午後、OSSeSビルの地下三階へ、特別なエレベーターで向かっていた。このエレベーターは最上階の社長室階、または地下一階から、ⅢA以上の社員IDに三重のロックを解き入り、二つのパスワードを入力しないと動かすことができない厳重なものである。
事前の説明によれば地下三階は社でも最重要区域とよばれるもっとも警備が厳しい区画で、Ⅳ以上のIDが入れない大金庫室、発電施設、メインコンピューター、3A以上で入れる情報統括室、武器庫、射撃場、それらを管理する庶務三課、それに庶務四課などが存在している。
IDはセキュリティの低い順からⅠ、ⅡA、Ⅱ、ⅢA、Ⅲ、Ⅳで、Ⅳは社長である祥子のみに、役員とPs(秘書課分室正員)にはⅢが与えられ、Psであるメリッサ、それに正式なPsではないが祐巳も特別にⅢ相当の資格を得ていた。以下それぞれの役職に応じてIDが与えられていて、秘書課分室補佐員である真名水にはⅢAが与えられていた。
無論、一般社員ではこの最重要区域には立ち入る事は叶わず、ここに入ることが出きるのは社長が顔を覚えられるほどの人数のみである。
よって、エレベーターが開いた瞬間に祥子がまったく顔の知らない人間がいると、それは驚くわけで―――そう、扉が開くとそこには当然のように侵入者が、「よっ」と気軽に挨拶していた。固まる祥子と、驚くメリッサ、面白そうにそれを見る真名水に、そして、祐巳は、それがそこにいるのが当然のように、
「なんだ、呉二か」
と、その男の名前を言った。
紅き天使のレクイエム追補篇 新しき日々(下)
呉英敏、それが彼の本名である。福建省あたりの出身らしいが、よくわからない。幼なじみに誘われて上海に出て、騙されて蚩尤に入ったと本人は言っているが、怪しいものだ。それが本当であったとしても、この男のことである承知の上でついていったに決まっている、と祐巳は判断していた。ちなみに話は横道にそれるが、その幼なじみというのは、後年、情報を持って組織を抜けようとしたところ、饕餮の命令で祐巳によって粛正されている。
当初は度胸もなく雑用しかできない、役立たずだ、と思われていた、いやどちらかと言えば思わせていた。ようはやる気が無い上に、上の無能ぶりを笑って楽しんで節もある。
それに最初に気が付いたのは、饕餮だった。饕餮は彼を配下に引き抜き、そこでもう一人呉姓の呉長貴がいたので、呉二とあだ名されることになる。そこで彼は一人の女に出会う。それは則ち彼が彼の生き場所を見つけたことでもあった。
この女の側で働きたい、この女の役に立ってみたい。願望でもあり、野望でもあり、欲望でもあり、そして渇望を満たすことでもあった。
ゆえに彼は女を裏切らない。王に仕える騎士のように、悪魔に侍る魔獣のように。決して裏切らず、働き続ける。
だから彼はここにいた。
祐巳にとって、呉二がどこにいようが驚くことではなかった。それは正しくない、呉二があり得ないところにいたところで一々驚いてはいられない、というのが祐巳の認識であった。
「どのくらい?」
祐巳は素っ気なく、目の前のこれといって特徴のない男に訊ねた。特徴のないのはこの男の強みでもあった。流石に東洋人であることはわかるが、それ以外は中国人なのか、日本人なのか、朝鮮人なのか、当の国の人間でも判断がつかないだろう。顔立ち自体も目立ったところはなく、それがどこにでも潜入できるという特技の一端を担っていた。
「一ヶ月半だな」
「かかったね。さすが、すごい」
その何気ないような息のあった会話に、この巨大警備会社の社長とそのエージェントは茫然とする・・・自慢のシステムが一ヶ月半も気づかれずに攻略されていた。矜持もそうだが、それ以上に会社の沽券にかかわる事態であった。
そんな祥子達の心情を逆なでするように、それまで黙って様子を見守っていた真名水が、
「形無しだな」
と面白そうに笑ったので、祥子が真名水を悔しそうに睨み付けたが、真名水は笑んだだけでどこ吹く風であった。
「で、呉二―――何しにきた?」
話の流れが変わった。祐巳がまったく警戒せずに話かけたこととここが最重要区域で安全だと油断していたことも相まって理解が遅れていたが、ここの男はなんでここにいる。
「―――そうね、私もそれが聞きたいわ」
祥子が厳しい目で改めて向き直った。みるとメリッサが左手を懐に入れている。呉二が怪しい動きをすれば即座に行動不能にするためだ。
「何しにって言われても―――売り込みだよ、売り込み。まぁ、ブラッドはともかくとして、あんた達の会社だって知っているんだろう?饕餮が行方知らずなったとたんに、組織は内部抗争初めやがった、そんな先の無いとこにいるのはごめんでな。それに―――」
そこで呉二は一瞬難しい顔をして言葉を切った。
「いや、これはとっておきの情報だ、止めておこう。ともかく、あんな組織にいては、未来が無いんでな」
「つまり?」
「入社希望だ」
呉二がニヤリと笑うと、祥子が美しい柳眉を歪ませる。社会に出て、会社を経営するようになって男嫌いが和らいだ祥子であったが、このような得体の知れない男には以前のように生理的に拒否感がある。しかも、売り込みのために事も無げに虎の子の防犯システムを突破したような危険な男を信用する手があるというのか。しかも、祐巳に馴れ馴れしいのも気になる。
だがその一方でシステムを破るということは、そのシステムの穴、齟齬を理解しているということだ。野放しにはできないし、逆にこちらに引き込めばその改善もできるということだ。優秀であるのも理解した。それに『とっておきの情報』というのも気になる。
祥子は嘆息した。
「わかったわ、認めましょう―――でも、二カ国語以上が条件よ。なにができるかしら?」
「普通語、福建語は完璧に。広東語と日本語、英語は日常会話に困らない程度に。あと多少のロシア語と朝鮮語ができる―――十分か?」
「呉二がいれば大体どこに行っても困らなかったですから」
その呉二の発言を祐巳が裏付けた。
「十分すぎるわ―――いいわ、採用しましょう。祐巳」
「なんでしょう?」
「彼はあなたに任せるわ。身分は分室補佐で」
「わかりました」
祐巳は呉二に向き直って、
「とんだ、ストーカーだ」
と、苦笑いをしたように見せた。
「そういうな、上司。元気そうで何よりだ」
呉二は笑った。
「で、呉二、この二ヶ月間何していたの?」
気を取り直して、地下三階の案内が始まった後すぐに、祥子達から一歩退いたところを歩きながら祐巳は訊ねた。ちなみに普通語で話しかけた。
すると、呉二は笑って、
「結構、大変だったぞ、お前と連絡とれなくなった日、楊と裴の二人に襲撃されたからな。ま、上手くかわして、その後は組織の様子を探って、あたりをつけてこのビルの攻略だな」
と言った。大変とは口では言っているものの、その口調自体はごくごく軽い。
「その、楊と裴はどうした?」
「俺を追っている最中にクラッシュして死んだらしいな」
「ブレーキに細工した?」
「ブレーキにはしていないな」
そう言うと呉二はカラッと笑う。何に細工したのやら、祐巳には想像つかなかったが、こういうことを平気でするのが、呉二らしいと思った。ある意味では饕餮以上に敵に回していけない男だ。饕餮が「事が始まってからすぐに終わらせる男」なら、呉二は「事が始まったときには終わらせている男」と言えた。
「・・・怖い男だ」
「どうも」
そんな会話をしているうちにすこし奥まった所にある扉の前にいた。関係者以外立入禁止の札が掲げられ、部署名は書かれていない。扉の隙間から妙な香の匂いが漏れだしていた。祥子はただ一言「ここが庶務四課」とだけ言うと、ここには用がないとばかりにきびすを返してすぐに立ち去ろうとする。その様子にメリッサが若干驚いた顔をした。ここは分室に関係する以上説明しておかないと行けない部署である。なのに、祥子はそれをあからさまに避けた。メリッサには理由が分からなかった。
事情の分からない祐巳は怪訝な顔をし、真名水はそのことには興味を示さず匂いを確かめるように鼻に手を当てながら何やら考えていた。
そこで呉二が祥子を呼び止める。
「ボス、一つ相談あるんだが」
「・・・あとにしましょう」
そう言った祥子の様子は何かやはりおかしい。呉二と応対しているはずなのに、祐巳の方をちらちらと見ながら、何かを焦っているように見える。
「いや、タイミングは今がいいんだ。初任給を前払いで現物支給してほしい」
「現物・・・?」
祥子は意図がわからず首をかしげる。
「ああ、現物だ。具体的には―――この中の鉄格子の中にいる男だ、しらん男でもないんで多少不憫でな」
それを聞いて、祥子の顔が隠したつもりかも知れないが、軽く引きつった。そして、動揺した顔で祐巳を見る。
この顔を祐巳は見たことあった、敵が分からないときのお姉さまの臆病な部分、それが垣間見えていた。
(私に見せたくないものがある、ということかな・・・)
祐巳は言いしれず悲しくなった。鉄格子、という点で察しはつく。その程度は祐巳にとっては日常だった。なのに、祥子はそう言う部分を“可愛い妹の福沢祐巳”に見せたくないらしい、いや見せてはいけないと思いこんでいるらしい。祐巳は出そうになった嘆息を咄嗟に止めた。そして進言する。
「中に入りましょう――今更、何を見ても驚く私ではありませんし」
「祐巳・・・」
祥子はそれを聴いて目を伏せてから逡巡し、
「わかったわ・・・」
と苦い顔をしながら結局折れた。
(・・・・・お姉さまが見せたくないと思ったのは、別の理由だったかな?)
そう一瞬、祐巳が疑うほど、そこは一種異様な空間であった。とてもオフィスには見えなかった。妙に甘ったるい匂いが立ちこめて、その風景と言えば、言うならば、そう中世古城の牢屋である。鎖や縄、手錠から何に使うか分からない金具や器具―――明らかに使ったら痛いでは済まないような物騒な代物から、これもあからさまな性具まで存在した。
しかし、その一方では、いくつかある鉄格子の一つの向こう側で、ロココ調のテーブルと椅子に座り、何故かメイドから給仕を受けている大胆なスリットが入ったチャイナ服の女が居た。服からはみ出しそうな胸を筆頭に官能的なプロモーションの美人であったが、しかし、その表情はいやらしい笑みをたたえていた。そう一言で言い表すなら、そう―――“毒婦”――であった。
こちらに気づくと、メイドがスッと奥に下がり、女主人風体の女が足を組み直して、椅子を横に座った。
「アラ、社長、こんなとこにいらっしゃるなんて珍しいですわね」
ふふ、と妖しく笑う。
「まぁ・・・そうね」
祥子は口を濁した。どうも祐巳をここに連れて来たく無かった以外にも、祥子自身がこの目の前の女性が苦手であるようだ。
女性はそれを満足そうに見た後、祥子以外の人間を見回した。
「メリッサに・・・それに・・・見ない顔が三に・・・ん・・・・って―――」
泰然と、悠然としていた女の形相が歪む。表情が引きつっていた。
「・・・・なんで、アナタ、が、いるのかしら・・・?白条、真名水・・・」
その発言にそこにいる全員の視線が真名水に集中して、当の本人は露骨に嫌そうな顔をした。
「知り合いなのかしら?」
「残念ながら―――久しぶり、元気してた?私としては、お前なんか元気じゃないほうが嬉しいんだけどね。てっきり鉄格子の中で臭い飯食べていると思っていたんだけど、まさか鉄格子の中で優雅に暮らしているとは思わなかったわ、流石、生き肝嘗めたことあるだけあって、肝が座っている―――金崎美和」
「アラ、蛮族のお姫様―――ご機嫌麗しいようで。この十年間何度も、アナタのこと想っていたわ。『死ねばいいのに』って―――ほんとゆっくり、じぃっくり・・・殺してあげたいわ」
金崎美和と呼ばれた女は美麗な顔に立った青筋を隠そうともせず、身体を震えさせながら凄いことを言ったが、真名水は軽く鼻を鳴らしただけであった。
そんな態度の真名水に対して、美和はテーブルを思いっきり叩いて立ち上がって、睨み付けた。が、真名水は少し眉を上げたあと、薄笑いを浮かべただけで、さらに美和の怒りを助長させた。
それを止めたのは祥子だった。
「二人ともやめなさい」
しかし、彼女はそう注意しながらも祐巳の様子をしきりと窺っていた。
それを見て、祐巳は複雑な気持ちになる。結局のところ、祐巳は清潔なオフィスより、むしろこのような陰湿な場の方が馴れていた。もっとも、言うも言わさず殺すという役割のため、組織の中でもこういった拷問の場にはあんまり縁が無かったほうではあったが、何度かは後ろで眺めていたことがある。
もっとも多少こちらのほうがフェティッシュな感はあるが―――
祐巳は美和に近づいて、
「初めまして、新たに社長秘書となりました弓削彩子と言います。えっと、金崎美和さんでしたか?」
と挨拶したが、当の美和は、不機嫌さを隠さず、
「ふぅん・・・そ―――」
と興味もなさそうに受け流そうとして、祐巳の顔を見て顔色が変わる。何故か喜色が浮かんでいる。
「あなた・・・私に養われる気はない?衣食住は保障するわ、仕事も少し私の言うことを聞くだけでいいから、うふふふ」
美和が祐巳の頬を撫でようとしたが、祐巳が右手を軽く挙げてそれをやんわり止めた。
「そういうのは、もうこりごりですから」
祐巳はニッコリ笑う。それは何人も寄せ付けないような笑みであった。
それを見た美和は興が冷めたのか、ひどくつまらなそうな顔で椅子を引き寄せてドサッと座った
「あら、そ―――で、社長、どのようなご用件かしら?」
「それは俺から言わせてもらおう―――と、自己紹介がまだだったな。呉英敏だ、今日からこの会社で働くことになった、呉二と呼んでくれ」
そこで祥子に向かい合うように座った美和の前に出たのは呉二であった。
「それで、要件だが、この奥の牢屋に入っている奴を、給料として要求したんだが・・・ボスは―――」
呉二が視線を祥子に投げかけると、祥子は渋い顔をしながらも頷いた。
「―――了承している、責任者の四課長様に承諾してくれば、とりあえずそれでいい」
(・・・・課長だったのか)
祐巳は素でおどろいた。しかし、もちろん当然のように誤字がOSSeSの人事を把握していることには気を止めない。
「社長が許可しているなら、私に言うことはありませんわ。とっくにあの子で遊ぶのも飽きていたし、そろそろシメてしまおうかと思案していたとこでしたので、ちょうど良かったですわ、ふふふ」
いかにも、とっとと引き取ってくれという様で美和も簡単に了承した。
「呉二・・・この奥に誰が居る?」
祐巳はいまさらながら呉二に訊ねた。呉二の言動から元々饕餮が連れてきた誰かであることは理解していた。しかしながら、誰が死んで、誰が捕まって、誰が逃げたのか、まったく把握していなかったので、見当がつかなかった。
「賈展工のやつだよ。ボスを狙撃しようとして、気づかれちまって、そんでもって、侍ガールに叩きのめされたらしい――詰めの甘いとこは奴らしいな」
「賈展工・・・ああ、あの冴えないやつ」
祐巳にとってはその程度の認識しかなかったこの男は『ブラッド』の襲撃が失敗した直後、饕餮によって祥子の暗殺に派遣された男である。狙撃の腕は確かなのだが、少々運が無いというか詰めの甘いところがあり、射撃の瞬間、聖に気づかれたあげく、菜々に倒されてしまった。その後、OSSeSに収監されてここにいるというわけだ。
「平気なの?」
「心配ないはずだ。特に主義主張の無いやつだからな。饕餮ももういない。それなりの条件を出せば、首を振るだろう・・・もっとも、首を振ることができる状態とは思えないが」
後日、男性器が使い物にならなくなる障害が残ったものの、なんとか病院で目を覚ました展工が泣きながら首を縦に振ったのは、あくまで後々の話であった。
ビルの全ての案内と、展工の病院への搬入の手配が終わると、祐巳には時間が余った。呉二は祥子とメリッサから直接聴取を受けている。ここで得られた情報を持って二日後、メリッサが中国に旅立ち、国内でのPsの職務は主として真名水、それに祐巳が分担し、呉二が補佐に当たることになる。展工の復帰は・・・しばらくかかりそうである、ということを追記しておく。
そのため、分室は二人――祐巳と真名水――しか居なかった。まるで昼の再現であり、実際、その続きであった。
祐巳はあの昼の会話からずっと胸に何かがつかえていた。いや、その胸のつかえに気が付かされた、というほうが感覚的に近いかもしれない。
「白条さん」
「真名水でいいよ。呼び捨てが希望だな」
そう言って真名水は、口をつけていた湯飲みを置いた。膝の上で指を組んで祐巳をまっすぐ見据えた。
「―――もし、あれが“罪”だとして、私はどうすればいいのでしょう?」
自分でも変なことを訊いている、と自覚していた。それでも、この眼前の女性に訊ねて、聴いてみたいと思っていた。
「・・・・」
真名水はちょうど一呼吸分、瞑想してから、静かに喋り始める。それは昔語りであった。
「・・・私には幼なじみがいた。気が弱い、でも・・・とても可愛らしい子で、私はその子をよくからかって遊んでいた。その時は向こうも怒っても笑ってくれていた。私はその子のこと、すごく好きだった。愛らしい笑顔も、からかうと上気する頬も、大人しい細やかな性格も全部」
真名水が一瞬だけどことなく影のある微笑みをした。すぐに少し悲しそうな顔になる。たしかに痛いのに、どこが痛いのか分からないという感じの、苦悩を含んだ表情だった。
「小学校、中学校と進み、私はその子以外にも友人――と言えたのだろうか、今になってはよくわからないが――・・・そうだな、“取り巻き”というのが正しいな・・・残念ながらうちが地元の名家だったからな。私はその時になっても、それまでの調子でからかうことをやめなかった。連中も私に続いてその子をからかった。一緒に遊んでいる―――少なくとも愚かな私はそう思っていた」
一旦、言葉を区切り、深く息をつく。
「でも・・・次第に幼なじみの顔から笑顔が消えて、悲しい顔をするようになった。私には理由がわからかった。でも、訊くことはしなかった。そのうち、彼女の顔は沈み暗くなった。やっぱり私は何故だがわからなかった。でも馬鹿な私は取り巻きの話を聞き流すのに忙しくて、彼女の話を訊かなかった」
真名水はそこでほんの少量のお茶で口と喉を湿らせた。表情は無かった。ただ、それだけにその顔が雄弁に心情を語っている。
「そう、もうその時点で私は決定的に間違えていた。すでに取り返しがつかないほどに、ね―――」
祐巳は黙って聴いていた。テーブルの上に置いたカップに手をつけることもなく、真名水の心象に世界が飲み込まれたような感覚を覚えて、ただ石のように固まってその話に耳を傾けていた。
「―――ある日、下校するときに校門とは別の方へ向かう彼女を見た。表情はわからなかった」
真名水が軽く下唇を噛んだように見えたのは祐巳の気のせいではないと思われた。もしかすると、その日、その時間、彼女はその表情をしっかり見ていたのかもしれない。しかし、それは祐巳には分からないことであった。
「その日の夜、電話がかかってきた。彼女の家族が方々に電話をかけた末の最後の電話―――『喜代子の行方、知りませんか』・・・・ひどく嫌な予感がよぎった。私は浴衣のまま家を飛び出して学校に走った。何が起きたのか考える前に足が動いていた―――いや、もうその時には私は理解をしていて、それを否定したかったのかもしれない。校門にたどり着くと門は開いていて、校庭には教師と保護者連が何人かいたが、気にせず彼女を最後にみた方へまっすぐ走った。そっちには使われていない旧体育倉庫があった。入学してすぐに彼女と二人でそこに行ったことがあった。私達が見つけたときには鍵は壊されていて自由に入れるようになっていた。それは、そのときにも変わらず鍵は無かった。扉は半開きになっていて―――」
表情は変わらなかったが、真名水の身体が軽く震えていた。それもすぐに落ち着く。
「―――覗くと・・・・『目』があった。天井近くに浮いていた丸く飛び出した眼球と、ね。揺れるそれは差し込んだ月明かりに照らされていた。愛らしかった顔は苦悶で歪み、鬱血でむくれていた。首を吊ってから苦しんだのか、不自然に伸びた首には掻きむしった痕がくっきりと見えた。穴という穴から汚物を垂れ流し、ぎぃぃ・・・ぎぃぃ・・・と、嫌な音を立てながら彼女がぶら下がっていた」
真名水が悲しそうな目で自嘲の笑みを零すのを、祐巳は息を呑んで見ていた。その時にははっきりとこれが彼女の『罪』の話なのだと理解していた。話はまだ終わりではないようだ。
「その後、葬式までの数日は記憶がはっきりとしていない。ただ、事件自体は、私達の罪は問われなかった。未成年であり、遺言も無かったため自殺との因果関係が曖昧だったためと、公式には記録されているが、実際は私が地元の名士の一族だったからだと思う。彼女達は自分たちが追求されないことを喜んでいた。でも、私は―――・・・いや、本当は彼女たちが心の中でどう考え、思っていたか、わからない」
「訊ねてみないのですか?」
祐巳が訊くと、真名水は難しい顔をして、
「無理だな・・・全員死んだ」
と言った。
「死んだ・・・?」
不自然な話である。その取り巻きが何人いたのかはわからないが、ともかく複数人がいっぺんに死ぬなど、真名水ぐらいの年代としてはほぼあり得ない。これは意図的に何かがあったと見るべきだ。
「殺された・・・私以外な。一年ほど前、喜代子の、彼女の弟に。因果のことに、姉の復讐のために犯罪者となった男は、刑事となった仇の一人に逮捕されることになった・・・」
深く息を吐いた。祐巳はその時、真名水が警察関係者だったことを知った。
「その時、私は彼に問われたことがある―――『なんで、お前みたいのがのうのうと生きて、姉さんが生きていないんだ!』―――と、ね・・・」
自分に向けられた言葉では無いのにも関わらずその言葉は祐巳の胸に鈍く響いた。なんで自分みたいのが、卑下するつもりはないがそれはずっと持ち続けた自答であり、それを問われることがあることに少なからず衝撃を受けていた。
「どう・・・応えたのですか?」
「・・・『さぁ、私もそれは不思議に思っている。もっとも・・・あんたに殺されてやる気は毛頭ない』――最悪だろ?」
「いえ・・・」
まったくそれが最悪だと思わなかった。むしろそれは―――
「すごいこと、だと思います」
「ありがと」
祐巳の素直な賛辞に、真名水は泰然と笑った後、タバコを取りだしてくわえた。昔語りはここで終わりのようだ。
「ところで―――それ、ホントに火をつけないんですね」
「これね・・・ちっこいころから、何か口にくわえていないと落ち着かなくてね。指じゃかっこわるいし、じゃあファションとしてタバコでも、って友人にな。そんときに火は点けたんだが、咽せて・・・・ゲロっちゃって、あははは―――それはそうと、あんたはどうだ、少しはすっきりしたか?」
「え・・・?」
「今日、初めて弓削ちゃん、アンタの顔を見て面白いと思ったんだ。何やら、途方に暮れているというか、自分の悩みが分からないようなそんな顔だったんで。それでこんなつまらない話をしたんだが―――どうかな」
「それでいきなり『何人殺した?』ですか?」
初対面にして自分の心情を的確に捉えた目の前の相手に賞賛に近い苦い笑いを送った。それをみて、真名水は満足そうに微笑んだ。
「においが、な、私のよく知る男に似ていたんだ。もっともそいつに関しては、悩み云々は無さそうな男だがな、ふふ」
誰のことかわかるわけもなかったが、真名水のたぎるような瞳から察するに、少なくとも彼女にとっては色恋沙汰とはほど遠い存在のようだ。
「で、どう?」
「すっきり―――とはいきませんが」
「なら、良かったな」
その後は帰宅の時間まで、二人とも喋ることはなく静かな時間が流れた。
こうして祐巳の出社一日目は終わった。
「罪・・・か」
祥子と共にオフィスから出た後、祐巳たちが帰ったのは朝出かけた小笠原邸ではなく、OSSeS本社から車で十分ほどのところにある地上54階の高級高層マンション、その最上階の一室であった。ここは祥子が会社に近いということで借りた部屋で、寝るためだけに借りたのにも関わらず何故か3LDK、64坪ある。この広さの意味は祐巳にはまったくわからなかった。
祥子はバスルームに入っていて、かすかに細かい水音が祐巳の耳に届いていた。
祐巳はベッドに腰掛けて、今日の真名水との会話を思い出していた。『罪』の話、真名水の回想、彼女の姿勢―――それを見聞きして、すっきりしたわけではない。だが、明らかに心情に変化、整理がついた。それで改めて祐巳は思う。
(ホント、私って馬鹿・・・)
馬鹿だと思うのは『罪』を認識していなかったことに対してではない。それすら意識しなかったという、そうそれはつまり―――
(私、自分自身を理解していなかった)
自分を卑下しながらも、罪悪に頓着せず、罪悪感はあったのにそれを考えず―――十年間をただの十年としか考えていなかったのは、お姉さまだけではなく自分もであったことに、祐巳は今更ながら罪の話を通して気が付かされた。そして、罪に表意されるモノは―――そう『この十年の祐巳』、そのものと同じだ。
そう十年間を否定していたのは結局のところ祐巳とて同じであったのだ。自分自身を受け止めようともしていない人間が他人に受け止めてもらおうなど、俄然おこがましい話なのだ。
「ふぅ」
そこで、バスルームからシャワーの音が途絶えたのを聞いて、祐巳は立ち上がる。それを理解すれば、今すべきことは一つである。
「お風呂入って、寝よ・・・」
寝て、起きれば朝が来る。朝が来るなら明日することは明日すればいい。まずは銃の手入れでもしよう。それからだ。
「そういうものかな・・・?」
祐巳はそう呟いて風呂場に向かった。
―――翌日、すっかり煤の取れた愛銃が祐巳の机に置いてあった。
オマケ
「ところで真名水さん、お幾つなんですか?」
「弓削ちゃん、女性に年齢訊くなんて野暮野暮・・・じゃあ弓削ちゃんは何歳?」
「27です」
「じゃあ、九つ上だ」
「へ・・・?」
「私は36だ。けっこう見えんらしいが、十八の娘もいる」
「な・・・・!!!!」