東京都府中市。冬の気配が近づき、吐きだす息が白く染まり始める季節。
トレセン学園から少し離れた場所にある飲み屋街に、ある者は一日の疲れをいやすため、ある者は人恋しさから話し相手を求めて、そしてある者は酒に酔い、現実から逃げ出すために……日が落ちるのを合図にするかのように誘蛾灯に誘われる羽虫めいてこの界隈に現れる。『つよちゃん』『アザレア』『東京砂漠』『京』『みちよ』……様々な店が蠱惑的にネオンをきらめかせて客を引くが、そんな中にひっそりと一軒の小料理屋が存在するのに気づくものは少ない。
――その名を『ないすねいちゃ』。
かつてはトゥインクル・シリーズで活躍し、そして引退したとあるウマ娘の第二の人生としてはあまりにもこじんまりとして慎ましいその店は、今宵もトレセン学園関係者やかつての名バ達が密かに訪れる、都会の止まり木であった。これはかつてトゥインクルシリーズを沸かせ、そしてセカンドキャリアを歩むウマ娘たちのなんのドラマもないお話である。
「はい……これで最後ね。タクシー呼んどくから、今日はもう帰りなさいな」
ナイスネイチャはその日、トレセン学園関係者を慰めていた。彼は数人のウマ娘を指導する中堅トレーナーであり……今回、自身のキャリアとしてもはじめてのG1制覇に向けて担当ウマ娘共々気合を入れていたのだが、結果は善戦したものの5着に辛うじて入着という結果に終わり、事前の入れ込みようもあって反動からか、担当にふがいない指導しかできなかったと落ち込んでいたのである。
いや、落ち込んでいたというのはかなりマイルドな表現だ。普段は酒を飲んでもひどく酔っぱらうまで飲み方はしない男だったが、彼は号泣しながら担当の名前を何度も出し、彼女に何度も謝るさまは見ているネイチャも気の毒になるほど。時には、人は強い酒に逃げて自分を守らなければならない時がある。それは今なのかもしれないが……同時に酒は適量で楽しむものだ。
ネイチャは顔を真っ赤にした男がもう一杯とせがむと、酒の代わりに水と酔い覚ましをだしてやり、ついでにこういうのだ。
「つらいよね。分かるよ。アタシも自分の経験になっちゃうけどさ……もどかしいんだよね。自分が何をしているのかわからなくなったり、今までのがんばりが全部無駄に思えてさ」
「でも、お酒に十分に逃げたら、今度はつらくても自分の担当に向き合ってあげてね。トレーナーと担当ウマ娘ってさ、なんつーか、一心同体じゃん。トレーナーさんと、担当の子。どっちが欠けても車輪は前に進まないんだよ……だから、今日はつらくてもさ。明日は担当の前でそんな顔しちゃだめだよ? 私の前ではま、いっくらでもしてくれていいけどさ。ネイチャさんが愚痴ぐらいは聞いてあげますよっと」
その時、カウンター脇の電話が鳴る。タクシー運転手からだ。
「タクシー、近くで待ってるって。歩ける? 勘定はこんどでいいから。
その調子ならまだ吐きだしきれてないでしょ。また明日来な~」
中堅トレーナーは、酔い覚ましのウコン錠を水で飲み下すと、ややおぼつかない足取りで礼を言いながら店を出る。
「はぁ……ありゃ重症だなあ……」
中堅トレーナーを送り出した頃には、時間は既に0時を回っていた。といっても、夜の街であるこの飲み屋街はまだ眠らないが他に客はいない。トレーナーの男があまりにも気の毒だったのか、他の常連たちは早々に御愛想していったからだ。深夜の気だるい時間。ナイスネイチャはラジオでちょうどウマ娘系のニュースを聞きながら、グラスや皿を洗い、このまましばらく客が来なければ今日は早めに店じまいしてもいいかな……などと考え始めていたが。
――からんからん
と、そんな考えを打ち払うかのようにドアベルが新たな客の来訪を知らせる。
「いらっしゃい――」
「やっほー、ナイスネーチャン!」
「げっ、その声は……」
にししっ、とドアの側で笑みを浮かべるのは、ナイスネイチャがライバルとして意識していたウマ娘『トウカイテイオー』であった。彼女もすでに引退済みで、自分と同じく……というにははばかられるほど多方面で活躍していた。引退後のテイオーはその社交性を活かしてタレント業界で活躍。いまではレース解説やウマ娘系スポーツ用品のプロデュースなども手掛けている『キラキラ』のウマ娘だ。
「げっ、とはご挨拶だなーネイチャさん? 今日もさ、適当でいいからなんか美味しいの頼むよ」
ネイチャが引退後に小料理屋をやりだした時、最もよく支えてくれたのはトレーナー。そしてチーム・カノープスのメンバーと、テイオーである。彼女は同時期に鎬を削り合ったネイチャに対して一目置いており、忙しい時間を縫ってよく訪れてくれているのだ。
「はいはいっと、ホントに適当なのだしちゃうよ?」
ネイチャは何があったかな、と適当に食材を見繕う。といってもテイオーに出す料理の一品めは大抵決まっているのだ。まず卵を割りボウルの中で空気を入れないようにかき混ぜる。鰹節と昆布からとった多めの出汁を加えさらに、みりん、砂糖をやや多め、そしてしょうゆで味を調えてから、サラダ油を引き中火で熱しておいた四角い関東風の卵焼き鍋にそれを何度か回数を分けつつ注ぐと、じゅう、と卵液がゆっくりと熱せられ、黄色く固まっていく。
「いい音~っ! これ聞くとネイチャのお店に来たんだな~って感じがするよー」
「ふっふー」
いつもテイオーはいいリアクションを返してくれる。それに気を良くしたネイチャは、半熟の卵に刻みネギを加え、それからくるくると器用に形を整えながら巻いていった。あとは冷蔵庫のタッパーにストックしてある大根おろしを少し添えてやれば完成である。
「はいな、いつもの『ネギ入り出汁巻き卵』、甘め汁だくお待ちね~。あとニンジンビール」
「ありがとーっ……! さっそくいただいちゃうよ!」
出汁多めの出汁巻き卵を、箸で切り分けすこしふーふーと冷やしてから口に運ぶ。テイオーは甘めの味付けが好きだ。
「んーっ……いつもながらおいしいねぇ~……ボクなんか最近自炊してる暇がなくてさ~……今日もくたくただよー」
「まったく、キラキラのウマ娘ちゃんは三十路越えても引く手あまたってか。コンビニのでもいいからちゃんとご飯ぐらいはお腹に入れんだよ?」
テイオーは実際やり手で……引退後にもっとも成功したウマ娘の一人かもしれない。世間の認知度も高い。そして、ネイチャは彼女がただ無条件に輝いているだけのウマ娘ではないと知っている。現役時代から……彼女は文字通り血のにじむような努力と、そして誰よりも挫折を重ねてきた。
「あーっ、言ったな~。ま、心配してくれるのはうれしいけどね。ナイスネーチャンの言う通りにしますよ」
「ナイスネイチャだ。まったくもう」
憎まれ口を冗談めいて叩き合いながら、ネイチャはなんとなく思いを巡らす。こんな時間までろくに食事をとれないほど忙しいテイオーのそれはきらめいていると言えるのかどうか。むしろかつてのルドルフ会長めいてワーカホリックの気がある気がしてしかたがない。だが、彼女は……おそらくそれを無意識のうちにやってのけるだろう。何故なら彼女は天才だから。
そこまで考えて、『あいつは天才肌の主人公サマだから』と言い訳をしてくすぶっていた現役時代の自分を思い出し、ネイチャは苦笑した。
「ねえ」
「んー?」
……かつて、自分は周囲と比べて大人で、子供らしい純真さを失っていないものも多い周囲のストッパー役を自認していたが。社会に出て、そのなかでも図太くちゃんとやっているテイオーはもうすでに自分よりもずっと世間慣れしているだろう。そこで、ネイチャはふと問いかけてみる。
「テイオーってさ、奇跡のおこしかた、知ってる?」
「どーいうことさ?」
「いや、なんというか……そのう……ウチのお客さんにさ、結果が出なくて悩んでる人がいるんだよね。だからキラキラのテイオー様からのありがたーいアドバイスでもあれば、その人に教えてあげようかと思ったワケですハイ」
ふーん、とテイオーはグラスを傾けながら思索するように少しだけ黙った後、にやりと笑って。
「……んじゃ今日はアジフライ定食にしようかな。ビールも、もう一杯つけてね」
テイオーがこういう表情をするのは、決まって相手に『貸し』を作った時だ。つまり、暗に『奢ってね』と問いかけている。そのことが分かっているネイチャは、アジフライ定食かあ……とちょっとだけ考えて。
「いいよ。ついでに特製の御新香もつけたげる。大盤振る舞いネイチャさんだ!」
「わーい!」
言うが早いが、ネイチャは下処理済みのアジを冷蔵庫から取り出し、塩こしょうをまぶしていく、それから臭みを取るために少しだけ時間を置きつつ、その間に鍋の味噌汁を温め、大葉やキャベツを千切りにしていく。テイオーはタルタルソース派なので、それもゆで卵にマヨネーズ、玉ねぎ、ケッパーなどを混ぜて適当に作ってやる。
「で、奇跡の起こし方についてご教授いただけますかねーテイオー大先生」
「ふっふっふー、無敵のテイオー様直伝の奇跡の起こし方はねー……『そんなものない』!」
「ちょっ、なにそれ」
ネイチャは自信満々そうなテイオーから飛び出した言葉に、流石に拍子抜けした。
「知ってるなんて一言も言ってないよー……まぁ、昔はさ。奇跡を起こしたんだって思ってたし、みんな奇跡だって言ってたけど……あれはそうじゃないんだよね、たぶん」
テイオーがいう奇跡とは……おそらく『有マ記念』のことであろう。3度目の骨折から奇跡のカムバック勝利を果たした劇的復活劇……彼女のファンでなくとも、ウマ娘を多少なり追っているなら誰だって知っている有名なエピソードだ。実際、あの場には自分もいた。テイオー奇跡の復活。それは大きく取りざたされ、しばらくスポーツ紙の一面を飾ったものだ。自分だってあの時は感極まりテイオーに抱き着いたような……。
「んー、なんていうかさ……今思えばあれは『奇跡』じゃなくて、『絶対』だったと思うんだ」
「と、いいますと?」
「あの時は……ただ……『勝つ』ためだけにトレーニングをしてたからね。自分にできることを全部やってしまえば、もう後はそこに残るのは『結果』だけなんだ。だから僕は『絶対』に勝てるように努力して、『勝利』を手繰り寄せた……あれだね、人事を尽くして天命を待つってやつなのかなあ……一言でいえば」
「……なるほど、やっぱり努力とトレーニングですかぁ」
「そーゆーこと、なんにも面白くもない結論だけどさ。諦めずに勝つための努力を怠らない事が第一だよ。諦めたら……そこで終わっちゃうし、自暴自棄や捨て鉢になったところで事態は好転しないから」
諦めない、なんともまあ月並みな言葉になってしまうがかつてのカノープスのチームメイトの走りを思い出したネイチャはそれもまた結論の一つなのかもな、と思った。実際にテイオーは諦めなかったからこそ『絶対』を証明したのだから。
「あ、先にビールとおしんこもらっていい?」
「はいよー」
ネイチャは、テイオーにおしんことビールを出すと、さらにパン粉を塩コショウが染みたアジにつけ、それを十分に熱した油に潜らせる。すぐさまじゅわあ、からからからからという子気味良い音と共に衣の色が変わっていく。いわゆる『キツネ色』になるまでアジをあげると、ネイチャは鍋から余分な油を切って取り出し既にスタンバイ済みの大葉とキャベツの千切りの上に載せてタルタルソースをかけてやる。
「はい、アジフライ定食お待ちー」
ごはん、みそ汁、自家製たくあん、千切りキャベツと大葉が付け合わせのアジフライ、そして小鉢のひじきの煮物がテイオーの前に供される。深夜帯も回っているというのに、だいぶんガッツリしたメニューではあるがウマ娘にとってはこの程度ぺろりである。
「いただきまーす!」
テイオーは早速箸を持ち、アジフライにかぶりつくとサクッと心地よい音が響く。衣は軽く、どちらかと言えばやや小ぶりのアジのふわふわとした身を味わうような感じだ。そのままさくさくと食べ進めていき、あっという間に一切れを食べ終えると、続けてご飯を掻き込んでいく。そして薄切りのニンジンやダイコンなどが入った豚汁。ごはんと汁物の組み合わせは長い事日本の食卓で食べ続けられているだけあって、やはり鉄板。そしてそこに微かな海藻の甘みのあるひじきの煮物。きんぴらごぼうと日替わりなのだが、テイオーはどちらも好きだ。
「ん~、おいしー! やっぱりアジフライは揚げたてじゃなくちゃね……!」
「でしょ? うちは小料理屋さんだからね。そういうのはちょっと頑張ってるつもり。今は正直、アジの旬じゃないんだけど目利きのネイチャさんはいいやつをえらんで買ってるから」
ぐっと冗談めいて、力こぶを作ってみせるネイチャ。テイオーはにししっと笑みを返した
「うんうん、それにネイチャの御新香も相変わらず美味しいねえ……よーくつかっててなんというか真面目な味がする。」
箸休めの御新香だが、これまた手は抜かれていない。寧ろ、ぽりぽりとした歯ごたえが小気味良く、味もしっかりしておりこれだけでお酒が行けそうになる。
「あはは、褒めてもこれ以上はさすがに何も出ないよ」
あっと言う間にアジフライ定食を平らげていくテイオーをしり目に、今日はもうこれで店じまいだろう、とグラスを棚に戻していくネイチャだったがふとその後ろから声がかけられた。
「奇跡とまではいかないけどさ、魔法の起こし方ぐらいは教えてあげようかな……」
「魔法?」
「そ、無敵のテイオー様とっておきの魔法だよ」
テイオーは不敵に笑うと、最後まで取っておいたアジフライを口に放り込み、ご馳走様と手を合わせて席を立つ。
「お、おーい、魔法は?」
「にししっ、それはね……見てのお楽しみさ」
それから翌日。例の中堅トレーナーが少しだけ晴れやかな顔で小料理屋ないすねいちゃを訪れた。なんでも、テイオーがトレーニングを直々に指導協力してくれることになり、初日からその指導法に学ぶべきところが多く感心した、ということだったのだ。なるほど、テイオーの言う魔法とはこういう事だったか。たしかにテイオーは才能だけでなく努力でキャリアを築き上げたウマ娘だ。伸び悩む中堅の指導なんて訳ないだろう。しかしまあ、なんとも地道で、泥臭い魔法であることだ。
だが、それがなんともテイオーらしく思えてネイチャはふふっと笑みをこぼした。