文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
慎二の掲げた魔導書から魔力が迸った。
三列の地を這う黒い刃が、俺に襲い掛かる。
「本当に馬鹿だね、おまえ」
黒い刃が俺に迫ろうとするが、決して見切れない速度じゃない。
こんなの、サーヴァントの攻撃に比べたら児戯に等しいレベルだ。
俺は迫り来る刃を無視して、正面から真っすぐに慎二に向かって走る。
黒刃によって、制服ごと皮膚を切り裂かれたが、ただそれだけ。
その程度の傷では、俺の動きに支障はない。
「馬鹿はおまえだ! 慎二!」
慎二は、刃を無視して向かってくるとは思ってなかったのだろう。
余裕の表情から一転して、驚愕に引きつる。
「なッ――! やめろ! 来るなぁ!」
狼狽える慎二に掴み掛かろうとしたが、あいつは俺から逃げるため、廊下を走った。
だが、決して追いつけないスピードじゃない。これなら一分もしないで捕まえられる。
「…………」
慎二を追いながらも、廊下に倒れた女子生徒を見る。
胸は微かに上下しており、しっかりと生きていた。決して、手遅れではない。
ここで誰かが死んでしまったら、俺は一生悔やむことになるだろう。
10年前のあの日、俺には何の力もなかった。
でも、今なら……文の力を借りられる今なら、あんな悲劇は絶対に止められる――。
それに、慎二にとっても手遅れではない。
やってしまったことは、到底許せるものではない。
だが、慎二はまだ誰も殺してはいなかった。まだやり直せるのだ。
誰か一人でも死んでしまえば、取り返しのつかない罪を背負わなければならない。
「クソクソクソ! どうしてこうなるんだよ……!?」
慎二が逃げながらも、廊下の端に備えられた掃除用具ロッカーを倒した。
……そんなので、逃げ道を塞いだつもりか。
撃鉄を下ろすイメージ――。
通常であれば、土蔵で一時間掛けてやるプロセス。
だが、必要な行程を無視して、無理やり魔術回路をこじ開けた。
慎二が蹴飛ばした掃除用具から、モップを拾い上げて詠唱を開始する。
『――
モップの先端を外して、解析を開始。強化の魔術を行使する。
「く……! あああああッ!!」
身体中に張り巡らされた神経を、引き千切られたような激痛。
それでも、何とか強化を成功させた。
「衛宮ァ!!」
慎二が逃げながらも、魔導書から二度目の刃を走らせる。
「はぁ!」
それを強化したモップで破壊した。大した手応えもなく、黒刃が砕け散った。
「うああああ……ッ!! クソ! クソォ!!ライダーのやつ、なにやってんだ! ライダーッ!!」
刃が破壊されるのを目の当たりにした慎二が、足を止めて喚き散らした。
その隙に慎二の顔を思いっきり殴り飛ばす。
転倒した慎二が起き上がる前に馬乗りになって、再び顔を殴った。
「慎二! 結界を止めろ! 今ならまだ間に合う!」
「……クソ! だ、誰が、誰がおまえなんかの言うことを聞くかよ!」
慎二は馬乗りの状態から逃げ出そうと藻掻いたが、俺と同程度の体型である以上、ここから逃げるのは無理だ。
「今ならまだ間に合うと言っているんだ! 誰も死なずに済む!」
「ハ、ハハハ! そんなこと僕の知ったことか! ……ライダーのやつ! まだ片付けてないのか!?」
頭に血が一気に上る。
人が、人が死のうとしているんだぞ……?
それを……おまえは『そんなこと』だと言い切るのか!?
「慎二、おまえがどうしてこんな凶行に走ったのかわからない。だけど、今そんなことは関係ない。――これが最後だ。結界を、止めるんだ」
「知らないね! 馬鹿が! 僕がなんで……」
慎二が戯言を言い終わる前に、俺は再び顔を殴った。
マウントポジションのままに、何度も何度も拳を振り下ろす。
何本も歯が折れて、拳に破片が突き刺さる。痛みはない。
極度の興奮状態で、脳内麻薬が分泌されているのかもしれない。
慎二は、ぐるんと白目を剥いたが、それでも殴る手を休めなかった。
何かを砕く嫌な感触が、殴っている腕に伝わった。
その時にはもう、慎二は失神していた。
整った顔は、見るも無惨な状態だった。
顔中が赤く腫れ上がり、前歯も半分近く折れて、鼻の軟骨も完全に砕けている。
もしかしたら、顎の骨も折れているかも知れない。
慎二は気を失っていたが、手に持った魔導書だけは万力のような力で握られていた。
もう慎二に、結界を止めることはできない。
「…………ぅ」
蚊の鳴くようなか細い声。
近くで倒れていた女子生徒の顔が、グズグズと溶け始めていた。
時間はもう残されていない。ひょっとしたら、もう手遅れかも知れない。
そう、この結界を止めるには――。
『結界を張ったサーヴァントか、そのマスターを殺すしかないわ』
俺は、慎二の首に手を掛けた。
◇
ライダーが魔眼を解放すると、空間が色を失って凍った。
水晶細工のような灰色の美しい眼。
虹彩には光沢がなく、まるで作り物のように無機質だった。
それは、神域に封じられた神の呪いであり、視線だけで対象を石化させる魔眼。
キュベレイとも呼ばれる、規格外の能力。最高位のノウブルカラー。
魔眼の視線に捉えられた気を失った生徒たちが、足下から石へと変化していった。
それは文も例外ではなかったが、石化までには至らない。
しかし幻想郷最速と言われた射命丸文の脚は、もはや完全に失われていた。
「――ふむ。効きがあまりよくありませんね。やはり、制限された今の私に鮮血神殿との同時展開は無理がありましたか」
「冗談、キツいですね……」
この状態ですら、効きが悪いのだと言う。
視線すら合わせず、視界に入れられただけなのに、身体が石になったように動かない。
それは比喩ではなく、一定の対魔力がなければ、本当に石と化してしまう代物。
文からすれば、とことんタチの悪い冗談でしかなかった。
「あなたのその脚は厄介ですね。早めに封じさせてもらいましょう」
ライダーが、短剣を再び投擲する。
天狗の少女は、自分の足に短剣が飛んでくるのを、ただ眺めるしかできなかった。
普段なら、なんなく躱してみせただろう。
彼女の神懸かり的な動体視力に反して、身体は回避しようにも反応がない。
なんとか、ずるずると身体を引きずってみるが、それは徒労に終わるだろう。
文は、これから確実に訪れる痛みに備えるため、奥歯を強く噛み締めた。
そして鋭い刃の先端が、文の細い足を簡単に貫く。
「…………ッ!!」
想像していた以上の痛みに襲われる。
短剣が下腿部を貫通して、おびただしい鮮血が流れ出した。
もしかしたら、血管を深く傷つけているかもしれない。
「フ……そこまで深く刺さったのなら、もう簡単には抜けないでしょう」
ライダーは眼帯を付け直して、魔眼キュベレイを封印した。
こうなってしまえば、余計な魔力を消費する必要はない。
あのダメージなら、今までのような動きは二度とできない。
そう確信したライダーは、短剣に縫いつけられた文を鎖によって全力で振り回した。
「はあああっ!!」
文の小さな体躯を、壁や窓へ叩きつける。
サーヴァントの膂力による衝撃で鉄骨が剥き出しになり、ガラスを失った窓枠は無残にひしゃげる。
最後に最大級の力で床へと叩き付けられて、受け身すら許されない文は蛙のように潰された。
「……かはっ」
肺から嫌な音がしたが、激痛のあまりに呻き声すら上げられない。
ライダーは、そんな状態の文に対して無感情に告げる。
「無様ですね。あなたには鮮血神殿という鳥籠のなかで、惨たらしく死んでもらいます」
それでも天狗の少女は、ライダーを無視して、よろよろと立ち上がった。
足に刺さった短剣は、まるで返しでも付いているように、肉に食い込んで微動だにしない。
だが、文はそれを力任せに引き抜いた。
「…………ッ!!」
脚の肉が一部削げてしまい、意識が飛びかねない激痛が走る。
我慢できずに苦悶の表情を浮かべるが、悲鳴だけは出さなかった。
「……忘れ物です。お返ししますね」
自分の虚勢を見せつけるように、文は引き抜いた短剣をライダーの足元に投げ捨てた。
ライダーは自身の得物を拾い上げ、刃に付いた文の血を舐める。
「フフ。あなた、本当に英霊ですか?」
短剣という栓が抜かれたため、文の足から再び大量の血が流れた。
叩き付けられたせいで身体もボロボロで。
肺が傷ついているのか、呼吸は不規則であり、喘鳴をする有様。
それでも、少女の赤い目は輝きを失われないまま、薄い笑みも絶やさない。
「……まぁいいでしょう。あなたの敗北は決定しています。桜への暴言を心から謝罪するのであれば、優しく殺してあげましょう」
ライダーがそう言うも、妖怪少女は歪な微笑を続けていた。
それは、まるで人を食ったかのような――。
「知ってますか。妖怪は、心が折れるとオシマイなんですよ」
「……何を言ってるのです。おかしくなりましたか?」
ライダーは、怪訝な表情を見せる。
目の前の少女は、そうやって立っているのもやっとだ。
それなのに、このサーヴァントはどうして笑っていられる?
「ですから、私は絶対、桜さんに謝りません。ここであなたの言う通りにしたら、負けを認めるのと同じじゃないですか」
……幻想郷に住む妖怪は、精神によって生かされている。
肉体に負った傷は問題ではない。その反面、精神の傷は簡単には癒えない。
屈服や敗北は、その最たるものだった。
そんな心の傷は肉体にも影響を及ぼして、妖怪すらも死へと招く。だから。
「――だから心が折れない限り、私は決して負けない」
文は、葉団扇に風を纏わせた。
そのまま、傷ついた足を庇おうともせずにライダーへと駆け出す。
だがそれは今までの文に比べて、あまりに遅い。遅すぎた。
「何を……!?」
ライダーは長身を活かして、葉団扇が届くより先に少女の顎を蹴り上げた。
カウンター気味に入った蹴りによって、文は天井へ叩きつけられて蛍光灯を砕く。
「…………ぐ、ふ!」
硝子片と水銀蒸気がキラキラと降りしきるなか、文はそれでも立ち上がった。
「何か奥の手があるのかと思いましたが、闇雲に突っ込むだけですか」
「はあ……はあ……」
「では、とどめを刺しましょう。――あなたが今回の聖杯戦争で最初に脱落するサーヴァントです」
確実に殺すため、文に近づいていく。
ライダーは口では侮ったように見せていたが、相手は自分と同じサーヴァントである。
宝具の正体も未だ不明であり、一瞬の油断は命取りになる。
だから一切の油断をせず、確実に距離を縮めていった。
ほら、肩で息をする少女の赤い目は、相変わらず強い光を灯しているじゃないか。
「――――?」
だがその目は、眼前のライダーを見ていなかった。
視線の先、それはライダーの遠く後方の――。
「――文!!」
ライダーの背後から、強い意志を感じさせる男の声が響いた。
その声にライダーは、ほんの僅かな隙を作る。
文を警戒するあまりに、周囲の警戒が散漫になっていた。
そしてそれを見逃すような天狗の少女ではなく。
ライダーまでの数メートルの距離を一瞬で縮めると。
葉団扇で作られた刃によって、ライダーの肉体を水平に切り裂いた。
ライダーも風の刃が届く直前に身を翻したが、腹部が大きく裂かれていた。
致命傷とまではいかないが、決して無視していいダメージではない。
ライダーは、注視したまま後方へと下がり、文との距離を再び取った。
「ナイスアシストです――。士郎さん」
文はライダーの肩越しにいる、自身のマスターに親指を立てた。
「…………」
まだあんな動きができたのかと、ライダーは感心する。
無鉄砲な吶喊は、油断させるための布石として、わざと鈍足を演じてみせたのだ。
そしてライダーが、確実に間合いに入るか、少しでも隙を作る瞬間を狙った。
「文、その傷……大丈夫なのか!?」
士郎は少しでも文の側に近づきたかったが、ライダーがそれを許さない。
ライダーの肩越しではあったものの、そこからでも文の状態が酷いのはわかった。
彼女の身体は、傷がない箇所を探す方が難しいほどだった。
「ええ、見ての通り、問題ありません。唾でもつけておけば治ります」
「そんなわけないだろ! 血だって流れてるじゃないか!」
「まあまあ。ところで士郎さん――その背中の大きな荷物はなんですか?」
◇
俺が慎二の首を絞めようとした時、すぐ下の階から爆発音がした。
その音の正体は一瞬でわかる。間違いなくサーヴァント同士の戦いだ。
文が結界を仕掛けたサーヴァントと遭遇し、そのまま交戦状態になったのだろう。
俺は、このまま慎二を殺してしまってもいいのか?
間違いなく親友と呼べていた頃の、懐かしい記憶が脳裏をよぎる。
「…………くそ」
少しの逡巡――俺は気絶した慎二を背負うと階段を降りた。
言葉とは裏腹に、文は満身創痍だった。
全身から血が流れており、右足には目を背けたくなる穴が開いている。
清潔感に溢れていた白い服も穴だらけで、修繕が不可能なほどに破れていた。
それでも文はいつもと変わらない、意志の強い声で「問題ない」と言う。
そこに、嘘や虚勢は少しだって感じられなかった。本当に問題ないのかもしれない。
だが、文の傷が命には関わらなくても、戦闘に支障を来すのは明白だった。
そしてその傷を負わせた相手は間違いなく、文と対峙しているサーヴァント――ライダーだ。
俺はライダーに向かって、肺に残る空気をすべて吐き出すかのように叫ぶ。
「ライダー! お前のマスターは戦闘不能だ! 結界を解除しろ!!」
「……聖杯戦争とは、サーヴァント同士の戦いです。マスターが戦闘不能だとしても、サーヴァントがいる限り問題はありません」
「そうか。それなら、この場で慎二を殺す」
気絶したままの慎二を壁に寄りかからせて、再び首に手を掛ける。
このまま本気で力を込めれば、窒息死するより先に慎二の首の骨が折れるだろう。
「本気ですか? シンジとあなたは友人であると聞きましたが」
「ああ、本気だとも。俺だって魔術師の端くれだ。殺す覚悟も殺される覚悟もできている。魔術とは己を殺し、他者を傷つけるものだと、切嗣から最初に教えてもらった」
それに殺す覚悟なら、三階で慎二の首に手を掛けた時から済んでいた。
下の階からサーヴァントの戦いの音がなければ、慎二は今頃死んでいただろう。
殺さないで済むなら、それが一番なのは間違いない。
だけどこれ以上、誰かが傷付いて命を落とすかもしれないなら、俺は慎二を殺すのを躊躇わない。
「……なるほど」
ライダーは、文に対して警戒してるのか一度たりとも振り向こうとしない。
それでも、口だけは開いた。
「――わかりました。鮮血神殿を解きましょう」
その瞬間、赤く染まった世界が、本来の色を取り戻した。
俺の体を重く縛っていた虚脱感も一瞬で消えた。
慎二の首に掛けていた手も、安堵によって少しだけ緩んでしまう。
「ですが、シンジは返してもらいます」
一瞬の油断がいけなかった。
ライダーは人間にはできない速度で振り返ると、俺と慎二の元へと飛んだ。
「士郎さん!!」
文も咄嗟にライダーを追うが、足へのダメージのためか追いつくことができない。
迫るライダーに、俺は強化したモップで迎撃しようとして、結果的に慎二を解放してしまった。
ライダーは俺を無視して、廊下で倒れる慎二の襟を掴むと、廊下の奥まで駆け抜けていった。
少し遅れて追いついた文が、俺の背中を軽く叩く。
「士郎さん、行きましょうか!」
「ああ……!」
どうしてか、少しだけ彼女に認められた気がした。そのまま二人、肩を並べてライダーを追う。
ライダーとは、廊下の突き当たりで対峙した。
気絶した慎二を抱えたままでの戦闘は不可能なはずだ。
「では、この場は離脱させてもらいます。あなたを殺せなかったのは心残りですが、鮮血神殿で魔力の補充はできましたし、多少の収穫もありました」
文が視線を鋭くしてライダーを見据える。
「こんなところで逃がしませんよ。ここはほら、私からあなたまで一人の人間もいません」
文が手に持った葉団扇に魔力を集中させた。
「つまり、ここなら被害を出さずに弾幕を使えます。ライダーさん、あなたはこの狭い廊下で私の弾幕を躱せますかね」
だんまく? ……弾幕って何のことだ?
しかしライダーは、態度を崩さずにニヤリと笑ってみせる。
「フフ――たかが一匹の烏如きが我が宝具の疾走を妨げられるとでも?」
ライダーが、手に持った短剣を自分の首へと突き刺した。
動脈から飛び散った血が、廊下を赤く染めていく。
「あなたは、なにを……!?」
自傷としか思えないライダーの異様な行動に、文ですら言葉を詰まらせてしまう。
そう呆気に取られた直後。
飛散した鮮血が、ライダーの眼前に集まり、魔法陣を形成する。
屋上のそれとも違う、初めて見る形だ。
人の眼球を模したような魔法陣が光を放ち、これまでで最大の魔力を奔らせた。
閃光が、周囲を包み込む。
「いけない! 士郎さん、舌噛まないように!」
「え?」
文は乱暴に俺を抱えると、廊下の窓に向かって跳躍した。
ガラスを突き破って、二階から外へと飛び降りる。
俺たちが今までいた場所からは、閃光と大きな振動、そして破壊音が鳴り響く。
文は俺を抱えたまま、楽々と着地してみせた。
ああ……彼女がいま履いているのは、一本下駄なのに器用だなと。
そんな状況にそぐわない、ずれた思考のなかに俺はいた。