文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
居間に掛けられた時計が静かに時を刻んでいる。
それ以外は一切の音もなく、居間に広がるのは沈黙そのもの。
そんな瞬きさえも許されない空気のなかで。
誰も彼もが呼吸すらも忘れたように口を閉ざしている。
……気まずい。これは気まずい。
衛宮家は、いつからこんな緊張感に包まれるようになってしまったのか。
理由については考えるまでもない。
つい5分ほど前、隣に座る文が俺との交際宣言をしたからだ。
そして今、俺と文は食卓を挟み、藤ねえと桜の二人と向き合う形でいる。
緊迫した空気に飲まれているのか、皆が一様に正座をしていた。
藤ねえは、珍しく難しい顔で瞼を閉じ、腕を組みながら考えごとをしていた。
「…………」
桜は不安げな表情で俺を見ていた。
……桜、すまん。そんな顔をされても俺にも何が何だかさっぱりなんだ。
文だけは、一仕事をやり遂げたすっきりとした顔をしていた。
言いたいことは全て言い切ったのか、実に満足げだった。この天狗は本当に……。
彼女の立案によって、事態は混沌の坩堝にあった。
時折、隣に座っている俺に対して頬を染め照れくさそうな視線を送ってくる。
文なりの恋人の演技だと思うが、その度に桜の顔がどんどん沈んでいくので、本気で止めてもらいたい。
「……士郎、今の話は本当なの?」
その空気の中、口火を切ったのは年長者(多分)の藤ねえだった。
俺と文が本当に交際しているのか訊いているのだろう。
『もちろん嘘だ』
そう言えたら、どれだけ楽だったか。
ただ俺も思春期真っ只中な男子なので、こういうことに興味がないと言えば嘘になる。
今は自分の進むべき道に精一杯で、そんな余裕がないだけ。
だから演技であっても、文のような可愛い女の子に交際を迫られたら、多少なりとも嬉しい。
……しかし、今回のケースはどう答えたらいいのか。
藤ねえと桜に嘘をつきたくないが、ここは文に話を合わせるのが筋だろう。
でなければ、余計にややこしい事態になってしまう。
俺がこうして口を噤んだままでいても、何の解決にもならない。
そもそも、この異常な空気の原因は、間違いなく俺にも一端がある。
文からの交際宣言の後、中心人物の俺が何も言わずにいるから、こんな状況になっているのだ。
文もそれを理解してか、これ以上は何も言うつもりはなさそうだった。
事前に説明してほしかったが、文は俺の反応込みで楽しんでいるのは間違いなかった。いや、マジで許さないからな。
……こうなったら仕方がない。
ここは覚悟を決めて、射命丸文の大芝居に俺も付き合おうじゃないか。
「……本当だ。付き合い始めてまだ日が浅いけど、俺と文は交際している」
ああ、言ってしまった。言ってしまった。
言ってしまったら最後、その嘘を貫き通すしかない。
今後は舌の根が乾き切らないうちに、次の嘘を用意しなければならない。
でも……自分でも驚くぐらいすんなり嘘が言えたと思う。
緊張で声が上擦ったりもせず、それが当然の事実であるように言えてしまった。
なぜかはわからないが、衛宮士郎として過去一番の演技だった。
「…………ッ」
そして、俺の男優賞ものの台詞に一番反応をしたのは桜だった。
もともと伏せ目がちの彼女が、今は前髪で表情が見えないほど俯いてしまった。
……そんなに驚いたのだろうか。
まあ、文は俺なんかには不釣り合いな美少女だと思うけどさ。
藤ねえは、目を閉じたままで反応がない。
俺の言葉を真摯に受け止めてくれたのかは不明だが、聞こえてはいただろう。
……だが俺には、この先の藤ねえの反応が手に取るようにわかる。
俺と文との関係を根掘り葉掘り詰問される予感がひしひしとするのだ。
そう、相手はあの藤ねえなのだ。冬木の虎だ。俺は、自らの意思で虎の尾を踏んでしまった。
今は大人しくしているが、俺が想像するに次の一声は『士郎にはまだそんなの早いんだからーッ!!』という虎の咆吼。
……そんな剣幕でまくし立てられたら、俺なんか簡単にボロを出してしまう。
喉は渇いているが、なんとか唾を飲み込み、咆吼に耐える準備をする。
その後のフォローは文がしてくれるに違いない。
人では虎に太刀打ちできないのだ。だったら、虎には烏だ。
なんだかそれも分が悪い気もするけど、何とかしてくれるだろう。
というか、してくれなきゃ困る。勝手に期待しているぞ、文。
そして、固く閉ざされていた虎の目が開いた。
「……うん、わかった。お姉ちゃんはあなたたちの交際を認めます」
「………………え?」
咆吼を防ぐために耳を塞ぐ準備をしていたが、虎の……いや藤ねえの口から出たのは咆吼ではなく、酷く落ち着いた優しげな声だった。
少し寂しそうではあるが、見守るような温かい笑みを俺たちに向けている。すごい、まるで教師みたいだ。
「文ちゃん。士郎はすごーいニブチンだけど、すごーく優しいところもお姉ちゃん、自信を持って保証します。だから……士郎のこと、お願いね」
藤ねえは文の手を優しく握って、赤い瞳の奥まで覗き込む。
「……あ、あの」
流石の彼女も藤ねえの態度に驚いたようで、目が泳ぎそうになっていた。
こんなふうに狼狽える文を見るのは初めてだ。
これまで遭遇したサーヴァントの前でも、そんな顔は見せなかったぞ。
「……は、はい、わかりました。私の方こそよろしくお願いします……」
少女の語気にいつもの勢いがなく、ちょっと語尾が濁っていた。
藤ねえも出会ったばかりの少女の逡巡に気づかなかったのか、文の返答にすっきりした表情を見せた。
「うん、よし! それじゃあご飯にしようかー!お姉ちゃん、お腹ぺこぺこー」
「……あ、ああ。いま用意する」
ご飯も炊けているし、料理は桜のおかげでできあがっているので、後は皿に盛りつけるだけだ。
その支度のために立ち上がろうとすると。
「し、士郎さん……私も手伝いますね!」
どうやら今度は文にとって居た堪れない空気になったらしく、逃げるように俺の後を追おうとする。
だが、そこは藤ねえだ。そんな空気を読めるはずがない。読む気もない。
「いーのいーの! 士郎に任せておけば! 文ちゃんは座っていてー。あ、足も崩してもいいよー。新しい家族なんだかららくーにしてちょうだい」
「いえいえ! お気遣いなく! こ、これは、その、えっと、きょ、共同作業です!」
「そっかー。共同作業かー。でも今はお姉ちゃんを構ってもらいたいなー」
藤ねえの勢いに圧倒されて、少女は脱出に失敗する。
立ち上がろうと腰を浮かせるも、それは居住まいを正すだけに終わった。
流石の天狗少女も、藤ねえが相手ではたじたじのようだ。
これはまあ、藤ねえのおかげで、文の新しい一面が見れたのかな。
「…………」
桜がやけに静かだったが、今も俯いたままでいた。
まさか、俺に彼女(嘘)ができたのが、言葉に出ないほどの衝撃だったのか。
ちょっとやるせない気持ちになったが、少し心配になる。
「桜、どうしたんだ?」
ビクッと桜の肩が震えた。いや、そんな過剰反応をされても……。
「……いーの。今は桜ちゃんのことより、士郎はご飯の準備ー」
ん? 桜を気遣うなって意味なのか?
藤ねえがそんな薄情なはずがないし、何か事情があるのだろうか?
「……先輩。私は大丈夫ですから、お料理の続きをお願いします」
「ああ……わかった」
心なしかいつもより声のトーンが低めだったけど、どこか具合でも悪いのだろうか?
弓道部の大会も近いらしいし、その練習で疲れているのかもしれない。
ここは藤ねえと桜の言うとおりに、料理に専念するか。
「……まったく、本当にニブチンなんだから」
いつもより一人多い、衛宮家の食卓。
文は少しぎこちないものの、いまは肉じゃがのじゃがの部分にご執心だった。
せっかくの肉じゃがなんだから、ジャガイモだけではなく肉も一緒に食べてほしい。
煮物には勿体ない、ちょっとだけ高級な牛肉なのだ。
「…………」
桜はやはり黙ったままで、いつもと比べて箸が進んでいない。
本人は大丈夫だと言ってくれたが、やはり気になってしまう。
俺が心配性なだけかもしれないが、どう見ても本調子じゃないよな。
ひょっとしたら、部活での調子が悪いのか。明日にでも部長の美綴に確認してみるか。
藤ねえは先程のシリアスはどこへやら、結構な勢いでメカジキの唐揚げを食べている。
やはり、シリアスモードは長時間維持ができないのだろう。なんせ虎だし。
というか、唐揚げは一人5個ずつだと理解しているのだろうか。
「士郎、これ、ちょーイケるねー。いくらでも入りそう。具体的には百個ぐらいー」
……うん、してないだろうな。
大皿に唐揚げを盛ってしまったのを後悔する。まあ俺の分を減らせばいいか……。
夕食後はお茶を飲みながら、文と藤ねえの会話に耳を傾けていた。
「へー、文ちゃんは新聞作りが趣味なのー? ねえねえ、どんな記事? どんな記事?」
「……そうですね。普段は主に何気ない日常の一コマを記事にしてますかね。たとえば『某神社の巫女、赤貧のあまり畳をかじり空腹に耐える!』みたいな感じで」
人当たりの良い文と、同じく人当たりの良い藤ねえは、さっそく打ち解けていた。
文はもう、藤ねえに対しての苦手意識はないようにも見える。
文の新聞は、趣味ではなく仕事なのだが、見た目中学生ではそう思うのも仕方がない。
しかし、今の話は何気ない日常の一コマなのか……?
畳食べても空腹を満たすどころか、お腹を壊すだけだと思うけど。
これまで文から聞いた話を総合しても、幻想郷がどんな場所なのかまったく想像できない。
「それで、二人はどこで知り合ったのー? お姉ちゃん、知りたいなー」
藤ねえから、この質問が飛び出すのは時間の問題だと思っていたが、実際どう答えればいいのか。
『俺が槍を持った青タイツの男に襲われた時に、土蔵の中から光と風とともに文が現れた』とは間違っても言えない。
そもそも俺は嘘が苦手なので、つつかれた先からぼろを出してしまう。
ここは、嘘が得意そうな文に任せた方が間違いないはず。
「ええと、それはですね……」
「ふんふん」
藤ねえが目を輝かせ、相づちを打ちながら文の言葉を待った。
口から先に産まれたような天狗の少女であっても、少し考える時間が必要なのかもしれない。
『神秘とは秘匿するもの』……これについては口が酸っぱくなるほど、言い聞かせてある。だから変な話はしないはずだ。
「全身青タイツの変態男に私が襲われていたところを、偶然その場に居合わせていた士郎さんに助けてもらいました。それがきっかけで、懇意にしていたただいてます」
「ブブーーーッ」
……淹れたての緑茶を吹き出してしまった。
俺と文の立場が逆なだけであながち嘘ではないが、いくら何でもそれはない。
そんな狂った状況に立ち会うなんて、人生で一度でもあってたまるか。
全身青タイツの男が冬木に出没して、人を襲うマネまでしてたら今頃は新聞沙汰だ。
……いくら藤ねえでも、今の話で納得するとは思えない。
「ふーん、士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー」
納得するのか……流石は藤ねえだ。
人を疑わないのか、それとも疑う気がないのか。感性が俺たち常人とはかけ離れている。
「その後も2メートルを超す上半身裸の巨漢や、紫髪のボディコンスーツを着た痴女にも絡まれてしまいまして、その度に士郎さんが颯爽と駆けつけて助けてくれました。こうして私が無事でいられるのも彼がいてくれたおかげだと言えます。まさに吊り橋効果」
……吊り橋効果とは、極限の緊張下に置かれた男女がストレスによって、お互いに惹かれ合う心理的学説だったと思う。
しかし秘匿すべき神秘については一応触れていないが、今の話は別の意味で神秘だった。
文がこの世界の住人じゃないからなのか、常識が明後日の方向にずれている。
今の話を聞いたのが、同じく感性のずれた藤ねえで助かった……。
「士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー…………できるかーーーッ!! いつから冬木はそんな変態さんがはびこる魔境になったのーーー!?」
「あ、ようやく虎が吼えた」
いくら藤ねえでも、今の話は流石に信じられないようだ。
俺と文の立場が逆なだけで、話そのものは本当なんだけどな。
桜も調子が悪そうなのに、こんな荒唐無稽な話を聞かされて大丈夫なのか?
心配になって様子を見てみると、桜は目を見開いて驚いていた。
それに、これまで一度も目を合わせずにいた文に視線を向けている。
ひょっとして、あの話を真に受けたのか? いや、いくらなんでもそれはないと思うが……。
「いやいや、本当なんですよ。これがまた不思議なことに。『恐怖! 冬木市の怪異! 異常者は互いに惹かれあうのか!?』という見出しで新聞を出したいぐらいです」
「嘘おっしゃーーーい!!」
天狗の少女は、藤ねえのシャウトをへらへらと受け流していた。
ああ……二人とも本性が出ているな。
こうして、文を新たに交えた奇妙な夕食は終わりを迎えた。何でもいいけど疲れた。
「じゃあ交際しているからといって、変な行動には走らないことー。ガクセーらしい節度のあるお付き合いをしましょう。……ま、そこんとこだけは士郎を信じているけどねー。どーせそんな甲斐性ないしー」
「あーはいはい、変なこと言ってないでとっとと帰れ。そして寝ろ」
藤ねえと桜を玄関口まで文と一緒に見送る。
「桜は家まで送っていくよ。藤ねえは一人で帰れ」
「うえーん、士郎が冷たいよー」
桜は今も文を見ていた。というよりも、さっきからずっとこんな感じだ。
何かあるのかと桜に確認してみたが「……なんでもないです」とはぐらかされてしまう。
俺には聞かせられない話があるのだろうか?
「……先輩、すみません。もしよろしければ、射命丸さんに送っていただくのをお願いできないでしょうか?」
「あや? 私ですか?」
「えっと……」
桜のらしくない発言に驚かさせられる。
少し人見知りの桜が、初対面の相手にこんな頼み事をするなんて俺の知る限り初めてだ。
「そっか」
藤ねえだけは、何かを納得したように少し憂いのある笑みを浮かべた。
よくわからないが、送ってほしいというのは建前で、実際は文に訊きたいことがあるかもしれない。
「その……できればなんですが、お願いします」
桜が頭を深々と下げた。
そうやって健気な態度を見せる桜に、文は首を縦に振って応えた。
「はい、わかりました。では士郎さん、桜さんを送ってきますね」
そして少し言葉を交わした後、文の手によって玄関の戸が閉められた。
三人が居なくなって、俺は一人玄関に取り残された。
……実際はそんなことはないが、久しぶりに一人になった気がする。
「……桜はどうしたんだろうか?」
桜と文に付いて行きたい気持ちがあったが、それは野暮だろう。
そうしてほしかったら、桜がそうお願いするはずだ。
だったら今日はもう魔術の鍛錬を済ませて、明日に備えて早めに寝ようか。
聖杯戦争は、まだ始まったばかりだ。
夜も本格的に更けて、今のこの瞬間サーヴァントに襲われてもおかしくない。
ずっと一緒だった文と離れていることに、かつてない不安を覚えていた。