、嘘はつけない。自覚させられる。僕はやはり、千束にはなかなか勝てそうにもない。

 

「……そりゃ、そうだよ。いきなりだったし」

 

 恨みがましい声が漏れた。そして、だからせめてもの意趣返しにと、座る椅子を引きながらも右腕を強く抱きこむ。

 うわっ、という声と一緒に、千束が僕の膝の上へと乗る。跨るようにして向き合う彼女を、少しだけ見上げた。

 

「まあでも、こんなとこでもなきゃ、できないもんね」

 

 言って、両腕で千束を強く抱きしめた。姿勢のせいで千束の胸の中に思いっきり顔を埋める構えになってしまったが、まあご愛敬と言うものだろう。

 ちょっと、と一度だけ抗議の声を上げた千束だったが、それでもしばらくすると観念したのか、再び僕の背中にその両腕を回してきた。

 

 抱きしめ合って、互いの身体の熱を感じる。静かな部屋、コーヒーの香り漂う中で、その時間はあまりにもゆっくりと過ぎていくように、僕には思えた。

 

 

 

 そこからしばらく、そうやって抱き合っていた僕たちではあったが、そのさなか、ふと我に返った。せっかく淹れたコーヒーが、このままでは冷めてしまう。無駄になってはいけないと、二人少しばかり慌てて、でもしっかりと自らのカップの中のそれを堪能した。

 そしてそれからは、娯楽の時間だ。

 

 まずはということで、ここ一年の少しの間、忙しすぎて全くと言っていいほどやれていなかったテレビゲームを一つ、二人で交代に操作しながら遊ぶことにした。

 そのなかで、僕は意外なことを知った。千束は反射神経や動体視力に非常に長けているのに、ゲームそのものはそこまで上手ではなかったのだ。

 曰く、「ゲームだと、なんか感覚が合わない」らしい。生身の人間が身体を動かし始めるその「起こり」を人間離れした目敏さで咎めて、その先手を取るか、紙一重の回避から後の先を取るのが彼女の戦闘スタイルだ。物理法則に基づいたシビアな見切りが通用しないゲームの世界では、そういう千束の戦闘経験が逆に足を引っ張るということもあるのだろう。

 そしてむしろ、そういったゲームが得意なのはたきなさんの方なのだ、と千束は言った。どうやら彼女はたきなさんのゲームをしている姿を間近で見た経験があるらしい。「あの子もそんなことをするのか」、などとどこか場違いな感想を、それに対しては懐いた。

 

 その後、一頻りゲームで遊んだ僕たちは、次いで「今度は私の番だ」とばかりに千束が持ち出してきた、SFものの名作映画を一本見た。

 どうやら彼女は、僕が少し前に話した映画の好みについて覚えていてくれたらしい。流石は洋画マニア、僕が見たことのない、それでもイチオシのSFものをひとつ、ここに持ち込んできていた。昼は喫茶店、またある時には「仕事」と、そう自由時間の持てる生活などしていないだろうに、よくもまあ目敏くこういうものを見つけてくるものだと、感心させられた。

 

 そしてそのまま映画を通しで見終わるころには、部屋へと差し込んでゆく光は山吹色になり、茜色になり、気付けば外はすっかり暗くなっていた。

 電気すらつけず、ひたすら画面を見ることに夢中になっていたからか、この部屋も点けっぱなしのナツメ球だけが唯一の光源になってしまっている。慌ててLED灯をつけて、そしてカーテンを閉めきった。

 

 食卓のデジタル時計を見れば、時刻はもう七時を回ってしまっている。夕食は自炊でやろうと二人話していたのだ、これはなかなか由々しき遅刻であるとは言えた。

 慌てて二人、キッチンへと出向く。そして僕はその場で、徐に一つの本を取り出した。

 

 それをすこしだけ眺めて、思わず言葉が漏れていた。

 

「いやぁ……でもこれマジで使うなんて、ねぇ」

「……なにそれ」

 

 言いながらも、少しばかりドヤ顔を見せてしまう自分を止められない。それは即ち、()()()だった。ただ、単なる料理本などではない。その表紙を千束に向けて掲げてみせた。

 

「くっきんぐ、ふぉー、ぎーくす? ……どゆこと」

 

 読み上げられたその言葉に、含み笑いが止まらない。千束は全くついていけないという顔をしている。

 自分ばかり面白がっていても仕方がない。どうにか笑み崩れそうになる表情筋を整えて、千束に向かって訳を話した。

 

「んー……クルミに見せたら大爆笑間違いなしなんだけど。……これはね、()()()なんだ」

「……料理の?」

「そう、料理の」

 

 言って、もう少し詳しいことについて語る。

 

 大学のゼミ時代の頃の話だ。ゼミの連中との馬鹿話の中で、一人暮らしの自炊に凝り始めた奴が唐突に胡乱な主張をし始めた。

 ――曰く、キッチンとは最も身近な科学実験室である、と。

 聞いたときはとうとうこいつの頭も論文執筆のストレスでおかしくなったかと思ったが、話を聞けばなるほど、その主張は理に適っていた。料理とは食材を物理的・化学的に変性させる一連の作業に他ならない。なればそれは実験とも同義であり、その工程から不確定要因を可能な限り排除することによって、結果は再現性を持つ。

 その賢しらな物言いに、いきなりどうしてそんなことを思いついたのだとゼミのメンバーの一人が問うたところ、出てきたのがまさしくこの本だった。

 

 情報工学、というかコンピュータ技術に関する専門書を主に出版しているアメリカの出版社が刊行した、異色の料理本だ。この本を出版したときには唯一にして伝説の、とまで言われたそれだが、その好評に気をよくしたこの会社は、それに続いて三冊ほど「料理シリーズ」の続編を出している。それでもこの最初の料理本を超えるほどのインパクトはなかなか出るものではなかった。

 彼が持ち込んだその本の内容に、ゼミの連中は大笑いして、しかし全員がハマった。それが興じて料理を趣味にし始めた奴もいたが、ただいずれにぜよその本はゼミの中でブームとなり、僕もまたこの本だけは買って、しかしその後は本棚の肥やしになっていた。まあ、そんなところだ。

 

 

 

「……なんか、隼矢さんらしいわ」

 

 一部始終を聞いた千束の第一声は、それだった。

 

「でも楽しそうだなぁ、大学のゼミ。そういうわちゃわちゃした感じって、私すごい好き」

 

 どこか遠い目をしながら、羨むような言葉が漏れ出てくる。確かに、千束にとってのウェットな人間関係の全ては、畢竟喫茶リコリコという環境の中に閉じている。

 色々な価値観を持つ他人との、対等な立場での交流というものは、彼女にとってはどこか遠い世界の話なのかもしれない。最低でも、今のところは。

 

「まあ、君もこれから先は長いんだし、いくらでもそういう経験は出来ると思うよ。というか、するべきだと思う。そうしたいと思うんなら」

 

 彼女のその反応に、少しずつクールダウンしていく頭の中で、出てきた言葉を彼女に返す。

 千束の人生は、千束自身のものだ。最低でもこれからはそうだし、そうでなければならない。望むことは、それを真に望むのであれば、叶えるべきだ。()()()()()()()()()。どこまでも、それは僕の真意だった。

 

「そう……だね」

 

 彼女もまたその僕の言葉に、曖昧な口調ながらも、それでもしっかりと頷いた。

 

 

 

 俄に空気がしんみりとしてしまったが、ともあれ料理だ。この料理本には、料理に関する技術的な――それもどこか情報工学的な――蘊蓄だけでなく、実用的なレシピも数多く掲載されている。ただそのかなりの部分が、半日から場合によっては丸二日の調理時間を要求するようなもので、さすがに今日の僕たちの夕飯にはそぐわない。

 そう言うこともあって、事前にこのレシピ集の中から使えそうなものは既にピックアップしてあった。

 前菜にサラダ、スープにメインディッシュ。魚介と生野菜をテーマにした、夏らしい取り合わせの献立だ。千束も僕のチョイスに目を輝かせて、早速作ろうとばかりに意気込んでいる。

 冷蔵庫から既に買い揃えてあった諸々の食材を調理場へと出す。二人手を洗い、調理器具をもその場に出した。

 

 ――さあ、料理を始めよう。

 

 

 

 

 

 リビングのなか、夏の夜の鬱陶しいまでの蒸し暑さを吹き飛ばさんと、空調が懸命に動いている。僕と千束はその前のソファに二人腰かけて、ぼーっと中天を見上げていた。

 時刻は午後も十一時を回っている。東京と言う街は眠ることをまるで知らないが、それはそれとして僕たちはそろそろ休むことを考えるべき時間だと言えた。

 

 

 

 夕食はその後、盛況のうちに終わった。

 出来上がった料理を口にして二人言ったのは、「おいしい、けどアメリカンだ」、そんな台詞だった。

 あの本はもともとアメリカで刊行された料理本だ。食材にしろレシピの中身にしろ、その思想の中にあるのは西洋料理のそれで、出来上がったものもそういったアメリカナイズドされたものになるというのは必然の帰結だとは言えなくもなかった。しかしそれでも二人で挑むその料理はどこか楽しかったし、そこに見る非日常さがやけに僕たちの心を浮つかせたのもまた事実ではあった。

 

 そしてやや遅めの夕食が終われば、あとはもう寝る支度をするばかりとなる。

 二人互いに風呂を済ませたあと、何とはなしにソファに二人座って、何もしない時間をただ過ごしていた。

 ニュースでもつけようか。そう思ってテレビのリモコンに手を伸ばした僕のことを、しかしそこで千束が抑えた。

 

「どしたの?」

「んー? いや……」

 

 曖昧な口調で、それでも僕の方をじっと見てくる。

 

「いい趣味してるよなって、部屋とか」

「……そりゃどうも。でも大分今更じゃない?」

「……確かにそうだ」

 

 くすりと、笑い声がした。しかしそこでやおら、彼女が動き出す。ゆるりとした手つきで僕の身体にその腕を絡ませて、そして僕の胸の中に、顔を埋めた。

 

「どうしたよ、いきなり」

 

 口ではそれに答えずに、ただ首を振る。それは千束自身の家の中では、見たことのない態度だった。

 

「甘えただね、今日は」

「……どーも、すみませんね」

 

 今度は言葉が返ってきた。その態度に、どこか笑みがこぼれてしまう。

 

「昼、散々ほっぽらかしちゃったの、やっぱだめだったかな」

 

 首が振られる。

 

「そっか。じゃあなんとなく、か」

 

 今度は、縦に動いた。しょうがないな、と独り言つ。千束にだって、そういう日はある。それを僕が満たせるのであれば、それにまさる歓びはなかった。

 姿勢を入れ替える。横を向いて抱きついていた千束を前へと据えた。昼間のように正面から向き合って、しかし今度は僕の腕の中へと、彼女の身体を迎え入れた。

 眠気が襲ってきているのか、彼女の反応はどこか鈍い。その手や足の先も、次第に熱を帯び始めていた。

 

 そこから暫く、子供をあやすように身体を揺らし続けていると、ふいに千束が声を上げた。

 

「ありがとね、今日は」

 

 むくりと顔を上げて、僕を至近から見つめてくる。焦点の覚束なさそうな眼差しだ。眠いのは眠いらしい。

 そしてその姿が、僕にはどうにも愛おしい。伸ばした手を、頬に添えた。

 

「こっちこそ。楽しかったよ」

 

 頷いた彼女が、添えた掌に自らの頬を擦りつけてきた。愛おしむように、慈しむように。

 ……もう、潮時だろう。今日という日に、幕を引こう。

 

 

 

 彼女を一度離し、部屋の電気を落として、そしてその手を引きながら寝室へと入る。

 部屋のベッドはシングルだが、ついこの間千束が自室にセミダブルのベッドを入れるまではあちらでもそうだったのだ。慣れたものと言えば、慣れたものだった。

 

 布団の中に潜り込んで、また身を寄せ合う。

 僕の部屋に、ベッドの上に、千束がいる。その事実は僕にどこか生々しい実感を俄に齎して、それでも心の中は、不思議に凪いでいた。

 腕の中へと収まってくる千束の身体を抱きしめる。その熱を感じているうちに、僕の方にも次第に睡魔がやってきた。

 

「――おやすみ、千束」

 

 そう言い残して、目を瞑る。

 意識が眠りの淵へと沈みゆくその一瞬のなかで、微かに千束の声を聴いたような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 斯くして、千束を僕の部屋へと招いての初めての「自宅デート」なるものは、終わりを告げた。成否と言う意味では、まあ成功のうちに入るのではないだろうかと、自己評価する。

 一方の千束はと言えば、それからというものの毎週の定休日の夜にはほぼ必ずと言っていいほど僕の部屋へと泊まりに来るようになった。つまり僕たちは、週のうち都合三日はどちらかの家で二人の時間を過ごすようになったわけだ。

 こうして少しずつ二人の時間が重なってゆくのだと、それはしみじみとした実感となって僕の胸を打った。

 

 

 

 

 

 そうだ。それともう一つ、DAに対するセキュリティ監査の報告についての話も、気にしなければならないだろう。

 一週間ののちに今回のペネトレーションテストの結果をレポートにまとめて提出した僕は、何度目か分からないDA本部への呼び出しを食らった。これに関しては僕の落ち度がどう、と言う話ではない。僕が上げた報告書を深刻なものと捉えたDAの上の人間が、DAの、と言うよりはラジアータのセキュリティ対策について僕に詳しくヒアリングをしたいという、そういう趣旨のものだった。

 その中で出た、「まずはHA*10、と言うよりはDR*11構成を速やかにとるべきだ」という僕の提言から、DAはラジアータ、ないしそれと同等の情報処理システムを、DAの関西方面の支部に設置することを決定する。

 

 そしてそれの受注、開発と設置に係るあれこれの中で、またぞろ僕や、或は喫茶リコリコの面々が騒動に巻き込まれることになるのだが――それはまた、別の話である。

*1
インターネットサービスプロバイダ。例えばOCN、BIGLOBE、So-netなどはこのカテゴリの事業者である。

*2
ネットワークセキュリティのための監査ツール。ポートスキャン(ネットワーク、或はインターネット上で開示されているポートを調べる行為)などの機能を備えるが、セキュリティ監査のためのツールと言うのは、往々にして攻撃にも使われるというのが、サイバーセキュリティの世界の現実である。

*3
ポートスキャンのうち、TCPポートの開閉を調べる最もオーソドックスな方法。

*4
TCPによるネットワークを介した遠隔接続のためのプロトコル、ないしソフト。sshプロトコルをサポートしていないような相手(ネットワーク機器やIoTデバイス)にはこれでアクセスすることになる。

*5
google社の開発したネットワーク間サービス連携のためのメッセージングプロトコル。

*6
その脆弱性をどれぐらい早急に修復しなければならないかの緊急性を示したスコア。0-10のスケールで表される。当然、高ければ高いほど緊急性は高い。

*7
Web Application Firewall. ウェブ上からの攻撃を検知し、遮断するシステムのこと。

*8
Intrusion Prevention System. ネットワーク上の機器を監視し、そこへの侵入の検知と遮断を試みるシステムのこと。

*9
主にLinuxやUnix系OSで、システム異常によりOS自体が停止した状態。Windowsでいうブルースクリーンとほぼ意味は同じ。

*10
High Availability. 高可用性

*11
Disaster Recovery. 災害復旧。物理的災害や、攻撃によるシステムの致命的な損害に際して、別拠点にバックアップを設置するなどして速やかにサービスを復旧できるようにする体制のこと。




驚 異 の 注 釈 二 桁 で あ る。 ……申し訳ない。

ラジアータのシステム設計に関しては、完全に想像と偏見で書いてます。ただあれを見ながら、結構セキュリティガバいなと思ったのは事実です。

あと、今回の話の中に出てきた「技術系料理本」は実在します。オライリー社刊行の伝説の料理本、「Cooking for Geeks: 料理の科学と実践レシピ」という本です。お高いですけど、書かれていることは結構面白いので、一読の価値ありです。



一応ですが、もう一話分ぐらい投稿しようかと思っています。話としてはハワイの旅行の期間の中でやってきたホワイトデーの一日のことでも書こうかなぁ、と言う感じです。

そして最後に、今回の題名ですが、この超有名なことわざ、多分リコリコの二期(があれば)では絶対にサブタイに使われそうな気がしています。一期と命名規則が同じなら、ですが。
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