紅き天使のレクイエム追捕篇   作:順砂

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紅き天使のレクイエム外伝 バースデイ 後篇

 今日は休日だ。お姉さまは家の用事があるとかで、本邸の方に戻られて、この無駄に広いマンションの部屋には私一人だ。

 今日はたしかに休日だが、何しようかと悩まずに済むのがうれしい。そう今日は姪、真祐の誕生日パーティーの日。服装はいつものスーツ姿だが、普段より少しだけおしゃれをして、家を出る。悶々と悩んだ挙げ句、昨日の夜、お店が閉店する直前に滑り込む様にして買ったプレゼントを抱える。そんなこともあって妙に緊張していた。

 首には古びたロザリオ、そして、当然のように私のスーツ胸ポケットではあの懐中時計のチェーンが揺れていた。

 

 

紅き天使のレクイエム外伝 バースデイ 後篇

 

 

 電車でM駅に向かい、懐かしいリリアン女学園に向かう循環バスに祐巳は乗り込んだ。学園前のバス停で降りて、徒歩十分弱、以前に比べてどうやら改築されているようだが、そこには十年前と変わらぬ場所に島津家と支倉家が並んで建っていた。島津家の方には福沢の標識もかかっている。訪ねるのは帰還後二回目だが、祐巳は不思議な感覚に襲われる。まったくもって浦島太郎である。

 インターフォンを鳴らす。何か手を離せなかったのか、二十秒程経ってから、スピーカーから声が返ってきた。

『はいはい、誰でしょうか?』

 由乃の声で祐巳はなんとなくホッとした。

「えっと…福沢です」

 こういうときに改めてどう自分の名前を伝えるのか悩むところで、祐巳は咄嗟にそう言ってしまった。

『…うちも福沢よ、祐巳さん』

「…たしかに」

 突っ込まれてから、そのことに気が付いたが、結果的に由乃に祐巳だと、伝わったので良い、とすることにした。それでわかってしまうのもどうかと思うが。

『まぁ、いいわ。今開けるからちょっと待っていてね』

 その間に荷物を確認すること二十秒ほどして、カチャ、ガチャリ、と扉が開いた。しかし、それを開けたのは由乃ではなかった。なにより小さい、120㎝ほどしかない。ただ、人形のように可愛い女の子だった。

「こんにちは、祐巳ちゃ…さん」

「志保ちゃん?」

 そうやって、祐巳の名前を親しげに呼んだ(むしろ呼びすぎて途中で訂正した)のは、多少、意外な人物だった。それはそうだ、彼女は…

「やっほー、ゆ~みちゃん」

「…聖さま」

の娘の志保である。もっと言うのであれば、聖と柏木の娘で、祥子にとっても遠い親戚になる。この前に祐巳が聞いた話だと、リリアン初等部の一年らしい。

「この間はありがとうございました」

「ん、ああ、あれ?こちらこそ、デート楽しかったよ、祐巳ちゃん」

「また行こうね、祐巳さん」

 デート、というのは、二週間ほど前、祐巳が佐藤母子に拉致されて、一緒にドライブに行ったことを指している。その日の終業後、祐巳は会社の前へ聖に呼び出されて、そのまま長野まで星を見に連れ去れたのだ。おかげで次の日は、出社四日目にして会社を休むことになったのだが

(…でも―――)

「…そうだね、またいこうね、志保ちゃん」

 ―――正直楽しかったから。

「ひどいな~、祐巳ちゃん、私の名前も呼んでー」

 志保の名前しか呼ばなかったことに対し、聖が非難の声をあげたが、全然本気ではなかったのは祐巳は無視した。

「…・で?聖さまはどうして…ここに?」

「ご近所ですから」

 祐巳が訊くと、聖の住んでいるアパートもこの近くだそうで、聖に何か用がある時は大抵、志保を島津・福沢家か支倉家に預かってもらっているそうだ。また、志保は現在支倉道場に通って剣道を習っているらしい。

 玄関でそんな立ち話をしていると、奥から由乃と、本日の主人公真祐が飛び跳ねるように現れて、リビングに案内された。すっかりパーティーの準備も整っており、由乃の両親、令、令の両親、それにやはり家の近い景、さらに菜々もいた。

 祐巳は由乃の父母で弟の義父義母にもなる二人に挨拶をし、そのあと令の父、母、キッチンにいた令の所に赴き、それを手伝ってちょうどサラダを運んでいた菜々とも言葉を交わし、最後に景と会って、「弓子さん」の近況を聞いた。景によれば、病気もせず以前にも増して元気らしく、祐巳を安心させた。

 そうしているうちに大事な人物がいないことに気がつき、それを由乃に訊ねた。真祐を人が変わったように愛する彼がいないのは非常に不自然だ。

「祐麒は?」

 主役の父親であるところの、祐巳の弟、祐麒の姿がない。

 由乃が渋い顔をする。すると、母親の足元でうろちょろしていた真祐が、祐巳を見上げて、

「ぱーちゃ、おしとと。けーき、けーき!」

と言った。だが、実際はまったく明瞭ではなく、文字に置き換えるのも難しいほどで、祐巳にはいまいち何と言ったかはわからなかった。しかしながら、「ぱーちゃ」は祐麒のこと、「おしとと」はおそらく「お仕事」のことだろうと判断しておいた。

 それを確かめるためにも、由乃に、

「仕事?」

と訊くと、渋い顔を多少ゆるめて、由乃が呆れ顔にしてから肯定した。

「そ、なんかの引継だって…頭下げながら出ていったわ」

「引継…じゃあ、統括部の方かな…」

 大学卒業後、OSSeSに勤めいた祐麒だったが、年明けから退社し、請われて政治家秘書になることが決まっていた。政治家とはつまり先輩であるところの代議士柏木優である。祐巳には何故、わざわざあんな男の秘書になるのかわからなかったが、もしかするとあらかじめそういう約束があったのかもしれない。それはともかくとして、そのために現在、OSSeSの様々な部署に関わっていた彼は引継や残存した仕事の整理に追われているのだ。しかし、それほど緊急性のあるものばかりではないのに、休日に呼び出されるということは、刻一刻と事象の変化する情報統括部関係の仕事ぐらいであろう。

 祐巳としては、自分を捜すためにOSSeSに入り、自分が見つかったことで本来の道に戻ることができるようになった弟に、いくらかわいい姪のためとはいえ、怒ることはできない。

 その表情を読みとったのか、溜め息をつきながら由乃が言った。

「祐巳さん、別に怒っている訳じゃないのよ…困っているのよ」

「困る…?」

「祐麒ったら、出る前に『ごめんな、でも、大きなケーキ買ってくるから』って、真祐に約束して行っちゃったのよ…!令ちゃんが張り切って前日からケーキの仕込みしていたっていうのに…」

「それは……・困った、ね……」

 大人二人の心配をよそに足下では、真祐がその周りをくるくる巡りながら「けーき、けーき、けーき」とうれしそうに戯れていた。

 

 

 そんな心配をよそに張り切りすぎている令の料理が完成し、パーティーが始まった。最初は親元にいた真祐と志保だったが、そのうちに「おじいちゃん」、「おばあちゃん」たちの集まる方へ行ってしまった。既に作られた料理もかなり片づいて、残ったものはラップがかけられ、夕食時を待っていた。そういうわけで、人の集まりは二分され、自然と祐巳の周りには旧山百合会メンバーに景が入る集まりとなっていた。

 そんなとき、由乃が、

「そういえば…この間の『それ』の話―――」

と、祐巳の胸ポケットに垂れ下がるチェーンは指して言った。

「―――まだだったよね?」

「なんの話ですか?」

 菜々が訳の分からない他の面々を代表したように訊ねた。

 すると、由乃が待っていましたというばかりに面白そうに笑った。

「祐巳さんの艶っぽい話」

 するとほかの三人から三種三様の反応――意外そうな顔をする菜々、目を瞬かせて無言で驚く景、驚いて飲んでいたお茶を元のコップへ軽く吹き出したあと、一瞬考え込んで、にやり、と笑った聖――をした。

「そ、そんな話じゃ…」

 祐巳はあわてて否定をしたが、もう遅かった。全員の注目が祐巳に向いていた。

「それでは、どんな話なの?」

と、景に訊かれて、祐巳は一拍間をおいてから、

「本当にそんな話ではなくて―――期待して聞いたらがっかりしますよ」

と言ったが、聖が、

「それでも、いいから。言わないなら…お姉さんと艶っぽい話をつくっちゃうぞ」

と、楽しそうに笑った。なぜか手をわさわささせて、いかにも「おそっちゃうぞー」という風に。祐巳はそれを軽くあしらってから、顔を見回して観念したように息を吐いた。

「わかりました。話します。由乃さんとの約束でしたし。あらすじは別にいいですね、たしたものじゃないですし。それでは……三年前の香港で―――」

 

 

 

 ―――三年前の香港で『和冦』との会合の後、日はとっくに沈み、私と呉二はホテル27階のバーに入った。輝かしい香港の夜景が眼下に広がっていた。

(百万ドルの夜景とは言うけれど、たしかにそうね―――百万枚の札束をばらまいたような雑然さだ)

 カウンター席に座ればそれも横目でしか見えなくなった。他の客もちらほらいたが、皆夜景を見るためかテーブル席に座っていて、カウンターには二人だけだった。

「福沢祐巳の誕生日を祝って」

 呉二が大まじめな顔で、スコッチのストレートが満たされたグラスを掲げたのを見て、私は苦笑した。

「やめてよ」

 そう言って、私は赤ワインに口をつけた。すっかり、どうでも良くなったことを祝われても、このバーの雰囲気を崩すだけ。

「それじゃ、勝手に心の中で祝わせてもらうよ」

 この年上の男は気分を害した様子もなく、ただ笑って、杯に満たされた飴色の液体を一口飲んだ。どうでもいいことかもしれないが、私には割らないウイスキーを飲む気にはならない。味が強すぎる。

「…プレゼント代わりと思ったが、あんまり乗り気ではないようだな」

「そうでもないよ…それなりに酒を楽しんでいる」

「ならよかった」

 その後は、会話がとぎれ、しばらく静かに一杯の酒を味わっていた。すると、私の一つ席を別の客が座った。男女二人連れの客で、見覚えがあった。向こうも気がついたようで、席をつめて挨拶をしてくる。

『え、えーと…』

 男が馴れない普通語で話しかけてきた。

「日本語で大丈夫よ」

 私がそう言うと、向こうは多少の驚きの後、

「…なら良かった。中国語は下を噛みそうになるのだよ。たしか、『ブラッド』だったかな?…同朋かい?」

と、ほっとした様子で日本語に切り替えて話してきた。『和冦』の広瀬だった。別に親切心で教えたわけではなく、ただ下手な普通語を聞かされてもこっちが疲れるからという理由だった。

「ええ、日本人よ」

 私が肯定すると、広瀬の隣から感心したような声が聞こえてきた。あの会議のときにもいたロシア女性だった。

「ヘェ、日本人なんだ。『蚩尤』では珍しいんじゃない?ちなみに、さっき、挨拶したけど、私の名前はイリーナよ。愛称はイーラ、こっちで呼ばれるほうが好み」

と、驚くほど流暢な日本語で言った。着ている服装は会談の時のしっかりと決めたスーツドレスだったが、この時にはカジュアルな黒いフレアスカートに、幅広い袖のブラウスという格好に着替えていた。一見しただけではマフィアの幹部にはとても見えず、良家のお嬢さまか、奥様風である。後々に会ったときも彼女はこんな格好だったので、こういったゆったりした服が好きなのかもしれない。

 その時、私は彼女に一瞥を向けただけで、あとはただワイングラスに目を傾けるだけであった。そんな私の無愛想な様子に気を悪くすることはなく、その間に広瀬とイーラはそれぞれスコッチ・ウイスキーの水割りと、スパークリングの赤ワインを注文した。

 酒杯が手元に届くと広瀬が、

「『和冦』と『蚩尤』のさらなる深交を願って」

と、私にグラスを傾けたが、私は、

「そんなの―――くそくらえだ」

と突っぱねた。すると、二人は気を悪くするどころか、

「あふふう…はっははは…!ケンイチロウ、あんた歓迎されてないわね、うふふふっ」

と、広瀬の横のイーラが大笑いしながら、広瀬の肩をぽんぽんと叩く。広瀬のグラスから茶色い液体が零れ、それを置いた広瀬が恨めしそうにイーラを睨んだ。

 それを見て、さすがに私も面を食らったが――仮にも一組織のボスに部下が、と。もっとも、その前の自分の態度を考えると人のことを言えた話ではないけれど――、それによって少しだけこの二人の関係が見えてきた気がした。対等に近い関係であるということが。

 そのあと、イーラが広瀬の肩越しにこちらを前屈みに覗き込んで、訪ねてきた。

「まぁ、でも、じゃあ何に乾杯しましょうか?ご両人はもう楽しんでみるみたいだけど?」

 そんな言葉に答える気もなく私はただただグラスを眺めて無視した。しかし…

「こっちは『ブラッド』…福沢祐巳のバースデイに乾杯さ」

と、呉二が妙に嬉しそうに余計なこと宣伝してくれた。そうすると、さらにイーラが身を乗り出してきて、広瀬があわててカウンターに置いていた自分のグラスを持ち上げた。

「バースデイ…?誕生日なの?」

「ああ、なあブラッド?」

 したり顔で声をかけてきた呉二に私は不機嫌に鼻を鳴らした。

「ふん…余計なことを…」

「いいじゃないか―――誕生日は大勢で楽しんだほうが良い、とくにこんな稼業だ。そうそうめったにないもんだ」

 

 

 

「ま…今となっては…たしかに、誕生日はみんなでやったほうがいいと思うよ」

 祐巳は、真祐と志保たちが由乃や令の両親たちともに繰り広げている異常なまでに盛り上がったババ抜きを横目で見ながら、しみじみ言った。どうやら令の父が子供たちにまで大敗を喫しているようだ。無骨で一直線な令の父親にはそう言うゲームは向いていないのかもしれない。

 ところが、そんな視線を送っている祐巳の様子を見て由乃が一言言った

「まぁ、かわいそうに祐巳さん、老け込んじゃって」

「…それこそ、余計。ま、いいか、まぁそれで、結局―――」

 

 

 

 ―――結局、私も文句を言うのすら面倒で、四人で飲むことになったのだが、主に喋っていたのは、両端の二人――呉二とイーラ――で、そこへたまに広瀬が加わるような形となった。

そうこうやりとりを完全に傍目として見ていて…広瀬というのは分からない男だ、と思った。見た目は若いが、妙に落ち着いていてずっと年上にも見える。落ち着いているというか、常に変な余裕なみたいものを垂れ流しているからかもしれない。その割には親しみやすく、妙な求心力を感じた。この歳で一組織の首領であるというのがよくわかる気がした。私はそういうやつは気にくわないが。

イーラが大物ならば、広瀬は傑物という感じか。

しばらくそのメンバーがカウンターに並んでいたのだが、まず日が変わらないうちに呉二が朝には所用でフィリピンへ旅立たないとならないために退席し、次に一番楽しんでいたイーラも「夜更かしはお肌に悪いから…」と名残惜しそうながら部屋に戻っていった。

 私と広瀬だけ残った。そうすれば何も話すことはない。後ろの方でどこの人間か知らないが、酒を飲んで騒いでいるが、この隣席間では静寂が漂っていた。

 そんなふうに私が時間と空になったワイングラスを手の中でもてあましていると、広瀬が残っていたスコッチを一気に飲み干してからグラスを私に掲げて言った。

「飲み足りないなら、俺の部屋で飲むか?」

そう誘ってきた。無論、これが単なる酒の誘いではないことぐらい十分にわかっている。それでも私はとぼけて見せた。

「何を飲むのかしら?」

「毒の味の入ったワインでも、短剣のように鋭いウォッカでも、それとも―――すこぶる甘い蜜酒でも」

 広瀬が笑った。とんだ男だ。そして、大した度胸だ。普段なら、くだらないと突っぱねるところだが…何故か私はその時そうしなかった。

「――――…私を抱きたいなんて、物好きね」

「ずいぶんとストレートだな…で、どうだ?」

 微笑をたたえた広瀬の顔を見て、よくわからなくなった。この男は魔術でも使えるのだろうか―――なんてことはなく、きっと酒が回っているだけ。

「私はかまわない…」

「そうか」

 私も残っていた血のようなワインを飲み干した。

 

 

 

「…」

「…」

「…」

「……で?」

「聖さま…こういうのは訊かないのがマナーです…ともかく、そういうことがあって―――」

 

 

 

 ―――行きずりの逢瀬が終わり、軽い疲労と虚脱感覚えて、私は広瀬の胸に頭を伏していた。

「…」

ゆっくりと顔を上げて広瀬の顔を見た。

「失敬な男…」

「なにが?」

「まぁ、私は気にしないけど――最中に他のことを考えているのは、女性に対して失礼とは思わない?」

 そう私が忠告すると、広瀬は苦笑いした。

「みんなそう言うんだよな…何故か」

「無意識?…それはなおたちが悪い―――まぁいいわ、シャワー浴びてくる」

 私は裸のままずかずかとシャワー室に向かった。広瀬が何を考えていたか――もっともこんな時に考えているのだ、別の女のことだろう――気にはならなかった。むしろ、だからこそ、本気にはならず気が楽だった。

 心地よい水音と細かい湯の感触に身をゆだねながら、

(そういえば昨日も性交の後にシャワーを浴びたな…)

と何気なく思い出し、二日連続というのは久しぶりだと思った。

そして…血を見ないのも久しいことだった。

最近のそういうことは必ず『仕事』の最後の仕上げにすることが多かった。相手を油断させると同時に、裸なので服を汚さないという利点があるので、私はこの方法で良く人を殺した。

汗を流す程度で蛇口をしめて備え付けのバスタオルで髪を拭きながら戻ると、裸にガウンを羽織っただけの広瀬がベッドの上で何かを眺めていた。鏡か―――時計か。

「広瀬、お前は?」

「俺の部屋だからな、あとにする」

「そ」

脱ぎ散らかした服を集めて、着込んでいく。男の前だが別に気にはしない。

「なんだ…泊まっていかないのか」

「独りじゃないと熟睡できないの」

 私はそう言いながら着替えを済ました。最後に、化粧台に置いておいた拳銃、ナイフ類を身につける。

「アクセサリーの代わりに、武器か…色気がないな」

「悪かったわね――でも、こういう女だと知って抱いたのだと思ったのだけど?」

「ハハ…たしかに。しかし、時計すら持っていないのか?」

「……!」

 私は言われて、初めて気が付いた。腕時計が無い――ブルガリの男性用…の偽物――だったが、それがどこにも無かった。ここで外した記憶もなく、おそらく―――

「――広州に忘れたか…」

「時計をなくしたようだな」

 広瀬の笑う声が聞こえて、私はキッと睨んだが、広瀬の笑いは止まらず。逆に私は恥ずかしくなった。

「素っ気ない“先ほどの醜態”よりも、そういった醜態の方が可愛いぞ、ブラッド」

「だまれ」

 うっかりでは済まされない、証拠品を残すことに動揺しているところにそんなことを言われて、耳が熱くなっていることに気が付いた。おそらく広瀬には見えてはいないだろうが、気が付いてはいるだろう。失態だ。

 すると、何を思ったか、広瀬が手に持っていた何かをこっちに放り投げてよこした。私はそれを宙で掴みとった。

「…懐中時計?」

「母の形見だ…」

「母…?」

 私の記憶が正しければ、その母親を殺したのは―――そう思っていると、広瀬が自嘲にも似た笑みを漏らした。

「まさか、俺が殺ったというデマを信じているわけじゃないだろうな…」

「違うのか?」

「ああ…もっとも、日本ではそれで俺は指名手配されているが、な。色々、悪事に手を染めているが、断じてそれだけはやってない。濡れ衣さ」

「…で?」

 今の話が本当かどうかは分からない。ただなんとなく…嘘ではない、気がした。どちらせよ、どうでも良いことだ。それよりも手元にあるこの「形見の時計」だ。

「やるよ、バースデイプレゼントさ」

「ふん…くれるというならもらっておく」

 シンプルでコンパクトな懐中時計で趣味に合っていた。私はそれを胸のポケットにさっと滑り落とした。そして、礼も言わずにきびすを返して部屋の扉に向かった。

 すると、後ろから声がかかる。

「ハッピーバースデイ、『福沢祐巳』…だったかな」

 もらったばかりの時計で確認すると、ちょうど日付が変わったところ――私の誕生日になったところだった。

(気障な奴―――ふっ)

「はっ…良い夢を」

と私は立ち去ろうとしたが、一つだけ思いついたことを折角だから言うことにして立ち止まる。

「―――ああ、あとつまらない嘘はつかないほうがいい」

「嘘?」

「あなたは母親の形見をたやすく人にやる男ではないでしょ?」

 私は背中で広瀬の笑う声を聞いた。

 

 後になってからなぜ広瀬がこの懐中時計をプレゼントしたのか気になった。その場の思いつきかもしれないが、理由があるのであれば知りたかった。しかし、その後、何度か『和寇』の仕事を受けたが、広瀬とはそう個人的に話す機会もなく、そのままになっている。

 

「…とまぁ、これだけなんだけど」

 祐巳は話を終えて、一息ついた。

「…十分、艶っぽい話のはずなのに、色気無いわね」

 最初から由乃が辛口の批評を述べた。もしかすると、冒険恋愛劇でも想像していたかもしれない。

祐巳は困ったように向こうで、いつの間にか七並べをしている志保と真祐をちらりと見て、

「子供もいるから、一応…配慮なんだけど」

と言った。このメンバーだけならば、祐巳も余計なことまで話したかもしれない。

「祐巳ちゃん、で結局、その―――」

 今度は聖がテーブルに置いた祐巳の時計を指さした

「懐中時計はそのマフィアの「母親の形見」だったの?」

「それは、違ったみたい…後でイーラに訊いたら―――」

 

 

(―――『へぇ、あの時計もらったんだ―――ふーん…「母の形見」ねぇ。あいつ、そんなこと言いふらしているけど、実際は…どこぞの女と賭をしてもらった賞品らしいわよ。で、も、けっこう大事にしていたから、その相手に特別な感情を抱いていた、と、私はみているわ。多分あれは片思いよ、きっと。間違いないわ』―――)

 

 

「―――とかなんとか、言ってたから…」

 時計の裏に“M.H”の刻印がある。これは随分前の物なので、Mが名で、Hが姓だろう。Hは広瀬とも考えられるが、Mは健一郎ではあり得ない。とすると、このイニシャルはその女性のものだろう。

(どんな人なんだろう…)

「祐巳ちゃん?」

「あ、いえ…なんでも」

 祐巳がそんなことを考えているうちに、七並べを終えたのか、志保と真祐がやってきた。

「時間もいいので、ケーキにしようって」

「けーき!けーき!」

と言った。

「そう、じゃあ、話もキリが良さそうだし、ケーキを切りましょうか」

 由乃が立ちあがると、その準備のための簡単な片付けが始まった。

 

 この後、令お手製の大きなショートケーキにろうそくが立てられて、真祐が吹き消すとともに、誕生日会第二部というか、誕生日会のメインイベントが始まった。

 時間が経ったとはいえ、先ほどあれだけのご馳走平らげたのにもかかわらず、ケーキをぺろりと食べてしまい、それからそれぞれ今日の主役にプレゼントを渡した。それは絵本だったり、流行のアニメのおもちゃだったり、某キャラクターのグッズだったり…そんな中で祐巳が用意したのは、熊のぬいぐるみのおなかに目覚まし時計がついているものであった。昨日、祐巳がプレゼントを決めかねて、玩具屋迷っていたところ、ふと目があったのがこれだった。このところ、時計のことばかり考えていたせいかもしれない。

 その後、夕方になって祐麒が帰宅したので、祐巳は祐麒にどっきりを仕掛けた。本気でびびっていたので成功だろう。しかし大量のケーキはどうしようもなく、それに頭を悩ましつつ、時が過ぎていった。

 日がくれると、菜々と景が夕食前に帰り、聖と志保は家が近いこともあり、島津家で夕食をとってから帰宅した。祐巳は真祐が寝ついたあと、由乃と祐麒、それに令と大人たちだけでパーティーをした。そして、その日は部屋に空きの無い島津家ではなく支倉家に泊まらせてもらった。

翌朝、目覚めとともに待っていたのは二日酔いと、真祐となぜか朝早くから来ていた(実際は道場に稽古しにきていた)志保の襲撃だった。

 

そうやって、日常が再び始まった。

 

 

 

「祐巳、昨日のパーティーどうだったのかしら?」

「二日酔いです…」

 祐巳が久方ぶりの楽しい時間を過ごした代償に軽い頭痛と気持ち悪さを抱えつつその日は出社すると、開口一番、祥子にそう訊かれた。

「それは…あなたの様子を見ればわかるわ。私が訊いているのはそういうことではなくてよ?」

「えーと…みんな楽しそうでした」

 祥子が頓珍漢な祐巳の答えに溜め息をついた。

「…祐巳、あなたはどうだったのか、それを訊いているよ?」

「あ……――――楽しかった、です」

 祐巳の満面の笑みに祥子はあっと息を呑んだ。そして、祥子もうれしそうに笑う。

「なら…良かったわ」

 祥子は思う。本当に良かった、自分も祐巳もこんなに笑える…と。

「―――そうそうあなたに頼まれていた例の件の資料届いているわよ」

「…ありがとうございます」

 祐巳が祥子から大型の封筒を受け取った。

「でも、どうして…半年前の『広瀬事件』の資料なんて?」

「いえ…ちょっと…」

 祐巳が訊いてほしくなさそうなのを察して、祥子はそれ以上訊ねなかった。ただ一言だけ、優しげに、

「もし、気が向いたらでいいわ」

とだけ言った。

 

 

 

 祐巳は社長室を辞した後、歩きながら資料を確認する。その一枚目の最初の方に最も知りたかった情報があった。

 

“広瀬健一郎……東京拘置所で拘留中…・”

 

 祐巳は皮肉げにその一文を見た後、小さく呟く。

「今度、面会でも行ってあげよう、そう―――あいつの誕生日にでも」

 あとで確認すれば良いと、祐巳は大事そうに資料を封筒にしまった。

 

 

…しかし、それは叶うことはない。彼の誕生日も持たず、二人は再会する。

祐巳はまだそれを知るはずもなかった…。

 

 

 

 

 

「おはよ…って、いないのか」

 OSSeS本社、秘書課分室、白条真名水が少し遅めの出社をすると、そこには誰もいなかった。メリッサ以外のPsには会ったことがないし、そのメリッサしても、現在は中国に渡っていて日本にはいない。あとは呉二と祐巳だが、呉二はまだ会社に来ていないのか、情報部のほうへ行っているかして、ともかくこの部屋には来ていない様子である。祐巳はすでに出社しているようで、荷物が置いてあるが社長室か用を足しにいっているのかして、やはりいなかった。

 ふとコンピューターの置かれたデスクの上をみると、時計――あの懐中時計――が置かれていた。真名水ははっとして、動きを止め、その時計を凝視した。そして、静かにつぶやいた。

「この時計は…」

 

(―――『約束だ、持って行け』―――)

(―――『大事に使わせてもらおう…』―――)

 

 持って裏を見れば“M.H”の刻印、それを見て、真名水は皮肉げにふっと笑った。

「何をしているのですか?」

「ん?」

 後ろから声をかけられて、振り返ると祐巳がいた。不思議そうに真名水のことを覗き込むように見ていた。

「これ弓削ちゃんの?」

「ええ…まぁ…」

 真名水が懐中時計を指さすと、なぜか祐巳がうんざりした顔をした。真名水が知る由もないが、実はあのあと祐麒にも話をして、さらに酔っぱらった由乃にさんざん絡まれたのだ。うんざりしようものである。

「男性からのプレゼント?」

「…その話聞きますか?」

「聞きたい」

 祐巳がため息をついたのを見て、真名水が興味深げに笑った。

「なに、どうせ暇だし、暇だろ?」

 

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