文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
昨晩とは違って、今朝は文と二人で朝食と弁当を作る。
朝の献立は、大根と人参の味噌汁、なめ茸とシラスの和え物、そして主菜は、サワラを焼いて柚子で香りづけしたもの。
そんな、オーソドックスなメニューだ。その分、昼の弁当はちょっと力を入れた。
射命丸文による、嘘の交際宣言のせいなのか、今朝は藤ねえと桜が家に来なかった。
桜はともかく、藤ねえがその程度で自粛するとは思えなかったけど。
だが、今の冬木は聖杯戦争の只中にある。
この家に近づくだけでも、二人に危険が及ぶ可能性が十分にあった。
少し寂しく感じたが、二人の命には代えられない。
それを考えたら、あの交際宣言もあながち間違いじゃないかもしれない。
もしかしたら、文もそれを見越した上で、あんな発言をしたんだろうか……?
「……違うだろうな」
それに、聖杯戦争が終わったあとで、あの二人になんと説明したらいいんだろう。
『実は、嘘でした』と言う勇気はない。
藤ねえは間違いなく本気にしてたし、バレたら怒られるだけじゃすまない。
『実は、別れました』……聖杯戦争は長くても、二週間程度で終わるらしい。そうなると。
「交際期間が最長でも二週間……。どれだけ甲斐性なしなんだ、俺は」
今は戦後処理に頭を使うよりも、聖杯戦争を無事に生き残ることを考えよう。
嘘の片棒を担ぐ天狗の少女は、新聞を片手に、主菜の魚に箸を伸ばしていた。
最初は、驚くぐらい綺麗な姿勢で食事を取っていたが、今やそのメッキも剥がれつつある。
幻想郷という、隔絶された土地から召喚されたらしいが、既に彼女は現代日本に馴染みきっていた。
今朝の朝刊に目を走らせながら、朝食を取る少女の姿は、家主である俺よりも堂に入っている。
それに文は、他のサーヴァントと違って、聖杯から土地の文化や常識を与えられていないらしい。
つまり、彼女自身が持った適応能力の高さが窺い知れる。
暇さえあれば、新聞や本を読んでいるので、好奇心の高さもその一助になっているのだろう。
「そういえば……昨日の夜に桜、何か言ってたか?」
俺に代わって、桜を家に送ってくれたのは文だった。
これは桜たっての願いだったし、何かしらの用事が文にあったと考えるべきだろう。
ただ、文と桜の二人には接点がないどころか、夕飯時には一言も会話がなかった。
そこから考えると、桜が聞きたかったのは俺たちの交際についてだと思う。
本来であれば、俺が聞いていい話じゃないかもしれない。
だけど、昨夜は桜の様子が明らかに変だったので、今までずっと気になっていた。
「もぐもぐ。桜さんですか?」
少女は、新聞から目を離して俺を見てくれたが、朝食を取る箸と口は止まらなかった。
朝から気持ちいいぐらいの食欲だけど、あまり行儀は良くない。
「違ったのならそれでいいんだけど……例の交際宣言で、何か桜から言われたりしなかったか?」
「……うーん。その件については、特になかったですね。単に身の上話をしただけです。士郎さんが気にする話ではないかと」
「身の上話? まさか、烏天狗だと桜に言ったんじゃ……?」
「そんなわけないでしょう。桜さん自身について少しお話しただけです。いわゆる、ガールズトークってやつですね。……男の子には言えない乙女の秘密です」
「そっか。じゃあ俺は聞かない方がいいかな」
乙女の秘密と言われたなら、男の俺が聞くのは野暮ってものだ。
……それなりの付き合いのある俺にも話せない内容。
なんだか寂しい気もしたが、女の子同士でしか話せない話題もあるのだろう。
男の俺には少しわからない世界だ。ガールズトーク……。
「それと……桜さんの家だけあって、彼女と同じにおいがしましたね。もぐもぐ」
家に呼ばれて、お茶でもしたのだろうか。
俺は、中学以来一度も慎二と桜の家には遊びに行ってないので、少し懐かしくもある。
なんにしても、二人が仲良くなれたのなら何よりだった。
「そろそろ学園に行こうと思うけど、文は今日どうする?」
昨日のように、制服姿で忍び込むつもりなら、事前に知っておきたい。
あれを二度三度と繰り返されたら、俺は聖杯戦争とは関係のない理由で社会的に死んでしまう。
だけど彼女がいなければ、サーヴァントと遭遇した時の対処ができないのも事実だ。
「そうですね。じゃあ今日は上から士郎さんを見守っています」
そう言うと、彼女は天井を指さした。
「……上? なんのことだ?」
俺がよほど間抜けな顔をしてたのか、彼女は上品に口を押さえて笑う。
「つまりは、上空からです」
「へ?」
◇
通学路の長い坂道を一人で歩く。
二月の透き通った空気が心地よく、空を仰げば雲一つ無い快晴があった。
その空に、小さな人型らしきものを発見した。……うん。多分あれが文だ。
視力を魔力で最大に水増しして、ようやくその程度にしか見えない。
生身の人間が、肉眼で観るのはほぼ不可能だろう。
一体、彼女は上空何メートルにいるのか。空気も薄いだろうし、何より寒そうだ。
「……マフラーでも渡しておくべきだったかな」
あの距離なら、何日か見てなかった一本歯の靴、頭襟という天狗姿でも問題ないはず。
そもそも、女の子が空にいる時点で言い訳のしようもないんだけど。
学園の制服姿を着ない理由を尋ねたら「戦闘でボロボロになりそうですからね」と言われた。
その後に「あ、あと天狗としての矜持とモチベーション的にも!」そう取って付けたように説明していた。
「ふー」
一度唾を飲み込んでから、穂群原学園の正門を通る。
学園に張られた結界が解かれてないか……そんな淡い期待したが、それは楽観だった。
「ぐ……ッ」
この淀んだ空気……昨日よりもずっと酷いじゃないか。
これは、間違いなく完成が近い。
昨日襲撃したサーヴァントか、そのマスターを倒さない限り、この結界はもう止まらない。
義務感にも似た焦燥に襲われるが、闇雲に探し回っても見つかるはずがない。
今のこの状況では、悠長に授業を受ける余裕もない。何でもいいから対策を練らないと……。
「よお、衛宮。そんなところでぼけっとしてたら、背中を蹴られても文句は言えないぞ」
正門で立ち尽くしていると、後ろから聞き馴染みのある声がした。
「……慎二か。最近学園を休みがちだけど、どうかしたのか?」
数日ぶりに見る慎二だった。珍しく機嫌の良さが顔にも出ていた。
「ふん、僕が休んで何しようと衛宮に関係あるのかい?」
態度は相変わらずだが、少しも気にした様子を見せない。
こんな慎二を見たのは、もしかしたら中学の時以来じゃないか?
「弓道部も休んでいるらしいじゃないか」
「それこそ衛宮は部外者だろ。そんなことを僕に言う権利はないと思うけどね」
それは、慎二の言う通りだった。
部を辞めた俺が今更、首を突っ込める問題じゃない。
「ああ、そうだったな」
「……衛宮と話しても時間の無駄だし、僕はもういくよ。おまえが遅刻しようが知ったことじゃないけど、ホームルームに遅れて僕に迷惑掛けるなよ」
それだけ言って、慎二は校舎へと歩き出した。
俺も、こんなところにいても仕方がないので、慎二の背中を追うように教室へ向かう。
「……慎二」
また昔のように肩を並べて歩けたらな、と少しだけ思った。
このまま校舎に入ると、文とは会えなくなる。
昇降口の手前で空を見上げたら、彼女が大きく手を振っていた。多分だけど。
俺も彼女に倣って空に手を振ると、周りにいた生徒が気の毒そうな顔で俺を見ていた。
自分の教室に入る前に、遠坂が学園にいるか確認したが、クラスメートによると今日は休みを取ったらしい。
それもそうだろう。
普通であれば、命を賭けた戦いに、普段通りの生活を送る方がおかしい。
だけど、疑問に思う。
あの遠坂凛が、自分のライフスタイルを聖杯戦争なんかで変えるとも思えない。
考え過ぎかも知れないが、少しだけ引っ掛かりを覚えた。
◇
午前中の授業が終わって昼休み。俺は約束通り、屋上に向かう。
屋上のドアを開けると、殺風景な空間が広がっていた。
昨日と同じく、生徒の姿は一人もいない。
本来であれば、屋上特有の解放感もあるはずだが、結界の力でとてもそんな気分にはなれない。
「士郎さん――」
そこに、文の姿を発見する。
屋上で少し退屈してたのか、俺の顔を見たら子犬のように駆け寄ってきた。
「お待たせ。じゃ、昼食にしようか」
今朝、朝食と同時に作った弁当を文に渡した。
朝食と同じおかずも入っているが、大体は弁当のために新しく作ったものだ。
同じものを出すよりも、彼女に食事の際は、常に新鮮な気持ちを味わってもらいたい。
彼女がいつまでこの世界にいられるかわからないので、食事だけは手を抜きたくなかった。
「わー。ありがとうございます。……うっわ、すごい豪勢。ちょっと引きましたけど、流石は士郎さんです」
そんな少女らしい笑顔で、弁当を見て喜んでくれた。
その顔に朝から頑張って作った甲斐があったと思う。ちなみにお重は五段だ。
「授業中、退屈じゃなかったか?」
視界にちらつく結界の基点が気になるが、文と二人きりになれる場所なんて、学園では屋上ぐらいしかない。
「いえ。サーヴァントに警戒しつつ、手帳に今回のことを纏めていたので、そうでもないですよ」
和綴じの赤い手帳を手品のように取り出す。
これは文花帖といって、自分の足で稼いだ新聞のネタを書き留めるためのものらしい。
簡単に言えば、ただのネタ帳だ。
いつだか「見たら殺しますよ」と曇りない笑顔で言われたので、ちょっとしたトラウマだった。
「……それって空の上で?」
「ええ、空からですが。それがどうかしました?」
天狗である彼女に取って、地上にいるのも上空にいるのも同じようなものなのか。
「でも寒くはな――」
その時、全身に得も言われぬ嫌悪感が走った。
それと同時に、周辺が一面の赤に覆われる。
「なん、だ、これ……」
学園で常に感じていた嫌悪感が、比較にならないほど濃密になる。
目に映るすべてが、血の海にいるかのように赤く染まり、体を支える力が抜けてしまう。
あまりの気持ち悪さに胸を押さえたら、食べたばかりの昼食を吐き出した。
「はあ、はあ……」
胃酸を味わいながら、もしやと思い結界の呪刻の基点を見る。
これまでは、魔力を通わせないと見えなかった呪刻が赤く輝いていた。
「まさか……! もう結界が発動したのか……!?」
文の目算だと、完成までにまだ時間があったはず。
「……ふむ。これは、そうね。『溶解』と表現するのが妥当かしら」
隣の少女が俺にも聞こえる声でつぶやく。
文はみっともなく嘔吐する俺と違って、何でもないように平然としていた。
未だに吐き気が堪え切れない俺の背中を、優しくさすってくれる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……もう大丈夫だ。それに……溶解って?」
「こうして、肌と匂いで感じれば、私にでもわかります」
異様な空気を取り込むように、形の良い鼻をすんすんと鳴らす。
「ええと、結界の中にいる人間の肉体を魂ごと溶かし、魔力として取り込んでしまうものですかね」
「……人を溶かして、取り込む?」
今は昼休み。学園の生徒や教職員が昼食を楽しんでいる。
そんな日常の象徴とも言える瞬間に、そんな恐ろしいものを発動したというのか。
このまま放っておけば……藤ねえや桜、クラスのみんなが死んでしまう。
「ふざけてる……! そんなこと、絶対に許してたまるか……!」
「ですが……この結界、完全とは言えませんね。本来なら耐性があっても昏倒するほどの代物です。それでもただの人間には大変危険な代物ですが」
「くそ、早く止めないと……!」
気を抜くと意識が飛びそうになる身体に鞭を入れて、何とか立ち上がる。
「――――ふむ。どうしたものやら。士郎さんを無駄死にさせるわけにもいかないし」
文は顎に手を置いて何かを考えているようだ。
「文? どうかしたのか?」
「……そうですね。マスターまではわかりませんが、サーヴァントは同じ結界内に必ずいるはず」
「だったら、二手に分かれて行動しよう。その方が効率的だ」
「えっ、そうなります? まあ、士郎さんがそれでよければ。うーん」
文の危惧する通り、安全面を考えれば、二人で探したほうがいいだろう。
だが、それだと作業効率が二分の一になる。
その結果、誰かが犠牲にでもなれば、俺は悔やんでも悔やみきれない。
「……わかりました。マスターである士郎さんの指示です。そうしましょうか」
結界の基点を撮影すると、カメラから彼女の武器である葉団扇に持ち替えた。
「ふふ。異変解決にいち早く行動なんて――まるでどこかの巫女みたい」
誰に言うわけでもなく、少女はどこか自嘲的にそんな言葉を漏らす。
そして彼女は人外としての象徴である、黒染めの翼を大きく開いた。
◇
文と別れた俺は、元凶のサーヴァントを探すため、上の階から順に駆けていく。
文は逆で、下の階から探してもらっている。
もし俺が先にサーヴァントを見つけたら、すぐに逃げ出すように言われていた。
それで逃げられるかどうかはわからないが、必ず負ける戦いに挑むほど俺も無謀ではない。
廊下には、何人もの生徒が倒れていた。幸いにも息はあったが、意識は完全に失っていた。
だがそれも時間の問題だろう。
俺たちがぐずぐずしていると、彼らはいずれ結界の餌食になってしまう――。
「誰だ……?」
三階の廊下を走っている時、一つ人影を発見した。
サーヴァントかと思って、身構えたがそうではないようだ。
あそこにいるのは、まさか慎二か――!?
「慎二……!? おまえは大丈夫なのか!?」
緊張を少し解いて、慎二の側まで近づく。
「……ああ、なんだ。どこの間抜け面かと思ったら、はは、衛宮じゃないか」
慎二はこんな異常事態だというのに、まったく動揺した様子を見せないでいた。
それどこか、校門で見た時よりも機嫌がよさそうに思える。
奇妙な装丁の本を持っていたのが気になったが、今はそんな場合ではない。
「慎二! ここは危ない! 早く学園の外にでるんだ!」
俺がそう伝えると、どういうつもりか慎二は心外そうに顔を歪ませる。
これまで見たことのない、酷薄さが滲み出ていた。
「ハ、ハハハハハ! 衛宮、おまえが勘違いしているようだから言っておくけど、この結界――『鮮血神殿(ブラッドフォート)』を発動したのは、僕のサーヴァントなんだ!」
「――なッ!?」
慎二は一体、なにを言っているんだ……?
言葉の意味はわかるが、上手く飲み込めず、理解を拒絶する。
「ふん。心底意外って顔だな。馬鹿な衛宮にわかるように説明すると――僕もおまえと同じ聖杯戦争のマスターということさ。それにさ、光栄に思えよ。今日この鮮血神殿を発動したのは、おまえのためなんだからな!」
俺のためだと? どういう意味だ……?
だが、今の俺にはあれこれと悩んでる猶予も余裕もなかった。
「慎二、お前が本当にあのサーヴァントのマスターと言うなら、今すぐに結界を止めるんだ!!」
あの慎二が聖杯戦争のマスターという話は、信じたくなかった。
しかし魔術師じゃないあいつが、結界の中でも無事なのだ。
耐性がある俺だって、今も身体が重く、吐き気が抑えきれない。
それならば、本当に慎二があのサーヴァントを従えるマスターなのだろう。
「ハハハ……何を勘違いしているんだい? どうして僕が衛宮の命令なんて聞かなきゃならないのさ! それにさあ! 本気で止めて欲しいんだったら、土下座ぐらいするのが礼儀じゃないのか!?」
「ふざけるな! 結界を止めろ!」
「ああああ! イライラする! イライラするなあ!! 僕は顔を青くして狼狽える衛宮が見たかったのに! なんで魔術師である僕におまえなんかが命令するんだよ!!」
「…………」
「おい! 何とか言えよ! 衛宮ァ!!」
もう慎二には、何を言おうが言葉は届きそうもなかった。
「もう……いいんだな、慎二。だったら俺はおまえを力ずくで止めてやる」
「ハハハハ――! そうだ、そう来なくちゃな! 僕と衛宮、どちらが優れた魔術師なのか力比べをしようじゃないか!! ハ、ハハハハハハハ!!」
俺の言葉に一瞬だけ目を見開くと、何がおかしいのか壊れたように笑い続ける。
慎二の顔には、正気ではありえない凶相が刻まれていた。
「それに――おまえの弱っちいサーヴァントも、今頃ライダーが殺してるだろうしな!」
そうして、慎二は手に持った赤い本を俺に向けて掲げた。
◇
士郎と慎二のいる三階の下。
二階の廊下では、ライダーと文が二度目の会敵を果たしていた。
廊下では、三階と同様に何人もの生徒が半生半死の状態で倒れている。
「…………」
ライダーは重心を下げ、四つん這いになると、大柄だがしなやかな身体がたわんだ。
引き絞られたライダーの身体が矢のように放たれて、文に襲い掛かる。
「――ふっ!」
それと同じタイミングで、鎖に繋がれた短剣を文に向かって投擲。
文は高速で飛来する短剣を難なく躱してみせたが、これは牽制でしかない。
短剣は鎖の両端に付いており、ライダーは時間差でもう一本を投げる。
「はぁ!」
二本目の短剣に、文は回避行動を取らずに葉団扇を扇いだ。
そこから発生した暴風によって、短剣の勢いは殺されてしまい、力なくその場に落ちる。
ライダーは、既に回収済みの一本目の短剣を文に振り下ろそうと駆けたが。
それもまた、葉団扇から吹き付ける風によって、動きを止めた。
「やはりあなたがこの結界の術者でしたか。しかし、挨拶もなしとは随分ですね」
文は余裕綽々と言った態度で、ライダーに話し掛けた。
「……あなたが昨日、桜に言った言葉は覚えていますか?」
「桜さんのサーヴァントはあなたでしたか。ふふ……確かに陰湿な感じがそっくりかも」
その人を食ったような物言いに、ライダーは確信する。
間桐桜の心をズタズタにしたのは、間違いなくこのサーヴァントだと。
「あなたは桜を傷つけた。――死んで償いなさい」
ライダーは、文との間合いを跳躍して一気に詰めようとする。
「…………」
天狗の少女は、ライダー相手に余裕を見せていたが、内心では焦りを覚え始めていた。
容赦なく襲い掛かるライダーに、彼女の得意とする風の弾幕が使えない。
この狭い空間で派手な弾幕を使えば、廊下で死にかけた人間を巻き込んでしまう。
それは、士郎との軋轢になりかねないし、文にとっても望むところではない。
これでは、高密度の弾幕は使えないのも同然。
そしてもう一つ。
「既に気づいているようですが、あなたに取ってこの空間は不利に働く。このような狭い空間で持ち味である俊敏な動きができますか?」
ライダーは昨日の屋上での一件で、この少女の強みは尋常ならざるスピードにあると読んでいた。
遠坂凛に放たれた短剣を、刹那のうちに掴み取る神業。
この黒翼の少女は、ランサー並かそれ以上のスピードがあると考えて間違いない。
「……さてさて、どうでしょうかね?」
ライダーの言葉通り、文のスピードはこの場所だと十全には生かせない。
そして何よりも、この場所では『飛ぶこと』ができなかった。
他のサーヴァントにはない、射命丸文が持つ最大のアドバンテージ。
今はまだ致命的とまではいかないが、弾幕と機動力の両方を封印されてしまっている。
その二つが制限された状態で、一騎当千の古強者であるサーヴァント相手にして勝てる見込みは少ない。
「ふっ! はっ! はああっ!」
ライダーは、両手に持った短剣を使い、刺突による攻撃を繰り出す。
文は軽業師のような身のこなしで、その攻撃を躱していった。
急所を的確に狙い続ける二本の短剣。
文はそれを、弾幕攻撃によって鍛えられた反射神経で見切っていく。
「……ッ」
それでも、限界を感じていた。
サーヴァントの攻撃を、ガードもせずにそう長い間、躱し続けるのは厳しい。
文の持つ葉団扇では、攻撃を受けるにはあまりに心許なかった。
ヤツデの扇なんか、簡単に貫かれる。逆に攻めに転じる余裕もそこまでなかった。
(まあ、それでも――)
文は、床が砕けるほどの力を一本下駄の足に込める。
極限まで集中して、ライダーによる左右からの挟撃を紙一重で躱してみせる。
そして躱すと同時に、バネのように込められた脚力を解放した。
「な……!?」
170センチを優に超すライダーを軽々と飛び越えて背後を取った。
跳躍の勢いのまま、少女の履いた一本下駄が、ライダーの後頭部をしたたかに蹴り飛ばした。
ライダーは数メートル先まで蹴り飛ばされたが、追撃を受けぬようすぐに体勢を整える。
「――驚いた。異常なスピードもですが、どんな眼をしているのですか」
ライダーは肩に手を置いて、首を軽く回す。
魔力も込められていない、ただの力に任せただけの蹴りだ。大したダメージは受けていない。
「お褒めにあずかり光栄です。最近は回避してばかりの人生でしたので」
いつも通りの笑みを作って余裕を見せるが、当然そこまでの余裕はない。
だが、近接攻撃のパターンはある程度は見切っており、今なら即反撃も可能だった。
「ふう」
葉団扇に魔力を走らせて、風による刃を纏わせる。
今度はこちらから攻めに転じようと、一歩目を踏み込んだその時だった。
ライダーが射命丸文にわざと似せた、口角を上げた笑みを作る。
「――それでは、次は私の眼を見せてあげましょう」
ライダーが顔を覆う眼帯を手に取った。
ゾクリ――と射命丸文の背中に、かつてない悪寒が走った。
それは、外の世界に来てから初めての感覚だ。
「やっば……!」
文は、経験的に悟った。
彼女がいま外そうとしている眼帯は、魔眼封じなのだと。
そして、感覚的に悟る。
それに対抗する術などなく、故にこの場から逃げるしかないと。
文は、廊下の窓を破って、校舎の外へと抜け出そうとする。
「フフ。良い判断です――ですが、もう遅い」
既に眼帯が外されており、『魔眼《キュベレイ》』が解き放たれた。