馴れないベッドで目が覚めた。だが、苦痛ではない。上海の部屋で使っていた中古の寝台とは比べようのなく、病院にしては上等すぎたベッドと比べても、このあきらかに高級に見えるキングベッドの寝心地はすこぶる良かった。天蓋までついて、本当に貴族か王様の気分を味わえる。
隣で静かに眠る地上の天女、もしくは麗しの姫君を起こさないように、祐巳はそっと寝台から降りる。祐巳は下着しか身につけていない。初めてこの祥子のベッドで寝ることになった時、大事なお姉さまからは顔をしかめられたが、これは入院時はともかくとして、十年間ずっと続けた習慣、いや癖になっていた。
それでも、
(少し・・・肌寒くなってきた)
と思う。下着の間の肌が冬の到来を無言で伝えてきている。そのままドレッサーまで歩いて、中に用意してあった黒いスーツに着替える。ブラウスを羽織り、パンツをはいて、ブラウスの上から隠匿性の高いショルダーホルスターをつける。そこに愛銃を差し込んだ。
現在、祐巳の持っている拳銃はこの一丁―Kimber Custom TLE Ⅱ―のみである。祐巳はこのほかに小型のAMT backup、予備に持っていたNORINCO NZ85Bがあったが、上海に置いてきたNZ85Bはもちろんのこと、あの駐車場でOSSeSに回収されなかったAMT backupも紛失してしまった。
もっとも銃に対して、あまり感慨らしい感慨を抱いていなかった祐巳にとってはさほど問題のあることではなかった。
それでもこの一丁だけは残っていて良かったと思う。もっともメンテナンスをまったくしていないので、ジャムなど動作不良が恐くて使えない。
(まぁ、それは私自身も同じか)
一ヶ月ほどの入院で完全に身体がなまっていた。ここ数日は由乃や菜々、メリッサなどに手伝ってもらって身体をならしていた。
「さて・・・」
ばっちりとスーツを着込む。中国の時とあまり変わらない格好であるが、不思議と“社長秘書”に見えるのが不思議であった。
そう今日から祐巳は出社する。もちろんその会社は―――OSSeSであった。
紅き天使のレクイエム追補篇 新しき日々(上)
十二階建てのビルはデザイナーズのような優雅な外観に反して、中は流石、警備会社という警備体制であった。各所に立つ警備員、死角にも行き届いた防犯機器、トイレに立ち入るのにもIDによる認証が必要という厳重さだ。
(・・・潜入しろって言われても、無理。呉二でもいない限りは・・・、必要もないけどね)
祐巳はそんなことをぼんやり考えながら、自分のIDカードを見た。それはこの社屋の最重要区画にも立ち入れる特別なIDであった。それに書かれた名前は“弓削彩子”――社内で祐巳の名前は有名なので、無用な軋轢が起きないように偽名を名乗ることにしたのだ。もっとも、本当に事情を知っている人間に対しては、祐巳の顔も知っているわけで、意味はないのだが。それもあって祥子は初め渋ったが、それでもないよりかは幾分ましであろうとの結論に到り、最終的にこの名前を考えたのは祥子であった。
この入社を手配したのも祥子であった。祐巳がこの話を聞いたときには既に決定事項になっていて、最初は断ったものの各方面からの説得と祥子の強い意志、当面の生活のためにも自分の技量が大いに活用できる職場という条件も重なって承諾したのであった。身分的にはとりあえず社長秘書という形に収まった。
それでこうして社長自らと側近のメリッサから直に社内を案内してもらっているのだが、いきなり、何部、何課と説明されても頭に入るはずもない。後から徐々に覚えていけばいいと判断して参考程度に聞き流しているうちに最上階に達した。
そこは階一つが社長関係の部署で占められていた――つまり社長執務室、金庫、休憩室、応接室、秘書課・・・そして聞き慣れない秘書課分室。
祐巳は秘書といってもデスクを置くのは秘書課ではなく、実際はこの分室におくことになっている。身分も社で雇用した秘書ではなく、社長個人が雇った私設の秘書という形をとっている。
その秘書分室といえば、ひどく閑散としていた。二十畳ほどの広い部屋に、デスクらしいデスクはなく、作業台のようなものと、数台のパソコン、ソファーにテーブルあとは資料とその他よく分からない本が詰まった書棚があるのみであった。それに奥まった所にロッカー室と給湯室があるか。
「開店休業ですか?」
祐巳が横にいた祥子とメリッサに訊ねると、二人は笑った。何かおかしな事を言ったのだろうか、訝かしむと祥子が説明した。
「違うのよ、祐巳。むしろ逆ね。分室所属は私の代行として色々と飛び回ってもらっているから、ここに人がいたらむしろそれこそ開店休業状態だわ」
「そういうこと、もしいるとしたら、私のような東アジアの担当がたまに帰ってくるぐらいですねー」
メリッサが続けると、祐巳は納得した。
(つまり、OSSeSの精鋭ということか。・・・あれ?)
そこで祐巳は気が付いた。ソファーから黒い帯のようなものが垂れ下がっていることに。よく見れば髪の毛のようだ。ちょうど祐巳達から見て、縦に置いてあったため頭頂しか見えず、今まで気が付かなかったのだ。
「あそこにいるのは誰ですか?」
「え?」
「あら・・・?」
祥子もメリッサも心当たりがないらしい。三人が不思議そうにしていると、ソファーの人間に動きがあった。がさこそと動き初めて、むくりと気怠そうに起きあがった。
「ふわぁぁぁ~・・・・ん?」
そこにいたのは、髪の長さから女性だろうと予想していたが、その容姿は予想を超えていた。高等部時代から色々な美女を見てきた祐巳から見ても、相当上位に入るだろうという美人だった。年の頃は祐巳と同じか、少し上ぐらい、全体的にスッと美しさに、黒くて長い髪が寝起きというのもあり、乱れていたのが艶っぽい。一見大和撫子風の日本美人だがその顔立ちから意志の強さを感じた。まぁ、ともかく美人がそこにいた。
「おはよう、みなさん」
その女は乱れた前髪をガッと勢いよくかき上げて、祐巳たちに挨拶してきた。その言動は見かけに反してどことなく男っぽかった。
面食らって茫然としていた祥子も流石に顔を見て思い当たったようで、
「あなた、たしか白条真名水さん?」
と、その寝起きの彼女に向かって確認した。その“白条真名水さん”は首肯した。
「それ以外になったつもりはないわ」
メリッサも合点がいったようで「ああ、彼女が・・・」と小さく呟いたが、祐巳だけは皆が理解する中置いてけぼりであった。
しかし―――
(どこかで聞いたことがある名前のような・・・?)
そんな気がしたが、思い出せなかった。本当に知らないのかもしれない。
「誰ですか?」
祐巳がメリッサに小さく訊ねると、それを聞き取った祥子が代わりに紹介した。
「彼女は白条真名水さん、本日付けで社長秘書課分室補佐員に入ってもらうことにしたの」
「よろしく―――えーと・・・?」
真名水は、寝崩れてぼさぼさになった髪を左手でがしがし掻きながら、右手を差し出して祐巳に近づいてきた。
「福沢ゆ・・・あ、いえ、弓削彩子です」
祥子が小声で「ばかね」と優しく窘め、横でメリッサがやれやれという顔をしたが、慣れていないものは仕方がないし、もう失敗したこともやはり取り返しはつかない。次ぎに同じ事をしなければいい。もっとも、そう考えたところで、気持ちの切り替えは簡単に出きるはずはなく、ポーカーフェイスを装っても耳だけはほんのり赤かった。
真名水はそんな祐巳の心中を知ってか知らずか、目を細めて、悪戯をしたときのようにニヤっと笑った。
「福沢、ではなく、弓削さんだね・・・弓削っていうのは、弓を削るって書いて弓削かな?」
「え・・・あ、はい」
「なるほど―――多少縁がある響きなんでね。実家にいるじじいが飽きもせずに毎日やっているもんだから」
「えっ、白条さんのお祖父様は弓を作っているのですか?」
「ああ、じじい――親父のことだけどね」
そういうと真名水はおもむろにタバコをとりだして、口にくわえた後、今度はメリッサの方に手を差し出した。
メリッサはその手をかるく握り返して、
「メリッサ=マルグリート・パラディスです。メリッサって呼んでください。ああ、あと、社内は全面禁煙ですよ」
と、真名水にやんわりと注意した。しかし、意に返さないばかりか、
「悪い、かっこつけだから煙はでないんだ」
と言った。
事実、彼女はライターを持っていなかった。それでホントに格好が付くのか疑問だったが、本人がそれでいいのであれば、あえてつっこむところではない、と祐巳は判断した。
目の前の女――弓削彩子・・・本当は福沢・・・弓だからユミとでもいうのだろうか――を見て、真名水は面白いと思っていた。
当初は、この再就職には乗り気ではなかった。たまたま所用で上京したついでに鹿島田の奴に会いにいった時、警察に戻るつもりがないならOSSeSで能力を発揮したらどうだ、と勧められた。
正直、暇だったし、たまには警察庁の若き警視長の顔でも立ててやろうと、用意された面接に臨んだのだ。それにしても鹿島田のやつは昔からお節介な男である。
その時、面接官だったのは今もそこにいた若い社長さん、それに秘書だと名乗った福沢という男、これは顔が弓削と似ていたので血縁だろうか、それに秘書課分室長という肩書きだったと思うアメリカ人のウィリアムという男だった。
そこで面接で説明を聞いて、気が変わった。自由度の高い仕事は私向きであったし、何より小笠原祥子から、ちらりと見える何か一種の“暗さ”が気になった。何と言えばいいか、そうどこか現実にあって、それでいて現実にいないような―――常に“他者”のいない世界いる彼女を天の岩戸から覗いているような感覚。それがひどく目について、それで待遇などどうでもいいから、この会社に入ることにした。これは意外とどうしようもない退屈を補ってくれそうだと。
そして、登社初日――今日。その日からさらに面白い人物にあった。柔和な笑顔に優しい光でくるまれているが、私の嗅覚は陰鬱な影の臭いを漂わせた偽名の女―――自分の知っているあの男によく似ている、それでいて真逆の女――ただ、面白い、と思った。
だから、こう私は訊ねた。
「何人、殺した?」
と。
「何人、殺した?」
白条真名水はそう私に訊ねてきた。
この分室には今二人しかいない。お姉さまは急な電話がかかって執務室に戻り、メリッサは昼食の手配をしに隣の秘書課に出向いてから帰ってきていない。人当たりが良さそうなので秘書のだれかと話し込んでいるのだろうか。
そういうわけで今、私は白条真名水さんと向かいあって、紅茶を飲んでいたのだが、上手く会話は成り立たず、静寂を破ったのが今の言葉だった。
「なぜ?」
「なぜ、か―――単純に気になった、それだけ」
それではまったく意図が分からない。とりあえず答えておく――それはおそらく白条真名水が求める答えではないと思うが。
「さぁ?・・・多すぎてわかりません。女より男が圧倒的に多いのは確かだと思うのですが」
「ふぅん―――」
やはり、何を訊きたいのかわからない。
「それが罪だと思うか?」
なるほどそういうことか・・・。
「さぁ?・・・考えたことありません。殺さなきゃ、殺されちゃいますから。殺さないにこしたことはないと思いますが」
「そう、じゃそれでいいわ」
「?」
やはりよくわからない。彼女は何を言いたいのだろう。
「面白い――」
「え?」
「くく、面白いな、気に入った」
「??????」
なんでですか?!と、私は心の中で叫んでしまった。高等部時代何度も言われたような言葉だが、少なくともこんな話の後で、カラっと笑って言うことではない。
「ま、いいじゃない。そんなこと」
昔よりポーカーフェイスが上手くなったつもりだったが、この目の前の人物には通じなかったようだ。
しかし、今の会話で私の心にずっしり残った言葉――“罪”――。多くの人を手にかけた、殺さなくては殺される世界―――それは罪なのか、罪になるのか。法律では罪であろう―――しかし、ならば私は殺されれば良かったのだろうか。
でも――やはり、あれらは私の“罪”なんだろう。それ以外の言葉はみつからない。しかしだからといって私はどうすればいいというのであろう。
それを目の前の真名水に尋ねようと―――
「遅くなったわね」
その時、お姉さまが戻ってきて、白条さんがティーカップをカタンと置いた。
結局、私は明確な答えを出すことは出来なかった。