ある日、呉二より忘れ物だと上海から日本へ持ち込んで、呉二に預けたままにしてあった荷物を受け取った。そんなに量はない。着替えと、財布、あとは化粧道具などの細かい日用品ぐらいで、手提げ鞄に入る程度のものだ。
その荷物の一番上部にあったのは―――私の親指の長さほどの直径しかない、あの懐中時計だった。
紅き天使のレクイエム外伝 バースデイ 前篇
「誕生日会?」
祐巳は昼休み、OSSeS本社の敷地内にあるイタリアンレストラン『コロッセオ』で、由乃と食事をしていた。由乃が勤める出版社もこの近くにあるため、週に一回のペースで二人、またはたまに剣道の講師としてOSSeSに呼ばれる菜々を加えて三人で食事をしている。今日、菜々は講師の日ではないのでここにはいない。
そこで切り出されたのは由乃の娘、つまり祐巳の姪にあたる真(ま)祐(ゆ)の誕生日会の誘いだった。しかしながら、祐巳は、十年経って帰ってきてみれば、親友と弟の間に子供が生まれていて、その子に伯母ちゃんと呼ばれるようになるとは、夢にも思っていなかった。もっとも、真祐は今度三歳になるため、はっきりと「ゆみおばちゃん」とは喋れないが。
「十一月三十日が真祐の誕生日なの。…・『お義姉さま』は都合があいていらっしゃるでしょうか?」
ほくそ笑みながら由乃が祐巳に言う。たしかに、祐巳も由乃に対していた、理想の妹という幻想を抱いていた時期もあった。しかし、その幻想が崩れ去って幾星霜、親友となった今となっては、戯れでも――いや戯れこそ、か?――そう呼ばれるのは気恥ずかしいやら、言っては悪いが気色悪いやらで、祐巳はちょっとやめてほしいと思っている。
「その…『お義姉さま』っていうのは…ちょっと―――」
「いいじゃない、祐巳さん。事実だし」
正論なのだが、祐巳は納得いかない。
「せめて、『お義姉さん』とか…」
「変わらないわ」
一刀両断である。この二ヶ月に及ぶこの手の応酬は祐巳の全敗に終わっている。それもそうだ、由乃は単に祐巳をからかっているだけであるし、祐巳もたしかにやめてほしいとは思っているが、実はそれほど悪い気はしていない。本気で祐巳が嫌がれば由乃も改める…はずである。
「それは、いいとして…祐巳さん?来てくれるの、こないの?」
「それはよくないんだけど…まぁ、たぶん、大丈夫だと思う」
いまいち、自信が無かったので、上着のポケットから手帳を取り出す。その時、邪魔になった懐中時計も一緒に出して、とりあえずテーブルに置いた。
「休日でとくに仕事が入っていないから大丈夫…?」
手帳を覗いていた祐巳は由乃の様子が変なことに気づき顔を上げた。みると由乃はせっかく祐巳が承諾の旨を伝えていたのにも関わらず、祐巳の右の手元を凝視していた。左手だけで手帳を持っていたので、右手は手持ちぶさたでテーブルに置かれていた。そこには――
「この時計が気になるの?」
「誰かのプレゼント?」
由乃は興味津々に食らいついてくる。本人は怒るかもしれないがこういうところは、江利子に似ている。
「んーと…まぁ…そうね」
「…・男の人?」
由乃が祐巳の方へ身体をぐいっと突き出す。目が輝いている。
「えっと…」
祐巳はそっぽを向く。別にやましいことは無いので話してもいいのだが、どうもぐいぐい身を乗り出す由乃には話しづらい。気分的に。
「そう…だけど…」
「うそぉ?!なになに、気になる。おねえさんに話してみなさい」
(……私が『お義姉さま』だったような…?)
祐巳は密かに心の中でツッコミを入れたが、声に出そうものならさらにややこしくなるのはわかりきったことであったので、敢えては言うような蛮行はしない。
話自体は別に話せないようなものではない。もっとも好んで話すようなものでもないが。
「あんまり良い話ではないけど…いい?」
「むしろ、そういうの聞きたい」
その由乃の言葉になぜだか顔が弛む。
「…・ありがとう」
「な、なんで?」
由乃がお礼を言われた理由がわからないと目をぱちくりさせて祐巳を見たが、祐巳は微笑み返しただけだった。本当はどうして自分が礼を言ったのか、自分でもわからなかったのだ。
「なんとなく――――あれは三年ほど前だったかな…広州の―――」
―――広州のとあるホテル。
その日、一仕事を終えた私はシャワーを浴びていた。理由は明確、主に下半身に付着した白い体液と、上半身にかかった紅い返り血を洗い流すためだ。
仕事――つまり人殺し。殺したのはとある会社社長、なんで私に殺されることになったのか、私も聞かされていない。聞くもなかった。今頃、扉二つ向こうのベッドで急速に冷えていることだろう。簡単な仕事だった。それだけだった。
シャワーの蛇口をきゅっとしめると、今まで圧倒的な水音で聞こえなかったが、携帯電話が鳴っていることに気がついた。おそらく私のだ。
タオルで体を拭きながら、バスルームを出る。脱ぎ散らかした服の上着を取って、携帯をポケットから抜いた。液晶画面を確認する。
「…呉二から、か。―――私だ」
『お、ブラッド。すぐに出なかったようだが?』
「シャワー浴びていた」
『それでは、任務無事完了か』
「まぁね…難点はじじいの癖に精液出しすぎだったことかな。おかげで落とすの大変よ―――で、何の用?このあと、何か変更でも?」
常であれば、あらかじめ決めておいた地点で呉二または組織の雑用に回収される。しかし、連絡があったということはなにやら事情が変わったということだ。
『ああ、香港に来い、だと、さ』
「香港に?」
本来であればここのまま本拠の在る上海に戻るはず。たしかに香港には『蚩尤』最大の支部が置かれている都市ではあるが、祐巳にとってはそうそう用の有る場所ではなかった。
『どうも例の『和寇』との提携、まとまったらしくてな。その顔見せに呼ばれたらしい』
「『和寇』…ああ、あれか」
私は饕餮がそういった話を精力的に進めていたことを思い出していた。そういうことには疎いので、というよりもそもそも関心がないので、その時はよくはしらなかった。
『和寇』は西太平洋沿岸を中心とする犯罪組織で、一定の土地に勢力基盤を持たず闇マーケットのネットワーク上に存在する組織で、提携することで人、物、金を効率よく今までより広く運べるようになったらしい。そういう面ではあまり関わりがなかったので、まったくわからない。
「でも、なんで私が?」
『そりゃあ、簡単な話だ…オレ達の方が暗殺は十八番だろ』
明確な答えである。『蚩尤』は暗殺という行為でのし上がった面があるし、実際、現在の実力者であるところの饕餮も元々は組織の暗殺者であり、奴の権力基盤そのものが『暗殺』であった。
「それで…私?饕餮の奴が出れば十分でしょ」
『饕餮はそうは思わなかったようだな…それに『和寇』のボスは日本人だ―――ま、なんにしろ…拒否権はいつものようにないようだ。とっと済ませて、上海に帰ろうぜ』
「わかった」
『では、下で待っている―――』
西に珠江を臨み、私の乗る車は海岸線を南に九龍半島を目指していた。車でおおよそ二時間というところだ。私が助手席に座り、呉二が運転をしていた。
「そういえば、『和冦』のボスが日本人って言っていたわね。来てるの?」
「ああ、香港に来ているらしい。たしかヒロセ・ケンイチロウという名前だ」
ヒロセは広瀬か、まあ、どこにでもありそうな名前だ、と思った。
「結構、若い、まだ三〇の前半――三十三歳だ」
「ふうん…で、どんなやつ?」
とくに広瀬という男に興味はなかったが、ペットボトルに口をつける以外にやることがほとんど無い車内で、気晴らしに広瀬に関するデーターを呉二から聞くことにした。情報なしで会うよりも、有って会ったほうが何かと都合が良いということもある。
「俺も直接会ったわけじゃないからな…聞いた話だぞ」
「かまわないわ、気晴らし程度に聞くだけだから」
「それならば、いいな。ヒロセ・ケンイチロウ、三十三歳。日本の長野県出身、中学の頃から地元の暴走族に入り、その中でNO.2にまでなったらしいな。その後、ジャパニーズ・マフィアに入るものの、二十二歳の時、母親を殺害して、ロシアに逃亡。モスクワマフィアに匿われて一員となり、モスクワ系とは仲の悪い極東系との間のパイプ役となって頭角を見せる。三年前、三十歳の誕生日に独立を許されて『和冦』を立ち上げて、西太平洋の闇市場を中心に東西の諸組織のパイプ組織として拡大…で現在。こんな感じか」
「パイプ組織?」
「ロシアンマフィア時代にモスクワ系と極東系を利害で結びつけた…これを世界中の組織でやろうとしているわけだ」
どこかで聞いたような話―――日本史の時間で聞いた、薩長同盟だっただろうか、それに似ている。仲の悪い両者をワンクッション入れて結びつけ、大きな利益を生もうとしているわけである。
「もっとも…本音は知らないがね」
「本音?」
「裏の流通網の支配―――邪推かもしれないが」
裏の流通網の支配…それができれば、世界の半分以上を手に入れたのと同じことになる。その推測が正しいなら饕餮はまんまと乗せられたことになるが、おそらくそれを承知の上で彼らを利用するつもりなのだろう。もっとも、それは彼ら『和冦』も同じ――そういう世界である。
「そうだ…ブラッド。誕生日で思い出した」
「何?」
「明日、誕生日だろう、26の。おめでとう」
その時、多少の意表をつかれたのを覚えている。ポカンとした間抜けな顔になっていたかもしれない。
「…・ほんと、何でも知っているのね」
正直言えば、そのとき私自身、自分の誕生日を忘れていたというのに。
「で…どこにその時計が出てくるわけ?」
一旦、話を切り、祐巳が口を休めさせるためにアイスティーでのどを潤すと、いつまで経っても出てこない手元の時計に業を煮やして由乃が、じと~、とした半目で訊いてきた。
「あ、いや…まだ、これから。香港に着いてから…そう香港に着いて―――」
香港に着いて、私たちは九龍側ではなく香港島のコーズウェイ・ベイにあるホテルに向かった。大通りに面した大きな―――そして有名なホテルだ。
「随分と高級なホテルだ。わざわざ…」
「貿易会社同士の提携のための会議―――ということで、偽装したらしい。まぁ、たしかになんで、わざわざこんなとこでやるのか…」
後で聞いた話だと、ここを指定したのは『和寇』、つまり広瀬だったらしい。
ともかく、呆れつつも、私たちは煌びやかなホテルのロビーに入り、会議室のある七階へ向かった。七階にはいくつかビジネスの用の会議室が用意されていたが、その中でももっとも大きい会議室に通された。私たちは出席者の中では最後に着いたようであった。部屋の中にはすでに『蚩尤』側は、副頭領の高太源、実質的指導者である饕餮、饕餮の部下の呉一、建櫂水が座り、八人もの護衛たちがその背後に並び立っていた。一方の『和冦』側はたったの三人、東洋系の男二人、白人の女性一人という構成で、護衛はいなかった。
私は櫂水の隣に座り、呉二はその他の護衛とともに私の後ろに副官よろしく直立した。まず『蚩尤』側から高、饕餮、呉、建、そして私が順に自己紹介をした。もっとも、こういう集まりだ。和やかな雰囲気とはいかないし、私は面倒臭いという気持ちを隠そうともしていなかった。
それ比べると『和冦』側には何かしらの余裕のようなものが見えた。まず真ん中に座っていた男が笑顔で挨拶した。ただし辿々しい普通語であったが。
「私が長の広瀬健一郎です、みなさんと友好を結べることをうれしく思います」
その後に続いて、その右隣にいた男性がこれは流暢な普通語で自己紹介をした。それもそうだ、彼は元々中国人であった。
「はじめまして、陳梁衛です。この会議で通訳と、今後の折衝を担当させていただきます。まさか、このようなご高名な方々とともに仕事ができるなど感激で身が震える思いです」
仮面に張り付いたような特大の作り笑顔と、修飾された言葉の裏に、凶暴な毒牙を持っていそうな男であった。
最後に白人女性が何やら挨拶した。スーツドレスに身を包み、色素の薄い、長い髪が波を打っていて、女神――いや、その子孫たる魔物のような美女だった。しかし、その時話したのはロシア語のようで私には理解できなかった。唯一、名前がイリーナということだけは聞き取れた。
すると陳がロシア語を普通語に通訳して、
「初めまして、ご機嫌いかがでしょうか。私はイリーナ・ワレンチノブナ・デムチェンコといいます。この場に座れることをうれしく思っています」
と述べたが、少々堅苦しいのであまり巧い訳とは言えなかった。その後、彼女とは何度か会っているが、少なくともこういうしゃべり方をする女性ではない。
ともかく顔見せはこれにて終了で、その後の話やら約定の締結などは饕餮と高副頭領の仕事で、私はなんで私が呼ばれたのかわからないほど、することがなかった。
「―――祐巳さん、祐巳さん」
祐巳が一息ついたところで由乃が声をかけてきた。凶悪なまでにニッコリと。祐巳は祖に意味をとれずに、首を傾げた。
「な…なに?」
(懐中時計がいつまで経っても出てこないから業を煮やして?!)
と、祐巳は予想してみたが、それははずれていた。無論、凶悪な笑みにはそれも要因の一つにあるようだが。
「昼休み―――終わっちゃうのだけれど?」
「あ…」
見れば一時五分前。二人とも定時に戻る仕事ではないので、多少遅れてもかまわないのだが、それでも遅れて良いことはない。話に夢中ですっかり失念をしていたようだ。
「続きは今度、聞かせてもらうわ―――それで真祐の…」
「行く、むしろ行かせて―――たまには伯母さんらしいこともしないと」
祐巳が笑うと、由乃も笑った。しかしそれはすぐに屈託のない笑みから、悪戯っぽい笑みに変わる。鞄と会計表を持って由乃は立ち上がり、去り際に、
「それでは、お義姉さま、ごきげんよう」
と言ったので、祐巳は渋い顔で、
「『お義姉さまは』やめて…―――ごきげんよう」
と小さく手を振って、それから時計をポケットに突っ込もうとして、手を止める。考え込むようにして、時計を凝視する。
そしてぽつりと呟いた。
「プレゼント…どうしよう…・」
大問題だった
後編に続く…