□■流氷都市セルン・市庁舎域併設留置場
既に高い日が眩しかった。
ステラは目を細め、眼窩の奥の痛みを堪えた。口の端で訊く。
「で、釈放?」
「文句無しにな」
ユージフは自分も目庇を作り、ステラに言った。
「災難だったな。あのじいさんの死因は間違いなくあんたじゃない。自殺だ。随分時間を取らせちまったが、これであんたは自由の身だよ」
あの夜、イワン老人が路傍で死んだ事件で、ステラは真っ先に拘束された。第一発見者にして最大の容疑者だったからだ。
《真偽判定》による入念な審問の結果、ステラは小ぢんまりした留置場に通された。意外にも居心地は悪くなかったし、食事もきちんと取れた。
幸いなことに、彼女の潔白は証明されたらしい。
だがステラは黙って、留置場の扉を見ていた。ユージフは眉を上げた。
「どうした?」
「……じゃあ、なぜあのおじいさんは亡くなったの?」
ユージフは唸った。
「……聞きたいのか?」
「ええ」
「勧められんな。別に秘密じゃないが、あんたが聞いたってどうにもならん。当人は死んどるし……聞けば嫌な気分になるぞ、間違いなく」
「それでも知りたいんだけど」
ステラの真剣な眼差しに、ユージフは豊満な髭を揺らした。
「なら、来い」
「どこへ?」
「とりあえずこんな場所とはおさらばだ。若いお嬢さんは特にな」
ユージフは顔をしかめて手招きした。
「図書館へ連れてってやる」
◇◆
■セルン
「可哀想にね、あの娘」
ステラのことは、既に聞いていた。
「殺人事件か。獣やゴブリンならともかく、他ならぬ人殺しとあっては大騒ぎだよ。世知辛いなぁ」
「誤解だったようだがな」
メートルグラムが言う。
「全く、タイミングの悪い人種というのはいるものだ。いや、むしろ利用されたのか?だとしたらまさに災難だよ」
「それは……」
「被害者が……この言い方は間違いか?……とにかく、死因は“契約書”への違反だ。最上級の、生命へのペナルティだな。その上で、まぁ十中八九自殺だろうが」
「“契約”?」
「そうだ」
男は『セルン沿革』と金文字で記された分厚い本を開いた。
「この都市の歴史は?」
「ボクは君のように読書家でないのさ」
「字が読めないのか?」
「ボクをなんだと思ってるんだい?」
流氷都市セルンのことなど、
「だから、教えておくれよ」
「……」
リッター・メートルグラムはしばし迷っていたが、結局は口を開いた。人に知識をひけらかすのが好きなのだ。
「この都市は、かつて他民族からアルガランと呼ばれていた……」
メートルグラムは言った。
「少なくとも二千年前から居住の実態があったらしい。住んでいたヴァレイラ人が去ってからは、版図を拡げた東のコルタナ民族に支配された。彼等を東へ追い出したのが南西のクルエラ人たちだ。セルンという名前の語源も古クルエラ語だ……と、されている」
「されている?」
「これは全てドライフの考古学者による説だそうだ。いかんせん研究者が少ない……まぁ、いい。問題はこのはるか後だからな」
メートルグラムは煙草を持ち上げ、ため息をついた。
「そう、侵略国家アドラスターだ。【覇王】に率いられた彼らは大陸の西域をほぼ全て掌握した。一説によれば、その勢力圏の東はウィンターオーブすら越えていたとか……当然、この都市も彼等に支配された。ここまでくれば文献が結構はっきりし始める。少なくとも、アドラスターの
窓の外を指す。そこには、キシャル大峡谷が変わらず広がっていた。
「軍勢が東征をするに当たって邪魔になったのが、この谷だ。そりゃあそうだろう?埋めるのも一苦労だろうからな。だから、アドラスターはあの……セルン大橋の建設を命じた。都市の住民全てに“契約”を結ばせ、建設作業のための人足にした。そして橋の修繕維持を続けることも命じた。破れば“死”の契約だ。セルン大橋はこうして架けられたのさ」
もっとも、アドラスター軍がこの橋を使うことは結局無かったらしいが……と、メートルグラムは呟いた。
「解せないな。どうしてそれが昨日の事件に絡むんだい?確か、【覇王】は600年前の偉人だろう?」
「“契約”が今でも有効だからだ」
「……当事者は全員死んでるのに?」
「そこがアドラスターの力だったのかもしれん。契約対象は都市の住民全員だったんだが、それには契約後に生まれてくる人間も含まれていたようだ。血統に対する“契約”……なにゆえに【覇王】の死後600年間に渡っても有効なのかはまったく不明だがな。伝承は神格化されすぎていて、史的【覇王】の研究は進んでいない……まぁ、それはいい。肝心なのは“契約”の内容だが、原本は戦時中のどさくさで紛失。見つかるとすればまず旧アドラスター圏のアルター王国だろうが、生憎、先だっての戦争の影響でドライフの考古学会がフィールドワークを拒否されている。写本はセルンに三つ保管されているが、お互いに食い違う記述も多く、信憑性は低い。その上でなお、確実な条項とされているものの一つが……この都市への幽閉だ」
男は眉を上げた。
「分かるか?セルンの橋を一族郎党、子々孫々と守るのがアドラスターとセルンの不平等条約だ。だから、契約者の子孫は未来永劫この街を出られない。昨日の事件は、それへの意図的な違反による自殺だ」
「……それって」
「酷すぎる……まるで奴隷じゃないか!」
「まるで?いや、奴隷そのものだろう。どこにでもありそうなありふれた歴史だな」
かたり、と時計の分針が鳴った。
「少なくとも、こんな辺境でこれだけの建築物が建造され維持されてきたことは、その“契約”なしには語れん。お陰で住民はアドラスターに複雑な感情を抱いている……まぁ、概ね“恨み”と言っていい。降伏し条約を締結した旧セルン王家の血筋は随分と迫害されたそうだ。今でも、街の年寄りはアルター王国さえ憎んでいる」
メートルグラムはそう言って、少しだけ目を輝かせた。
「因みに、面白いのはここからだ。長年の検証によれば、“契約”で強制されている条項には大きな抜け穴がある。婚姻だ。子孫を残すプロセス、それ自体は自由で、だから、近年この都市では子供を持たない夫婦が増えている。都市人口のおよそ半分も外部からの入植者で、遠からず“契約”の血統は失われるそうだ。実に興味深い文化だと思わないか?」
「凄惨だと思うよ」
「自発的なホロコーストじゃないか……そんなの」
「あぁ。そうだな」
メートルグラムは頷いた。
「俺好みのバックストーリーだ」
「君って奴は!」
「もう結構。教えてくれて感謝するよ。……シリルは?」
「あれが容疑者になったと聞いた瞬間すっ飛んで行った。全く……どいつもこいつも感情的になりすぎだ」
メートルグラムは吐き捨てたが、やがて気まずそうな咳払いをした。
「……いや、仕方がないのかもな」
◇
■セルン中央図書館
「仕方のないことさ」
書物の埃を払いながら、ユージフは言った。
「ご先祖様が誰に負けて、どれだけの苦労を背負わされたかなど、云々しても意味がない。意味はないが、それで不自由を被ることも無いではない。だから、あんなことになったんだ」
ステラは黙って聞いていた。何を言えばいいか分からなかった。
「……あのじいさんは、若い頃からそれは腕のいい職人だったそうだ。だが、
だが、それは叶わぬことだ。
「俺たちゃあこの橋の……守り人だ。一生な。他の道など選べん。別にそれが悪いとも思わん。形はどうあれ、制約無しに生きられる人間などおらん。あのじいさんもそう納得したから、あの歳までそれに殉じた。が、“契約”には例外がない……腰の立たぬ病人や、手足を失った怪我人が、休みを許されず橋を修繕するのを俺は見てきた。じいさんもそうなる前に自分で見切りを付けただけだ。だから、あんたが気に病むことはない」
ユージフは申し訳なさそうだった。
「実はちょくちょくあるんだ、こういうことはな。騙し討ちみたいなもんで、巻き込まれた余所者からすればいい迷惑だ。分かっとる。すまなんだ、本当に」
「あのおじいさんもそう言ってたわ」
ステラはそれだけ言うと、俯いてしまった。
「……“契約”は変えられないの?」
「無理だ。分かるだろう?“契約”を書き換えるにゃあ相手方の許可が必要で、その【覇王】はとうに死んどる。なぜに死んだ後も契約が消えないのかは分からん、分からんが何せあの【覇王】だからな。それだけ力ある男であったんだろうよ。山を砕き、河を飲み干し、海を持ち上げたと伝わる王だ」
ユージフは言った。
「……本当に、なぁ。消せたらば。喜ぶ奴も多いだろう……俺なんぞはこの街で先祖代々職工をやっとる口なんだが、それでもたまに思う。外へ行ってみたいと。絶望して腐っちまう輩もまぁ、少なくァない」
ユージフの口ぶりは、内容に比してひどく乾いていた。
「俺にも嫁さんがいるがね。橋の近くで職人向けの看護婦をしとるが……子供は、いらないと言うんだ。俺たちゃ二人ともセルンの血筋だったからな。親を恨むことはしなかったが、それでも、自分の子供に背負わせていいかどうかは随分と考えたよ」
「それは……」
「子供は親を選べん。生まれを選べん。選べんくせに、却ってそういうものの方がしつこく一生ついてまわるときたもんで、まぁ、なら柵の少ない親の元へ生まれてきた方が幸せだろうよ」
「そんなことは……!」
否定しようとして、ステラは口ごもった。ユージフは言った。
「“契約”は、存在しない人間は縛れん。苦しいことも楽しいこともあるのが人生だが……その天秤は、どう読めばいいんだろうな?多分死ぬまで分からんのだろうよ」
人は、血に縛られている。それを分かってなお、人が生きる意味に、ステラは咄嗟に答えを出せなかった。
少なくとも、彼等にとっては無力な凡人のステラでさえ自由な生まれなのだ。
ふと、我に返ったようにユージフは目を上げた。
「ここまでは……あんたにするべき話じゃなかったな。すまん。とにかく、あんたは巻き込まれたってだけの話だ。気にせんでくれ」
その慈しむような声に、越えがたい距離を悟って、ステラはただ立ち尽くし、所在無げに本の並んだ背表紙を撫でた。
「あの市長でさえ父親を同じ理由で亡くしとるんだ。この街じゃありふれた……とまでは言わんが、余所者のお嬢ちゃんにゃ忘れてもらっていいことだ。橋の交通が解禁されたら早いとこ、西へ向かうんだな」
ステラは頷いた。それ以外にやれることを思い付かなかった。
◇◆
ステラが帰ってきたとき、あのロビーにはいけすかない刺青の男しかいなかった。微かに煙草の嫌な匂いがした。
「……災難だったな」
その言葉に、ステラは眉をひそめた。
「……どうした?」
「今日は随分と礼儀正しいのね」
「そうか?君の出くわした事件は十分同情に値すると思うが」
リッター・メートルグラムは言葉を切り、首を小さく揺らした。
「いや、違うな。確かに、俺にも心境の変化はある」
ステラはそれを無視して、言った。
「シリルは?」
「知らせを聞いて飛び出していった。行方不明だ。どこかで道にでも迷っているんじゃないのか」
ステラは一瞬、ひどく心細いような表情を浮かべたが、すぐに気丈な顔を作って振り返った。
それを、メートルグラムは呼び止めた。
「おい」
「何?」
「いや。少し話がしたいと思ってね」
男は静かに座り直した。
「先だって、お前たちに言ったことは俺の本音だ。俺にとって、ここは遊戯盤の上、ティアンは精巧な駒に過ぎない。過ぎないが……しかし、そうではない、という意見は一考に値すると思う」
「何が言いたいの?」
ステラは貯まった苛立ちを解放するように語気を強めた。
「駒?それってどういう意味?また劣等人種だとか言うわけ?」
「俺が言ったのか?……劣等、というのは少し違うな。“偽物”と言う方が近い。作り物の人形、人間と同じように話し、感情があるかのように振る舞う……そう、人形だよ」
「誰が!」
ステラは激昂した。
「そんな思い上がり!逆に訊くけど、<マスター>ってそんなに偉いの?強いから?死なないから?」
「本物だから、だ」
リッターの鋭い目線に、冗談ではないものを見て、ステラは息をのんだ。
「本物?」
「あぁ。本当の世界、本当の人間。それが俺だ。俺達だ。お前はただ、そうあれかしと設定された木偶に過ぎん。この世界は、俺達の世界では遊戯として売られているんだよ」
「……え?」
男が何を言っているのか、ステラには分からなかった。
「何を……」
「お前にも理解できるだろう。例えば、お伽噺の中で語られる人物の感情は、行動は、すべて物語……“嘘”だ。お前は“嘘”なんだ」
「へぇ、変わった侮辱ですこと!そんなわけがある?あたしはここに、こうして、ちゃんと生きているじゃない!」
「何を以て?その身体を細かく分解していけば、単なる複合的な運動の連続に過ぎない。風に揺れる枝や、流れる水が“命”だと言えるか?繰り糸で動かされる人形を、“命”だと言えるか?」
「少なくとも、この不快感は本物だけど?」
「お前の意識や感覚は知らん。俺にとってお前は、適切なスイッチを入れてやれば動作を返す機械と同じだ……」
その言葉にあのトロッコを想起して、ステラは顔をしかめた。レールの上で、左右どちらかに動き続けるトロッコを。
「意味が分からない!」
「お前は誰かに描かれた絵だ。紡がれた文章だ。作り物なんだよ、その精巧さに目を見張りはすれど、作り物であることは変わらない……あのシリルという子供とて同じことを言うだろう」
その自信に、ステラはおぞましい気持ちになって顔を歪めた。メートルグラムは穏やかに続けた。
「だが、精巧な計算機に“魂”が宿るか?という問いは、一考の価値がある。俺は昨日、そう考えて……逆の意見にも目を向けることにした。果たして、そう、確かに、俺とお前になんの違いがあるんだろうな?意識は神経系による信号……情報だ。精巧に編まれた計算機のお前と、俺達“人間”の違いはなんだ?人間の表層的な行動を完璧に模したなら、それは人間ではないのか?夢見るアンドロイドは人間だろうか?人間は本当に“魂”なんてものを持っているのか?俺はこれが気になってしょうがない。なぁ、お前はどう思う?」
ステラは黙っていた。目の前の男が、何か途轍もない侮辱を、しかし真剣に叩きつけてきていることは理解していた。
「……シリルは、あたしを偽物だなんて言わない」
口から出たのは、そんな言葉だった。
メートルグラムは頷いた。
「あぁ……そうかもな。俺が言ったのはそういう意味じゃないが、確かにこの作り物の箱庭を、あいつなら“本物”だと言い張るかもしれん。哀れだよ」
「哀れ?」
「人形遊びを真実だと思っている」
気づけば、ステラはメートルグラムに殴り掛かっていた。
「お前、お前が!」
その拳を顔面で受け止めて、メートルグラムは机を引っくり返しながら派手に転んだが、手を突いてすぐに起き上がった。
「違わないだろう。自分の傷を癒せずに、人形に話しかけている。なまじこれがよくできた人形で、人の言葉に反応して人間のように振る舞う。それはそれは嵌まるだろうな、特にあいつのような人間は」
「あんたがシリルの何を知ってるって言うのよ!」
「お前よりは知ってるさ、同じ“人間”だからな」
男は冷たく言った。その眼は、明らかにステラを観察していた。冷静な科学者みたいに。
「思い出したよ。ファイアローズ……欧州の成金貴族だ。確か世界の資産ランキングでトップ20には入っていたか……普段ならそんなニュースは見ないんだが、頭に引っ掛かっていたんだ。痛ましいニュースだった」
「……?」
理解できない様子のステラを、メートルグラムは俯瞰するように見下ろした。
「2039……いや38年か?欧州でとある列車事故が起きた。それなりに大規模な人災で、死傷者もなかなか多かったが、加えてイングランド出身の貿易商で、大金持ちの一家が巻き込まれていた」
メートルグラムは言った。
「大金持ちの名は、ウィリアム・ファイアローズ」
ステラは思わず聞き入っていた。メートルグラムは、自分に復習させるように言葉を続けていた。腰を下ろし、机の上を片付ける。
「当主のウィリアム本人は奇跡的に五体満足の無傷だったが、一緒にいた子供らはそれぞれ重傷を負い、日常生活が困難なほどになった。妻のパトリシア・ファイアローズは死亡、子供の一人は意識不明……他の家族も、半身不随くらいにはなったらしい。当主は家族の無惨な有り様と、何よりしつこいメディアの取材に心を病んだと聞いている」
その名前は、ステラもよく知っている。エドワード、そして何よりシリル。“ファイアローズ家”の名前だ。
「シリル、が?」
「推測ではな。だが、ファイアローズなんて姓はそうそう見るものじゃない。それすら、お前には分からないか……肝心なことは、あいつのここへの執着は、単に傷ついた逃避のためだという話だ。そんな人間の意見が客観的かどうか、疑わしい」
「でも……シリルは、普通に……」
「そこが作り物だというんだ。現実でどんな目に遭おうが、作り物の世界では好きな自分になれる。だが、お前には一生分からない。現実には行けない。一方的な被造物である人形はな」
「……ッ!」
「その辺のリアクションはよくできている、実際。だが、これを聞いてどう思った?悲しむのか?お前に悲しみを感じる機能があるのか?」
メートルグラムはため息をついた。
「まぁ、答えは出るまいな。あのシリルくんも、ここを第二の世界と認めなければ自我を保てんのだろう。人が絶望するのは、未来を失ったときだ。それは畢竟、希望を失うこと……トートロジーか?」
限界だった。ステラは踵を返して走りかけ、その後ろ姿で言った。
「……あんたがどう言おうと、なんて言われようと、あたしはシリルと同じ、人間だから。絶対に、あんたの言うことなんか聞かない」
そう言って足早に、床を蹴り砕きながら去るステラを、メートルグラムは平坦な眼差しで見つめていた。当然、その作り物の真っ直ぐな怒りは、彼にとってただ精巧なディテールとしての次元に過ぎなかった。
◇◆
ステラは憤懣やるかたなしという態度でずんずんと廊下を歩いていたが、やがてその歩調は次第に小さくなった。
まずあったのは、罪悪感だった。
シリルの秘密を、他人の口から聞いてしまった罪悪感だった。
(シリルは……)
とにかく、会って話したかった。たとえ、何を言えばいいかわからないとしても。
シリルにとって、ステラが“人間”だと、確認したかった。
(そうよ、意味が分からない。あたしはこうして考えてる、感情がある。計算機?あの人の言ってることは完全にめちゃくちゃだわ)
でも、ステラはシリルのことを何一つ知らないのだ。
その非対称性は確かに、ステラの心に影を落としていた。ステラには出来ない、立ち入れない領域がシリルたちにはある。そう、ステラは思っていた。
(向こう側……<マスター>たちが消えるっていう世界……そんな場所が、どこにあるんだろう)
すっかり元気を失くした自分の歩みに、ステラは首を振った。
今日の分の日当はない。先日のゴブリンたちの襲撃のときも、二人は活躍できなかった。
今日は退治の仕事はないのだろうか、とステラは谷を覗いてみた。金属の柵越しで、あの黒い河は今日もゆったりと流れていた。
『……敵襲!』
そんな不謹慎な願いが通じたのか、また、あのサイレンが鳴った。ステラは剣の柄に手を掛け、谷を見下ろした。
「……こんなときに、シリルは何してるの?」
思わず呟く。だがどこにいるにせよ、彼の活躍は難しい。あの白くて大きな<エンブリオ>は使えないらしい。機体の無い操縦士に残っているのは、付け焼き刃の狙撃だけだろう。
「あたしもか」
ステラは言った。
彼女の武器は剣だ。あの少女や市長のように、ゴブリンたちを遠間から焼き尽くす、なんてことは出来ない。
あの足場の悪い流氷の上で、どこまで戦えるだろうか?ステラは思案しながら、下へ降りる階段を探して走り始めた。
『敵襲!敵襲だ!』
また、拡声器が騒いだ。すれ違う人の動きに、ステラは首をかしげた。
そして、背後から透き通った声がした。
「……ステラかい?」
ステラは勢いよく振り向いた。少しだけ慌てた顔の
「大丈夫かい?」
「……おかげさまで」
「随分とかしこまるなぁ」
「谷底へ行きたいのなら、無駄だよ」
「無駄?」
「あぁ、誤解しないでくれよ。ボクが言いたいのは、敵襲のことだからね……こんなこと、初めてだよ。町の人にも訊いたんだ、やっぱりね、前例はない」
「雪ゴブリンが、谷から出てくるなんて」
その指の先には、谷筋の上、切り立った崖の縁を行軍してくるゴブリンたちの姿があった。
「迎撃用の装備は半分以上が谷底を向いてる。死角とまでは言えないが、防御は手薄さ」
走り始めた
「あいつらは、ゴブリンの中でも寒冷地に適応した亜種なんだ。この都市は大峡谷の中まで入らなければいかにもカルディナらしい砂漠気候だから、奴等にとってはアウェイ。そんな場所をわざわざ選んで来るなんて」
「望むところよ、あたしは」
「君はね。まぁ、気負うことないよ。戦場が変わっても、あっちが不利になるだけだ」
それだけだろうか?ステラは疑問だったが、とにかく、金策のことを考えることにした。
「先に行くわ!」
「あ、ちょっと!」
AGIを全開にして走り出す。辺りの景色が溶けるように揺らぎ、自分の思考が加速していく。大気が水に変わるような勘違いを覚える。
ステラが町外れにたどり着いたとき、あの柵のある野原の外側では、派手な爆発が起きていた。警備詰め所から逃げ出してくる職員たちを、壁を崩し侵入したゴブリンが追っていた。
「
ステラは鋭く息を吐き、踏み出した。揺れる草花が背後へ飛んでいき、目の前にゴブリンの残忍そうな顔があらわれる。それを、躊躇うことなく斬り捨てた。
革鎧など、ステラの剣の前では紙のようなものだ。
『Hazaar zwet tossa ulm!』
先頭のゴブリンが何事か叫び、それに呼応して軍勢がうねる。
(来るか!)
ステラは剣を構えたが、すぐに驚いて目を見開いた。
犬に跨がるゴブリンたちは足止めの数体を残して散開し、背後の町へ侵攻していった。その振るまいに、ステラは震えた。
(こいつら……まるで、戦術を知ってるみたいに!)
『Jebarung!』
その号令に応じて、足止めのゴブリンが拳を振り上げる。そして、その掌から結晶が溢れた。
ステラは今度こそ叫んだ。
「……ッ!【ジェム】!」
『Doolayla!』
『Doolayla!』
深紅の【ジェム】は即座に爆発し、躱したステラを余波で吹き飛ばした。その土煙の向こうに、ステラは更なる信じられないものを見つけた。
細長い金属の筒、それを前方に向けるゴブリンたち。銃だ。
『Vo kshe-pezijon mahm zweenard!』
ステラは咄嗟に地面を切り裂き、土と石榑を抉り上げるとともに、身体を低くした。鋭い音と、切っ先に何かがぶつかる感触がして、弾き損ねた銃弾がステラの耳を切り裂いた。
「……ッ!」
ステラは堪らず一歩下がった。背後では、剣や槍のぶつかり合う金臭い音が聞こえた。
セルンの民兵たちと、ゴブリンが斬り結んでいた。
ゴブリンたちの持っている武器は、きちんと整えられた刃だった。野の小鬼が普通に使う汚ならしいものではなく、打たれ鍛えられ研がれた、手の込んだ武具なのだ。
「銃、【ジェム】、戦術……これじゃ、まるで、人間みたいな……」
角笛に合わせて軍旗がはためいていた。
犬に乗ったゴブリンたちが、人間の騎兵のように攻め上がる。戦馬車のように犬に引かせた車さえ見えた。
引き返していくその荷台の上に、ステラは目を見張った。
荷台に転がされ、捕らえられているその人影は、ステラのよく知る人間だった。
「シリル!」
縛られた少年は弱々しくもがいていた。薬でも嗅がされたのか。ここにきてまだ自分の能力を使わないシリルに、ステラは目眩がした。
「駄目!」
ステラは脱兎のごとく飛び出し、少年を誘拐する犬車に飛び乗ろうとしたが、蟻のように沸いてくるゴブリンたちに阻まれた。刃を振るい、それを打ち倒そうとしても、彼らは易々と間合いに踏み込んでは来てくれない。馬上……犬上から槍を突き出してくるだけだ。囲まれれば、擂り潰されるのが分かっていた。
こんなのは、ゴブリンのやり方ではない。
ステラは怖気がした。群れをなし、闇雲に突っ込んで殴りかかってくるのがゴブリンだ、そのはずだ。なのに眼前の敵は、まるで統制された人間の軍隊を思わせる。
また、【ジェム】が飛んだ。今度は風の魔法だった。凍てつく暴風に押し戻され、ステラがたたらを踏む。
「……シリ、ル!」
風の向こうで、シリルは崩された壁を越えて見えなくなった。ステラは小さく叫び、そして、雲霞のようなゴブリンたちがセルンの外縁を埋め尽くしていった。
To be continued