目覚めて、三日経ち、毎日、誰かしらが見舞いに来てくれる。
でも…『彼女』はまだ来ていない。
それがひどく残念で…。
そう私は彼女を待っていた―――
紅き天使のレクイエム追補篇 もう一つの再会
四日目の午後、相変わらず広くて快適な病室で、祐巳は半身を起こして文庫本を読んでいた。良く読み古された感じのするこの文庫は、一昨日見舞いに来た由乃が持ってきたもので、主に『鬼平犯科帳』や『剣客商売』などの時代小説が中心であった。その由乃が来たときに、祐巳の目が点になった出来事があったのだが、その話は別の機会に。
その山のような文庫の束の中から一冊を読み始めたのは今日の午前中のことだった。昨日は体がだるくて読む気にはなれなかったのだ。
(そういえば…久しぶりにまともな日本語読んでいるんだ…)
そんな妙な感慨も覚えたが、案外と時代小説が面白いので、すぐに熱中してそんなことはすぐに霧散してしまった。
そんなときだった。コンコンコン、とノックが聞こえて、江戸時代の捕り物の中から現実に戻ってきた。
(だれだろう?)
「どうぞ」
祐巳が扉に向かって声をかけると、がらがらがらと扉が開いた。
そうやって入ってきたのは二人の女性。理知的な顔でそんなに長くない髪を後ろに束ねた女性と、長い髪を巻いている女性。
その二人、特に後者を見て、祐巳の胸が飛び跳ねた。
「瞳子ちゃん?!…・それに乃梨子ちゃんも」
少し大声を出したことに、二人は多少面食らったようだが、すぐに苦笑して、
「お久しぶりです、祐巳さま」
「お久しぶりです。祐巳様は…本当に相変わらずというか…」
と挨拶した。
呆れた様子の瞳子を見て、初めて恥ずかしくなった祐巳は笑ってごまかすことにした。
その後、お土産を祐巳に渡すと一言断ってから、乃梨子はお手洗いに立った。
(気を…使ってくれたのかな?)
それが祐巳と瞳子どっちに向けられた気遣いだったかは分からないが。両方にかもしれない。それは瞳子にも分かったのか、席から落ち着く前にさっさと立ってしまった親友を見て渋い顔をしていた。
それでも、乃梨子が扉を閉めるとすぐに微笑を浮かべて溜め息をついた。
「可南子さんは少し遅れてくるそうですわ」
「可南子ちゃんも来てくれるんだ」
祐巳はなんだかこの三人が揃っているのが無性に嬉しく…いや楽しく思えた。
ちなみに二人が持ってきたお土産は乃梨子が柚子と紅茶の金平糖、瞳子がどら焼きという話だったが、祐巳は瞳子から渡された紙袋の中身を見て目を丸くした。何故か筒状の包みが出てきたのだ。
「どら焼き…?え、形変わったの?」
祐巳は自分が日本にいない間にどら焼きの形が変わったのかと本気で思った。
すると、瞳子は呆れたようにこめかみを押さえてその考えを一蹴した
「そんなわけありませんでしょうが…」
京都東寺の僧侶の副食として江戸時代に菓子屋が作ったどら焼きはこんな形をしているらしい。
「…京都?」
「ええ、京都で撮影でしたので」
「撮影…?」
祐巳は首を傾げた。何の撮影?
すると、瞳子は不思議そうな顔した後、
「ええ、撮影ですわ。京都の太秦に…」
と、そこまで言って、得心がいったように瞳子は頷いた。目の前のこの人は長い間、日本にいなかったのだ。
「私、女優になったのですよ」
「え…ほんとにっ!?…っぅ」
祐巳は驚いて、身を乗り出したが、その拍子に傷が疼いてしまった。
「祐巳さま?!…・ちょっと見せて下さい」
祐巳のその様子を見た瞳子は素早く動いて、祐巳のパジャマのボタン上三段を外した。真剣な顔をして、ガーゼ越しに、傷口を目を細くして一目確認すると、ホッと息を付いた。
「何をなさっているのですか、まったく祐巳さまときたら…」
瞳子のその顔を見て、祐巳は照れ笑いをした。そして、思いついたように瞳子に訪ねた。
「ありがとう。ところで良く一目で平気だってわかったね」
素人目に見ても、瞳子の反応は迅速で、しかも判断も速かった。
「一応、医師免許取得しましたので」
「え?でも女優になったって?????」
「医師免許を持っていても女優にはなれますわ」
「あ…そっか。懂了」
瞳子の話だと、祐巳が誘拐されたすぐ後の頃、瞳子は両親と進路のことで揉めたらしい。女優になりたい瞳子と、家業の医者を継がせたい両親。数ヶ月に及ぶ攻防戦の結果、医大または医学部を卒業して医師免許をとるのを条件に女優の道を続けても良いことになったという。
「おかげで演技ではなく、医師免許を持つ女優で名が売れてしまって、不本意な出だしなってしまいましたわ」
と自嘲気味に語った。
それでも舞台を中心に実力派として認められて、ドラマには基本的に出ないものの、時代劇や映画にも出演しているらしい。自分で誇らしげに語った瞳子は、祐巳の目から見て眩しくて、そして彼女らしかった。
「あぁ、それで京都から来たんだ」
「えぇ―――あの日も、」
瞳子が一度言葉を区切る。それだけでどの日のことかすぐに分かった。
「あの日も京都で、京都に住んでいる乃梨子さんと、たまたま来ていた可南子さんと会っていって、それで間に合わなくて、東京に駆けつけたら、もう祐巳さまは…」
その日のことを思い出したのか悔しそうにぎゅっと手を握って瞳子はうつむいた。一早く駆けつけたかったのに、自分は大変な事になっていることも知らずに…そういった瞳子の気持ちが良く伝わってきた。
祐巳はそんな様子の瞳子を、目を細めて見た。
「ありがとう、瞳子ちゃん」
そう言うと、瞳子は一度祐巳の顔を見た後、ぷいと顔を赤らめて背けてしまった。もう二十も半ば過ぎているというのに、そのあまりにも可愛らしい仕草に祐巳は笑ってしまった。
すると、「な、なんですか!」と瞳子は抗議したが、それにすら懐かしさと可笑しさをこらえることができずに、自然と泣き笑いになっていった。
「ふぅ」
病院一階の自販機前の椅子で、乃梨子は缶コーヒーを飲んでいた。気を利かせたのはいいのだが、戻るタイミングをつかめず、手持ちぶさたでここにこうしていた。
(瞳子…祐巳さまとちゃんと話せているかな…)
乃梨子は祐巳の居なくなった後の瞳子の姿をずっと側で見ていた。進路問題も重なって、痛々しくて見ていられるものではなかったが、それでも見ていた。
(今度こそ…ちゃんと言わなきゃ、ね)
もう一口、スチール缶に口を付けたとき、視界の端に背の高い人影が映った。明らかに彼女だ。乃梨子は手を振った・
笑いのあとのわずかな間―――その後に祐巳は自然とこう切り出した。
それはどちらもがそういう話になるだろう、そういう話をしなくてはならないと思っていた話題であった。それは二人の願望でもある。
「瞳子ちゃん…もし、私があのままリリアンにいたら、私の妹になってくれていた?」
瞳子はそれを静かに聞く。目を伏せた後、ふっと息を吐いた。言いたいことはある。ずっと言いたかったことが。しかし出てきた言葉は、素の心情に仮面を被せた理屈めいたものであった。
「…わかりません、過ぎ去ったことにifはありませんわ」
「じゃあ…あの時の瞳子ちゃんなら、どう?」
「それは…・」
どこが違うのですか、瞳子はそう言おうとして、止めた。祐巳が聞きたいことがそんなことではないことを分かっていたから。それは瞳子が言わなくては、いや、言いたいことでもあった。
しかし、出てきた言葉はまたも違ってしまった。
「…わ、わかりません。あの頃は進路関係で両親と揉めていましたし…」
違う。言いたいのは、こういうことじゃなく…!瞳子は自分の思いと裏腹に口から漏れ出す言葉に戸惑いと、そんな自分に対して軽い嫌悪感を覚えていた。
すると、祐巳が瞳子の内心を見透かしたように目をスッと細めた。それを見て、瞳子はドキッとした。あの頃の祐巳では絶対にしない、余裕溢れた大人の笑み。
「私は瞳子ちゃんを妹にしたかった。してた、と思う」
しかしその唐突な発言はどこまでも福沢祐巳であった。この言葉にかかれば、どんな鎧を着込んでいても意味はない。武装はすべて解除される。
「私も……いえ――」
今なら言える。
「私は祐巳様の妹になりたかった!」
届けることが叶わなかった思い、それが今、届く。十年かかって、やっと―――
そして、祐巳がもう一度、瞳子の思いを受けて伝える。
「うん、私も妹にしたかったよ―――“瞳子”」
温かい言葉と思い、十年越しの気持ち、十分以上に伝えあった。
瞳子は泣いた。もう構わない。演技で取り繕うのももう不可能だ。
そして、それを見ていた祐巳はその姿が、お姉さまと真の意味で『再会』した時の自分と重なり、気恥ずかしさとともに嬉しさを感じた。
そして、祐巳は、ロザリオをかける代わりに額にキスをした。それから、あやすように瞳子を胸に抱いた。
瞳子も珍しく文句は言わず、温かい時間が過ぎていった。
だが、その間、祐巳は一瞬思う。
―――しかし、嬉しさと共に抱いたこの胸のつかえはなんだろう…?
それは些細な不安。正体などわからず、やり過ごしても構わないほど些末な違和感であったが、なぜかひどく胸に残った。
「さて…」
感情の堰が切れて泣いた瞳子の頭を優しく抱いていた祐巳は、瞳子が落ち着いたところで手を離した。突然、離されたことで、瞳子が多少驚いた顔をしている。
「乃梨子ちゃん、それに可南子ちゃん…出歯亀はよくないよ」
「なっ…」
扉に向けてそう祐巳が言うと、瞳子も驚いたように振り返る。
すると、すごすごと扉が開いて、乃梨子と、背が高いスレンダーな女性――可南子がばつが悪そうに入ってきた。
瞳子が真っ赤な顔で抗議をしたが、二人は笑って誤魔化した。祐巳はそれを微笑ましく眺めていた。
そのあと、瞳子と乃梨子が持ってきた京都の菓子と、可南子が持ってきた中国茶でささやかなお茶会を楽しんだ。
Interlude~『私』
黄昏時、既に三人はここから立ち去り、祐巳は一人片づけられた茶器をみる。可南子が持参したそれは中国茶専用のそれであった。
わざわざ中国茶を持ってきたのは、別に祐巳が中国から戻ってきたからというわけではなく、最近、可南子がはまっているからということであった。しかし、可南子が中国茶に凝っているのは間違いなさそうであったが、やはりそれを選んだのは祐巳のことを念頭においてだろう。
(あっちであんな高尚なお茶を飲む機会になんてなかったのにね)
気を使わせてしまっている。
それ以上に―――これは勝手な疑念―――怖がらせているのではないか…。
血と、屍と、死と、暗い妄念、黒い殺意――――知っているハズ…。
汚泥にまみれた人間だって、みんな知っている…・。
ううん…怖がっているのは、私…。
そう、それが怖い―――
みんなは気にしていないかもしれない。それでも怖い…。
みんなが知っていることが、私の汚さを知っていることが、怖い―――
でも―――由乃さんも、聖さまも、瞳子ちゃんも、それにみんなも…それを知っていてもなお、今の私と新しい関係を築こうとしてくれている。「十年間」を過ごした私と接してくれる。それが単純に嬉しい。
皆が、そして、自分が、内心でどう思って、感じていようが、関係ない。嬉しい。由乃さんの「お義姉さま」には戸惑うけれど、それはそれで良いんだ。
だけれど、あの人だけは――――「私」を見ていない?
この三日で小さいながら意味もなくどんどん膨らむ不安。その正体―――
最初は嬉しかった。でも、何かが違う…。さっきの瞳子ちゃんとのふれあいで、四人だけのお茶会で、それにハッキリと気がついた。
あの人は私の十年を否定するように、私を無垢な福沢祐巳として、微笑みかけてくる。
それを見てどうしても感じてしまう。それはとても些細な、薔薇の刺に触れたときの仄かな痛みに似ているけれども。
嬉しさよりも悲しさを――
悲しさよりも寂しさを――
―――そして、それよりも濃い不安と怖さ。
歯車がかみ合わない。全てを狂わせるかもしれない。
新しい関係をも。
でも、どうすればいい?あんなに嬉しく暖かかったロザリオがひどく重い。
それでも、今日また足運んで下さるお姉さまに笑顔で接する。そして、その幻想に今日もこの疑念は一度拭われて、そして、またこの自答を繰り返すだろう。