鮮血のエンブリヲン   作:Mk.Z

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第十話 People/ファイアローズ

 □???

 

 干し草の匂いがした。

 ステラはゆっくりと瞼を開けた。部屋は薄暗く、柔らかい静けさに満ちていた。身体の下には固くごわごわした布の感触がある。身体を起こすと、頭が揺らいだ。

 熱があるのかもしれない。ステラは左手を額に当てた。右手には包帯が不格好に巻かれていて、重たかった。その指先がいつも通り動くことを確かめて、ステラは深く息を吐き出した。

「目、覚めたか!」

 突然の声に、ステラはもう少しで飛び上がるところだった。その声の主はそんなことなど知らぬ調子で、頓狂な言葉を繰り返した。

「ほっほ!目が覚めたか!よし、人間寝とるより起きとる方が愉しいからな!」

 声の主は、白い髭の老人だった。曲げすぎた猫背のせいで背丈は低く、長い髭は地面を擦っている。微妙に焦点の合っていない目で、老人はステラを見ていた。

「わしゃオルプハム・オックレール、見ての通りミルハルの小僧からお主らを預かったじじいだ!スープ飲むか?」

 ステラは無言で目をぱちぱちさせた。老人は牛乳瓶の底みたいな眼鏡を鼻の上に押し込むと、やにわどたどたと振り返って後ろの戸棚を漁り始めた。天井から埃が落ちる。

「待っとれ!いま探すから、確か三年前に三人分作ったんじゃ!わしのスープを食って生きて帰ったものはおらん!……ん?言葉を間違えたか?」

「ミルハルの知り合いなの?」

 ステラは尋ねた。というか、そう切り出す以外に会話のやり方を見つけられなかった。

 老人は油の切れた荷車のようにぴたりと動きを止め、ステラを振り返った。皺の寄ったシャツが嫌な音を立てた。

「そうとも!わしゃあいつの知り合いじゃ!親友といってもいい、心の底から通じ合っとる、見ろ!」

 老人はさっとシャツを捲って自分の左胸を見せた。ステラは目を逸らした。

「わからないわ」

「そりゃ残念!さては視力が悪いな?眼鏡を掛けた方がいい!待っとれ!いま……」

「あの、おじいさん」

 ステラは鋭く遮った。

「ここはどこ?」

 辺りには何の音もしなかった。町でずっと聴こえていた砂漠の風さえも、ない。水に潜ったように静かだ。

 首を傾げて静止した老人に、ステラは助け船を出すように言い足した。

「サンフォーリング?」

「そうとも!」

 老人は飛び上がった。

「他に何がある?ここらはだいたいサンフォーリングだし、サンフォーリングはだいたいここらだ、北だ!そうだ、北側、暗い方だ!お前さんも、暗いとこから来たな」

 ステラは顔をしかめた。頭を振って立ち上がる。左手が寂しそうに開き、閉じた。

 見渡せば、部屋はそれなりに清潔だった。使われていない、と言った方が正しいだろうか。掃き清められてこそいたが、四隅には砂が溜まっていた。それだけだ。渇ききった砂漠の大気は、不潔を寄せ付けぬほどに厳しいものらしかった。入り口には扉の代わりにパーテーションが下ろしてあった。

 それが揺れる。ややあって、既に知っている少年が顔を出した。

「ねぇ、オックレールさん、タオルはどこに……」

 その目が動く。薄暗がりに慣れた瞳が、ステラを捉えた。

「ステラ!目が覚めたんだね!」

 シリルが笑う。心から安心したように。

 

 琥珀色の瞳で。

 

「……来ないで!」

 気づけば、ステラは叫んでいた。喉が空気を吸い込んで、鳴る。

 剣はなかった。無意識に辺りを探る手が、側机に転がっていた果物ナイフを拾う。親指で鞘を弾くと、ステラはその切っ先をシリルに向けた。

「ステラ……!」

「来ないでって言ってるのよ!」

 ステラが鋭い息を吐きながら、猫のように後ずさる。その足元で、砂が音を立てた。

「あんたもあいつと、()()()と同じ、<マスター>のくせに……!」

 シリルが立ち止まる。その口が動く。

「どういう、意味?」

 ステラは黙って、シリルを睨み付けた。レベル500の【高位操縦士(ハイ・ドライバー)】を。

「笑ってるんでしょ、どうせ、あたしを、あたしが……あんたは、なんでも出来るんだから、自由なんだから!」

「……ごめん」

 シリルは俯いた。

「姉さんが君を傷つけたことは確かにおれの……おれのせいだ。オレのトラブルに巻き込んで……謝るよ」

「うるさい!」

 ステラが叫ぶ。

「ねぇ、どうなの?あたしのこと、無様だって思った?正面から負けてさ、気絶して……」

「そんなことは……」

「嘘、思ってるくせに!」

 ステラはシリルに向けた切っ先をふらふらと揺らした。

「見下してるのよ、<マスター>は、全部!そんな当たり障りのないことばっか言ってないで、本音を言ってみなさいよ!」

「ごめんって言ってるだろ!」

 シリルも叫び出した。

「君が姉さんに負けたことなんかどうだっていいよ!当然じゃないか、君はレベル150で、スペックで負けてるんだ、だから何が駄目なんだよ!才能が無くたって卑屈になることないだろ!」

「そんなこと分かってるわよ!」 

 ステラはナイフを投げつけた。刃がシリルの頬を掠める。鮮血が、床に落ちた。

「あたしは剣が大事で、ずっと振り続けてきた!毎日毎日毎日、毎日!いくら才能がなくたって、努力すれば報われる筈だって、そう思ったから!別に辛くなんてなかった、苦しくなんてなかった!強くなりたかったから、強く!」

 ステラの頬を、雫が走る。それを拭いもせず、ステラは言った。

「ねぇ、教えてよ、なんであたしは敗けたの?あいつにとって、あたしの努力なんてなんでもないものだったの?それじゃあまるで……あたしがやってきたことは無駄だったってこと?意味のないことだったの?あたしは、どうやったらあなたたちに追い付けるの?」

 ステラは、おぼつかない足でシリルに歩み寄った。シリルは琥珀色の瞳でその泣き顔を見つめていた。

「才能が全てなの?生まれで最初から全部が決まるなら、あたしはもう何にもなれないの?そうじゃないって信じてたよ、可能性が少なくても、それが増えなくても、それをどう使うかは自分の手で変えられるって……そうじゃないの?」

 

 ねぇ、なんであなたたちは才能があるの?

 

「……そんなこと、分かるわけないだろ!」

 シリルが吠える。その瞳が、ステラの濡れた眼を刺すように視た。

「生まれは変わらないんだ、みんなそうだろ!自分だけが不幸みたいな顔して!才能がないんなら、あきーー」

「ーーそこまでにしとけ」

 空気が裂ける。突如、怒鳴りあいに分け入ってきたのは、ターバンに頭を隠したミルハルだった。

「二人ともだ」

 ミルハルはいつになく恐ろしい目付きで、二人を睨み付けた。シリルは口を開けたまま黙った。

「ミルハルの小僧!」

 そして、凍りついたように立ち竦んでいた老人は、息を吹き返してミルハルに声をかけた。掌を意味もなく打ち合わせる。乾いた音が歓迎のベルのように響いた。

「帰っとったか!」

「いまさっきな。殺気だった奴らに眼をつけられないよう気を遣ったんだが……」

 ミルハルはシリルを睨み、ステラを睨んだ。

「とりあえず、落ち着け。水でも飲んで、ゆっくり深呼吸しろ」

「そんな……」

「いいから、落ち着け!」

 ミルハルが声を張った。

「お前のそれは、砂のせいだ。ここに来て日が浅いやつはもろに影響を受ける……じいさん、中和剤は?」

「数は少ないぞ」

 老人は、いっときだけ白痴から覚めたように澄んだ眼光を煌めかせた。

「ついこないだ使ったとこだ。残りは……」

「いい、どのみちこいつらは長くいるわけじゃない」

 老人が途端に走り出す。それを素早く避けて、ミルハルは今度は、シリルを見下ろした。

「……何だよ」

「お前ら<マスター>には砂の効き目がない、筈だ。推測だが。だから中和剤も鎮静剤も効かん。頭を冷やしてこい」

 シリルは何事か言いかけたが、黙って踵を返した。ミルハルはそれを見送って、ステラの首根っこを押さえながら言った。

「聞け。ここの砂は汚染されてるんだ、砂塵を防ぐにも限界があるからな、特にお前みたいな外から来た人間は少し取り込んだだけで症状が出る。一晩か、二晩も経てば情緒を揺さぶられて精神が不安定になるんだ、お前のは典型的なそれだ!」

「あたしは不安定なんかじゃない!」

「泣きわめきながら言う台詞か!黙って大人の言うことを聞け、座ってろ!……座れ!」

 ステラは黙って座り込んだ。どのみち、立っていられなかった。ミルハルは頷いた。

「それで良い……じいさん」

「おうともよ、親友!……すまん、薬だ」

 老人が伸膝前転で転がり込む。ミルハルは、その手から中和剤を引ったくった。

「頭を下げろ」

 言うが早いか、ミルハルはステラの頭を無理やり俯かせ、その首筋にかかった髪を払い除けた。中和剤をあてがう。

「少し痛いぞ」

 ミルハルが中和剤の注入スイッチを押す。勢いよく、銀色の針がステラの首筋に突き刺さった。

「……ッ!」

「大人しくしろ!……ほら、終わりだ」

 薬液が流れ込む。ステラは首筋に手を当てながら、ミルハルから跳びすさって離れた。

 ミルハルは空になった中和剤のインジェクタを懐に入れると、ステラを見た。

「気分はどうだ?」

「……最悪よ!」

 ステラが語気強く言う。言葉とは裏腹に、身体からあの熱っぽい感じが退いていくのが分かった。

「……最悪」

 考えなしに、ステラは力なく繰り返した。ミルハルは気にする風もなく、ただ床に落ちていたナイフを拾い上げた。

 ステラも黙った。泣き疲れたあとの気だるい感じに似て、糸が切れたような気分だった。ふと、顔を手の甲で拭う。その腹が小さく鳴った。

 白痴の老人が笑った。

「ふむ。食事にするか」

 

 ◇◆

 

 食卓は小さかったが、食事は旨いものだった。

 金属のテーブルを囲んで、右端にはオックレール老人が座っていた。無理やり隣に座らされていたシリルとステラは、ぎこちなく目を逸らした。

「……」

 老人はまず自分の皿を持ち上げると、すぐ後ろの炊事場へ食器を片付け始めた。かちゃかちゃと軽い音が鳴るのを聞きながら、ミルハルが話し始めた。

「……ここは、このじいさんのねぐらだ。サンフォーリングの北端、町の外れにある。そして、下には……」ミルハルは床を指差した。「古代の隧道が通っている。大きさは、<マジンギア>が通れるほどに広い。お前たちはそこを通ってここまで来たんだ」

 その言葉は、主に気を失っていたステラへと向けられているようだった。ミルハルはどす黒い茶を啜りながら続けた。

「当然、通路の存在は<ブラウラウ軍>も知っているが、あいつらは当面あいつらの“敵”にご執心らしい。余計なちょっかいをかけられずに済んだ」

 ステラは、はっと顔を上げた。

「それって……」

「あぁ」

 ミルハルは頷いた。

「やつらは戻ってきている。追加の戦力まで連れてな。第二次会敵は終了したようで、既に本拠地に撤退している。見たところ損害も大きいが、まだ暫くはこの町も荒れそうだ」

 ステラは、風船が萎むように肩を落とすと、そのまま黙り込んだ。ミルハルは、シリルを見ていた。

「さて。俺は知っていることを話した。必要なら細かく質問してくれても構わないが、その前に……」シリルが瞬きをする。「……お前についても話して貰おうか」

 シリルは口を開けて、また閉じた。ミルハルは言った。

「お前は、<ブラウラウ軍>の“敵”と関係がある、そうだな?個人的な因縁だ、それも完全な敵対関係ってわけじゃない、それどころか互いに抱き締めあうような仲だろ」

「なんで、そんなこと!」

「わしが教えた!」

 オックレール老人は高らかに言った。ミルハルは深く椅子に座り直した。

「町で聞いただろう。このじいさんは、“探し屋”だ。“探し屋”のオルプハム・オックレール」

「なんでも知っとるぞ!」

 老人は楽しそうに、食後のデザートを頬張り始めた。糖蜜の塊のようなそれは、老人の髭を伝ってテーブルを汚していた。

「俺がお前たちを見つけられたのも、“探し屋”の情報があったからだ。知っていることを自分から教えに来るのがこのじいさんだからな。で、シリル・ファイアローズ。お前は何者だ?」

 シリルは眼を泳がせていた。後ろめたいというより、混乱している感じだった。それを見てとって、ミルハルは少しだけ穏やかに言った。

「俺は別に殺し屋じゃない。お前から情報を得たいのは、俺個人の願望だ。教えてくれ、お前と、あいつらのことを」

「あたしも、知りたい」

 ステラがぽつりと呟いた。シリルは驚いたようにステラを見た。

「あたしも、シリルのことを知りたい。あれが誰なのかを……なんで、家族から逃げているのかを」

 シリルは口ごもっていたが、やっとのことで話し始めた。

「……ファイアローズ」

 そう言って、シリルは左手を押さえた。

「俺は、シリル・ファイアローズ。あの人は、姉さんのヴァネッサ・ファイアローズ。俺たちは、ファイアローズ家……一家で、空の上に住んでたんだ」

 要領を得ない話に、ステラは面食らった。

「空の上に?貴方たち<マスター>って空から来たの?」

「違う。おれたちだけだよ」

 シリルは大人の真似をするように、顎に手を当てた。

「何から話せば良いのか……分からないけど。俺は、エンブリヲンの遊撃を担当してた。空を飛ぶ船に住んでたって言ったら、わかる?」

「それが、サンフォーリングを襲った敵か」

 シリルは後ろめたそうに頷いた。

「多分、偶然ぶつかったんだと思う。俺は、父さんたちに攻撃するよう言われて、シャングリラで出撃した。相手が誰かなんてよく分かってなかった。空の上でも、たまに襲ってくる人達とか、怪物を倒すことはあったから」

「そんなの、聞いたことないわ」

「そりゃそうだよ!俺だって、人と会うことなんかなかったもの」

 シリルは、だから嫌だったのだ、という風に肩を落とした。

「……いつも家族で一緒に、家族は大事だって。そんなの、知らないよ!何をするにも、家族、家族、家族!それに、何より姉さんが……イヤなのは分かるだろ!なのに、誰も助けてくれないんだ、家族って枠組みばかり気にして!」

 ステラは頷かなかったが、代わりに頬を強張らせた。あの女の異常性は、骨身に沁みて理解したつもりだった。

「だから、逃げ出したの?」

「隙を見て。でも、空の上からじゃ地理がよく分からなくてさ。戦闘も空戦だったから。大体の辺りをつけて飛び降りたら、ここだったんだ。本当ならもっと……カルディナから遠ざかってる筈だったのに」

「そりゃ、十分遠いが……」

 ミルハルは興味深げに眉を上げた。シリルはますます暗いムードになった。

「最悪だよ、クラリス姉には見つかっちゃうし、姉さんにもバレた。そのうち追いかけてくるんだ、間違いなく」

「戦って勝てば良いじゃない」

 ステラがポツリと言った。

「あたしとは違う。<マスター>なら……」

「無理だよ」

 シリルは吐き捨てた。

「無理だよ!俺の<エンブリオ>じゃ姉さんたちには勝てない!能力が違うんだ、手の内を知られた相手に勝てるわけないだろ!それに、もし勝ったって……」

 シリルは自分で言いながら絶望を深めたのだろう、顔を伏せてしまった。

「自由になりたいのに……」

 その横顔を、ステラはずっと見つめていた。

 

 ◆◆◆

 

 ■【浮遊航行艦 エンブリヲン】

 

 ヴァネッサは格納庫に降り立つと、艦橋方面へと向かった。金属を踏む軽やかな音が木霊していた。

 背後に鎮座する機体は、様相を変えていた。黒い滑らかな装甲はゴツゴツした不格好なものへと変じ、傷ひとつなかったはずのメインフレームには粗っぽい切断創が現れていた。黒色が退いていくにつれて、四肢の関節が露になる。

 奇妙な駆動系だった。動力を伝える機構が存在せず、ただ人形の関節のように、軸受けと軸が組合わさっているだけだ。センサーや装甲も、ただ繋ぎ合わせられているだけで、まったく不格好な代物だった。

「……」

 ヴァネッサはふと足を止めると、物陰に向かって舌打ちした。物陰は呆れたように応えた。

「……おっかないなぁ」

「チャールズ」

 眼鏡をかけ、工具箱を持った蜻蛉のような少年が、物陰から歩み出てきた。ヴァネッサは冷たく言った。

「さっさと直しなさいよ。それがあんたの役目でしょ?」

「そう?俺はやりたいからやってるだけだけど。ヴァネッサこそ、強襲が役目じゃないの?帰ってくるのが早いんじゃない?」

 【高位技師】チャールズ・ファイアローズはニヤニヤと言い返した。ヴァネッサは鼻をならすと、その脇をずんずんと通りすぎた。  

 チャールズは肩を竦めた。

「仰せのままに……お・ひ・め・さ・ま」

 

 艦橋の手前で、ヴァネッサは通路を右に曲がった。部屋の扉を開けると、侍女たちがいそいそと着替えを運んできた。

 そのさらに奥の広間には、柔らかな明かりが点っていた。天井は幾重にも立ちはだかる筈の特殊装甲板と空間固定障壁の向こうから、午後の光を取り込んで、落ち着いた明るさを醸し出していた。

 着替えを済ませたヴァネッサは、その大扉をくぐった。

「遅いわ」

「申し訳ありませんお嬢様、ただいま艦内が荒れておりまして」

「言い訳?」

 ヴァネッサが不快さを隠そうともせず言う。黒服に身を包んだ使用人は、顔を上げて答えた。

「とんでもございません。現在、賓客の方をお迎えしておりまして、それに伴って先の戦闘の影響が」

「関係ないわよ!」

 ヴァネッサがさっと手を振る。使用人はそれ以上述べることなく、黙って再度頭を下げた。

「それで、賓客って?」

「カルディナ議会政府の暗殺者です」

 ヴァネッサは鼻を鳴らした。そのままずかずかと裾を蹴り飛ばし、応接間へと向かう。使用人はその後ろで口を開いた。

「旦那様は、誰も通すなと」

「知らないわよそんなの!お父様の勝手ならわたしも勝手でしょ!」

 ヴァネッサの手が応接間のドアに触れる。しかし、ヴァネッサは扉を開けようとはせず、ただ扉の面に指を走らせた。

 使用人が首をかしげる。ヴァネッサは扉に掌を押し当てて、低く呟いた。

「何の真似かしら……エドワード」

「君こそ何の真似かな、ヴァネッサ。お父様は入るなと仰ったんだから、入ってはならないんだよ。分かるかい?」

 扉は、空間の障壁によって覆われていた。触れようとしても、表面の少し手前で掌が止まってしまう。ヴァネッサはまなじりを吊り上げた。

「エドワード!」

 その身に纏う衣服が、次第に黒みを帯び始めた。

「……八つ当たりは、もっとも下品な行いだと思うよ」

 ヴァネッサが見つめていたのは、一人の青年だった。白金の髪を優雅に整え、琥珀色の瞳でヴァネッサを見つめている。貴族の子弟のような格好は、清潔で上品そのものだった。

「ファイアローズ家に相応しくない」

 エドワード・ファイアローズが言う。その後ろでは磨き上げられた床板へ、重々しい青銅の十字架が突き立っていた。

「君の我が儘な“能力”では、僕の“能力”を破れない。それとも、試してみるかい?」

「あら、あんた本人を押し潰せば同じでしょう?わたしに勝てるなんて本気で勘違いしちゃったの?」

 エドワードの後ろで、侍女が後ずさる。エドワードとヴァネッサの二人は、一歩も退かぬ戦意を無言で漲らせていた。一触即発が、弾けようとする。

『よさないか、おまえたち!』

 そして、突然の大音声が空気を揺らした。

 エドワードがぴたりと姿勢を正す。ヴァネッサも不服そうに矛を納めた。リネンのスカートから、“黒”が引潮のように消えていった。

『エドワード、ジェスイットを解除しろ』

 エドワードは即座に従った。背後の十字架が唸り、扉の空間が普通に戻る。十字架を左手の紋章に吸い込みながら、エドワードは扉を見つめた。

『中まで騒音が聞こえていたぞ。それがファイアローズ家のものとして相応しい振る舞いか?』

「申し訳ありません、お父様」

 エドワードは心底恥じ入った様子で言った。扉が開く。

「……ヴァネッサ?」

「……ごめんなさい、お父様」

 ヴァネッサもまた、不承不承謝罪した。

 扉の向こうにいたのは、齢五十ほどの壮年の男だった。ダークブラウンのジャケットを着こなすその男は、後ろにいたスーツ姿の客人に声をかけた。

「すみませんね」

「いえ、いえ、ウィリアムさん。とんでもない……お子さんがたですか?」

「ええ」

 ウィリアムは頷いた。

「長男のエドワード、そして長女のヴァネッサです。他にも三女と四女、クラリスとクラリッサが向こうに……いる筈ですが」

 広間の壁が揺らぐ。光が歪んで、双子が姿を現してお辞儀をした。客人もまた、上品に挨拶を返した。

「いやはや、ご丁寧に……しかし、素晴らしいお屋敷ですな、絨毯も見事だ」

「今は亡き“紡織都市”メーラードの遺産ですよ、模様の一つ一つに魔法が織り込んである」

 ウィリアム・ファイアローズは言った。自慢げに、などと下品な雰囲気ではなく、しかし十分な自信は滲ませて。

「苦労をした。カルディナでも珍しい代物だ」

「ええ、全く……素晴らしい」

 客人は感嘆を露に言った。

「これ程の栄華を誇るあなた方なら、我らの協力者として申し分のないことでしょう。どうですか、カルディナ政府のために働いてはくれませんか?」

 エドワードは眉を上げた。客人は嬉しげに頷いた。

「ええ、そう。私はカルディナ議会政府からの特使として参りました。是非とも、たぐいまれな航空戦力を誇る貴方がた、ファイアローズ一家(ファミリー)にカルディナへと直属していただき、友好的なお付き合いをお願いしたいのですよ」

 その眼にはしかし、うむを言わせぬという意思があった。彼にしてみれば、カルディナの上空を秘密裏に飛行できるエンブリヲンは敵にも回りうる不穏分子というわけだ。エドワードがホンの少し、殺気を尖らせる。その剣呑な眼差しを制止するように、客人は続けた。

「これは対等な申し出でございます。隷属や優遇ではなく、イーブンのお付き合いをしたいのです。どうです、ファイアローズどの」客人はウィリアムを見た。「双方に利のある話だ」

「あぁ、それなら勿論……」

 ウィリアムは微笑んだ。

「……御断りですね」

 そうして突如、ティアンの客人は崩れ落ちた。

 その口髭は、ひくひくと痙攣していた。頭から爪先まで、力を失って悶えていた。その瞳は、心底の驚きに揺れていた。

 ウィリアムは唇の端で使用人に呟いた。

「イアゴ。よくやった」

「いえ……麻痺していますが、殺しますか?」

「【ブローチ】を砕いておけ」

 イアゴと呼ばれた使用人は素早く歩み出ると、客人の懐の【ブローチ】を砕き割った。その左腕では、なにか刺々しい武器が輪郭を失っていくところだった。

「な、なぜ……」

 客人は呻いた。

「なぜ……カルディナ政府との直接のコネクションを……みすみす……」

「理由はひとつ。我々は不干渉を旨とするからだ」

 ウィリアムは冷たく言った。

「地上の下らない争いに関わるつもりはない。我々は我々が欲することをなし、欲せざるところのことは拒否する。我ら家族の調和を歪めようとするなら、それは敵だ。そして、カルディナもそれを黙認するつもりらしい」

 客人の身体は、ゆっくりと持ち上がり始めていた。メーラードの飛行絨毯が浮上を始めていたから。

「君の存在がそれを証明している。簡単に始末できる人材。後腐れのない人間(ティアン)を送ってきたのだからな。さて、お望み通り、君の死を以て返答に代えさせていただく」

「まっ、待って、くれ……!わ、わたしは……」

「空を往くものは我々だけではない。王国にも、帝国にも、皇国にも、飛行の有名人がいるだろう?だが我々は、彼らとは違うのだよ。有名になりたくなどない。余計な注目はトラブルのもとでしかない。必要なものだけを得られればそれでいいのだ。政府の首輪は“必要”がないな」

 絨毯が飛び上がり、大扉を抜けていく。客人の呻き声が尾を引いて消えていった。投棄孔へ向かうのだ。

「宜しいのですか?お父様」

 エドワードは静かに訊いた。ウィリアムも穏やかな態度で、長子の言葉に答えた。

「あれはカルディナ暗部の諜報員だ。人格も記憶も、精神干渉能力で書き込まれた疑似情報に過ぎない。同情など無駄だ」

 ウィリアムは切り捨てた。ヴァネッサがその前にずいと進み出る。

「なんだ?」

「お父様、シリルを見つけたわ」

 ヴァネッサの顔は興奮に赤らんでいた。

「やっぱりサンフォーリングにいたの。元気そうだったわ、でもね、余計な奴らに邪魔をされてはぐれてしまったの……勿論、綺麗にしてきたけれどね?」

 ヴァネッサは獰猛に笑った。エドワードが呆れたように眼を細めた。

「よく言うよ。奴ら(敵軍)を撤退させる切っ掛けになったのは明らかにエンブリヲンの砲撃じゃないか」

「それに、あの、小娘!」

 ヴァネッサはエドワードを無視し、燃え上がるように声を荒らげて捲し立てた。とめどなく溢れ出すそれに耳を傾けながら、父ウィリアムは笑った。

「なるほど、あいつももうそんな年頃か?気に入りが出来たのなら、この屋敷に連れてきても良いかもな」

「お父様!」

 ヴァネッサが爆発する。ウィリアムは宥めるような表情になった。

「まぁ、落ち着け」

 ヴァネッサはこれ以上ないほど憤慨していたが、それをいとおしむようにウィリアムは続けた。

「ティアンの子供一人の人権くらい、買い上げるのは容易いさ。その程度のお遊びは許容されるべきだろう?ここは、自由な世界だからな」

 ウィリアムが闊歩し、壁の飾りを動かす。外の景色を映し出した窓枠の内側を、ウィリアムは覗き込んだ。

「ちょうど良い」

 外には、さっきの客人が天空へと放り出されていく光景が見えた。弛緩したその身体は、重力に抱かれて墜ちていった。

「熱烈なラブコールが届いていたな?お相手をしてやろう、舵をサンフォーリングに向けろ」

 ウィリアムは天空を往く艦から地上を見下ろしながら、そう命令した。層雲は薄く、消えそうな程に薄くたなびいていた。

 

 To be continued

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