■【浮遊航行艦 エンブリヲン】
窓から日差しが差し込んでいた。
この艦の上層はジェスイットの力で二重に護られていると、シリルは知っていた。窓を開いても、戦火は届きもしないだろう。
昏睡から身体が目覚めたとき、部屋の中はひどく殺風景だった。精緻な絨毯と、簡素な机に、座椅子。壁は薄い緑色で、触るとかさかさいった。
シリルは座椅子に身体を預けた。机の上には白い陶器の水差しが置かれていて、それだけがシリルがここにいるためにあるものだった。時計すらない部屋では、時間の感覚すら曖昧だった。
そして、扉がゆっくりと開いたとき、シリルは咄嗟に身体をこわばらせた。
入ってきたのはヴァネッサだった。いつも通りの黒いスーツに身を包み、足元には分厚いブーツを履いている。それは絨毯を踏みしめてごとごとと重い音を立てた。
「あぁ、シリル!」
ヴァネッサは座椅子に座るシリルへ抱きつくと、その首筋に顔を埋めた。きりりとした鼻筋がシリルの鎖骨にぶつかった。
「ようやく、帰ってきてくれたのね」
「……」
シリルはヴァネッサを毅然と払い除けようとしたが、ただ無様にもがいただけだった。その手を逆に握りしめさえして、ヴァネッサは言った。
「二度と出ていかないで?寂しかったんだから」
「……さぁね」
シリルはせめて、言葉だけでもと思ったのだろうか。にべもなくはねつけた。
「どうせだから言っておくよ。俺は、また隙を見て逃げてやる。絶対に……!」
「ダメよ、ダメよシリル。そんなこと言わないで」
ヴァネッサの瞳は冷酷さの色を帯びていた。
「そんなの、悲しいわ。ねぇ、わたしを悲しませたいの?シリルはお姉ちゃんが嫌いなの?そんなことはないでしょう?」
ヴァネッサは自分も椅子を引きずってきてシリルの前に座った。
「今ねぇ、あの女も捕まえてあるの」
シリルはハッと顔を上げた。
「ステラを?」
「エドワードが言ってたわ。あの小娘をシリルの枷にするって。屋敷で飼うそうよ、もしシリルが逃げ出したならこの上ない屈辱と苦痛の中で殺すわ」
ヴァネッサは獰猛に舌なめずりをした。そのときは絶対に自分の手でやる、とその眼は雄弁に語っていた。
「そんなこと……」
「どう?これでもまだ逃げ出すって言える?」
ヴァネッサとシリルは見つめあった。二人の琥珀色の瞳が、視線を絡ませていた。
「……ステラには、手を出さないで」
やがてシリルは渋々言った。細い指が座椅子の端を悔しげに掴んでいた。
「質問に答えてないわ……逃げ出さないの?どうなの?」
「あぁ、逃げ出さないよ!」
シリルはやけっぱちに言った。
「二度と逃げたりなんかしない、家族皆でこの屋敷で暮らす、それで良いだろ!」
「……そう」
ヴァネッサは頷いた。だが、その顔は決して笑顔ではなかった。絶望に近い、冷たい表情だった。
「シリルは、あの女の為なら我慢できるのね」
「……え?」
「逃げ出したいのに、出ていきたいのに。あの淫売の小娘を盾にすれば言うことを聞くんだ?ねぇ、そんなに大事なの?大事なんだ?」
ヴァネッサの指が、わなわなと震えていた。
「そんなのを許せるわけないじゃない……!」
ヴァネッサはゆっくりと立ち上がった。不気味なほど緩慢に、椅子を部屋の端へと投げた。
「姉さん、何を……」
「言ったでしょ、殺しにいくのよ」
ヴァネッサは一歩を踏み出した。
「ティアンで良かったわ。消せるもの。ここまでシリルを誑かした罪を償わせて、泣き喚かせて許しを乞うのを聞きながら、少しずつ殺すの」
「そんな……話が違うよ!」
「だってしょうがないじゃない!」
ヴァネッサはまた一歩、踏み出した。
「シリルがそうなんだもの!報いは必要で、邪魔なものは退かす、そうでなきゃいけないの。まずは耳を削ぐの、その次は指よ。口と眼は最後まで残しておく、絶望して後悔するのを聞かなきゃいけないんだから」
ヴァネッサはふらふらとドアノブに手を掛けた。蝶番が軋んでいた。
「ええ、もう少ししたらきっと分かるわ。今のあなたは悪い女に騙されているだけ、お姉ちゃんが助けてあげるから……」
「やめ……」
「ほら、ね」
琥珀色の瞳は、最後に粘りつくような視線を残して消えた。
扉が閉まった。
シリルは呆然と立ち尽くしていた。
「なんなんだ……?」
どうしていいか分からなかった。シリルはいつしか拳を握っていた。左手を見下ろすと、そこには見慣れた虹色の紋章が刻まれていた。
「……姉さん」
扉の外で、立ち止まる音がした。シリルは叫んだ。
「姉さん……!」
なあに?シリル?
「俺は、姉さんのことが……」
どうしたの?
「……大ッ嫌いだ!」
そして、彩雲と虹が爆発した。
◇◆◇
屋敷の別館は木屑と石を吐き出して崩れていた。煉瓦と窓枠が落ちていき、屋根瓦が裂ける。そのただ中で、純白の巨人は拳を振り上げていた。
『シャングリラァァ!』
シリルの叫びに応えるように、シャングリラは拳に光を集めた。虹色の拳は風を吹き飛ばして、頭上からヴァネッサへと迫った。
そして、それを横合いから
『……ッ!ゲヘナか!』
庭園を引き裂いて突然現れた黒い機体は、シャングリラから庇うようにヴァネッサへ覆い被さると、自分のコクピットを開いてヴァネッサを迎え入れた。その深紅の瞳は、シャングリラの碧眼を睨み付けていた。
『シリル……どうしても分かってくれないのね』
『当たり前だろ!何べんだって言うさ、俺は、姉さんが嫌いだ!』
『そう。なら、あなたも
ゲヘナは別館だったものを掴むと、シャングリラへ投げつけた。砕け散った瓦礫に紛れて、ゲヘナの腕がシャングリラの顔を掴んだ。
『このッ!』
シャングリラがその腕を握りしめた。発熱する掌に、黒い腕部から煙が上がった。煙は直ぐに、炎へと変わっていった。
ゲヘナが手を離す。それに合わせて、シャングリラは足を振り上げた。瓦礫が庭の池を埋め、倒れた柱が花壇をぐちゃぐちゃにした。
ゲヘナはシャングリラの蹴りを躱し、空中へと舞い上がった。
『……エドワード!』
ヴァネッサは叫んだ。
『上のジェスイットを解除して!邪魔!』
共用チャンネルで艦内に響き渡ったそれをエドワードが聞いたのかは分からないが、とにもかくにも、誰かが障壁を解除したらしい。途端に外の砲火の音が響き始め、ゲヘナはさらに高く舞い上がった。
『《
そして、その背後へとシャングリラが転移した。
両腕を交差させたシャングリラが、その腕を振り抜いた。虹色の波紋が躍り、ゲヘナの黒い破片が飛び散った。
『……』
だが、ゲヘナはそれを分かっていたように、シャングリラの手刀を受け止めていた。白煙が上がり、ゲヘナはまた手を離した。
シャングリラが落ち、艦の上部装甲へ着地する。周りにはエドワードの
『【LRW01アサルトライフル】、来い』
黒くて大きなライフルを担いで、シャングリラは引き金を引いた。銃弾は緩い曲線を描いて、次々と上空のゲヘナへと飛んでいった。
それを軽やかに左右へ躱して、ゲヘナの中でヴァネッサは笑った。
『シリル?そんなものかしら?』
『いいや!』
シャングリラはライフルを投げ棄てると、ミサイルコンテナーを取り出した。空を汚して、ミサイルたちがゲヘナへ飛んでいく。
ゲヘナはその黒く滑らかな肢体を拡げると、深紅の粒子を残して飛翔した。その掌の中へ深紅の鞭が現れる。
『【飛紅鞭 スカイリード】……《
深紅の鞭は、空へ直線を刻んで翔んだ。三度の屈折を経て、シャングリラへと赤熱する線が迫った。
シャングリラは、正面切ってそれを五指で掴み取った。虹の熱と、赤い熱がせめぎ合って火花を散らしていた。
『……ッ!』
シャングリラは足を装甲へ踏ん張って、鞭を力一杯引っ張った。ゲヘナが引かれて姿勢を崩す。
『《
その隙を突こうと、シャングリラがまた跳んだ。今度の位置は、ゲヘナの目の前だった。
予兆もなにもない攻撃だ。虹色のレーザーが膨らみ、シャングリラの掌から溢れ出た。
『……!』
それを、ゲヘナは受け止めた。黒く染まった盾を素早く取り出して、水の流れを反らすように、光の奔流をいなしてみせたのだ。
呆けたシャングリラを返り討ちにせんと、ゲヘナは機体を回転させた。銀色のブレードが弧を描き、シャングリラの装甲を抉った。
『……ッ!《
胴を真っ二つに出来るはずだったその一太刀を、シャングリラは転移で回避した。それでも、決して浅くない傷が透き通るような白の装甲を砕いていた。
『……すこし、強くなったね。シリル』
『上からものを……!』
『いいえ、これは純粋な賛辞よ。手こずりそうだわ』
ヴァネッサはそう言うと、盾を投げ棄て、ゲヘナを降下させた。
黒く細い脚が上部装甲へ降り立つ。シャングリラも装甲を足裏のアンカーで踏みしめていた。
甲板の上で、二機は、二人は、真っ直ぐに向かい合った。足元の装甲が軋む。躊躇いがちに遠くでうねるワイヤーに、ヴァネッサはピシャリと言った。
『余計な茶々を入れないで、チャールズ!』
その途端にワイヤーは退き、装甲たちもまた静かになった。チャールズが直通回線で言った。
『……どうするの?』
『言ったでしょ、二人の時間よ。せっかくの機会なんだから邪魔しないで!わたしのすることを黙って見てればいいのよ!』
『はいはい、了解』
通信が切れる。ヴァネッサは叫んだ。
『シリル!あぁ、ごめんなさい、続きをしましょう?』
シリルは顔をしかめた。シャングリラが彩雲を吐き出した。
『……なんで、そんな態度でいられるんだよ!』
『嬉しいからよ』
ヴァネッサは臆面もなく言った。
『嬉しいの。どんな形でも、どんな手段でも、シリルがわたしを見てくれてる!あぁ、あぁ、もう……』
ゲヘナは鞭を消すと、両腕のブレードを拡げた。
『……最高の気分!』
そして、深紅の軌跡を引いて、ゲヘナは踏み出した。艦を踏む音が鈍く響いた。
それを真っ向から受け止めるために、シャングリラも一本の剣を装備し、切っ先に煌めく虹を走らせた。背後では、彩雲の粒子が膨らんでいた。
一歩。二歩。三歩。そして、二機の刃は衝突し、甲高い音を立てた。
『シリル!』
『……ヴァネッサァァ!』
森のような十字架の合間で、剣戟が加速する。その背景では、戦火の様相が変わり始めていた。
◇◆◇
■<プレアデス>
【アルシオーネ】は敵艦の上空を旋回していた。その周囲では、遠距離火力に秀でる二機が随伴するように銃口を振り回していた。砲口は依然としてしつこく三機を狙っていたし、何もかもを遮断する空間の壁も健在だった。
一〇〇メートルは下にあるはずの敵艦は大きすぎて、その感覚を掴むのは難しかった。山のような戦艦の上層では、白黒の二機が脇目も振らず火花を散らしているのが見えた。
その奥はぼやけてよく見えないが、無数の十字架を越えた先には屋敷のようなものがあるらしい。
『……やっぱり、内輪揉めかな』
ゾルはモニターを眺めながら呟いた。
『あの黒いのとあいつの白いのは明確に敵対関係だ。今のところ、黒い方にも負けてないよ』
「その辺は放置しとこう。下手に触って敵を増やすのは頂けない」
エルディンが言った。
『あの戦艦だけど。やっぱりさっき近づいてみて良く分かったよ、<エンブリオ>の複合体だ』
ゾルは無数の解析結果を弄くりながら、モニタのウィンドウをいくつも開いてはずらしていた。
『船底部分と艦の外部構造は別だね。推進器と、それから表面の塗装も。空間干渉力場はたぶん、あの十字架たちから発してる。出力からみて、恐らくはエネルギー支援能力もいるっていうのがラジエルの結論。93%』
「なら、正面から戦うのは分が悪いな。やはりあの空間障壁をどうにか突破したいが」
『けど、接近してもあの装甲に阻まれる』
ゾルは忌々しげに言った。横からコロリョフが付け足した。
『ゼロエルの火力でもすかされたんだ。相当貫通力のある火砲を使って、なおかつ大規模に破壊せにゃあ沈まんぞ』
『そんなの、どうするのさ?』
『さあな。とりあえず次は貫通型のミサイルを使うさ。それで少しはましになるはずだ』
コロリョフは、自分でもさほど信じていなさそうな雰囲気で言った。
『ここからは遠巻きに……』
コロリョフが言いかけたとき、りりりんと全体通信が鳴った。
『全隊に通達。フォーメーション99に移行。繰り返す、全隊フォーメーション99に移行』
サンフォーリングの総隊長がノイズ混じりにそう言うのを聞きながら、エルディンは周りを見渡した。
戦車部隊が下がっていた。散開のしすぎだ。あれでは【ガイスト】の砲が届かない。
「なんだ?作戦中止か?」
『それにしちゃ、動きが大人しいが』
射程距離を出ていく彼らを見て、ゾルが言った。
『僕らも下がるかい?なんか妙だよ』
『そうだな。その方がいいんじゃないか』
「……なら、一旦距離を取ろう」
三機は旋回を止め、敵艦を背に飛翔を始めた。背後では、敵艦の砲が三機を追っていたが、超音速の飛行速度なら、それを躱しながらでも戦線に追い付くのは容易いことだった。
戦車たちは、一定の距離まで下がって静止していた。敗走の動きではなかった。意図のある行動だ。
(フォーメーション99。俺たちには伝達されなかったなにかがあるのか?この動き、まるでなにかを避けているような……)
『<プレアデス>!』
「聞こえている。まさに現在撤退中だ。それで、何を始めるんだ?」
やっとの通信に、エルディンは皮肉っぽく言った。
『俺たちにも秘密か?』
『サンフォーリングはこれより計画の第二段階、“
本部からの通信は、それだけ叫んで途絶した。
「巻き込む……?何に巻き込むと……」
『リーダー!』
ゾルが叫んだ。
『上見て、上!』
そこで、エルディンは上を見上げた。突き抜けるような午後の青空には、
To be continued