冷たい檻の中で、ずっと夢を見ていた。渦巻く澱の中で、ずっと光を待っていた。霊魂が鎮めの篝火に縋るように、悪霊が誰かの祈りを待つように、《冥府たるもの》が奈落の底で望んだ光の名を、イデア・シュラウドと云う。
冥府たるものが冥界の大扉の先で目を覚ましたのは、魔澱に呑まれた肉体がすっかり染まって、嘆きのうちに凍ってしまった後のことだった。
かつてオルト・シュラウドのものだった器は、兄とお揃いの目も口も全部が全部変わり果てて、魂を容れておくことさえできなくなっていた。それでも、亡霊の寄せ集めの中でさえ、炎は燃えていた。
まるで初めからそうあるべきだったかのように、秘匿者の髪は魔澱を焼いた。まるで初めから大扉の先を綺麗にするための炎だったとでも言うように、番人の証は冥府を薪にした。
まるで、こうして青く燃えているのが正しい冥府の在り方だとでも言うように。
まるで、この形を継ぐためだけにオルト・シュラウドが降りてきたかのように。
オルト・シュラウドが見覚えのない暗がりの中で目を覚ましたとき、彼の姿は記憶中のものから変わり果てていた。一族に呪いがかかっていることを加味しても、今のオルトは到底八歳の人間には見えなくなっていた。比較するものが何もないので大きさはわからないが、触れた感触として頭はヒトのものではなかったし、着ている服は継ぎ当てだらけの知らないものに変わっていた。
目がないのに周りが見えて、口がないのに言葉が喋れて、耳がないのにそれが聞こえる。呼吸はしていなかった。心臓の音も聞こえない。自分から出した音の他にはただ、ぱちぱちと髪の燃える音がするだけだった。
周りには何もなかった。目がないので「何もない」というのが勘違いの可能性もあったけれど、少なくとも今のオルトがわかる範囲では何もなかった。まっくらな、あるいはまっしろな、「何もない場所」にオルトは浮かんでいた。立っていたかもしれない。それもわからないくらい、その場所には何もなかった。上も下も、海も外も、見える限りの果ての果てまで何もないところに、オルトはいた。冥府だけがいた。
この場所が全くの無人であることを、オルトは早々に悟らざるを得なかった。少なくとも、獣人や人間や妖精、オルトが知っているような人々は全くいなかった。
「誰か、いませんか」
冥府の言葉に応えるものはいなかった。気が遠くなるくらい長い時間(この何もない場所に時間があるのなら)、何度も何度もオルトは自分の前に広がる無に言葉を投げて、その度に何も返っては来なかった。返事も、それ以外の何かも、何も。オルト・シュラウドは全くの孤独だった。
それから長い時間の後、オルトは突然、「さみしい」と思っている自分が二人いることに気が付いた。
冥府は一人ではなかった!そのことがどんなにオルトを救ったか、言い表すすべをオルトは持たない。けれど一つだけ確かなのは、この時の「冥府の中にいるオルトではない誰か」は、オルトが風邪をひいて、寒くて怖くて寂しくて泣いてしまった夜に、オルトの手を握っていてくれたイデアと同じくらい、オルトのことを安心させてくれた。
オルトが、この世界に決して一人きりなんかではないんだと、そう言って何回でも抱きしめてくれた兄。オルトと同じくらい、もしかしたらオルトよりももっと、世界に一人ぼっちだった兄。オルトと同じ色の目で、オルトと同じ炎の髪で、オルトと同じギザギザの歯で、オルトよりうんと頭がよくて、ゲームも上手。でもちょっとだけ、悪戯を思いつくのはオルトより苦手。オルト・シュラウドにとってイデア・シュラウドは、世界を半分こする相手だった。
兄ちゃんを逃がさなくちゃ。ふとそう思った。オルトの中に焼き付いた最後の意志がそれだった。冥府たるものが抱える妄執。叶えるべき欲望。オルト・シュラウドが最期に抱いた幻想。オルト・シュラウドの痕として残った妄念。オルトのさみしさを全部食い潰して残る、冥府たるものの最終目標。イデア・シュラウドを逃がさないといけない。どこから?どこからだろう。どうしてそうしたかったんだろう。でも、とにかくそうしなければいけないことだけはオルトにもわかっていた。そうしなければ生きていけないことだけは、化身にもわかっていた。
イデア・シュラウドの自由だけが、冥府たるものの全部だった。この先、冥府の中の「オルトではない誰か」の声を残らず拾い上げた後でも、それは変わらない。死者の国にあるのは初めから、張り付いて変わらない記憶だけだ。ただ世界に焼き付くほどの妄執だけが、扉の先の住人のほんとうになれる。