■残時間00:04:99
静かだった。
鈍く響く爆音も、装甲の焼ける音も、全てが遠かった。
シャングリラのメインモニタには、減少を続けるカウントダウンが映っていた。
そして、その向こうにはゲヘナがいる。
頭と両腕を失っても、その力は依然健在だった。肘が残っているほうの腕部装甲が鋭く尖り、刃のように変わっていくのが見えた。
ヴァネッサもエネルギーが少ないらしい、その変異はひどく緩慢だったが、シリルを貫く剣としては充分に思えた。
シリルはシャングリラを動かそうとしたが、凍てついた指は操縦桿を叩いただけで力尽きた。虹になった機体は、少しずつ硬質な欠片をこぼしながら、対流圏を墜ちていった。
気流が活発になり、機体装甲を打つ。ゲヘナの刃がゆっくりと、剥き出しのコクピットへ振り下ろされた。
◆
■【浮遊航行艦 エンブリヲン】後部
三度目のプラズマに貫かれたその艦は、座礁した豪華客船のごとく砕け散っていた。艦体はバラバラになり、無数の破片に変わって地表の無人砂漠へ降り注いでいた。
その中には蠢く鋼鉄の蔓草もあれば、本物の木々、丸ごとの庭園の残骸、壊れた屋敷の白い壁や、幾人かの人間すら混ざっていた。ティアンの使用人はすでにヴィマナの力によって退艦していたが、<マスター>の使用人はそれでも残っていたうえ、虜囚のことに気を配るような人間はいなかった。
そしてステラは、崩壊する艦内を駆けていた。
上品な木目と豪奢な敷物で出来た廊下は、轟沈の衝撃によってまるで大海原のようにうねっていた。その次の瞬間には床材が裂け、火の手が上がり、そして瓦礫へと変わっていく。
高度は四〇〇〇メテル前後だ。たとえ強壮な戦士であっても、落ちればシャボン玉のように弾けて死ぬ。ましてや、ステラの体では肉片のひとつも残るかどうか怪しい。
そんな有り様になるのは、絶対に嫌だった。
<マスター>の彼らが少しだけ羨ましかった。どれ程無惨な死体になり果てても、三日の後には復活するというのだから。
と、揺れる廊下の向こうへ、ステラは眼を向けた。薄煙に混じって、精緻な紋様の絨毯が空中に漂っていた。
ステラの目が確かなら、空を飛んで。
ステラはみしみしと軋む床を踏み砕きながら、廊下を飛び越えた。凍るように冷たい風が、外気を知らせていた。
ふらふらと飛んでいた絨毯は、ステラが駆けよった途端に、ばたりと床に落ちた。その静かな有り様は、なんの変哲もない絨毯と同じだった。
「騙されないんだから」
ステラは言った。
「
ステラは精一杯の脅し声でそう告げると、壁飾りに掴まりながら絨毯を爪先でつついた。その絨毯……ウィリアムのコレクションのひとつ、紡織都市メーラードの飛行絨毯は、諦めたようにステラの肩の高さへ浮かび上がった。
「あたしを乗せて、飛んで」
絨毯は拒否するように房飾りを激しく振った。他ならぬウィリアム・ファイアローズに忠実なそれは、主人の許しなしに他人を乗せることなどしないのだ。
ステラは視界の端でどんどん吹き飛び始めた窓枠たちを見ながら、叫んだ。
「言うことを聞かなきゃ、火をつけてやるわ!」
飛行絨毯は平然としていた。その四隅から伸びる紋様のひとつひとつが火除けの魔法だと、彼は知っていた。魔法の炎でない限りは、絨毯を燃やすことはできない。
「じゃなきゃ、水浸しにしてやる!」
絨毯は嘲るように身をはためかせた。彼は自分の防水性能に大きな自信を持っていた。コーヒーをこぼしたって、染みを作ることなど決してありはしない。
ステラは剣を抜いた。
「縦糸と横糸を全部ばらばらにーー」
絨毯は即座に平伏した。するりとステラの足の下に滑り込み、持ち上げる。ステラは小さく叫び、言った。
「そう……ありがと」
絨毯は答えるように小さく震えた。
そして、その瞬間、床が裂けた。爆風が轟き、天井が落ちてくる。艦の残骸を走った巨大な裂け目に、ステラは呑み込まれていった。
「……ッ!」
重力が体を引いた。落下の感覚に、ステラが蒼白な顔で絨毯を掴む。周りでは、漆喰と金属が無数の屑になっていた。
ステラは目を開け、そして息をのんだ。
絨毯は空を舞っていた。凍てつく風を掻き分けて、金の房飾りが揺れていた。
上から落ちてくるひときわ大きな瓦礫を、絨毯は急旋回と急加速で躱した。ステラは必死に、その縁を掴んでいた。
エンブリヲンはもはや、完全に崩壊していた。さっきまで持ちこたえていた小さな島のような欠片たちも、連鎖的に爆炎を上げて吹き飛び、揚力を失って落ちていく。塵と煙のなかに、薬品のような匂いが混ざっていた。
ステラは気が気でない思いでそれを見上げ、落とさないように腰の剣をしっかりと押さえた。空飛ぶ絨毯は、汚れた青空を、まるで魚のようにすいすいと泳いでいった。
その膨大な瓦礫たちの向こう側で、何かが光ったのをステラは見た。
「……あれは!」
微かな虹色の光だった。黒く燃える機体に組み付いて、自らも傷ついている巨人だった。
その光が引いていき、もとの白い機体が現れる。その姿は、ステラも知っていた。シャングリラだ。
満身創痍の二機に、ステラは目を細めた。シャングリラは、ゲヘナをあれほどにも追い詰めたらしい。けれど、その勝負の天秤はゲヘナへ、ヴァネッサへと傾いていた。
頭さえなくした黒い機体が、毒蟲の針のように刃を構える。それが中破したシャングリラの操縦席を狙っているのは、ステラにもわかった。
シャングリラは動かなかった。その装甲は成層圏からの低温に凍てついていて、生気に欠けていた。
「だめ……」
ステラは、思わず叫んだ。
「シリル!」
◇◆
声が聞こえた。
シリルが目を開いたとき、既にゲヘナの刃は振り上げられていた。一秒足らずだ。それだけの時間で、黒蝶機はシリルの身体を斬り潰すだろう。
そんなのは、シリルの望みではなかった。
凍えた身体は動かなかった。操縦桿を握ろうとしても、無駄なのは分かっていた。《
そして、黒い刃は振り下ろされ、シャングリラは即座に消失した。
「ふ、ふふふ、あはは!」
ヴァネッサは笑った。どこか乾いた哄笑だった。
「これで、これで!」
ゲヘナが身をよじり、そして静止した。
「これで、リセットをーー」
その一秒後、ゲヘナの背後にシリルが現れていた。
「……ッ!なぜ!」
《神秘論》は使えないはずだった。文字通り死力を振り絞ったあとで、そんな余裕があるはずがなかった。機体を駆動するエネルギーすら費やした、決戦形態なのに!
だが、ヴァネッサは目を見開いた。
「<エンブリオ>の、格納……」
それは能力とすら呼べない、基本システムだ。
<エンブリオ>は紋章にしまい、また出すことができる。
シリルがやったのは、ただそれだけだった。けれどそれは、この極限において、ゲヘナの刃を躱し、先手をとるのに充分な能力だった。
ヴァネッサが呻き、応戦しようとする。けれど、動力を使い果たしたゲヘナは、静止したまま落下を続けていた。
ゲヘナの能力は憑依すること。そして、この機体はゲヘナの操り人形に過ぎない。駆動系すら廃されているのだ。ヴァネッサからゲヘナのために必要なエネルギーが尽きれば、指一本動かせなくなる。
「待って……」
「シャングリ、ラァ!」
シリルが叫び、シャングリラが紋章から再び姿を現す。それは、さっきとなんら変わらず傷ついていた。けれど、大破寸前、満身創痍の金属塊は、まだ闘志を碧眼に滾らせていた。
「待って……!」
白い腕が振り上げられる。破片を撒き散らして自壊しながら、シャングリラが吠えた。
『……ooooooooOO!』
「シリル、やめーー」
シャングリラの腕が、ゲヘナのコクピットを叩き潰す。金属と樹脂が飛び散り、火花と稲妻が爆発する。嫌な音がして、伝わった殴打の衝撃に、ゲヘナの機体が崩壊した。
そして、シャングリラもまた大破していた。コクピットが裂け、操縦席が落ちる。フレームがへし折れる。
凍えたシリルの身体は、大空へと投げ出された。
シリルは力なく、その落ちる勢いに任せた。冷えきった肢体の周りでは、飛行機雲が糸を引いていた。
シャングリラは、虹色がかった白の破片になって、四方へ飛び散っていた。その向こうでは、あの黒い機体が灰のように崩れ、ヴァネッサの身体が光の塵になっていくのが見えた。
シリルは目を背け、左手を押さえた。
身体を撫でる風は、ひどく虚ろだった。ひゅうひゅうと、冷たい音が耳元で鳴っていた。
その風の音が変わった。
「上へ……」
知っている声がした。さっきも聞こえた声だ。
「上へ!」
シリルは身体を捻り、下を見た。
そして、手を伸ばした。
「シリル!」
「ステラ!」
次の瞬間、シリルの身体は、ステラの広げた腕のなかに落ちていた。空飛ぶ絨毯がはためき、二人目の衝撃に揺れた。
ステラは静かに、シリルの顔を見下ろした。
「また、空から落ちてきた」
「うん、でも、今度は怒らないでしょ?」
シリルは掠れた声で言った。その微笑みに呼応するように、ステラはいつの間にか大声で笑い始めていた。
シリルが尋ねた。
「どうしたの?」
「わからない」
ステラは言った。
「……でも、なんだか嬉しいの、なぜか」
そう言って、ステラはシリルの手を握った。今なら、なんだって出来るような気がしていた。それは万能感ではなく、むしろ閉塞感からの解放だった。
空飛ぶ絨毯は高度を下げ始めた。太陽は、西の地平線へ向かって沈み始めていた。
「……そうか、結局こうなったのか」
チャールズは半壊したパラス・アテナから這い出し、空を見上げた。そこを漂っていく二人を。
「シリル、お前ってやつは昔から……」
チャールズはそう呟くと、足で操縦桿を押した。乗機であるパラス・アテナは、四本あった腕のうち、残った二本を高らかに掲げた。周りでは、三機の<
『あ、あー……停戦しよう。お互いに、メリットは……あるだろ?』
『……』
エレクトラは沈黙したまま、黙ってライフルを掲げ、空を撃った。その光は、全軍の耳目を引き、手を止めさせるのに十分だった。
けれど二人は、そんな光には目もくれなかった。絨毯は滑るように、砂漠に向かって円を書いて降りていった。
「ねぇ」
「なに?」
「俺は、自由になれるのかな」
ステラは呆れたように鼻をならした。
「そんなの!自分が決めることでしょ」
「うん、そうだ……そうだね」
シリルは呟いた。ステラは小さく言った。
「でも、きっと本当の自由なんてこの世界のどこにもないのよ。不自由の大きさが違うだけ」
シリルは頷き、そして顔を拭った。口元は、笑顔のそれだった。
「……けど、なんだかすごく清々しい気分なんだ」
その頬をとめどなく伝う雫に、ステラはちらりと目をやり、そしてまた小さく笑った。
To be continued