文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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02.お互いに現状を整理しよう

 

 

青い外套の男を撒くことに成功した俺たちは、商店街の一角にある公園へと降り立った。

 

クーフーリンを名乗る男はすでに諦めてくれたのか、もうこの付近にはいないようだった。

公園のあるマウント深山商店街は、俺も昔から利用しており、知り合いも多い場所だ。

もっとも、いまは夜が色濃くなり、冷たく静かで、公園には誰一人としていない。

 

 

……クーフーリンとの逃走劇は、思い出したくないものだった。

 

冬木の夜空に連れ去られた俺は、少女に抱えられてあちこちを飛び回っていた。

その常軌を逸した速度と加速度と恐怖心により、早々に俺の意識を刈り取られてしまった。

意識は失っていたが、俺の体にはジェットコースターなんてお遊戯に感じるほどの恐怖が刻まれていた。

 

そしてその超速度に、これまた尋常じゃない脚力で追いついてくる外套の男。

闇夜を超高速飛行する少女に、姿勢の良いフォームで猛追するなんて、普通じゃない。

だがそんななかにあっても、少女は焦る素振りも見せずに、ただただ面白そうに男を見下ろしていた。

その時の含みのある笑顔は、意識を失いかけていた俺の脳裏に深く植え付けられた。

 

それにしてもだ――。

意識を彼方に預けた男子生徒をお姫様だっこで、宵闇の空を颯爽と飛ぶ少女。

それを猛スピードで追いかけるタイツのように見える青い外套を着た男。

俺には命懸けの逃走劇だったが、傍から見れば、恐怖以上にとてもシュールな光景だっただろう。

 

俺の冬木における名誉のためにも、目撃者が居ないのを切に祈らざるを得ない。

ただ、並の動体視力では影すら追えない速度だったと思うけど。

 

 

しかし彼女はあの途轍もない重力加速度に平然としていたが、疲れていないのか?

 

「はー、見るものすべてが新鮮! 新鮮でしかありませんね!」

 

少女は、物珍しそうに公園を観察していた。

うん……まあ、なんでもないんだろう。

 

今は、俺と公園のベンチに並んで腰を下ろす。

こうやって、同じ高さに座ってみると、少女の体型の華奢さに改めて驚かされる。

この小さな体のどこに中肉中背の男子学生を軽く抱える力と、常識外れたスピードが出せるのかが不思議でならない。

 

外見だけでは想像できない――いや物理法則からは、完全に逸脱した存在なのだろう。

 

 

少女を注視していると、背中の翼が消えていることに気づく。

夜の暗がりに紛れたかと思って、視線を回り込ませ背中を見てみたがやはり翼は見あたらない。

……あれ? さっきまで鴉のような黒い翼が生えていたと思ったんだけど。

 

「……はて? どうかしましたか? もしかして私の背中にゴミでも付いています?」

 

いや、そうじゃなくて、むしろ付いているはずのものが付いてないから見てたのだけど。

だけど、これ以上は女性の体をじろじろと観察するのも失礼なので「何でもない」と伝える。

 

「ふふふ。それにしてもです。召喚された直後にあんな馬鹿げた鬼ごっこをするなんて、思いませんでしたね」

 

やはりというか、少女は丁寧な言葉使いだった。

その淀みなさからして、普段から使い慣れているようにも思える。

もしかしたらだが、上下関係の厳しい縦社会で彼女は育ったのかもしれない。

 

だが物腰や口調が丁寧であっても、同時に剛胆な性格であるのもうかがえる。

命のやりとりの一歩手前までいったのに、こうしていまは何でもないようにしているのだ。

そも、あの命がけの逃走劇を『鬼ごっこ』の一言で片付けるのは、なんの冗談だろうか。

 

「しかし、なんと言いましょうか。まさかまさかのまさかですよ! クーフーリンという有名人に会えるなんて思いもしませんでした! どうしてかわかりませんが、非常に好戦的だったので思わず逃げてしまいましたが。……あー、できればインタビューがしたかったですね。うーん、そこだけは、少しもったいなかったわ」

 

赤い目を輝かせて、どこからともなく赤い和風手帳と万年筆を取り出した。

くるくると万年筆を回してから、手帳に何かを書き始める。

よく使い込まれた少し古めかしい手帳だった。万年筆のほうも相当の年代ものだ。

 

「……あ、すみません。職業柄ネタになりそうなことがあれば、書き留める癖がありまして」

 

少しだけすまなさそうに笑って見せるが、目線は手帳から外さないし、筆を走らせる手も止めようとしない。

思い返してみれば、男に対して新聞記者だと名乗っていたな。もしかしなくてもそのことだろうか?

 

「……ああ。色々あって混乱しているけど、おまえの名前は『射命丸文』でいいんだよな」

 

その問いに少女は声に出さずに、コクリと首肯する。

 

「俺は、衛宮士郎。さっきの家の家主だ。……それで、あのクーフーリンにしても、お前にしても……何が起きているのかさっぱりわからない。なんでもいいんだ。教えてくれないか?」

 

区切りの良いところまで書いたのか、少女は手帳をぱたんと音を立てて閉じると、形のよい顎に万年筆を当てた。

 

「ふむ。では、そうですね、士郎さん。まず、私のことは『文』とお呼びください」

「『文(あや)』か。わかった」

 

シンプルだが、響きも良く、とてもいい名前だと思う。

 

「しかし、困りましたね。私の疑問は士郎さんの疑問でもありましたか。それは想定外でした。この私にわかるのは……私は私の意志によって、あなたに召喚されたことだけです。申し訳ないですが、それ以外は何もわかりません」

 

唯一の頼みの綱だった少女も、この事態を全く把握していないようだった。

だけど、この窮地と呼んで差支えのない状況に、少女は悲観をしたり混乱している様子もない。

 

……ん? 待てよ?

いま聞き捨てならないことを言わなかったか? 『あなたに召喚されたこと』だって?

 

「……ちょっと待ってくれ。俺は文を召喚なんかしていないぞ」

 

召喚という高度な魔術は、俺みたいな未熟な魔術使いでは、やり方どころか仕組みすらわからない。

知識として、そういうものがあるのを知っている程度だ。

 

「はい?」

 

その言葉に何か思うことがあったのか、間の抜けた返事とともに目を丸くして驚く。

 

「ついでに言うと、俺はあの男に襲われて、武器を探すために土蔵に入っただけだ」

「え? え? ほんとですか?」

 

少女は腕を組み、考えを巡らせるような仕草を取った。

一連の出来事がどういうことなのか、自分なりに考えているのだろうか。

 

「でも……いえ……。士郎さんが私を召喚したのは間違いないと思いますよ? その左手の模様から微弱ながらも私と魔力的な繋がりを感じますし」

 

……左手?

指摘通りに、左手を見てみると、手の甲の部分に赤く光る紋様がはっきりと刻まれていた。

 

「うわ、なんだこれ」

「……はて? なんでしょうかね?」

 

二人そろって、はてなと首を傾ける。

確か……今朝までは、みみず腫れのように赤くなっていた場所だ。

思い出してみれば、文が現れたときに熱のような痛みが走った。

文の言った『魔力の繋がり』というのはわからなかったが、手の甲の紋様からは確かに魔力を感じる。

 

「それ以外にも、召喚に使われたと思われる魔法陣が私の足下に浮かんでいました。なので、私を召喚したのは士郎さんで間違いないでしょう」

 

少女は軽く息を吸ってから、一拍を置く。

 

「ここからは私の考察です。ただ私は、一介のブン屋でしかありません。話半分にして、鵜呑みにはしないでください」

「わかった。文の意見を聞かせてほしい」

「……まず、士郎さんはクーフーリンという大きな脅威に襲われました。そして必死に逃げようと、土蔵に駆け込み生き残る術を探した。そこまでは合ってます?」

「うん。間違いない」

 

こうして五体満足で生き延びているのは、本当に奇跡だと思う。

 

「その時の感情の高ぶりが、魔法陣の起動のキーになったと考えるのはどうでしょうか?」

「感情の高ぶり? そんなものが文を召喚までの力を持つものなのか?」

「ごもっとも。ですが、この地は召喚の詠唱が必要としない程に龍脈が――まあ土台ができています。まあ、私もこの手のジャンルは門外漢で、なんとも言えませんけど。……もしかしたら、紫もやしの所為かしら」

 

この口ぶりから察するに文は、ある程度の知識はあっても魔術に明るいわけではないようだ。

…………てか、『紫もやし』ってなんだ?

 

「……あ、そういえば、あの場所は住まいにしては変わっているなーとは思いましたが土蔵でしたか。それはそれは失礼をしました」

 

考察に加えて、最後に微笑ましい勘違いを謝罪すると、少し恥ずかしいのか万年筆で頭を掻く。

そういえば、彼女が現れたときに土蔵を俺の家だと変な思い違いをしていたな。

 

文の言うとおり、俺は男に襲われたとき『こんなところで死んでたまるか』と強く思ったのは確かだ。

そして何とかして生き延びようと土蔵に転がり込んだ瞬間、強い風と大きな光に包まれた。

それが結果としてこの少女を召喚することになるなんて誰が思うのだろうか。

だけど、そのお陰で俺はあの男に殺されずに、こうして怪我一つなく生き延びられた。

 

「じゃあ偶然とはいえ、本当に運が良かったんだな……」

 

そんな俺に少女は、ふふんと鼻を鳴らす。

 

「いえいえ、我々のこの出会いを運や偶然で片付けるのはあまりにも勿体ない。勿体ないです!」

「そ、そうか?」

「ええ、そうですとも! ですので、これは起こるべくして起きた必然と考えましょう。どこかの吸血鬼の言葉を借りるなら、そう、まさに運命です! 今日のこの出会いを『運命の夜』とでも呼びましょうか! ふふ、俗っぽくて少し恥ずかしい言葉ですけど!」

 

彼女は、少し興奮しているかもしれない。

だけど、そうやって大げさな口調で大げさに言葉を飾っているにしては、どこか冷静にも見えた。

悪い見方だが、俺に合わせるように、あえておどけて見せているような。

まあ……敵意はないようだし、なんだかよくわからないやつなのは間違いないな。

 

もっとも、こんな場合に彼女の歯の浮く言葉にどう返せば良いのか、俺はそれすらも決めあぐねいていた。

 

 

「ずっと気になっていましたが、その服の染みは血ですよね。あなた自身の血液に見えますけど、それにしては外傷が見あたりません。ひょっとして、治癒の『魔法』でも使われましたか?」

 

俺の着ている穂群原学園の制服を改めて見てみる。

薄茶色の制服は俺の血に染まっており、時間経過によってすでに凝固していた。

血液以外にも制服には、あの男に突かれた大穴が開いているので、どうにか直すのは無理だろう。

 

それと、文の言う『魔法』という言葉には未熟ながらも引っかかりを覚える。

だが、素人の俺なんかが訂正を求めると逆に恥を掻きそうなので、今は気にしないでおこう。

 

俺の知る『魔法』とは、現代技術によって到達の叶わない奇跡であり。

逆に『魔術』とは、時間と資金さえあれば再現可能なものを指す。

つまり、治療を目的とした『治癒』は『魔術』であり『魔法』には該当しない……はずだ。

 

「いや、俺は治癒なんて使えない。俺が使えるのは強化魔術だけだ。……それもかなり成功率が低いけどな。学園で男に槍で胸を貫かれたはずだけど、気がついたら塞がっていたんだ」

 

刺された後は意識を完全に失っており、何も思い出せない。

……なんとなく、ポケットに入れてある赤い宝石のペンダントを握る。

確か、俺が刺された場所に落ちていたんだっけな。

それならば、この宝石の持ち主が俺の命を助けてくれたんだろうか?

 

 

それと、いい機会だったので、これまでの経緯を文に説明した。

 

あの槍の男が、学園の校庭で何者かと戦っていたこと。

男に気づかれた俺は、朱槍で胸を貫かれて死の淵にいたが、気がつくと治っていたこと。

そして、家に戻ると再び男に襲撃受けて。直後、文と出会って、助けられたこと。

 

こうして順序立ててみると、この数時間で俺の価値観がひっくり返る経験を何度もしていた。

 

「ふむふむ、そんなことがあったんですか。しかしそうなってくるとやはり疑問は尽きませんね」

 

今の提示された情報を整理して、再び考えを巡らせているようだ。

改めて、この少女の聡明さに感心させられる。

 

少して何か考えが纏まったらしく、自身の考えを話し出す。

 

「これもまた強引な解釈ですから、適当に聞いてくださいね」

「わかった」

「……私もそうだったようにクーフーリンも召喚された存在なのではないでしょうか? まず根拠として、彼の身体はエーテル体によって編まれており、生身の肉体ではありませんでした」

「……なんだって? 肉体じゃない?」

「はい。私の知り合いにも似たような人が何人かいますので、これについては間違いないでしょう。ただ英雄の降霊なんて大それたことは、ただの人間なんかにできるはずがありません。ですが、この地は土台となる龍脈だけではなく、それを可能とする特別な力があると思われます」

 

――特別な力。

俺が文を召喚ができたのと同じように、クーフーリンもまたその特別な力によって何者かに喚ばれたのか。

確かに文やクーフーリンのような強大な力を持つ者が、冬木に偶然集まったと考えるよりずっと自然な考えだ。

 

「その、特別な力というのはなんだろう?」

「すみません。それは、私にも分かりかねます。ですが」

 

少女は、何か想いを馳せるかのように一度目を閉じた。

 

「ですが、私はその力のおかげで、いまこの地に立っている――」

 

ベンチから飛び降りると軽く踊るかのように、高下駄を使って、くるりと一回転した。

好奇心に輝く赤い瞳には、俺には有り触れた世界をどう映しているのか。

 

それと、一つだけ、わかったことがあった。

彼女は何かしらの目的があり、俺の召喚に応じてくれたのだろう。

少女は、座っている俺の前に立ち、俺はそれを自然と見上げる形になる。

 

こうして、月の光を背にした黒髪の少女は、幻想的なまでに美しかった。

 

「ごめんなさい。私にわかるのはここまでですね」

 

口では謝っていたが、顔に翳りなど一欠片もなく。

そこにあるのは、好奇心にだけ満ちた怜悧で秀麗な相貌。

 

「では早速ですが、士郎さん。今度はあなたの口から、あなたの世界のことを聞かせてくれませんか――?」

 

 

 

 

彼女が何かを質問し、俺がそれに答える。

質問の内容は様々で、この国の政治宗教から、極めて日常的の小さな事柄も訊いてくる。

今更だったが、彼女はこの世界の住人ではないらしい。

俺にとっては、何でもないことでも、彼女は感心しながらもメモを取っている。

ちょっとした疑問があれば、疑問の要点を的確に突いてきた。

彼女は話し上手の聞き上手であり、大してしゃべり好きでもない俺も少し楽しく感じる。

公園にあるブランコ、滑り台、シーソーといった遊具なんてことも、興味津々に訊いてきた。

 

その瞳に映る全ての世界が、彼女に取って新鮮なものなのだろう。

そうして、夜は更けていった。

 

「……ところで文って一体何者なんだ? あの男みたいにどこかの英雄なのか?」

 

ちょっとした質疑応答の区切りがついたあと、ずっと疑問だったことを文に尋ねてみる。

 

「いえいえ、私はそんな大層なものではなく、ただの新聞記者に過ぎません。もっとも、私はあなたのような人間ではなく、天狗のブン屋ですが」

 

隠す情報でもなかったようで、手帳に目を置いたまま平然と告げた。

 

「……天狗だって?」

 

天狗というと、太郎坊や鞍馬天狗に代表される日本ではポピュラーな妖怪だ。

彼女の翼を見た時から人外の存在であるのは何となく想像していたが、まさか天狗だったとは。

一般的に天狗とは赤ら顔で長い鼻を持ち、山伏の格好をしていると言い伝えられている。

文のような女の子が天狗だったとすると、自分の知るイメージと酷く剥離している。

言われてみれば、既に違和感がなくなった頭の頭襟と、高下駄に似た靴は天狗の名残だろう。

 

「ええ、そうですとも」

 

そう言って、文は今まで隠していた黒塗り翼を大きく広げて見せてくれた。

やはり、あの翼は俺の見間違いではなかったようだ。

改めて見ると、その漆黒の翼は美しさと同時に、日本人の血に根付く妖怪に対する畏敬を感じさせた。

 

……そして、黒い翼の生えた天狗と言えば一つしか思いつかない。

 

「もしかして、文は鴉天狗なのか?」

「はい、その通りです。ふふ、こうして外の人間に知られているのは、なんといいますか、多少なりとも嬉しいものですね」

 

照れくささと誇らしさが両立させた表情を見せる。

自己顕示欲というのは人間であれば大小あるだろうが、誰もが持つ感情だ。

それは、彼女のようなヒトという大きな枠組みから外れた妖怪でも例外ではないのかもしれない。

 

公園に設置された時計を見ると、どうやら文と二時間近く話していた。

ほかにもいろいろと確認したかったが、それはまた別の機会にしよう。

 

「じゃあそろそろ帰ろうか。あの男ももう諦めただろうし。……一応に確認するけど、文もうちに泊まるよな? どうやら召喚したのは俺みたいだしさ」

「あ、いいんですかー。実は、今夜のねぐらをどうしようかと思っていたので、それは助かりますね」

 

俺の提案に文は破顔してくれた。

彼女は常に笑みを口許に浮かべているが、それとは少し違う顔に少しだけ見惚れてしまった。

遅れてやってきた思春期のような醜態に気恥ずかしくなり、目を逸らしてしまう。

 

「それじゃ、帰ろうか。文の恰好は目立つけど、この時間帯なら大丈夫だと思う。……どちらかというと血まみれな俺の方が問題だろうし」

 

魔術に携わるものとして、神秘は秘匿するもの。

文の翼はどうなっているのかわからないが、いまは隠しているようで、なだらかな背中があるだけだ。

頭襟と下駄は目立つが、仮に目撃されたとしても奇抜なファッション程度で済むだろう。多分。

だけど、俺のこの血まみれの姿を目撃されたら、それこそ警察沙汰になりかねない。

 

「そうですね。では、目立たないように、飛んで帰りましょうか?」

 

そんな恐ろしい提案を少女は当然の口調で言ってのける。

あの男との逃走劇は俺のなかでトラウマになりつつあった。

 

「……いや、それだけは勘弁してくれ。この時間帯なら人通りも少ないし、俺の血も暗くて目立たないと思うから歩いて帰ろう」

 

強烈な重力加速度によって意識を失った恐怖もあるが、それ以上に一人の男子として女の子にお姫様抱っこはされたくない。

言うなれば、ちっぽけなプライドだった。

 

「あはは。そうですね。では、そうしましょう」

 

俺と文は、長時間お世話になったベンチから立ち上がった。

疲労と貧血で立ち眩みを起こしかけたが、自分から歩くと言った手前だ。

腹に力を込めて踏ん張ってみせる。

 

しかし、今日は本当に疲れた……。

 

そんな俺と違って、文の足取りは軽かった。

疲れを感じさせないどころか、機嫌が良いのか、聞きなれない鼻歌も歌っている。

そのへんてこな一本下駄の靴でも平然と歩いているし、ものすごいバランス感覚と体幹だ。

 

とりあえず、家に帰ったら文の部屋を用意して、風呂に入ろう。

そのあとは、疲労はあるが日課の魔術訓練かな。

魔術の訓練は、衛宮士郎にとって習慣であり、やらないと眠れない程度には日常の一部になっている。

 

……いや、待てよ、衛宮士郎。

当然の親切のつもりだったが、俺はしばらくの間、隣を歩くこの少女と一緒に暮らすのか?

それはつまり、世間で言うところの……ドーキョ、もしくはドーセイというやつじゃないのか……?

さっきは何気なしにだったが、俺はさらりととんでもないことを口走った気がする。

 

さっきは咄嗟に出た言葉であり、そこまでの考えは回ってなかった。

自身をカラス天狗だという彼女は、おそらくは見た目通りの年齢じゃなさそうだ。

だけど、外見上はどう見ても10代半ばぐらいの少女。

それに、眉目秀麗で、ゾッとするぐらいに可愛い女の子である。

 

……ちらりと横目で文の顔を見る。

鼻歌は止めていたが、そういった男女のあれこれを気にした様子はないようだった。

うんまぁ、今後を考えると何かと問題がありそうだけど、それは明日の朝にでも考えようか。

 

だが、俺のそんな心配は他所に、文の言った『運命の夜』はまだ終わってはいなかった。

 


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