僕らのアンダーワールド   作:adbn

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オルトの兄ちゃん(イデア・シュラウド)

 イデア・シュラウドには記憶の断絶がある。忘れ去った、忘れさせられた記憶。イデアの最高傑作(オルト・シュラウド)が奈落の底に呑まれたあの日に至るまで忘却(レテ)の流れが呑み続けた五十億の嘆きと同じように、もはや想起すること敵わない過去が彼の千年に一度の頭脳の内には封じられていた。

 

 ただ少しばかり珍しいことに、イデアの手の届くところには、記憶を読み取る機械があった。

 運命の糸を測るもの(ラケシス・システム)の主眼は高精度なシミュレーションであり、記憶(無意識)の読み取りはそのための一機能に過ぎない。だから映画のように記憶(過去)を覗き見ることはできない。しかし、()()()()()()()はできる。忘れ去ってしまった過去も、忘れ去るしかなかった記憶も。忘却の水流に断ち切られた事象さえ、(肉の器)に一度刻まれた事実さえあれば追体験は可能だ。

 

「イデア様、本気ですか?」

ラケシス・システムの操作担当がそれを訊くのは、もう五度目だった。女神がヒトに優しかったことなど一度とてないのだから、運命(モイラ)の名を冠すこのシステムだって、ろくでもないことしかできないに決まっていた。

「当たり前でしょ。何度も言わせないでくれる?」

 早くして、とヘッドセットを被ったまま言い捨てる。もっと早くこうしておくべきだった。オルトの記憶を選べるうちに、オルトの心を守れるうちに、この過去を把握しておくべきだった。

 

 地下のオルトが何を覚えているのか、イデアは知らない。「冥府(オルト)」という存在がいつ生まれたのかも、冥府の底に沈んだオルト・シュラウドの記憶がどこで途切れているのかも、イデアは知らない。

 それでいい。

 とても寂しいけれど、それでいいのだ。(普通)の兄弟は四六時中一緒にいるわけではない。お互いの知らないところがいっぱいあってもいい。生まれたばかりのぼやけた視界をヒトが知らないように、胎内記憶を訴える幼子がやがてそれを忘れ去るように、「いつから」なんてのはわからないままでいい。

 

 でもこれは、この記憶はオルトのものではなくってイデアのものだから、知っているべきだとイデアは思う。レテの河は失われ、後続システム(プロピュライアの光)はシュラウドに効かない。それは、それも、イデアの我儘だった。もう二度と誰か(オルト)の声を忘れたくないイデアの、ただの言い訳だった。それでも、もう誰も何も言えはしないことも、イデア・シュラウドは承知している。

 

 この島に身を埋める冥府の鍵。真なる秘匿者(シュラウド)。あのユニーク魔法を継いだ日から、研究所(S.T.Y.X.)ではない方のシュラウドの要はイデアだった。

 

 そうやって、暗い方へ心を沈める。地下の深くの亡霊の嘆きに耳を澄ませるようにして、あの日の、ひとつのおしまいの記録を辿る。

 

 アラートが鳴っている。イデア・シュラウドは見覚えのある廊下に立っていた。立ち尽くしていた。十歳の体でも二歩進んで手を伸ばせば届く距離に、弟が目を丸くして座りこんでいる。

 

 その向こうに、亡霊が。

 

 イデア・シュラウドは知っている。ラケシス・システムを追体験のために使用することは推奨されない。追体験ということは、過去と同じ動きしかできないということだ。意識の判断を無視して肉体が動く感覚は、事によっては重大な後遺症を残しかねない。

 

 イデア・シュラウドにできることはあまりに少ない。位置関係が悪すぎた。単純で分かりやすい放出系の魔法は、間違いなく(オルト)のことも打ち据えるだろう。

 

 それでも、考えることしかできない()のイデアには、できることが()()()とわかってしまう。イデア・シュラウドは天才だ。それも、普通の子供のように「すごい魔法」に憧れる天才だ。だから、当たり前の話ではあるが、十歳のイデア・シュラウドは防衛魔法(バリア)が使える。少し遠くに張ることだってできた。二歩進んで手を伸ばせば届く距離なら、当たり前に。

 

 ()()はとりわけ小柄というわけではなかったが、さして大きなファントムでもなかった。八つの子供には十分大きくとも、完全装備の特警班(カローン)ならば、もしかしたら一人でも鎮圧しうる程度の存在だった。十八歳のイデア・シュラウドであれば、魔導デバイスなしでも打ち倒せる程度のものでしかなかった。

 

 勿論、あの成れ果て(ファントム)はイデアの未熟な魔法を一度の殴打で破るだろう。けれど、その間に二枚目を張ることだってできた。そうやって、オルトを立たせて二人で一目散に逃げるまでの時間を、一秒でも二秒でも稼ぐことが、できたはずなのだ。

 

 怪物(ファントム)が動く。イデアが弟の名を叫ぶのと、ブロットの塊がゆったりした動作で腕に似た部位を振り上げるのと、オルトが何とか立ち上がろうとして足を縺れさせるのと、どれが一番早かっただろう。

 

 オルト・シュラウドのおおよそ四半分が、つまるところ両の下肢の殆どが、初めの一撃で潰される瞬間を、イデア・シュラウドは見ていなかった。あまりの恐ろしさに目を瞑って、そして開いた時にはもう、オルトの脚があったところには代わりに怪物の腕(のようなもの)があった。

 

 オルト・シュラウドは、怪物から離れようとしていた。だからオルトの上半身はイデアの方を向いていて、転んで潰されたまま、彼はイデアに手を伸ばしていた。

 

 イデアは、この後どうなるのかを知っている。イデア・シュラウドが生存することを知っている。弟の手を取れないこと、彼に助けを求める最期の意思表示に応えられないことを、十八歳のイデアは知っている。こうしてオルト・シュラウドがずるずると這う成れ果て(ファントム)に吞み込まれるのを、見ていることしかできなかった過去を、憶えていなくとも知っている。

 

 オルトは、呑み込まれるがままだった。伸ばされた手はぐったりと力を失い、ブロット塊(ファントム)に引き込まれるに従って僅かに揺れるだけで──それでも、イデアはオルトがまだ生きていると信じていたかった。だって、シュラウドは死んでしまったら返って来ないのだ。死者が帰る日(ハロウィーン)なんて嘘っぱちだと、イデアは知っている。アイドネ・シュラウド(おばあちゃん)だって帰って来なかった。

 

 シュラウドは幽霊(ゴースト)に成らないし、そもそも霊体存在(ゴースト)は死んだ人間ではない。死者の国に住まうあれらは、魔力で世界に焼き付いた未練と記憶そのものだ。強いて近い存在を挙げるなら、赤子の泣き声から生まれる小妖精。ああいうものが一番近しい。

 シュラウドがゴーストを残せないのは、これも呪いの副産物だった。死んだシュラウドの魔力は、精神が半実体であるブロットを保持できない(ゴーストがブロットに煩わされないように)ために、軛の外れた呪いに丸ごと焼き尽くされる。

 

 ユニーク魔法は、生けるヒトの内に一つきりである。イデアはその意味を知っている。アイドネ・シュラウドが死んだその時に、オルト・シュラウドのユニーク魔法は目覚めたからだ。

 

 そして、イデア・シュラウドのユニーク魔法は。

 声は出なかった。ただ、脳裏を詠唱(力ある言葉)が過ぎていく。「ゲーム・セット・マッチ。『開かれた冥界の門(ゲート・トゥ・アンダーワールド)』」確信があった。──これが、(シュラウド)のユニーク魔法だ。

 尽きせぬ欲望の具象(ファントム)が動きを止めた。それがどんなに不可思議なことなのか、この時のイデアは知らなかった。

 

 成れ果て(ファントム)の腕が、また動いた。今度こそイデアは身の内に魔力を回し、炎を模ることに成功した。攻撃に戸惑ったように動きを止めた亡霊(ファントム)に、間に合わなかった自分への苛立ちを込めて炎を投げる。

 

 明らかに先ほどまでと動きの違う怪物の中身は、きっとオルトなのだろう。戸惑って、無抵抗で、あの上げようとした腕だって、(イデア)を打ち据えるためのものなんかではなくて、(イデア)に助けを求めるためのものだったはずだ。あの時だって気づいていた。ずっと目を逸らしていただけで。

 ひょっとしたら、ブロットを焼く呪いを取り込んで、苦しんでいただけだったのかもしれない。けれどそういう不確定な救いに縋ることは、イデアにはできなかった。

 大きな足音が幾つもして、廊下のあちらとこちらから警備員が駆けてくる。そのことに安堵して、体から力が抜ける。名前を呼ぶ声があまりに遠かった。本当なら、イデアもここで死んでいたはずだ。このファントムが、本当に怪物(ファントム)のままだったなら。

 

「……オル、ト」

 その声に反応したのか、それとも魔法を打ち止めたからか、ブロット塊(ファントム)がぴくりと身を震わせた。イデアはそれ以上何もできずに、駆け寄った警備員(カローン)に抱き上げられた。成れ果て(ファントム)が幾度も魔導ビームを──イデアが改良したものも交じっていた、採用するとは聞いていたので当たり前のことだけれど──叩き込むのを、イデアはぼんやりと見ていた。そうしてぎちぎちに拘束されたファントムは、門の先の冥府に投げ込まれるのだという。そこまでをなんとか聞いたイデアは、精神と魔力の限界を感じるままに目を閉じた。

 

 目を開けた時、イデアは普段父が座っているふかふかの椅子に座らされていた。当の父は隣にもう一つ椅子*1を持ってきてそちらで指揮を執っていた。何せ所内のセキュリティが一気に解除されてしまったのだから、とんでもなく忙しいのは想像に容易だ。

 

 イデアはもう、この後何があるのか予想がついた。オルトの棺は空だった。冥府(オルト)は門の向こうにいた。ユニーク魔法は、生けるヒトの内に一つきりである。いっそその瞬間まで飛ばしてくれ、とイデアは願い、そして糸の測り手(ラケシス)はそれに応えた。

 

 イデア・シュラウドが冥府の門を見るのは、これが二度目だった。奈落(タルタロス)の底の大穴。中間貯蔵庫(タルタロス)の底の最終処分場(アンダーワールド)。がらごろと車輪(キャスター)の音がして、あの成れ果て(ファントム)の入った容器(キャスク)が運ばれる。三層上でクレーンが動く。

 

イデア、と父の声がする。

 クレーンで上下逆さに釣り上げられた容器はS.T.Y.X.の中でのみ使われるものだ。比較的単純な操作で開けることができる。そうすれば中身は(ついでに蓋も)真っ逆さま。大扉が開いていればその向こうまで。

「あれはお前の弟(オルト)じゃない」

 本当にそうであったなら、どれほどよかっただろう。少なくとも父は、オルトがファントムの中に取り込まれたきり、取り出されていないことを知っている。それでもイデアは、父のその言葉に縋ることしかできなかった。大扉を開けられるものは、生けるヒトの内に一人きりなのだから。

 

もう全部おしまい(ゲーム・セット・マッチ)。──開かれた冥界の扉(ゲート・トゥ・アンダーワールド)

 

 そうして怪物は地下に墜ち、女神(ラケシス)(追憶)は覚める。

*1
S.T.Y.X.の一般的な事務椅子だ。長時間座っても辛くないものではあるが、父専用のふかふかの椅子はまた違う。

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