■流氷都市セルン
街並みは煤けていた。
煙突の麓では、白い壁を連ねた工場のような建物が、橋の袂へ一体化するように身を寄せあっていた。乱雑だが、けっこう都会的なその雰囲気に、シリルはどこか懐かしさのようなものを覚えた。
貨物を運ぶトロッコが断崖の表を走り、それらの町並みを繋いでいた。それらは全て、谷の上に突き出した空中の構造物になっていた。
こちら側の崖が、“流氷都市”と呼ばれるセルンの町らしい。
「橋のたもとに、旅客のための受付がある」
チューリヒは路肩に車を止めさせた。カバもどきの竜は、まとわりつく羽虫を厭わしそうに鼻を鳴らした。
「隊商はここで物資を補充して、南へと向かう。お前たちは?」
「決めていた通り、ここで降りるわ。西へ行くには、この橋を渡らなきゃいけないから」
「旅の無事を祈るよ」
鳥の面を付けた男は、また囁くように言った。その隣では、傭兵のひとりがにやけ面を作っていた。
「じゃあな坊主!射撃、練習しとけよ」
「言われなくても!」
「言うじゃねえか坊主!自分を撃つなよ!」
手を振る用心棒たちは、いつのまにかシリルとすっかり打ち解けた様子だった。チューリヒのことなんか無視して、男たちは大袈裟に騒いだ。
「楽しかったよ。普段はむさい奴らの顔しか見られない稼業だからな。……ま、気楽に行けよ」
斧を担いだ男はシリルの頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「銃にはクセがあんだ。クセに合わせてやりゃ上手く撃てるもんさ」
シリルは頷いた。男は満足そうに笑うと、荷台へ上がり、振り向いた。
「嬢ちゃんもな。いい剣さばきだったぜ?」
「ありがとう」
ステラにも朗らかな男たちへ手を振り返すと、ふたりは橋へ向かう道をゆっくりと降りていった。背後で賑やかな荷車たちが市場へ続く角を曲がっても、まだふたりの名前を呼ぶ声が聴こえていた。
シリルは少しだけまなじりを下げて、それを振り向いた。
「どうしたの?」
ステラが言った。その髪が太陽を透かして輝いているのを見て、シリルは眼をそらした。
「なんでもないよ」
ステラは黙って足を進めていたが、やがてニヤッと笑ってシリルの顔を掴んだ。
「なにを……」
「大丈夫だよ」
そう言って、ステラは剣を叩いた。
「なにがあっても、切り抜けられるから。忘れた?あたし結構強いんだよ……それに、シリルだって強いじゃない」
シリルは力なく頷いた。
あれから、ヴァネッサたちの襲撃はなかった。ファイアローズの家族だけではなく、父が雇ったものたちの影すらも見えなかった。それがなによりシリルには不気味だった。
家族をひとつに。それはウィリアムの、ファイアローズ家の唯一にして絶対の思想だ。追ってこないはずはない。
(それを言うなら、エンブリヲンの撃沈もだ)
シリルは口の中で呟いた。あの艦が出来上がって以来、各<エンブリオ>の完全破壊は一度もなかった。
前例のない特殊な事態だった。それをあの家がどう捉えたか、シリルには分からなかった。
そして……
「どうしたの?」
シリルを透かし見ようとするようなステラの視線に、シリルは躊躇いがちに唇を開けた。
「ステラ……俺は……」
地球。姉。家族。過去。そして“現実”。
シリルは首を振って口ごもった。何を言っていいのか、何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。
シリルの心で蓋をしていたものが、ひび割れてきていた。それはステラには絶対に分からないことだった。彼女は“ここ”の存在でしかないのだから。
それでもいい。“ここ”でのことは、シリルにとってもうひとつの現実だ。第二の新世界だ。そのはずだ。だから、この中での“強さ”は、シリルの“強さ”なのだ。もしそうでないのなら……
「大丈夫……?」
呆れたようにシリルを覗き込むステラに、シリルははっと物思いから覚めた。
「疲れたなら早めに言ってよ。置いていくけど」
そのぞんざいな言葉と勝ち気そうな眼差しに、シリルは瞬きをし、そしてふらついた。
吐き気がした。
隣を歩いているステラは、シリルと違うことを考え、違うことを感じ、無関係に存続する他人なのだという感覚が、不意に甦ってきた。
(俺は……今、
「大丈夫、本当に……大丈夫だから」
全ては現実だ。この世界は本当のものだ。そうでないのなら、全部が意味をなくしてしまう。例え“向こう”で何があっても、ここにまでは届かない。
そしてそれは、逆もまた然りだった。
◇◆◇
■流氷都市セルン・大橋
セルンの町は、雑然とした白亜と、黒々とした金属の混成だった。
その白い壁は崖の縁に張り付くように立ち並び、大橋の袂へ集まっていた。急斜面に建てられた無数の土台鉄柱は網目のようで、力を合わせて崖の町を支えていた。
近づいてみると、その橋はもはやひとつの町、あるいは巨大な戦艦みたいだった。座礁した船だ。舳先を谷へ突き出して、黒々とそびえている。
その上の艦橋のような建物へと、街道は伸びていた。
「旅人ですか?」口髭を生やして、背筋をピンと伸ばした守衛の男は上品に尋ねた。「それとも迷子?」
「旅人よ」
ステラの言葉に、守衛は丸帽子をくるりと回して礼をした。
「失礼。奥へお入りください。諸々の手続きを」
受付は広かった。高い天井には小さなランプが吊ってあって、ちろちろと揺れていた。
不思議そうに辺りを見回すシリルに、ステラは言った。
「言っときますけどね、普通、町に入るときは検査があるのよ」
カルディナ、あるいは他の超大国でも、その本質は都市国家の領邦、その連合だ。それぞれの都市には緩やかな自治権があり、その独立性は尊重されている。
「サンフォーリングでは無かったじゃない」
「そりゃ、あそこは……」
「お二人さん!」
大きな声を上げて、受付の親父は二人を呼んだ。
「次だ!」
タワシみたいな髭を揺らして、ハゲ頭の男は帳面をぱらぱらと繰った。瞳が動き、片眼鏡がきらりと光った。
「【高位操縦士】シリル・ファイアローズ……ふん、ふん?<マスター>か?」
そのすっ頓狂な声に、シリルは少しだけ狼狽した。
「何?」
「いや、失敬。珍しいんでな。普通、<マスター>は大都市を彷徨くもんだと聞いとる。まぁ旅人が通らん訳じゃないが、それこそうちの町にも……いや、なにぶん、昨日も来たばかりなんでな。偶然ってのは続くもんだ」
シリルは曖昧に笑った。受付の男は次いで、ステラに目を向けた。
「【剣士】ステラ。入国目的は?」
いきなりの《看破》にステラは顔をしかめたが、なにも言わなかった。代わりにシリルが答えた。
「西へ」
「橋を渡りたいんだな?結構!」
ハゲ頭は(首に“ユージフ”と名札が下がっていた)髭を振り回して大きく頷いた。
「一人5000リル頂こう!」
「え?」
ステラは目を大きくして、受付机に手を突いた。
「なによそれ!」
「何よもなにも、通行料だ」
親父は目を細めた。
「セルンの大橋を渡りたくば。ここは関所だ、それにあの大橋の保持修繕には少なくない金が要る。金額は良心的だと思うがね」
確かに、法外というわけではなかった。安くはないが、相場をわきまえた金額だった。関所というのはそういうものだ。
「そんなの……」
「これはカルディナ議会からも承認されたビジネスなンだ。お嬢ちゃん!」
ステラは渋々自分の財布を確かめ、氷のような表情でシリルを見た。シリルは目をぱちぱちさせながら首を振った。
「ごめん」
「期待はしてないわ」
ステラはため息を我慢した。
旅費は元々多くなかったのだ。そのいつかが今日だった、それだけのことだった。それはシリルにとっても同じだった。
「金がないのか?」
ユージフは不躾な大声で言った。ステラはだんだん分かってきた。彼には小声を出す能力の持ち合わせがないのだ。
「……工面、するわ。どうにか手持ちのものを売れば……」
「なぜそんなことをする!」
ユージフは叫んだ。
「ここで稼げばいいだろう!」
ステラとシリルは戸惑って黙り込んだ。ユージフは親指で左のほうを指した。
「通行料を払えない甲斐性なしのために、この町にはいつでも労働者の募集がある!三日も働けば金はたまる!望むなら話を付けてやるぞ」
「三日……」
悩ましげに呻くステラに、ユージフは駄目押しした。
「どのみち橋はいま通行止めだ!数日待たねば。安全確認と修繕のためにな!」
「なによそれ!」
ステラは思わず言った。
「なんであたしはいっつもこうなの?」
「別に珍しいことじゃない。<セルン大橋>は繊細なんだよ」
たわし髭のユージフは頷いた。
「まぁ、今回はあのクソ忌々しい奴ら……オホン!いや、失敬。で、どうする?受けるかね?」
「それが最善なんでしょ?」
ステラとシリルは渋々頷いた。ユージフは破顔した。
「よし!であれば手続きしよう。明日の朝八時、またここへ来るといい。審査はこれで終わりだ。好きに町を散策したまえ。そこの……」
ユージフは左のほうを向いた。板張りの壁は緩やかに曲がり、その向こうには日差しが見えていた。
「……待合所なら軽食もある。二階より上は宿になっとる。もし泊まりたきゃ、あっちで聞いてくれ」
カウンターを離れようとした二人に、ユージフは小さく言った。
「それと、もうサンフォーリングの話はせんことだ」
「え?」
ユージフはもうなにも言わず、黙って行けと手のひらで示した。
◆
「新顔かい?」
ラウンジには、二人の人間がいた。
<マスター>だった。二人とも、左手の紋章を誇るように露にしている。小柄なほうの人影は、人懐っこい口調で話しかけてきた。
「ちょうど良かった。ボクが話しかけているのに、この人はどうも無愛想でね。旅の醍醐味は出会いだよ、そう思わないかい?」
その少女は、艶やかな黒髪を肩までに切り揃え、純白に漆黒を配したモノクロの衣を纏っていた。
切れ長の眼で、紅の瞳が輝いた。それが陽気そうにキラキラと動く。厚底のブーツがごとりと音を立てた。
「ボクは
少女は玉を転がすように言った。
「フルネームは
「よ、よろしく……」
「いいね。君たちも金欠かい?」
「実はボクもなんだ。どのみち橋を渡るためには少し待たなければならないし、金策の手段を用意してあるのは有情だけれどね。お役所にしては親切さ」
「金策って?」
尋ねたステラに、
「作業だよ。ここは採掘と汲み上げの町だからね、雑務の人手はいくらあってもいいと言う訳さ」
「……旅人に任せられる仕事なんざ、そんなものだろう」
その時、真向かいに座っていた男も口を開いた。
「親切、有情……まったくおめでたいな。関税を払えないやつを通さないのではなく、労働力として安くこき使う。この町の経営戦略は実に賢明らしいぞ。それに感謝まで上乗せするのか?」
その鋭い目付きは、どうもただ者ではない雰囲気を醸していた。頬には周りを威圧するように、大きなアゲハ蝶の
男はシリルとステラを一瞥し、鼻をならした。
「ふむ……片方は<マスター>か」
「珍しいね!こんな辺境、ボク以外にいるなんて思ってもみなかったのに。これで二人目……いや、三人目だよ。雨でも降るんじゃない?」
シリルは少しだけ面食らいながら頷いた。
「彼はねぇ、リッター・メートルグラム。今のでわかった通り、無愛想で悲観的なんだ!まるでマフィアみたいだろ?」
確かに、革コートの懐から葉巻を取り出す男……メートルグラムの格好は、まさに暗黒街の殺し屋、という風だった。その手の中のライターの炎に、
「ここ禁煙じゃないかい?」
「知らんな」
メートルグラムは構わず、火をつけようとした。
その炎が揺らいだ。
丸い火の玉は葉巻をゆらゆらと離れて飛び上がり、
「駄目だよ」
「チッ……!」
苛立つメートルグラムから目を離して、
「俺は、シリル。シリル……ファイアローズ」
ファイアローズ。その名を聞いたとき、メートルグラムは微かに眉を動かしたが、何も言わなかった。ステラも続けて、努めて礼儀正しく名乗った。
「あたしの名前はステラ……あなたも通行料を?」
ステラは毅然として尋ねた。メートルグラムは冷たい目で答えた。
「違う。お前たちと一緒にせんでもらおうか、俺は遊山だ。金は存分にあるさ。橋さえ繋がればすぐに渡れるんだ」
「遊山?」
首をかしげる二人に、メートルグラムは黙って窓の外を指差した。
ラウンジの壁、谷に面したほうは大きな硝子張りになっていて、うっすら霧の掛かった谷底まで見渡せた。シリルは思わず息をのんだ。
雄大な断崖は幾重にもそびえ、北方へと裂け目が続いていく。対岸まではあまりにも遠く、空を舞う渡り鳥でさえ躊躇うほど。
そしてその谷底は不自然なほど暗く、まるで陽光を遮るなにかがあるようだったが、それでも暗がりの奥に広がる広大な地形を見て取ることができた。
「不思議に思わなかったかい?大峡谷に架かる橋の町がなぜ、“流氷都市”とあだ名されるのか」
「これが……」
「そう、これがセルン。カルディナ砂漠の“流氷都市”さ」
谷底には、どす黒い水面が広がっていた。
その粘る漆黒の上には、純白の氷塊がごつごつとした角を立てて無数に浮かんでいた。鮮やかな白と黒のコントラストは、死んだように静止していて、なおかつほんの少しずつ動いているのだった。
「瀝青の河だよ。その上の氷は普通の氷と違って、気温が上がっても解けないんだそうだよ。噂では、遥か厳冬山脈へと通じている谷の上流から、あの山並みの呪われた寒気が流れ込んでいるんだとか……」
壮観だった。確かに物見遊山の価値はある、とシリルは思った。粘る黒い河は、その黒さで見るものの視線を吸い込んでいた。
「瀝青……?」
「
メートルグラムがボソリと言った。
「じゃあ、採掘って、あれを?」
「正確には石油だね!瀝青は副産物さ。それでもあれだけ量があればかなりのものになりそうだけれど……ここは古来、カルディナ各所に原油を供給する油田のひとつなのさ!」
面白そうに語る
「あれ、どこに?」
「寝る。貴様のお喋り相手は閉店だ」
「残念……ボクは普通にしてるだけなのに」
まだ話し足りなさげに二人を見るその少女
「……行こう」
シリルの肩を引きずって、ステラは奥の出口に足を進めた。背後では、
扉を開けると、すぐ外は橋の下だった。
巨大な橋梁の裏側に、都市があるのだった。それらは空中通路で繋がり、複雑な経路を形作っていた。
逆さ向きに伸びる建築物が、それらと交錯していた。錆び付いた真っ赤な看板には、『落下物注意』と大きな文字で書き付けられていた。
金属の網目越しに暗い谷底を見やりながら、シリルは身震いした。
「落ちない?」
それをバカにした顔で、ステラは笑った。
「臆病!」
「常識があるって言ってほしいな。バカと煙は高いところが好きなんだっけ?」
「橋を渡る度にそう言うつもり?」
シリルはなにか言い返そうとして、口をつぐんだ。
通路の向こうから、喧騒が聞こえてきたからだった。怒りや憎しみではなく、驚きと悲しみの騒ぎが微かに鳴っていた。
金属製の通路はそのまま、橋の裏へ分けいるように続いていた。そこにいた人々は、口々に言葉を交わしていた。
「また奴らだ……」
「この前の襲撃も……」
「間違いない。頭だけを……」
鈍い明かりの下、薄暗いそこに、一人の遺体が横たえられていた。急いで運んできたのだろう、その遺体は、乱雑に敷かれた厚布の上で硬直していた。
チラリと見えたそれに、ステラは顔を歪めた。その遺体は、後頭部を大きくえぐり取られて絶命していたのだった。剣や槍の傷ではなく、まるで獣に噛み裂かれたように、荒々しく。
一秒足らずではっと我に返ると、ステラとシリルはそそくさとそこを後にした。人々の囁きが耳にこびりついていた。
「人食い。雪ゴブリンの仕業だ……」
そのとき、鈴の音がした。
セルンの体制側とおぼしき一行が近づいてくる。皆が張り詰めた顔をしている中で、中央に佇む女だけは穏やかに歩を進めていた。
その眼差しは土偶のような土面で隠され、口許は微笑んでいた。紫の帯を締め、ごてごてした指環を嵌めたその女が過ぎ去るのを、シリルは思わず振り返っていた。
その女の左手には、悪魔の顔を象った紋章があったからだ。<マスター>の女を、人々は安堵と依頼心の表情で迎えていた。
「おお、市長どの!」
「市長!」
「マクバラー市長閣下!」
答えるように、市長と呼ばれた女はなにか言っていたが、もはやシリルとステラはその時には角を曲がり、血なまぐさい群衆の声も聞こえなかった。
To be continued