【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
「や! いや……!」
誰かに助けを求めるような、そんなとても悲痛な声が、部屋の中を反響する。とても、聞いていられない。
間違いなく彼女、イヴは魘されていた。
……起こしてあげるべき、なんだろうか。
でも、このまだ小さな少女が、悪夢を見ている原因なんて分かり切っている。この世界だ。まるで悪夢そのものといった、この世界だ。
たとえ、起こしてみたところで。イヴ視点、この悪夢のような世界に囚われているという状況は、何一つ解決するわけでもない。彼女が会いたいと零した両親がいない状況だって、何一つ変わらない。
それだけじゃない。情けない自分を前にしたら、イヴは心配をかけまいと、無理に気丈に振る舞うのが目に見えている。
目が醒めても悪夢が続くという事実を直視させるくらいなら。たとえ精神は休まらなくとも、このまま眠らせてあげたままの方が、身体だけでも休まってマシなんじゃないか。
答えは出ない。
迷いでどうしても声を出せなかったギャリーは、せめてその夢が少しでもマシな物になることを願って、寝相で少しはだけたコートを、もう一度彼女にかけなおした。その際、軽く彼女の頭に手を置けば、改めてこの少女と歩んできた、これまでの記憶が思い出される。
ギャリーがいわゆる芸術展にたまに足を運ぶことを趣味としているのは、まあ、そこそこ芸術という表現の世界に興味があって、それを勉強したい、というのが表向きの理由だ。しかし、こと今回。「ゲルテナ展に来た理由もこれが一番だったか?」と問われると、答えに窮せざるを得ない。
どうということもない。何処にでも誰にでもある、よくある話だ。辛いことがあって。苦しいことがあって。だから嫌なことから、袋小路な現実から目を背け、空想の世界に浸る。逃げちゃいけないことくらい、自分でも分かっているのに。
わざわざゲルテナ作品を観るために来たというよりは、都合の良い逃げ場所を探していたら、偶然丁度よく開催していた、というのが適当かもしれない。
幸いなことに、ゲルテナという画家はその独創的な作風から一部に熱狂的なファンがいるものの、長い芸術の歴史からすれば、比較的最近の人物。世界的な知名度は、良くも悪くも程々で、混雑具合は酷くなかった。
"まあ、現実逃避でファンタジーな脅威に晒されてちゃ、世話ないんだけどね"
実のところ。ギャリーにはこの世界に迷い込んだのが厳密にはどのタイミングだったのか、よく分からない。
『青い服の女』という絵画について考察していた時に、その絵画自身に襲われた時か。"薔薇と貴方は一心同体"というお誂え向きの文章に操られるように、今この手に持つ美しい青薔薇を手に取った時か。休憩所に飾ってあった、『絵空事の世界』というやけに大きい絵画に圧倒された時か。あるいは、死ぬ勇気だってろくにないのに、何故かどうしようもなく『吊るされた男』の虚ろな目に映り込んだ自分の姿に惹かれた時か。
実際、イヴと出会う前の記憶としてなら、ギャリーの印象に残っている出来事はこの程度。ギャリーが真にこの世界で起こる常識外れの現象を目の当たりにし始めたのは、白のブラウスと赤いスカートがよく映える、この少女イヴに助けられて行動を共にし始めてからだったと言える。
そう。この小さな少女イヴに、ギャリーは命を救われた。この世界で文字通り命と等しい"一心同体"の青薔薇を、『青い服の女』から取り返してきてくれたという形で。この世界では、最初に渡された薔薇が傷付くと、その持ち主も傷付く。薔薇が散ると、その持ち主も死ぬ。そういうルールであるということを、ギャリーはその身で味わいかけた。
そこを彼女に助けられてから、そのまま一緒に美術館の出口を探す流れとなるに当たって。ギャリーは、互いの気が滅入らないよう、できる限り明るく振る舞うように意識していた。精神にキッツイこの世界では、ただ沈黙が続くだけでも心を病みそうになる。だからとにかく、会話だけは途切れないように。それだけは気を配っていたのだ。
そんな中、「アタシと出会う前、どうしていたか」を訊くことになったのは、とても自然な流れで、ほぼ無意識だったと思う。だからこそ、彼女から返ってきた言葉の意味は、一瞬では理解が追いつかなかった。なんと彼女は、ギャリーを助けるまではたった1人で、この摩訶不思議な世界を彷徨っていたのだという。
ギャリーはここに迷い込んでからすぐ、『青い絵の女』に襲われている。今思い返しても、アレは一生の不覚だ。あの時のギャリーは、その危険性にも気づかず、目の前の『青い服の女』という絵画の由来について、呑気に考察を巡らせていたのだから。
『青い服の女』。その名の通り、青い服を着た美しい女性が描かれた絵である。ただ、ギャリーがこの絵に目を留めたのは、その芸術性からではない。これと非常に類似した絵画が、ゲルテナの有名作品とされていることを偶然知っていたからだった。
『赤い服の女』。抽象画家として有名なゲルテナが現実の人物を題材にして描いた珍しい作品。死した後に評価されることが珍しくない芸術家という職業において、ゲルテナは幸運にも生前財を成すことに成功した珍しい例だ。そしてその遺産目当てで言い寄ってきた女性をイメージとしたのが、『赤い服の女』であるとされる。そして興味深いことに、この『赤い服の女』と先の『青い服の女』は、その構図・描かれている女性まで全く同じ。違うのは着ている服の色、それだけだったのだ。
そもそも、『赤い服の女』がゲルテナが現実の人物を描いた作品として珍しいとされているなら、何故ゲルテナ作品をまとめた本を執筆した専門ライターは、この『青い服の女』を合わせて紹介していないのか。何故、明らかに深い関係があるこの作品を、ゲルテナ展の職員は『赤い服の女』と合わせて展示していないのか。そんな疑問を、隙だらけの姿でつらつらと考えていたのだ。
まあ、今となっては本当にどうでもいいことでしかない。此処では、現実では有り得ないことが起こる。実際にこの身で経験してきたばかりだ。まさかこの超常現象を引き起こしているのが、ゲルテナ専門ライターやゲルテナ展職員のハズも無いだろう。
それに、いざ美術館を彷徨い始めてみれば、赤と青だけどころか『黄色い服の女』、『緑の服の女』もいたし、『虚空を見つめる女』までいた。抽象化を施されたと思われる最後の作品はともかく、全て同じ女性を同じ構図で描いた作品のようだ。しかもそれらが、何枚も。たかが遺産目当てに擦り寄ってきた女ごときに、ゲルテナ氏はたいそうご執心のようだ。
"ああ、いけないいけない。思考に没頭すると現実を忘れそうになるのは、アタシの良くないクセなのに"
長々と考察したが、結局重要なのは次の事実。ギャリーは『青い服の女』にすぐに襲われて気絶したので、「このゲルテナの世界で一人きり」という恐怖を、味わわずに済んでいるということ。
死ぬかもしれない。薔薇を奪われた後に身体に走った痛みを感じて、そういう恐怖は確かに感じた。でも、幸か不幸か身体的な限界ですぐ気絶できたギャリーは、"孤独"の恐怖を生で感じる時間自体は少なかったと思う。そのギャリーですら、現在進行形で恐ろしくてたまらないのに。それなのに、幼いイヴは、この恐怖をたった一人で耐え抜いて来たという。そしてここに到達するまでは、彼女の方がこの美術館探索をリードする形になっていた。
イヴはこういうのが怖くないのか? 平気なのか?
出会った最初の方こそ、そう思っていた。彼女はとても芯が強く、気丈な性格の女の子なのだと。しかし、それは見当外れだったのだと、今は分かる。
この部屋に逃げ込む直前に見た、『ふたり』という題の絵。イヴの言葉を信じるならばイヴの両親の絵。確かに、どこかイヴと似ているとはギャリーも思わないでもなかった。でも、ゲルテナの生前の作品だとすれば、どう考えても年代が合わない。だからおそらく他人の空似なのに、それを前にして両親はどこだとギャリーに縋りついたイヴの顔が目に焼き付いている。嗚呼、それまで強がりで被っていた仮面など、どこにもなかった。
ギャリーはもう気づいている。イヴがギャリーをリードしていたのは、ただの強がりだったのだと。頼りない自分を心配させまいと着けた、脆い仮面に過ぎなかったのだと。そんなツギハギの強がりをさせてしまう、頼りない自分が嫌になる。今にして思えば、イヴが纏うどこか寡黙な雰囲気だって、どこまで本来のものか疑わしい。
本来なら。大人であるギャリーが、導いてあげるのが筋。親が子を導くように。だって彼女はまだ成人とはほど遠い、まだ小さな女の子なのだから。両親のような大人に手を引かれて当然の、無垢な少女。それは決して、逆であってはならない。
だからギャリーは決意する。これからは自分が探索のリードをしよう。趣味で無駄に溜まってしまった芸術の知識だって、総動員させよう。この美術館から脱出する手掛かりが、どこかに転がっているかもしれないし、それに気づけるのは大人の自分だけかもしれないのだから。
何か見つけられないかと部屋の中を見渡してみて、ぎっしり詰まった本棚に目が留まった。その中に一際長い題名が背表紙に書かれた1冊があって、どこか異彩を放っている。『深海と古代生物における未知の恐怖とそれに対する好奇心についての考察』。おそらくゲルテナが作品を創るに当たって、参考にした蔵書のうちの1つだろう。
物理的な出口を探すだけでいいなら、積まれた数々の本に一々目を通すなんて、時間の無駄以外の何物でもない。しかし、ここはおそらくゲルテナの世界。ゲルテナが創ったルールとゲルテナが敷いた法によって支配される、より概念的な世界なのだとしたら。創造主ゲルテナの思想を解読することこそが、最も脱出の近道なのではないか。
"結局やることは、ある意味では作品の鑑賞か。ゲルテナの思い通りにされてるようで、嫌になっちゃうわ"
夢の中でもイヴは戦っている。だから、ギャリーも戦わなくちゃいけない。
彼女の頭から手を離すことをどこか心苦しく思いながらも、ギャリーは本棚の方へ向かうため、ゆっくりとその膝を立てた。
お父さんとお母さんを、ずっとずっと探してた。
お父さんが、私を探している。だけど私は、追いつけない。
お母さんが、私を探している。だけど私は、追いつけない。
皆が、私を嗤ってる。迷子の私を、嗤ってる。
お父さんとお母さんが閉じ込められているような、そんな絵を見つけてしまった。
怖くてたまらなくなって、走り回って、出口を見つけた、次の瞬間。
絵に変えられてしまった、眼が無いモノクロのお母さんと、眼が合った。
そこで、目が覚めた。
「おはよ、イヴ。気分はどう?」
とても怖い夢を見た。そんな気がする。咄嗟の質問になんて返せたか、自分でもよく分からない。
ただ、身体を覆うほのかな温もりのお陰で、何故か寒い思いはしなかった。身をよじって自分の状況を確認すると、センスのない青のボロいコートが目に留まる。どうやら、これによって包まれていたようだった。
重い瞼をしばたたかせながら、かけられた声の方を見上げると、紫の癖毛が特徴的な緑シャツ姿の青年の姿。ギャリーだ。
コート姿が見慣れているから、襟ぐりが開いたシャツの姿が、やけに肌寒そうに見える。
眠りから覚醒して、状況を把握していくに従って。どうして今ギャリーと一緒にいるのか、そこまでの記憶が急速に蘇ってくる。
自分以外の美術館遭難者であるギャリーを見つけたのは、一面が赤く彩られたフロアでのこと。見つけた当初は床に倒れ込んでいたから、てっきり死体だと思ってた。だからうめき声が聞こえた時は、すごく、すごく、びっくりした。びっくりしすぎて、大声をあげてしまった。たぶん、ギャリーの方は覚えてないだろうけど。
でも、今にして思えば。この世界に迷子になってからマトモに声が出せたのは、あの時が初めてだった気がする。
ギャリーは酷く勘違いしてる。イヴが怖いもの知らずの、とっても強い女の子なのだと。誤解するのも当然だ。絵画の女性が動き出して、上半身を額縁からこちら側に乗り出してくる。幻覚でなければ、化物だ。そんな青い服の女性と丸腰で格闘し、青薔薇を取り返してきたのだ。そりゃあ、実績だけを聞けばメンタルつよつよ女の子だと判断して当然だろう。
だけど実は、「なんて無謀なことをしたのか」と、今更ながらにイヴは自分でも驚いているのだ。そもそも、あの時だって、『青い服の女』に向かっていった時だって、怖くなかったわけでは無いのだ。とても怖かったし、とても恐ろしかった。
ただ、それ以上に。"ひとりぼっち"が怖かったから、無理矢理頑張れただけ。やっと見つけた他の誰かを、失いたくなかっただけ。そう。あの時の私は、自分で自分を助けようともがいていたただけに過ぎない。
だから、青薔薇を取り返して来たことで倒れていた青年が、ギャリーが息を吹き返した時は、自分のことのようにホッとしたものだ。そのまま自然と、彼と行動を共にする流れになったから。
ギャリーと合流してからも、"ひとりぼっち"が、イヴのトラウマなのは変わっていない。だから、イヴは、ギャリーと別れるようなことが無いように、ギャリーから別れたいと思われないように、気を張り続けている。ギャリーの誤解を解かず、気丈な子を演じ続けている。だってどうしようもなく、心配なのだ。本来の弱い子供がバレたりしたら、足手纏いとして切り捨てられてしまうかもしれない。
この世界では、自分の薔薇が散るだけで命の危険に繋がる。例え大人だろうと、簡単に命を失いうるとても恐ろしい場所。ギャリーはそれこそ、身を以て味わった。
そんな非常事態で、イヴのような小さな子を、しかも見ず知らずの子の面倒なんて、わざわざ見ようと思うだろうか。……普通は、ない。
確かに世間一般では大人が子供を守るものとされている。しかし、そんなものは建前だと、賢いイヴは知っている。本当はみんな誰だって、自分の命が一番大事だ。
確かに、青薔薇を取り返したことへの恩返し程度は果たしてくれるかもしれない。でも逆に、それが終わった後。義理を果たした後にまで、ギャリーは一緒にいてくれるのか。同年代と比べて賢いからこそ、イヴにはそれが分からない。
だから、おびただしい数の作品達に追われた恐怖と逃げきった安心で腰が抜けてしまった時。マズいと、思った。歩けないなんて、御荷物の最たるものだ。大丈夫なところを、見せないと。
でも、一度散々に乱れた呼吸を落ち着かせるのは難しい。ゆっくりと深呼吸すべきなのに、焦って息を吸って。吸う前に息が吐き切れていないから、ろくに息が吸えなくて。だから息が苦しくて、さらに息を吸おうとして。そんな悪循環の中、あっという間に視界が狭まっていってしまう。
……ただ。意識を失う間際に見た、ギャリーの慌てた表情は。座り込むイヴが倒れて怪我をしないように、すぐに駆け寄って背中を支えてくれた時の表情は。煩わしい足手纏いとか、思い通りにならない邪魔者ではなく、純粋にこちらを心配してくれたものであったような。
そしてあの時の焦った表情と。今、上半身を起こしたままのイヴにしゃがんで寄り添う、穏やかで、でもどこか辛そうな表情。雰囲気は全然違うのに、やけにそれらが重なって見える。それは、寝ていたせいで、イヴの中ではすぐのことだから?
「イヴ。そのコートのポケット、探ってごらん?」
両腕をだらんと持ち上げるようにして、身体の上にかけられたボロいコートを引っかけて浮かせる。年季が入ったコートはくたびれていて、やけに柔らかい。そのままガサゴソと腕を動かしてみれば、ポツンと1点だけ、固い感触が返ってくるところがあって、そこがポケットの場所だと分かる。ギャリーに言われるまま、手探りでその中身を取り出してみると、それは1個のキャンディーだった。明るい黄色い包装に、ほのかに香るレモンの風味。
「それ、あげるわ。食べてもいいわよ」
その言葉を最後にギャリーは立ち上がってしまったから、ギャリーの顔は見えなくなってしまう。もう少しだけ、見ていたかったのに。2つの異なる表情が重なった、その理由を整理したいと思っていたのに。どこか名残惜しい自分を自覚しながら、手のひらの上で手持ち無沙汰にキャンディを転がし、それがコロコロする様子を眺める。
たかだか1粒の、キャンディだ。口に入れても、すぐに消える。そんな程度の、小さなお菓子。価値だって、大したものじゃない。それこそイヴが両親にねだれば、何十粒だろうと簡単に手に入るだろう。こんなものでご機嫌が取れるほど、普段のイヴはお子様でもないし安い女でもない。本気で喜ばせるつもりなら、沢山の苺をのせた、ホールケーキを所望する。……けれど。
閉ざされた状況で渡されたこの小さなキャンディは、ギャリーからのイヴへの気遣い、そのものだった。ギャリーがイヴを見捨てないという、小さな証だった。だから、たかがレモンキャンディ1つで、こんなにも心が暖かくなってしまうのだ。こんなにも不安が消えてしまうのだ。
"良い人……、だよね。服のセンスは、無いけれど"
食べるのは、後にしようと思う。だって、食べたら無くなってしまうから。あっという間に、なくなってしまうから。
だから、せっかく貰ったこのキャンディは、大切に持っておくことにする。これは御守り、そう決めた。
もしも食べる時がくるとするなら。それはこの時の記憶を、どうしようもなく思い返したくなった時になると思う。
それが2人一緒に元の世界に、帰れた後になればと願って。イヴはギャリーの、コートを抱えた。