戦士はそう告げ、ターフを去りました。
その背中は、後を生きるウマ娘の追いかけ、追い越す道標になれたのか……。
明日は今より頑張ろう。明日は今より強くなろう。
挫けそうになったら、隣人の笑顔を見よう。きっと自分も笑えるはずだから。
そして感謝しよう。今の自分が生きていられるのは、道を指し示してくれた人と、
歩む道を応援してくれた人と、
信じられる己があるから……。
夢は遠くにあるけれど、諦めなければ届くはずだ……。
1970年代、日本競バ界に旋風を巻き起こしたスターウマ娘、ハイセイコーはこう語っている。
「……シンザンさんは、私の憧れでした」
大井から競争バとしてのキャリアをスタートさせ、圧倒的な実力で6連勝し、中央入りしたハイセイコーは、そのスター性を遺憾なく発揮。
彼女がパドックに登場し、レース場に現れ、他のウマ娘を追い抜くだけで大歓声が上がり、1着になろうものなら拍手喝采。
勿論一番人気は取って当たり前、レース場はレコード記録になるほど人が詰めかけ、レースも勝って当然と言うほどの人気と実力も持っていた。
新聞、雑誌の取材は引っ張りだこ。ニュースのウマ娘特集はいつも彼女。トレセン学園には一般人が入り込んでパニックを起こすなど連日の大騒ぎであった。
ウマ娘で史上初の写真集を作られたのも彼女である。
地方時代を含め破竹の10連勝を飾り、皐月賞も優勝。
メディアは「シンザンの再来だ」「五冠は射程圏内」「海外でも通用する」と絶賛。
だが、生来の用心深さとプレッシャーから日本ダービーを3着と敗北するとその後もGⅠ級で惜敗を繰り返す。
人々の声援が耳から放れず魘されながら床に付く事もあれば、呼吸障害を起こし緊急搬送される事もあった。
晩年も圧倒的人気は続いたが、そこにはかつて「怪物」と評された面影は鳴りを潜め、何処か哀愁が漂う気配すらあった。
しかしその両極端な現役生活を振り返る時、彼女は必ずこう付け加えている。
「私は結局皐月賞しか勝てなかったが、シンザンさんは私以上のプレッシャーがあったのに五冠を獲って見せた……」
彼女の走りのフォームはシンザンの走りを観察し続け、模倣したものであり、
それどころか生活スタイルや歩き方すら真似するほどの私淑ぶり。
シンザンの存在があったからこそ、彼女は活躍できたのである。
「私なんて足元にも及びません。尊敬の念すら礼を失していますよ」
華やかな世界で喝采を浴びる一方で、憧れの存在は遥か彼方にいたのである。
シンザンと同期であり、自らライバルと宣言していたウメノチカラはこう語っている。
「シンザンは成績を鼻にかけた事は一度もなかった。人間的に素晴らしく、優しいウマ娘だったんだ」
デビュー時は武田トレーナーが「わざわざ負ける事はないな」とぶつけることを回避する程の実力者。
当時の最優秀ジュニアウマ娘も獲っており、当然翌年のクラシック戦線でも大本命とされていた。
しかしクラシック戦線では悉くシンザンの後塵を拝し、三冠を目の前でかっさらわれ、
シニア級の天皇賞秋と有馬記念でぶつかるも敗北。結局最後の最後までシンザンには勝つ事は出来なかった。
だがそんな宿敵に対し、ウメノチカラはこう評している。
「あいつは皆が練習を終えた後、コンダラを使って練習場を綺麗にならすんだ。洗濯だって自分の物は全て自分でやっていたんですよ。
当時は洗濯機が珍しくて、洗濯板でゴシゴシやるんですよ。面倒くさくてみんなトレーナーにやらせるんですけどね。でもシンザンはそうしなかった。
私もすぐに真似し始めたんだが疲れていた時はどうしてもサボる事があってね。でもシンザンは一度もそういう事がなかったんです」
シンザンに勝ちたい、それこそがウメノチカラのモチベーションであり、どんな猛練習にも決して音を上げなかった。
同じウマ娘であるウメノチカラにとっても、シンザンはライバルという言葉だけで括れるものではなく、尊敬できる相手であり、目標でもあった。
「当時はね、みんなこう言うんですよ。『負けることが分かっていたからシンザンとは走りたくなかった』って」
多くのウマ娘が畏怖する程の大きな存在。
その姿はまさに最強の戦士であった。
「どの世界でも言えるけど、一流の選手なんてみんな我が強くて我が儘なものですよ。でもシンザンだけは違った。
自他共に厳しい奴だけど、温和で温厚で、人格も一流でしたね」
圧倒的な実力者でありながら、それでいて人間性すら称賛される程の存在だったのだ。
後に武田トレーナーの元から独立し、改めてトレーナーとしての人生を始める栗田勝と中尾謙太郎はこう語っている。
「シンザンがいなければ今の自分はありませんでした。彼女のおかげで自分は自信が付いたんです」
「あいつを超えるウマ娘を育成する。それが人生の目標になりました」
誰よりも強く、気高く、人々に讃えられる存在となったウマ娘と同じ時を過ごせたのは彼らにとって幸運だった。
学ぶところも多かった。彼女の修練は真似できないが、『心・技・体』を生かす指導は二人にとってテーマとなった。
「一緒の時を過ごせたってのは凄く良かったです。哲学的な感性も持ち合わせていて、とても参考になりましたね」
「本当に頭のいい奴でした。体調管理もしっかりしていて、後輩の面倒見もよかったですからね」
年上の身でありながら、一人の戦士に敬意を持って接していたのは確かだった。
「あいつが世に現れてから、数十年が経ち、確かに三冠ウマ娘は現れました。でもあいつを超えるウマ娘はまだ現れてないと思います」
「だから、そうですね、仕方ないとはいえ、あいつがレース場でもっともっと走る姿を見たかった……そういう想いはありますね」
時代が変わればトレーナーの数も増える。
人員不足も少しづつ解消されつつある。
多くのウマ娘が夢に向かって研鑽し、邁進し、栄光を勝ち取ろうとする時代。
そこには間違いなく彼ら二人がこれまでに培い、築き上げてきた努力もあっただろう。
しかし、シンザンを超えたウマ娘は、果たして現れただろうか。
――シンザン。日本史上、もっとも賢哲にして、もっともこの世界を発展させたウマ娘である。
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「シーバードがきたぁ!?」
フランスの激闘を終え、正式に引退を表明したシンザン。
その僅か三か月後、シーバードが羽田に現れたと聞き、急いで新幹線に乗り東京を目指す。
「シンザン! 幾ら待っても来ないから私の方から来たぞ!」
「シーバード、あんた……」
「さあ日本を案内してくれ! スシ、テンプラ、ニンジャ、サムライ、ゲイシャ、どれも楽しみだ!」
「おまえはアメリカ人か……」
こうしてシーバードはシンザンを連れまわしながら半年ほど日本に滞在。
北は北海道から南は沖縄まで、四季折々の日本を存分に堪能した。
その表情は終始晴れやかで、かつての強敵に飢え、乾ききっていた虚しさはどこにもなかった。
シンザンが彼女を生かしたのだ。
雑誌の取材も受け、日本のトレセン学園も見学した。
「なあシーバード、私はいつか日本にも国際GⅠを作りたいと考えてるんだ」
「それはいい考えだ。これからはウマ娘が国を飛び出し、世界に挑戦するのが当たり前になる時代だ」
「そうだねえ……もしその時が来たら、日本のレースをこう名付けよう。『ジャパンカップ』と……」
そしてシーバードがフランスへ帰ると言った時、
「シンザン、おまえパスポートはまだ持ってるよな?」
「ああ。フランスに行く際に作ったからね」
「じゃあ今度は私がフランスを案内する番だな! さあ一緒にフランスへ行こう!」
「おいおい……」
今度はフランス旅行する羽目になったシンザン。
空港では盛大な歓迎をされた。
「何だこれは……」
「知らないのか? フランスではもはやシンザンの名を知らない国民はいない程有名なんだぞ。サムライと言ったらシンザンだ」
事実、シンザンの活躍によってヨーロッパではメイドインジャパンが一大ムーブメントを巻き起こしていた。
日本産の製品や映画などが輸入され、特にサムライが刀を交える作品は次々にヒットした。
そしてシーバードはここでもシンザンを連れまわした。ヴェルサイユ宮殿や凱旋門、ルーヴル美術館にエッフェル塔、
オペラ・ガルニエにサクレ・クール寺院、モンサンミッシェルにコルマール旧市街……、
「フランスは広いねえ……」
「明日は何処に行こうかシンザン。カルカッソンヌかな、ロワール渓谷の古城もいいな。もう全部回りたいな!」
「元気だねえおまえさん……」
「当たり前だ。シンザンは私にとって、両親以上の大事な友だからな!」
関係者からも、シーバードは本当に明るくなった、と言われた。
かつてのシーバードは、クールで、不愛想で、仏頂面で、他人を寄せ付けない面があったが、今はまるではしゃぐ子供のように元気である、と。
「シーンザーン、フランスに永住しないかー? 私はおまえにずっと傍にいてほしいんだー」
「そんなプロポーズみたいな事言うもんじゃないよ。あんたならすぐいい人が見つかるさ」
「いーやーだー。私は実は男は苦手なんだー。生涯独身でいるつもりなんだー」
「やれやれ……」
かくしてシンザンはシーバードに袖を掴まれながら半年ほど滞在し、日本へと帰った。
「本当ならもう少しヨーロッパを見てもよかったんだけどね……。私にはやらなければならない事があるんだ」
その後、二人がどうなったか……。
シンザンは実業家の道を志す。
高度経済成長期とはいえ、シンザンはまだまだ日本は貧しい国であることを知っていた。
「学びたくても学べない人間がいる。走りたくても走れないウマ娘がいる。そういう子供の為に、日本を潤したいと思うんだ」
かつて未来に飛んでいた経験と先見性もあってか、シンザンの事業は悉く成功。巨万の富を築く番付常連者となる。
しかし彼女はそれを金庫にいつまでも閉まっておく事はしなかった。
「学問こそ銭の源。そこで投資した金はいずれ何倍にもなって帰ってくるんだ」
故に学校を始め、子供達への投資は惜しまなかった。
倒産しそうな会社がいれば、躊躇いもなく小切手を書き、会社を救った。
公害が問題化すれば、金をつぎ込み、クリーン化に一役買った。
「株を売って欲しい? 事業提携? ……大方うちの会社を乗っ取りたいんだろ。でもそっちが誠意を見せてくれるんならいいよ。持っていきな」
会社を統合する際には大量のリストラが起きるが、シンザンは人事を上手く熟すことで一人の脱落者も出さずに事を成してみせた。
悪意がある人間は許さないが、人情と優しさがある経営者だったのだ。
そしてシンザンにとって最も有名だと言われたのが、整形外科に特化した、私営の病院である。
アスリートにとって怪我は付き物。怪我さえなければ……そんな選手は数多い。
シンザンはそんな選手を一人でも救うため、海外から輸入した最新鋭の器材を使い、診断や手術を行う場所を設けた。
治療費は保険込みでなんと90%オフ。医者の給料は他の3倍。破格である。まったく金にならない事業だった。
しかしこの病院で診てもらう事で復活した選手も多く、知り合った者も数多い。
「あそこがなければ、俺は5年で終わってましたよ」
「現役を長く続けられたのは、あの病院のおかげですね」
シーバードはフランスを飛び出し、作家となる。
アジア、南北アメリカ、オーストラリア、アフリカを周り、世界にウマ娘のレースを広める親善大使を兼任しながら多くの作品を手掛ける。
「私の心はシンザンによって潤った。そして世界には素晴らしい魅力がある。それを発信していきたいんだ」
伝記、エッセイ、小説、映画の脚本、数多くの作品を手掛け、それら全てがベストセラーとなり、世界中に翻訳された。
彼女もまた、シンザンと同じく頭のいいウマ娘であり、才能と先見性があったのだ。
やがて、ハリウッドの映画監督に、
「なあシーバード、それだけの作品が描けてウマ娘の運動能力もあるのなら、女優に挑戦してみないか?」と誘われる。
本人は二つ返事で受諾。
事実、彼女にはスター性があった。
するとたちまちのうちに出る作品出る作品大ヒット。
アカデミー賞、エミー賞、出演女優賞などを受賞。
フランスの英雄シーバードは、世界の英雄シーバードとなった。
しかし一通り稼ぎ終えると彼女はあっさりと女優を引退。元の作家に戻る。
「結局、芸能の世界は金と女とドラッグの世界だからね。長い間いるところじゃないと分かったんだ」とハッキリ物申した。
ただ残念だったのは、シンザンもシーバードも溢れる才能を持ちながら、指導論を書かなかったことだ。
二人が天才過ぎたのもあるが、指導者の道だけは頑なに断り続けた。
「強いて言えば……他人とは違ったことをやった方がいいかな」
「レースは頭のスポーツだよ。より考えた方が勝つよ」
そして生涯独身を貫いたと言う……。
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二人は長らく親交があり、どちらも仕事の傍らで祖国のウマ娘協会の役員も兼任し、たまに学園に顔を出していた。
お互いレジェンドである。それで才能を見出され、大成したウマ娘も多い。
シンザンでいうと、
「無理無理無理! 無理です! わたしなんか駄目ウマ娘なんですから! 放っておいてくださ~い!」
昭和の暴走逃亡者。カブラヤオー。
彼女の才能だけは抜きんでていた。デビュー前だというのに、併走でジュニア級重賞ウマ娘を追い抜ける程の素質はあったが、
ノミの心臓と評される程ハートが弱く、模擬レース、種目別競技大会では悉く惨敗。とても大成するとは思われていなかった。
「負けたくなーい。でも怒られたくもなーい。だから走りたくな~い~!」
しかしシンザンは彼女の素質を見出し優しく声を掛けた。
彼女の「ゲートに入るのが怖いんです。どうすればいいでしょう……」という質問に対し、
「おまえさんは気が弱いんじゃない。優しいだけなんだ。それは決して悪い事じゃないさ。怖いって事は色々頭を使っていることだからむしろいい事じゃないかい?」
「他人を追い抜くのが悪い事と思ってるなら逃げてしまえばいい。それも大逃げだ。お客さんがスカッとするような走りをするんだ。みんな喜ぶよ」
この助言で狂気の逃げウマ娘というスタイルを確立させると、理解のあるトレーナーの元でカブラヤオーはその才能を爆発させる。
デビュー2戦目から破竹の9連勝。クラシック期には皐月賞、日本ダービーを制し二冠、1975年には年度代表ウマ娘となり、歴史に名を残す選手となる。
「あの助言がなかったら、わたしはとっくのとうに学園を逃げるように去ってたでしょうね。シンザンさんには感謝してます」
シンザンの助言はそれだけではなかった。
1979年に最優秀ジュニア級ウマ娘に輝いたラフオンテースは、「所詮プロの世界といってもこんなものか」と驕るようになってしまう。
練習をサボりがちになり、寮を抜け出しては大人と混じって徹麻をしたりパチンコに行くなど遊び呆けるようになる。
レースに勝てなくなり始めてもいずれ勝てると考えを改めようとしなかった。
そんなある日、シンザンが学園に来た時、「私とレースをしないか」と持ち掛けられる。
レジェンドといっても既にロートル、負ける筈がない。そう思ってたラフオンテースだったが、なんとそのレースで彼女は負けてしまう。
そしてレース後、
「なあおまえさん、それだけの才能がありながら、腐らせるってのはあまりに寂しいと思わないか?」
「……っ! はい! 申し訳ありませんでした!」
心を入れ替えたラフオンテースは必死に練習に取り組むようになる。クラシック期は一度も勝てず、実に15連敗を喫するが、彼女の心は決して折れなかった。
そしてシニア期に復活。4連勝を上げその年のシニア級最優秀ティアラ賞を獲得するのである。
だが、学園を卒業して数年後、遺書も残さず突然の自殺。早すぎる死に多くの関係者が疑問を持ちながらも涙した。
シンザンもまた動揺を隠せない一人であり、
「なあラフオンテース……おまえ何をやってるんだ……まだまだやる事山程あったろうに……」
その後、シンザンは命日のたびに墓を訪れ、献花する事を続けたという。
そしてシンザンが期待を寄せていたウマ娘がもう一人いた。
彼女は入学直後、骨膜炎を発症し、走る事もままならないまま学園を去る気でいた。
「まあ昔からしょっちゅう怪我してたし、仕方ないよね……」
だがシンザンはその娘にかつての自分を見たという。
「おまえさんほど走りの才能があるウマ娘はいない。もう一度考え直しなさい」と強く説得。
「でも、私は……」
「おまえさんに私の冠名をあげよう」
「えっ……」
「今日からおまえさんは『ミホシンザン』と名乗りな!」
「ええええええっ!?」
こうしてミホシンザンと名付けられたウマ娘はデビューは遅れたものの3連勝し、無敗のまま皐月賞に挑戦。ここを見事勝利する。
だがこの時ミホシンザンは超が付く程の絶不調状態で、その反動からか直後に骨折を発症し、ダービーを断念する。
(やっぱり虚弱体質の私にこの冠は重すぎるよ……)
しかし治療明けの菊花賞を優勝。クラシック二冠を達成。有馬記念に挑戦するもシンボリルドルフに手も足も出ず2着。
クラシック級最優秀ウマ娘に輝くも、課題の残る一年であった。
シニア級では初戦でドが付く程の苦手な不良バ場で惨敗し、また骨折。
秋には何とか復帰するもGⅠ級で悉く敗北。結局この年は勝ち星無しで終わってしまう。
誰もが「ミホシンザンは終わった。シンザンの目は節穴だった」と評した。
だが自分の冠名を付けてくれた大恩人の顔に泥を塗るわけにはいかない。例えプレッシャーで潰れそうでもここで終わるわけにはいかなかった。
「も、もう一年お願いします! 泣きの一回です!」
ミホシンザンは意地と執念で現役を続行。2連勝し、天皇賞春に挑戦する。
しかしこの時、先のレースで何もかも使い果たしたミホシンザンはまたしても超が付く程の絶不調であり、とても3200mの長丁場を走れる状態ではなかった。
「…………」
(臍下丹田に気持ちを鎮め、五体を結ぶ……)
ミホシンザンはシンザンが唯一指導したウマ娘だった。故に武道の心得もあり、シンザンの辿り着いた境地も知っていた。
レースが行われる前日も、レースが始まる前も、レースが始まった後も、呼吸を丹田に送り続け、気を練る。
すると徐々に体が軽くなり、脚に力が入るようになってきた。
(……いける!)
最後の直線、ミホシンザンが先頭に躍り出る。背後からニシノライデンが凄まじい速さで追ってくる。両者がほぼ同じタイミングでゴール。接戦だった。
写真判定の結果、ミホシンザンが僅かの差でゴール板に辿り着いており、軍配はミホシンザンに上がった。
「……か、勝った……。3つ目のGⅠ……。やったよ……シンザンさん……。……う、うぅうっ! ぐえっ! げほっ! げぼげぼっ!」
このレースで完全燃焼したミホシンザンは、ばたんとぶっ倒れて担架で運ばれその足で病院送り。引退を表明する。
「怪我や病気や低迷だらけで順調じゃなかったけど、最後に大きな夢が叶ってよかったです」
入院先のベッドの上で、記者への質問にそう答えた彼女は、とても晴れやかだった。
名付け親のようにはなれなかった。当代きってのウマ娘でもなかった。しかし瞳のその先は、いつだって前を向いていた。
ミホシンザン。日本史上、最も偉大な名を付けられ、最もその名に挑戦し続けたウマ娘である。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…………」
チーム『シリウス』のトレーナーは、やよい理事長から手渡された過去の新聞を見た後、皆と共に資料室へ向かった。
確かに歴史は変わった。とても小さく、とても偉大な功績が、1ページだけ変わったのだ。
そして過去の新聞をコピーし、ビデオも借り受け、チームのメンバーに見せた。
「本当に素晴らしい方ですわね……」
「自分が小さく見える。力も、そして器もな」
「か゛ん゛と゛う゛し゛た゛よ゛お゛お゛お゛お゛っ゛!!」
「私も、いつかスズカさんみたいに、世界の挑戦を受けるんじゃなくて、自分の脚で世界に挑戦するウマ娘になりたいな……」
「それで、シンザンさんはその後どうなったの?」
【理事長によると……】
「感謝ッ! 今やシンザン殿の会社は我がトレセン学園におけるもっとも大口のスポンサーである! 学園が運営できているのも、シンザン殿の出資の賜物だな!」
【……って、ことらしい】
「まあ、流石ですわ」
「メジロ家も学園にお金ばら撒いてるんだろ? ゴルシちゃん詳しいんだ」
「下品な言い方はおやめください。正当な投資ですわ」
「そういえば、シンザンさん今は何をしてるのでしょう?」
【幾つかの会社の社長は降りて会長職になってるけど、まだまだ元気でやってるらしいよ】
「それじゃあ、電話してみましょうよ。きっと喜んで来てくれますよ」
【そうかなあ】
しかしトレーナー自身も彼女に会いたいと思っていたのは事実である。
早速、たづなさんに聞き、電話番号を手に入れると……、
「……はいもしもし」
【シンザンさん!】
「……その声は……おお、あの時のトレーナーか。懐かしいねえ。おまえさん方からすればつい最近の事なのに、こっちは随分時が流れてしまったよ」
久しぶりに聞くシンザンの声はしゃがれていた。
確かに随分時が流れてしまったのだろう。自分も母親が急にお婆さんになってしまったら驚くだろうな、そうトレーナーは思った。
【シンザンさん、久しぶりにトレセン学園に来ませんか?】
「ほほう、いいねえ。丁度時間が空いていたところだ。いいだろう、明日そっちに行くよ。今は関西なんでね」
【関西国際空港でですか?】
「はっはっは。そうだね。いやいや、あんな海のど真ん中に空港が出来るなんてねえ、過去の私じゃ思いもしなかっただろうねえ」
そして翌日の午後。シンザンは中央トレセン学園にやってきた。
決して盛大な歓迎をされたわけではない。だが理事長に会い、たづなさんに会い、そして『シリウス』のメンバーと会うと、皺が増えた顔に笑みを綻ばせた。
彼女ももはや晩年。杖を持っており、見るからに老婆となりながらも、その威厳は周囲を圧倒させた。
事実、腰が全く曲がっていない。彼女は、まだまだ元気で現役だよ、と冗談めいた事を口走った。
「シンザンさん!」
「シンザンさーん!」
「シンザンさん……」
「おやおや、みんな元気だねえ。知ってるよ。おまえさん方からすれば昨日の出来事なんだからね。私ばっかり年を取ってしまってすまないね」
「シンザンさん、また正拳突き教えてくださいよ!」
「おお、あれかい。……そうか。おまえさん方にとっては教えたばかりの事だから、か……。まだ廃れてなかったんだね」
「勿論やりますよね? シンザンさん」
「それじゃあリクエストにお答えしようかね。なあに、『型』は体に沁みついている。忘れようにも忘れられないさ」
「はっ!」
「はっ!」
「はっ!」
「はっ!」
皆と共に正拳突きをやるシンザンはどこか楽し気だった。
今なお日本史上最高の選手とされるウマ娘。
彼女は選手としては勿論、OBとしてもこの世界に尽力し続け、その姿は誰もが敬意を表した。
その生き様、その存在感、その踏みしめた芝は、現在も日本に強く根付いている……。
~終~
ふう、なんとか年内に終える事が出来ました。
決して多くはありませんが、私の拙いSSを応援してくれた方々には心から感謝を。
シンザンは、私が一番好きな馬です。
私のウマ娘のSSの多くにはシンザンの名が躍る程です。
その馬のSSを書くというのは、かねてから考えていました。それが叶って良かったです。プレッシャーはありましたが。
戦後初の三冠馬、連続連対日本記録保持、史上初の五冠、種牡馬成績、最長寿記録、誰が乗っても勝てるとまで言わしめた名馬、シンザンのエピソードを挙げればきりがありません。
もしそのレジェンドが現代に介入したらどうなっていただろう、とあれこれ考察と案を出しながら書いていました。それなりの体裁は保てたのかな?
良かったら自分の他のウマ娘のSSも見てくれたら嬉しいです。
それでは次回作でお会い出来たら幸いです。皆さま、よいお年を。