【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~   作:梅山葵

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ゲルテナ展
『暗い美術館の音色』


 芸術好きという輩には、自己中な奴しかいないのか。紫色の癖っ毛が特徴的な、目の前の男を睨み上げながら、イヴは思った。

 

 イヴは、ゲルテナ展を1人で回っている最中であった。もちろん、まだ9歳の少女に過ぎないイヴが、たった1人でこのような催しにやって来たはずはない。イヴはあくまで両親に付き添うという形で、この展覧会に足を運ぶ羽目になったのである。

 

 そんなイヴが現時点で一人行動しているのは、受付に両親2人を置いてきたからに他ならない。長い待ち時間に辟易していたイヴは、面倒な入館手続きを両親に任せて先に美術館巡りを始めることにしたのだ。幸い"とっても良い子"を自負しているイヴは、それを認めてもらえる程度の信頼を、両親から獲得していた。

 

 これにはちょっとした打算もあった。イヴはこの美術展の主役たる、ゲルテナなる偉人のことをよく知らない。なんでもマイナーに部類される芸術家だそうだが、わざわざそんな人の個展に誘ってきたことから察するに、お母さんがかなりこのゲルテナにお熱なのは間違いない。つまりおそらくだが、両親、少なくともお母さんは、かなりじっくり時間をかけてこのゲルテナ展を鑑賞するつもりだろう。

 

 しかし残念。これといった了解も無しに連れて来させられたイヴからすれば、このゲルテナという人物にそこまでの関心を持つことはできない。もしも両親と一緒に美術館巡りをすることになった場合、興味のない作品を無視してどんどん先に進むという選択肢が奪われる未来が容易に想像できる。両親と別れて行動しているのには、そんな退屈を防ぐ意味合いもあるのだ。

 

 そうして1階をあらかた散策し終えたイヴは、まだ受付に時間を費やしている両親を尻目に、その脇の階段を登り…………今に至っている。

 

 視界の多くを占める青色のコートが、イヴの前からどこうとする素振りは見られない。ちなみにそのコートはと言えば、なかなかに前衛的なデザインをしている。この美術館に案外マッチしていると言えなくもないが、あいにく彼自身が作品である訳もなく。

 

 美術館内において、ある特定の作品のすぐ正面にずっと居座ってはいけない。何故なら……今この時にイヴ自身が作品名を読めなくて困っているように、他者がその作品を見る時の邪魔となるからである。じっくりと作品を鑑賞したいのであれば、作品から少し距離を置いた状態で行うべきだ。直前に見た作品である『新聞を取る貴婦人』を観察していた青年がまさにその模範例であった。

 

 もっとも、この理由でこの頭髪ワカメだけを責めるのは酷であるとも言える。イヴはこれまでうろうろしてきた中で、似たような状況のために肝心の題名を読むことが出来ないということが何度もあった。その多くは、「ちょっと見せてもらっていいですか?」と、そう一言尋ねさえすれば、おそらく全ての人が作品前からどいてくれただろう。そう、イヴは確信している。むしろ、先に述べたような礼儀を弁えた人の方がよっぽど異例ですらあり、彼をこそ褒めるべきなのかもしれない。

 

 しかし、イヴ自身はあまり意識しているつもりはないが、イヴはイイトコの御嬢様であった。そんなイヴはお母さんに、ことマナーに関してはかなりみっちり、徹底的に叩き込まれていた。イヴもそんなお母さんの教えを受けて、非常に"良い子"に育った。

 

 それ自体はとても喜ばしいことである。でもそんなイヴは、他者にもそれ相応の品格を求める傾向が付いてしまったのだ。

 

 そう。イヴにとっては、「頼んでどいてもらおう」ではなく、「頼まれずともどいてくれて当然」だった。故にこうして男性の後ろ姿を見上げながら心の内で不平不満を漏らしつつ、でも決して話しかけることはしないのである。

 

 ただ、誤解してはいけない。確かに、「他人が邪魔で作品名を見ることができない」という事例が多発したことは事実である。しかしイヴは、はたしてそれ以外の作品の題を読むことが出来ただろうか? 否。読めたものは正直、多くない。それは何故か? 「イヴが知らない漢字が多かったから」である。

 

 なんのことはない。先程までのイヴの批判、結局は自分の至らなさに対する言い訳も含まれている。自身の失態による責任の所在を見知らぬ他人に押し付けて誤魔化そうとしているあたり、やっぱりイヴはまだただの、幼い子供に過ぎないのかもしれなかった。

 

"だいたい、なんなの? その首肩周りのギザギザ。気取ってるの? 服飾を、ファッションを、馬鹿にしてるの? "

 

 今持っているハンカチに自身の名前「Ib」がわざわざ刺繍されているように、イヴの家系では服飾系のデザインに、強い拘りがある女性が多い。イヴが今日着てきた服も、お母さんが独断と偏見で選んできたもの。イヴ自身、それに大人しく従っているのはお母さんのセンスを信じているからであって、自分のお洒落意識には、それはもうかなりの自信がある。時間が経っても絵の前から全く動く気配のない青年に業を煮やしたイヴは、彼のファッションセンスに対する罵倒を心内で散々に投げかけてから、その場を後にすることにした。

 

 振り返って目に留まったのは、それぞれ赤・青・黄から成るやけにセンスのある衣装を纏った、3体の石像の後ろ姿であった。その丸みを帯びた体つきと服装から察するに女性を意識して創られたものに間違いないが、何よりも特徴的であったのは、首から上がないこと。石像の顔がないことから、むしろ赤・青・黄の衣装の主張が激しく見える。

 

"なんだか、マネキンみたい"

 

 興味を持ったイヴは、回り込んで石像を前から観察してみることにした。視界の端に映った看板には、『無個性』の字がデカデカと刻まれていた。

 

「僕が思うに……ゲルテナの言う“個性”っていうのは表情だと思うんだよね。だからこの像たちには頭がないんじゃないかな? そう思わない?」

 

 急に声をかけてきたのは、顎に手を当てながら『無個性』を鑑賞していた男性である。 突然に質問を振られ、狼狽えるイヴ。ナニかとても難しい話をしている。正直な話、漢字すらロクに読めないイヴにとっては、ちんぷんかんぷんだ。ただ、「分からない」と正直に告げるのは自尊心が傷つくし、とりあえずこの男は自分の考えを肯定してほしいらしい、ということだけは理解できたので、

 

「……そうかもしれない」

 

 と、イヴはお茶を濁す。断定を避け、「かもしれない」を付けておくことでいざ間違っていた場合にも対応できる。いい子であるが故にちょっぴりプライドが高く育ってしまったイヴの、どこか悲しい処世術だ。

 

「おっ! 分かってくれたみたいで嬉しいよ! やっぱりそうだよね!」

 

 首を縦に振りながら喜ぶ彼の様子を見るに、どうやら窮地は切り抜けたみたいだ。ほっと安堵の息を漏らしつつ、自分の分からないことが分かるらしいこの男に、ほんのり尊敬の眼差しを向ける。

 

「しかしこの像って結構スタイルいいよな……」

 

 そしてすぐに激しく後悔した。みるみるうちに、男を視る眼が腐った生ゴミを視るようなものに変わっていくのを感じる。こんな馬鹿な男の発言によく考えもせず迎合したのは、間違いなく自身の黒歴史に刻むに値する事件である。不都合な現実からも、その場からも、逃げ出したイヴの足音がやや強いものであったのは、けして偶然ではないだろう。

 

「変なソファ……でも、それがいい…….座ってみたいけど、ダメだろうなぁ……」

 

 スタスタと歩き去る途中、さっきとは別の男が呟いているのを耳にした。その視線の先を追ってみると……なるほど。珍妙な配色の背もたれが目立つ変なソファがあった。名前は、『指定席』だそうである。

 

"座っちゃいたいな"

 

 イヴは思う。ただ、彼みたいに座り心地を確かめてみたかったわけではない。……ないったらない。ただ、単純に足が疲れたのだ。歩幅が大きい大人がどうかは知らないが、身体が小さいイヴにとって、ここまで美術館を歩き回るのはそこそこ体力を消耗したから。

 

 ただ、そんな誘惑に駆られるイヴの頭に、ふと一階を廻っている時に耳にした言葉が過る。

 

「これ、ちょっとした衝撃であのクキの部分、折れちゃったりしないのかな……。もしそうなったら、一体いくら弁償するんだろう……。うわーっ、コワイなぁ……」

 

 巨大な薔薇の像の傍にいたおじさんの独り言である。それが事実になった時を想像して、近くにいた小さな子が「あの落ちてるの、取りたい!」と騒いでいるのを、咄嗟に「怒られちゃうよ」と注意してしまったのは記憶に新しい。それを思い出したイヴは、自分が『指定席』に座って万が一壊してしまったらどうなってしまうのかを想像する。

 

 ~ここでニュースです。本日未明、ゲルテナ展を訪れた9歳の少女が作品『指定席』をその全体重で以て破壊するという事案が発生しました。作者のワイズ・ゲルテナ氏が既に他界していて作品の再現が望めないこともあり、歴史的価値まで含めるとその価値はとても金銭に換えられるものではないとも言われ……~

 

 弁償!! お母さんは激怒!! お父さんは借金!! 

 

"これはいけない、我慢しないと。私イヴは、とても良い子なんだから"

 

 ……実際のところ、イヴの実家はゲルテナの作品を弁償できる程度にはお金持ちかもしれなかったりするのだが、実際の細かい数字のことなんて、幼いイヴは知らないのである。欲求を振り払うように、イヴはぷるんぷるんと首を振った。

 

 『指定席』を見て足の疲れを自覚させられていたから。角を曲がった先の"3Fは休憩スペースとなっております"の案内が掲げられた階段を見て、眼が輝いた。休憩所ということは、座れるかもしれないということである。何より、じっくりと作品を鑑賞するために追いつくまで時間がかかりそうな両親を待つ場所として、休憩所は申し分ない。

 

"椅子あるといいな、空いてるといいな"

 

 期待に胸を膨らませて階段下から上の休憩所の様子を伺おうとする。でもつま先立ちになっても、角度的に見通せない。改めて自分の背の低さが意識させられる。

 

 きっと、最後の辛抱だと思って、階段を登る。ここまででずいぶんと疲労したからだろうか。階段を登る一歩一歩が、イヴには酷く重く感じられる。なんか、やけに段数まで多いような、そんな錯覚さえ覚えた。

 

 でも、そんな疲れも。

 

「――!!」

 

 眼前に一杯に広がる彩りの力強さに、丸ごと吹き飛ばされた。それは、超巨大なキャンバスに描かれた、たった一枚の絵画だった。ゲルテナ展のリーフレットの表紙を、何故これにしなかったのか。運営さんの正気を疑う。確かにあのお魚さんの作品にも、子供のイヴでも理解できるような、どこか怪しげな魅力があったが、それでもこれとはレベルが違った。

 

 休憩所なのに椅子が無かったことも、今なら寛大な気持ちで許してあげられる気がした。見るだけでこんなに圧倒されるこの作品を鑑賞している人が、どうしてイヴの他に誰もいないのだろう? しかしそんな一抹の不可解さも、今しばらくこの絵を自分だけが独占できるという喜びの前には、大したものには思えない。

 

『???の世界』

 

 ???の部分の漢字を、読むことはできなかった。ついさっきまでとは違い、もうちょっと漢字の勉強を頑張ろうと素直に思えたイヴであった。ただ単純な大きさだけでなく、額縁の中から飛び出してきそうな迫力を、額縁の中に惹き込まれるような魅力を、この絵は確かに有していた。お母さんに半ば引きずられる形でやって来たゲルテナ展だったが、「過程はどうあれ来て良かった」と、確かに断言出来た瞬間であった。

 

 チカチカッ…………。

 

 電灯が切れかけているのだろうか? 視界全体が数度、瞬くように点滅する。せっかくの感動に、水をさされてしまった感じだ。

 

 イヴは軽く溜息を漏らすと、休憩所で待つのを止めることにした。この機会に動き出さなければ、いつまでも絵の前から動けなくなってしまうような、そんな変な感覚に囚われていたからだ。

 

 随分と長い時間、この絵の前に、休憩所に居座っていた気がする。これでは先の頭髪ワカメを責められない。流石に両親の入館手続きもとっくに終わっている頃のハズ。ならば呼んできて、お父さんにこの題名を読んでもらうことにしよう。この絵の世界に浸るのは、それからでもいい。

 

 ……異様な、静けさであった。

 

 イヴが履いている革靴とフローリングとがたてる硬質な足音が、雑音1つ無い美術館の中を、やけに大きく反響する。誰もいない美術館は広いから、壁と反響して返ってくる音は、実際にワンテンポ遅れ気味に、イヴの耳に入ってくる。イヴにはそれが、不気味に聴こえた。まるで自分の歩みにピッタリ合わせて、誰かに付け回されているかのよう。

 

 展覧会は静かに行われるもの。たとえ展示されているものに対しての感想だったとしても、私語はあまり推奨されない。それを考えれば先程までと比べて、より作品の鑑賞に適した環境になったと言えることだろう。絵を見る邪魔になるような人が誰一人いない現状は、ある意味ではイヴがさっきまで、何よりも望んでいた環境に違いなかった。

 

 ドクッ、ドクッ……。

 

"うるさいなぁ。落ち着いて鑑賞が出来ない"

 

 そう考えて、並んでいる作品をマトモに見ようともせずに、急ぎ足で美術館を練り歩く。でも今この瞬間、イヴの周囲に、音の発生源となる者は誰もいない。ならばこのうるさい鼓動音は、イヴ自身が出している心臓の音か? あるいは、イヴの不安が創り出した、まやかしから成る心の音か?

 

 飾られている作品にはもはや目もくれず、何かにまるで追い立てられているかのように、早足で美術館を巡るイヴ。しかしその中でたった1つだけ、例外があった。

 

 先の巨大な絵などとは違い、他の作品と比べて特別派手な絵ではなかった。だが同時にゲルテナとしては珍しい絵でもあった。

 

 抽象的な作風が売りのゲルテナは基本的に実在する人物を描くことはほとんどなく、人の顔を個人が特定できるほど鮮明には描かないという特徴がある。『無個性』という彫像なんかは、その極地とも言えるだろう。ただ、今日初めてゲルテナの作品を知ったイヴは、それに気付いたから立ち止まったわけではなかった。

 

『赤い服の女』

 

 珍しく、題名に使われた全ての漢字を読むことが出来る作品だった。しかしイヴの頭を過ぎったのは、そんなどうでもいいことに対する喜びなんかじゃない。

 

"この人、何処かお母さんと似てる……"

 

 絵画に描かれている女性の顔立ちが、どことなくお母さんと似ている気がした。そうしてお母さんの顔が浮かんだ瞬間、思ったのだ。

 

"……お母さんに、会いたいっ"

 

 ギリギリの所でどうにか踏み留まっていた感情が、イヴの中で一気に爆発する。そんな衝動をぶつけるように、力いっぱい床を蹴った。

 

『館内で走ることは禁止』

 

 そのような条文がイヴの頭の中を過ぎったが、一度決壊してしまった心はそう簡単には止まらない。

 

 走る、走る、走る。

 

 このように大きな足音を立てて騒ぎ立てていれば、誰かが注意しにやって来てもいいはずである。いい子を自称するイヴにとって、叱られることはいつもなら、絶対にあってはならないことだ。それなのに今だけは、誰かに思い切り叱られてもいい気分だった。いやむしろ、そうなってほしかった。……それで誰かに、会えるならば。

 

 下への階段が見えてきた。あそこを降りてしまえば、フロントはすぐ其処だ。両親はそこで待っているはずである。真っ直ぐ階段へと駆け寄り、滑り降りるようにして1階へと向かう。仮に一歩でも踏み外そうものなら、あわや大怪我をしかねないスピードだ。受付にいるはずの両親は、こんなイヴの暴走行為を、見逃しはしないだろう。ただ怒られるだけでは済まず、本当に久しぶりに、お母さんに叩かれてしまうかもしれない。それですべて元通り。いつもの日常に戻る。…………そのはずだったのに。

 

 降りた先のフロントに、両親は2人共いなかった。受付をしていたジェントルマンすら、その影も形もなかった。いやそれどころか、やっぱりイヴの他に誰1人、人の姿は見えなかった。

 

 チカチカッ…………。

 

 突然、館内の照明が切れ、辺り一帯が闇に染まる。今にして思えば、巨大絵の前で経験した点滅は、これの前兆だったとも考えられた。明かりが落ちてしまったとは言え、幸い目を凝らせば、なんとか行動に支障はない程度の、穏やかな暗さで済んでいる。しかし、追い打ちのようにして起きたこの現象で、イヴの中に僅かに残されていた、なけなしの正気も削られていく。

 

 急に襲った暗さにどうにか目を慣らさせていくと、フロント奥のポスター写真に載っている、口を開けた深海魚と眼が合った。その虚ろな暗い眼は、イヴの眼、それ自体を見てはいなかった。それが見通そうとしているのは、イヴの眼に映りこむ、恐怖の色に他ならなかった。

 

 最初は開いていたはずなのに、何故か今は閉まっている出入り口のドアに走り寄って精一杯の力を振り絞ってノブを回した。そんな努力を嘲笑うかのように、扉はウンともスンとも言わず、ただ其処に鎮座するのみ。

 

 扉にかかった鍵は、中からなら開けることが普通出来るものである。自然とイヴは施錠を解除しようとドアノブに視線を移し……絶句する。ノブの施錠は「開」を示していた。……なら、どうして扉は動かないのだろう?

 

「お母さんっ!? お父さんっ!?」

 

 大声を上げながら扉に拳を叩きつけても、外から返事は帰ってこなかった。イヴ自身、既に気が付いていないわけではない。やって来た当初は大いに賑わっていたはずの、美術館表通りの喧騒が今は全く聞こえないことに。それでも。それでもイヴは、僅かな可能性にかけて助けを求めずにはいられなかったのだ。

 

"扉が開かないなら、窓からならっ?!"

 

 すぐ近くにある窓を開けようと踏ん張ってみても、結果は出入口の時と同じ。鍵はかかってないというのに、全くスライドさせることが出来なかった。確かに、イヴは小さな少女で、その力も大の大人と比べれば微々たるものである。でも、別に虚弱少女ではないイヴにとって、扉や窓の開閉くらい簡単のはずだ。その事実を鑑みれば、この結果は異常である。

 

 せめて窓ガラス越しに外の様子を窺おうとしたが、硝子が曇ってしまっていてよく見えない。こうなったら、何か鈍器でも持ってきて、無理矢理ガラスを割ってしまおうか? そう思い立とうとした瞬間である。

 

「ひっ!?」

 

 大量の赤い液体が、イヴが割ろうかと考えていた窓の外を流れてきたのだ。幸い(?)窓は閉まっていたために建物の中に液体は流れ込んではこなかったのでイヴがそれで濡れることは無かったが、突然視界の大半を埋め尽くした赤色に、反射的にイヴは後ずさってしまう。

 

"なにこれ……。ペンキ? 血じゃ、ないよね……"

 

 少なくとも、もう窓から逃げるつもりは起きなかった。それどころか、もうこの窓に近づく気すら全く起きない。

 

 悪夢を見ているかのようである。突然、暗くなった美術館で、ひとりぼっちで迷子のイヴ。

 

 目が醒めた次の瞬間には、いつもの我が家のベッドで眠っている。そんなことを願っては、目を強くつむってみたり頬を軽くつねってみたりするけれど、一向にその予兆は感じられない。そもそも家族と一緒にこの美術館に来たことさえ、今のイヴには事実であったかどうか疑わしく思えてくる始末。

 

"でも、そんなの確かめることなんて……、あっ"

 

 受付のノートである。来場者のサインを逐一チェックしていたお爺さんがいない今、それが記されたノートの中身を、イヴは自由に見ることが出来る。本当に両親が今日ここに来ていたならば、2人と別れたあの後に、氏名をノートに綴っている可能性は高かった。御客様のプライバシーの侵害とか、頭に浮かんでくる問題を振り払ってカウンターに無造作に置かれたノートを手に取ると、イヴは自分の父と母のサインを探した。

 

 さしたる手間もかからずに、2人の手で書かれた2人の名前は見つかった。そして……その下に父が代筆として添えた「Ib」の文字も。

 

 イヴは後悔していた。なぜ自分は今、独りなのか。それはあの時、お母さんとお父さんを置いて行ってしまったから。もしも2人と一緒に残って、自分が自分の手で自分の字で自分の名前をここに記していたのなら、こんなふうに1人で迷子になって、怖い目に遭ったりするようなことはなかっただろう。

 

 確認は終わった。何が起きているかはさっぱりだけど、どうやら今のこの現状、現実の延長線ではあるらしい。この美術館に両親が来たことも間違いない。それなら私は、お母さんとお父さんを探すだけ。だけど、その前に。

 

"お母さん、お父さん。私は、Ibはここにいるよ(I'll be right here.)"

 

 イヴはペン立てから万年筆を手に取ると、受付ノートの父が代筆した「Ib」の文字の隣に、自分の手で自分の名前を綴った。ブロック体で書かれたその字は、筆記体で書かれた父の字とは比べるまでもなく不格好だったけれど、それは紛れもなくIbの字であった。これで、少なくともこの受付ノートを見た両親と入れ違いになることはないだろう。

 

 美術館の一階にも、やはり誰もいなかった。誰に会えることもなかった。ただ、誰の姿も見えないのに、やけに気配は感じられ、それが異様で堪らない。

 

 イヴ自身の音に混じって、確かにソレが聴こえてくる。イヴの後ろを歩く足音。イヴをつける誰かの足音。ソレの目的が分からなくて、イヴを拐いに来たかのようで、追いつかれるのが怖かった。ただ、独りはもっと怖いから、こわごわ発生源を探すけど、やっぱりそこには誰もいなくて、矛盾するけどホッとした。

 

 誰かのせきする、声がした。けれど辺りを見回しても、周りにやっぱり誰もいない。『せきをする男』なんて作品があったりしたが、まさか絵の中の人が動いて、せきをしたりするわけもなし。

 

 どこか恐ろしげな気配から、そっと距離をとるように、2階に戻ることにした。暗い中での階段では、昇り降りに慎重さが必要だ。取っ手に手を滑らせて、一段一段足で感触を確かめ、やっとの思いで踏破する。視界が広がった先の窓に、人の影が映り込んでいた。

 

"良かった!! 人がいた……"

 

 全く知らない人かもしれないとは言え、やはりたった1人であるのとそうでないのとでは安心感が違う。その人影はすぐに見えなくなってしまったので、こっちに気付いていないのかと不審に思うが、真っ直ぐその窓にイヴは駆け寄った。1階の窓もそうだったが、やっぱりこの窓も開かないらしい。……1階の窓も? そうだ、ここは2階。どうしてベランダも無いような2階の窓に、人が映り込めるのか……?

 

 それに思い至った瞬間、外側からイヴの方に向かって、激しく窓を叩かれた。いや、より厳密に描写するなら、外からイヴを掴もうとした黒い手が、窓によって弾かれたかのようだった。窓のすぐ前にいたことで、イヴは間近にそれを直視し、恐ろしさで声も出ない。くっきりと残った掌の跡は、いかに強い力であったか、それを物語っている。イヴを掴もうという行為の意図が、イヴを連れ去ろうとするためだったのか、それとも助けを呼んでいたのか、それがどっちなのかは分からない。しかし少なくとも、今のイヴを助けてくれる、頼れる人物ではなさそうだ。

 

 二度も窓によって怖い思いをしたイヴは、無意識に窓から離れるように進路をとる。以前に絵の前に陣取っていたワカメも、『無個性』に現を抜かしていた馬鹿も、『指定席』に座りたがっていた男性も、やはり姿形も見えやしない。この際、前者2人のどっちかでも、特別に許してあげるから、どうか出てきてほしいのだ。

 

 そうして再び足を運んだのは、イヴが素直に感嘆した、あの巨大な一枚絵が飾られていた休憩所である。もはや作品鑑賞どころではないとはいえ、自然とイヴの目が再び絵に惹きつけられる。

 

"あれっ、こんなふうに青ペンキが垂れてたりしたっけ?"

 

 イヴの疑問はすぐに打ち消されることになる。何故なら、そんなことがどうでもよくなるくらい、恐ろしい超常現象が目の前で起こったのだから。

 

"したのかいに、おいでよイヴ。ひみつのばしょ、おしえてあげる"

 

 ただ絵から垂れていただけの青ペンキがまるで意思を持つ生き物のようにうごめいて、そのように文字を形作った。それに目を疑う暇もなく、白のフローリングに現れた「おいでよイヴ」の赤い文字。

 

 イヴという自分の名前が刻まれていることから、間違いなく他の誰かではなく、自分へと宛てたものだった。どうやらこれの書き手とやらは、イヴを"ひみつのばしょ"とやらへ、どうしても連れて行きたいようだ。

 

 イヴは引き寄せられるように歩き出す。下の階へ。一階へ。ただただあの文字に、言われたとおりに。

 

 どこに来てほしいのかは、何となく分かる。それはペンキが青だったから。深くて暗い青だったから。それが示すのはただ1つ。題名こそよく知らないけれど、ゲルテナ展のポスターにも使われている、たぶんゲルテナ屈指の有名作。足元も覚束ない暗い美術館の中を、イヴは迷わずあの場所へ、美術館1階中央へと惹き寄せられていく。

 

 お母さんに散々言い聞かせられた、ある言葉を思い出していた。

 

「知らない人に、勝手に付いて行っちゃダメよ」

 

 あの文字の書き手はきっと、「知らない人」だ。お母さんの言いつけにのっとるなら、「付いて行っちゃダメな人」だ。……それなのに。どうして私はただ、言われるがままに従ってるの? いつもだったら絶対に、こんな怪しい人の言うこと、聞いたりなんてしないのに。

 

 いけないなぁ。私、悪い子だ。お母さんに、怒られちゃう。

 

 ……あぁ、そっか。私はきっと、怒られることよりも何よりも、1人でいるのが怖いんだ。1人でいるのが寂しいんだ。

 

 ……ひとりぼっちは、もう嫌だ。だからあえて悪いことをして、叱りに来てくれたお母さんに会おうとしてる。

 

 ……ねぇ、お母さん。どうして怒りに来てくれないの? 今の私、悪い子だよ? お母さんの言いつけを破って、知らない人に付いて行こうとしてる。早く止めてくれないと、私ってばその知らない人に、どんな悪いことをされちゃうか、わかんない。

 

 ……あれ? でも、それならそれで、いいのかなぁ? だって、知らない人と一緒なら、ひとりぼっちじゃ、ないもんね。

 

 作品の周りを囲んでいた柵は、一部取り払われていた。代わりにあの青いペンキで足跡が、「こっちにおいで」と残されている。その足跡の続く先は、それより青い海の中。

 

 おそるおそるその際へと近づくと、作り物でしかないはずの青い水は波を成し、イヴの脚を打ち付ける。そのさざ波の音色だけが、暗く静かな今の美術館に、唯一響き渡る孤独な音。

 

 深い水底を覗き込むと、暗くて大きいお魚さんが、虚ろな眼でポッカリ口を開け、イヴのことを待っていた。無機質なその眼球は、先程見たポスターとは違い、まるで一種の鏡のようで、イヴの姿をぽつんと映す。

 

 次の瞬間、眼が合った。

 

 お魚さんと、眼が合った。

 

 お魚さんの眼の中の、イヴ自身と眼が合った。

 

 イヴ自身の眼の中の、イヴ自身と眼が合った。

 

 ひとりぼっちのイヴと、眼が合った。

 

「どうせひとりぼっちなら、死んじゃった方がましじゃない?」

 

 ひとりぼっちのイヴは、そう囁く。

 

 誘う声に、操られるように。イヴは海へと身を投げた。

 




シンカイをのぞくとき、

シンカイもまたこちらをのぞいているのだ。


~???~


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