鮮血のエンブリヲン   作:Mk.Z

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第三十二話 Creep/悪魔の警蹕

 ■流氷都市 【ツァリーツァ・パブ】

 

「十年前からだよ」

 赤ら顔の老人は、明らかにひどく酔っていた。

「珍しかろ?<マスター>の市長なんてのァ。だがそれはみんな知らんだけだ!世の中、名の売れた町だけが全てじゃあないんだ!この町の絶景は大陸一素晴らしい!」

 ステラは少しだけうんざりしていた。貧乏ゆえに食事処を選べなかったのは仕方ないとしても、傍らで延々と喋り続ける酩酊老人はさすがに願い下げだ。

「十年前?」

 シリルはといえば、じっと考え込んでいた。セルン名物だと謳うイモと穀物の味付け粥も半分以上残していた。それをゆっくり失敬しながら、ステラは尋ねた。

「何が気になるの?」

「十年前からってことだよ」

 シリルは唸った。

「<マスター>。もし俺たちと同じなら、現れたのはここ数年のはずなんだ。それが十年前からここで市長をやってるなんて、不思議だよ」

「……」

 ステラは目をぱちぱちさせて、自分の粥をスプーンで掬った。なぜか、少しだけ寂しかった。

「……<マスター>は、600年前にもいたんでしょ?」

 ステラは、かつて父親が話してくれた伝説を思い出しながら言った。ちょうど、両親の故郷は、その時代に縁ある土地だった。

「そう……【覇王】と【龍帝】と……【猫神】」

 【覇王】は死に、【龍帝】は身罷り、そして【猫神】は去った。戦の時代は時の彼方に薄れても、その物語はいつまでも残っている。

「なにそれ?」

 シリルは聞いた覚えもないという風で、首をかしげた。ステラは信じられないものを見た顔で口を開けた。

「知らないの?伝説よ、一番有名な。大陸支配を争った三人のことを知らないの?」

 シリルのボーッとした顔に、ステラはため息をついた。近くでは、あの酔っぱらいが呂律の回らぬ舌で詩を吟じていた。 

「おォ、龍よ、年経たもの!山河を従え、天空さえ頭を垂れる……日出ずる処の竜王よ!」

「まーた始まったな、イワンじいさん。元バラディアーの血が騒ぐかね!」

 周りの囃し立てる声に当てられて、イワン翁はますます声を大きくした。手拍子まで始まったのには、さすがのシリルも眉をひそめた。

「おォ、獣よ、滅びぬもの!死なず、朽ちず、地を埋める……行方の知れぬ不死人(マスター)よ!」

「大昔、この世界は戦争をしていたの。東の【龍帝】、西の【覇王】……その二人の合間で、どちらとも互角に渡り合った風来坊が、歴史上最も有名な<マスター>……【猫神】シュレディンガー・キャットよ」

 ステラの説明に、シリルは面食らったが、やがて頷いた。背後では、あの老人が歌の後半に差し掛かろうとしていた。

「おォ、男よ、王の中の王(キング・オブ・キングス)!山並み砕き、海を飲み干し、その身の丈は、雲をも越える……まなこは赤く、竜の血のよう!拳は硬く、(くろがね)のよう!」

「セルンの谷は、【覇王】が引き裂いたという伝説があるんだぜ」

 ふらふらと千鳥足で近づいてきたひとりの男が、シリルとステラに向かってそう言った。

「いよっ、良いぞイワンじいさん!」

「おォアドラスター、栄光は高く、アドラスター!栄光は強く、アドラスター……」

イワン翁の声は次第に低くなり、悲しげな響きへと変わっていた。

「アドラスター……栄光は高く……」

 シリルは思わず口ずさんだ。

 

 ◆

 

「子供の出歩く時間じゃないぞ」

 いくらかうるさい連中がはけたパブの中で、シリルとステラは振り向いた。

「場所もだな」

 そこにいたのは、あのメートルグラムなる男だった。冷たい目付きで、手元の書籍を捲りながら、彼は店主に話しかけた。

「随分と盛り上がったようだ」

「あれで、可哀想な爺さんなんだよ」

 白ひげを蓄えた店主は、だぶつく首の肉を掻きながら答えた。

「アドラスターか。その名前がどれだけ重いか、余所者にはわかるまいて」

「ふん……」

 メートルグラムは本を閉じた。机の上には『ドライフ史』『先カルディナ史』そして『アドラスター戦史』なる古めかしい書籍が積み上げられていた。

「あの爺さん、セルン王家の末裔なんだよ。何百年も前の話だけどな。【覇王】がこの町を侵略したとき、“契約”を交わしたのはあれの先祖だ。未だに恨みを残してるやつらも少なくはないだろ」

「その町の市長が今や<マスター>とはな。どういう風の吹きまわしだ?」

「別に変わったことじゃないさ。マクバラー市長だろ?」

 店主は自分も酒を啜りながら答えた。

「あの人はここの生まれなんだ。カルディナ中央……【ドラグノマド】に留学に出ててね、帰ってきてこの町の市長になったのさ。確かに<マスター>だが、別にどうってことはない。町にはよくしてくれとるよ」

「何?」

 その途端、メートルグラムは目を細めた。シリルもじっと店主の顔を見つめた。

「ここの生まれだと?<マスター>じゃないのか?」

「<マスター>だとも。なんだい、セルンの出身じゃおかしいってのかい?あの人は見ての通り<マスター>で、ここの生まれさ。歳は三十五。町外れの……なんだったかな、名字を忘れっちまったが、建築士の家系でね」

 メートルグラムは黙り込み、じっと虚空を見つめていた。シリルは、頭をかく店主に静かに尋ねた。

「……その人は、生まれたときから<マスター>だったの?」

 店主は酒に酔って潤んだ眼で答えた。

「うんにゃ、どうだったかな?知り合いってわけじゃないんでね。ま、伝説の<マスター>が産まれたならもっと騒ぎになってるだろうから、違うんじゃあないか?」

「それって……」

 ステラは呟いた。シリルは続けた。

「……ティアンが、<マスター>になったってこと?」

「前例がない。そんなことが……いや、不可能ではないんだろうか……?」

 メートルグラムは信じられないといったふうに頭をかいた。

「確かにここの生まれなのか?」

「身元が確かじゃなきゃ市長にはなれねぇよ、お客さん!確かだぜ、名士ってわけじゃないけれどもな、そんなことであの人を悪く言うやつァ一人もいねえ!税金も安くなったし、暮らしもよくなった、頭のいいお人さぁ」

「あぁ、戸籍を誤魔化せるはずは……だが<マスター>とはな……」

 メートルグラムはぶつぶつ言いながら、注文した安酒を持ってパブを出ていった。シリルはその後を追い、ステラもそれに続いた。

 

 橋の縁の空中回廊は、谷から来る冷気に冷え込んでいた。その風に吹かれながら、痩躯の男は立ち止まった。弾かれたように、二人も足を止めた。

「何の用だ?」

 シリルは一瞬躊躇ったが、口を開いた。

「さっきの話……どう思う?」

「<マスター>の市長か。なぜ俺に聞く?」

「俺より詳しそうだから。それに、この町にも先に着いてる」

 シリルの言葉に、メートルグラムは鼻をならした。

「俺とて推測しか話せんぞ……しかも、かなり不確かな推測だ」

 メートルグラムは頭上の鉄骨越しの月を見上げた。

「俺達より前に存在した<マスター>。その意味するところはひとつしかない……運営側の人間(βテスター)だ。東方のことは知らないが、西方には実例がある。【猫神(ザ・リンクス)】……アルターの“化猫屋敷”だ。最初、俺はあの女もそうだと考えていた」

 その言葉に、シリルは眉をひそめた。

「最初?」

「辻褄が合わん。セルンで生まれ、家も両親もある、そんな人間が本当の<マスター>(プレイヤー)であるとは考えにくい」

「ティアンだって、<エンブリオ>を手に入れれば<マスター>にはなれるんじゃないの?」

 そう言うシリルを、その隣のステラをも、メートルグラムは少しだけ面白がるように見つめた。

「なんだ、お前……そういうタイプか?」

「……」

「いや、別に否定するつもりはない。それもひとつの考えだからな。だが、()()が遊戯の体裁を取っていることは紛れもない事実だ。その観点から考えるのはまっとうだろうが」

「ねぇ、さっきから何の話をしてるの?」

 そう尋ねたステラの左手をチラリと見て、メートルグラムはステラを無視した。

「問題は、本物の<マスター>かどうかって点だ。俺はあの女の<エンブリオ>を知らない。《真偽判定》で裏を取ったわけでもなし、確証はないな。一応、手には紋章があったがね」 

「無視?」

 静かに憤るステラを尻目に、メートルグラムは酒瓶をポケットに突っ込み、懐から金文字で『キャット一族についての論考』と題された書物を取り出した。

「そもそも、歴史上初めて記録された<マスター>は……」

 メートルグラムの言葉は、残念ながら続かなかった。彼は口ごもり、気配を剣呑なものにした。

 

 そして、背後から青白いけものが彼の腕に飛びかかった。

 

「くせ者か……!」

 舌打ち混じりに、彼は腰からナイフを取り出すと、鞘から抜く動作のままにそれを振り抜いた。

 鋭い刃は月光を映し、閃くようにけものを切り裂いた。にも関わらず、傷口からは血の一滴すらも落ちはしなかった。

「こいつ……血が流れてないのか?」

「このッ!」

 メートルグラムがたたらを踏み、シリルが獣を引き剥がそうと手を伸ばす。獣はなんら意に介すこと無くしがみつき、そして獣に触れたシリルの指とメートルグラムの前腕が真っ白な氷に覆われた。

「クソ、このなりでエレメンタルか!」

 見れば、その獣は爪や牙の輪郭こそ備えていたが、毛のように見えた体躯は白い冷気の塊に過ぎなかった。氷結のエレメンタルはガチガチと氷の牙を鳴らし、三人を威嚇した。氷結は拡大し、もうすぐ凍傷に変わろうとしていた。

「貸して!」

 ステラは叫ぶと、返事も聞かずにメートルグラムのポケットから酒瓶を奪い去った。その瓶口を親指でへし折り、抜き身の剣へと中身をぶちまける。空の瓶が地面で割れるのと同時に、ステラは片手のマッチを剣に近づけた。

 剣が燃え上がるのを見もせずに、ステラは左足を踏み込み、美しい一閃でエレメンタルの背中を切り裂いた。

 エレメンタルは初めて悲鳴を上げ、蛭のようにぽろりと落ちた。酒に燃える刃は“氷結”にも傷をつけられたようだった。

 その獣を即座に足で踏み潰して、メートルグラムは言った。

「《シャドウ・スタンプ》」 

 エレメンタルは動かなくなった。メートルグラムは忌々しげに腕を押さえた。

「やってくれたな……なんだ、お前は!」

 そのメートルグラムの術を見て、ステラは記憶を探った。影踏みの術を使うのは、魔法職の中でも一部だけだ。

「呪術師系統だったんだ……」

「半分はな。それよりこいつだ」

 メートルグラムは明らかに喜色を交えていた。その眼には微かだが、好奇心の煌めきがあった。

「どこのどいつだ?これは明らかに従属下にあるエレメンタルだぞ。なぜ俺を襲う?」

 エレメンタルは当然答えずに、ただか細く、氷の擦れる音で鳴いた。シリルはエレメンタルを見つめ、その名前を見つめた。

 ふつうのエレメンタルなら、それらしい名前を持っているものだ。けれど、この氷結のエレメンタルはそれらとは全く違う響きの名を掲げていた。

「【ガミジン】……?」

 そのエレメンタルは、もがきすらしなかった。その四肢はやがて薄れ、揮発し、霜の痕だけを残して光に消滅した。

「ふん、後始末まで教え込んであったか」 

 メートルグラムは嘲ったが、残念そうだった。

「ファイアローズ。こいつがマクバラー市長の差し金だと思うか?」

 マクバラー……その名前に、シリルは一瞬躊躇ってから答えた。

「嗅ぎ回るな、ってこと?」

「さぁな。だが……」

 メートルグラムはまた本を取り出した。

「……俄然面白味が増してきた」

 

 ◆

 

「そんなことがあったのかい?」

 夜のラウンジで、(ファン)は花びらを浮かべた茶を楽しんでいた。甘いような香りが暖かく漂っていた。

「で、襲撃者は?」

「自死した。気が利いてることだ」

 メートルグラムは腕に包帯を巻き付けながら答えた。その膝の上では、『エレメンタル大全・第八版』なる難しげで分厚い書物が広げられていた。

「図鑑で調べたところ、あれはおそらくセルン近辺に生息する固有種。最下級の羽虫だ。正式名【チル・エレメンタル】……誰でも捕まえようと思えば簡単に可能、現地調達では足は付かん」

「でも、名前は変わってたよ」

 シリルは言った。

「それが鍵だね」

 (ファン)はにこやかに頷いた。

「名前は大事だよ。性質が変われば名前も変わる、それは鉄則だからね。簡単に誤魔化せるものじゃないし、<マスター>は改名すら出来ない」

「……」

 それらの会話に、ステラはずっとどこか不愉快そうにしていた。やがてシリルに一瞥をくれると、彼女は外のベランダへと出ていってしまった。

 シリルはそんな彼女を気にも留めずに、<マスター>たちの会話に加わっていた。

「名前が違うのは、種類が違うからだ。見間違いじゃない?」

「いいや?俺は、全く別の可能性を考えているが……見える名前が変わる例は、他にもあるだろう?」

「確かにね」

 (ファン)は指折り数えた。白い鎖骨が動き、頬を黒髪がなぜた。

「偽名、変名、【詐欺師(スウィンドラー)】か……<エンブリオ>かな?」

 <エンブリオ>。そう言って(ファン)は胡座を組み、額に指を当てた。

「ボクの知る能力にも、偽名や変名はいくつかある。けれど、今回のようなケースには当てはまらないね。現地調達した駒に黒幕への手がかりは元々無いんだ。わざわざ特別な名前に変えるなんて、まるで自分の痕跡をあえて残しているようだよ」

 足がつくだけだ、と(ファン)は首をかしげた。

「……縛りかもしれない」

 シリルは言った。

「名前を変えたのは、そうしなきゃいけなかったからだ。能力の本質は別にあるんだよ。特別な“名前”を与えて感づかれたとしても、必要なリスクだったんじゃない?」

「本質?」

「うん……支配」

 シリルは、何より嫌いな黒の<エンブリオ>を思い出していた。

 あれは、モノを黒く支配する能力だった。漆黒に染め、形を変異させるのは、ある種の制約でもあったのだ。

「名前を変えなければ、支配できないんだ。自我のある生き物を従属させるのは簡単じゃないから……好き勝手に出来るわけがない」

「そうだね。生き物に干渉するのはかなりリソースを取るよ」

 (ファン)は言った。

「なら、黒幕は誰かな?」

「市長だろうよ」

 メートルグラムは吐き捨てた。

「十年前から存在する<マスター>。ここで生まれたと判明している<マスター>。あり得ない。そして、その秘密を探られるのを嫌がっている」

「おや、そうかな?」

 (ファン)は首を傾げた。

「そこが分からないんだ。なぜ嫌悪するんだい?単にボクら以前から存在するだけのことじゃないか。疚しいことがあるようには思えないな」

 少女は痛いほどの白黒のコントラストを揺らして、言葉を切った。

「……ボクらの<マスター>っていう身分は、管理AIにそう定められたに過ぎないよ。<エンブリオ>だってそうじゃないか。ティアンがそうなれないとどうして言えるんだい?ボクらは<エンブリオ>について何も知らないんだよ?」

「その仮定に意味はない。知りようがないからな」

 メートルグラムはにべもなく言った。

「ここはゲームだ。仮想の、演算された世界だ。<マスター>はプレイヤー、そう決まっている」

「……それは」

「違うよ。ここは本当の世界だ」

 シリルに先んじて、(ファン)は言った。

「本物さ!地球にあるものは全てある!ティアンだって、人間と同等の思考力があるんだ、それは魂があるってことじゃないのかい?」

 (ファン)は立ち上がり、熱を持った口調で続けた。

「作り物であるはずがないだろう!新世界だよ。ここには真実があるのさ。表面的な物質や文化の話じゃない、自由が、尊厳が、感情が、人間があるんだ!」

「……言ったはずだ。分からないことを議論する気はない」

 メートルグラムも立ち上がり、渋い顔で歩いていった。

「どうしたんだい?」

「寝る。どのみち、結論は出ないだろう」

 その後ろ姿を悲しげに見送って、(ファン)はシリルに呟いた。

「……すまない。どうも昂ってしまうんだ……ここは、現実と変わらなさすぎる」

 (ファン)は憂い顔で続けた。

「ボクは()()()()()()()()()()()()。少なくともボクにとっては、ここは……ここが、本当の世界なんだよ。これからの人生をここで過ごすと決めているんだから」

 その言葉に、思わずシリルは呟いた。

「俺も……そうだよ」

「え?」

 (ファン)は勢いよく振り返り、シリルの琥珀色の瞳を見つめた。シリルもまた、少女の深紅の瞳を見返した。

「俺の現実も、こっちにあると思ってる。それが良いことなのか、分からないけど……」

 そう、良いことなのか分からなかった。シリルにとって、ここは現実を忘れるための鳥籠だった。その檻から、必死に目を背けていた。

 けれど、それは向こう側でも同じことだ。

 たとえ地球でも、シリルには枷がある。檻がある。閉じ込められているのは、どちらなのだろうか?シリルにとっての“本当”は、どちらにあるのだろうか?

「良いに決まってるさ!」

 そんなシリルの思いを焼き尽くすように、(ファン)は叫んだ。その瞳が少しだけ潤んでいた。

「あっち側の不幸からも、宿命からも、ここでは自由になれる。だから、ボクはここにいる。こっちの方がボクにとってはリアルなんだ、それが悪いことだなんて、絶対に言わせない!」

「……(ヤン)

(ファン)って呼んでよ……シリル」

 少女は笑って、シリルの手を握った。

「約束だよ……ボクらはここを捨てない。世界だと信じている。そう信じている限り、ボクらは同志さ」

 

 ◇◆◇

 

 □流氷都市セルン・遊歩道

 

 月が見えた。

 それを見上げて、ステラは立ち尽くしていた。少しずつ、自分の胸の中にある澱の正体が分かってきた。

 それは、寂しさに近いものだった。

 ステラは自分の左手を見た。見慣れている、まっさらな肌を見た。

「なんで、<マスター>は……」

 シリルも、その他の彼らも、同じものを持っている。

 <エンブリオ>の能力なんて、その一部だけだ。ステラにとって、真に彼らが持っている大事なものは、“立場”だった。

 ステラには絶対に手に入らないものだ。

 強さはいい。勝負もいい。それらの筋道は一つではないし、自分の弱さを受け入れて勝つ、その信念に揺るぎはなかった。

(でも、どこまでいっても結局……あたしはシリルたちと同じにはなれないんだ)

 彼らの“世界”に入ることは出来ない。ステラはティアンとして生まれたのだから。その生まれが、“血”が覆ることは決してない。

 もしあるとすれば……ステラは静かに考えていた。

 吹きすさぶ風は、悲しげに鳴っていた。その嘆きは、ステラの心の中を通り抜けていくようだった。

「月光浴かい?お嬢ちゃん」

 そんなステラの後ろから、誰かが声をかけた。

「いい趣味じゃい」

 ステラは黙って振り向いた。

 酔っ払いのイワン老人が、右足を引きずって歩いていた。

「ねぇ、本当にあの市長は<マスター>なの?」

「んぁ?」

 気づけばステラは尋ねていた。

「どうやったら……<マスター>になれる?」

「知らんの」

 老人は酒臭い息を吐いた。

「なれるもんかねえ?蛙の子は蛙、王様の子が王様だでね」

「王様は革命されるものだわ」

 老人は笑った。

「そりゃあいい!是非王様になれよ、応援しとるぜ」  

 その乾いた笑いを次第に小さくして、老人は呟いた。

「なぁ、嬢ちゃんよ」

「なに?」

「頼まれてくれんか」

 その疲れきった眼差しの重さに、ステラは思わず頷いた。老人は言った。

「儂を……儂をな、町の外へな、連れていってくれんか」

「こんな夜に?」

「年寄りは眠れんのだよ。どうしても行きたいのだ」

 老人はもごもご言い、自分の右足を指した。

「足が悪くての」

 ステラは黙って、老人の手を引き、穏やかに歩き出した。月光のぼやけた影が路面に落ちていた。

 老人はステラに頭を下げ、深く唸るように言った。

「すまんね」

「別にいいわ、あたしも眠れないし」

 都市の境までは、まだ少しある。橋の付け根、峡谷の岸には薄汚れた町並みがあったが、すでに静かだった。歓楽街ではなく、工場が主だからだ。

 静まり返った道を、二人は歩いた。老人は次第に息を荒くしていた。

「すまんねぇ……本当に」

「いいったら!それより、大丈夫なの?」

 そのゼエゼエ言う吐息、次第にふらつき始めた足取りを、ステラは心配そうに見た。老人は青い顔で言った。

「大丈夫だ、心配はいらん。何も異常なことはない……肩を貸してくれんか、もう少しで町の外だ」

 金網の張られた野原を突っ切り、二人は町の検問へと向かった。

 その向こうには砂漠へと続くもう一段の崖、そして北へ目を向ければあの、遺跡の崩れた城壁が見えた。

「夜は扉が閉まってるんじゃない?」

「いいんだ、それは。別に門をくぐる必要はない、あと少し……」

 老人はそういうと、ガクッと膝を折った。

「あの柵の向こう、まで……」

「終わったら、すぐに帰るからね?」

 老人を半分おぶうようにして、ステラはその白く塗られた木柵まで歩いた。背に沈みこむイワン老の、速い呼吸がひどく気になった。

「着いたよ、ほら、おじいさん?」

 ステラは老人を降ろし、懐から薬や何かを探り出し始めた。

「やっぱり大丈夫じゃない。ここで応急の手当てだけでも……」

「すまん、ねぇ……」

 老人は息も絶え絶えに言った。その瞳が潤み、ステラを、その向こうの夜空を力なく映していた。

「本当に……すまん……」

「……おじいさん?……おじいさん!?」

 ステラは叫んだ。

 いつの間にか、老人は絶命していた。その呼吸は止まり、眼差しから生気が失せていた。

 まだ温かい身体には、涙の筋が残っていた。罪悪感の表情を抱きながら、老人の骸は夜に冷えていった。

「なんで、急に……さっきまでは元気だったのに、こんな!」

 半狂乱で立ち尽くすステラの耳に、ふと、背後で足音がしたのが聞こえた。

 光が注ぐ。眩い灯りがステラと老人の死体を照らし、鋭い声が夜を切り裂いて響いた。

 

「そこで何をしている!」

 

 その夜警の男を、呆然とするステラはただ黙って見つめていた。男の顔つきは、次第に厳しいものになっていった。

 

 To be continued

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