文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
キャスターの短剣が文を襲う。
歪に捻じれた、異様な形。
刃も細く、武器としてはあまりに心許ない。
殺傷能力は無く、儀式用と呼ぶのが相応しいもの。
キャスターも俯せの状態であり、文の急所を狙えるとは考えにくい。
致命傷には至らず、反撃を受けるのは必至だ。
だが、仮にもサーヴァントが使用する武器。
しかも相手は、キャスター。
何らかの魔術的な作用を秘めていることは明白だった。
つまり、殺害に至らなくても構わないと暗に仄めかしている――。
短剣の切っ先を少女の下肢に突き立てようとする。
文はキャスターに気付いておらず、今も俺に目を向けていた。
しかし……この窮地で思う。文は本当に気づいていないのか?
あの常識破りの回避を見せた文が、こんなあっさりと攻撃を喰らう?
アサシンの刀、キャスターの魔術を躱し続けた少女の姿が脳裏から離れない。
それは、一種の信仰だった。
俺には、短刀が刺さる射命丸文の姿は想像がつかない。
どれだけ慢心しようとも彼女は、あの程度の攻撃は回避する――。
「残念」
俺のビジョンと重なったように、キャスターの短剣が空を切った。
「な――!?」
天狗の少女はキャスターを視界にすら入れずに、最低限の動きで回避した。
キャスターは怯まずに二度目を振るったが、それも届かない。
ゆっくりと振り向いて、文がキャスターを赤い瞳で捉えた。
何をするまでもなく、腕を組んだ状態でキャスターを見下ろしている。
「あなた……! 私に気付いてたの……!?」
「どーでしょうかねー。ンフフ」
ようやく立ち上がったキャスターは文を睨みつけると、短剣を尚も突き立てようとする。
肉弾戦に不向きな魔術師だが、それでも思った以上に機敏な動きだった。
これまでと違った、体重を乗せた攻撃。
あんな形状であっても、急所を狙われればただでは済まない。
「ふふ――」
文は腕を組んだまま、避けようともしない。
何を思ったのか、キャスターを制すように片足を上げた。腕ではなく足を。
「馬鹿にして……!!」
それで、キャスターが止まるはずもない。
怒りに任せたまま、文に短剣の切っ先が届く。
境内に響いたのは肉を切るものではなく、何か乾いたような音。
「おお! 見事命中! おめでとうございます!」
キャスターの短剣は、天狗の一本下駄に突き刺さっていた。
厚みのある一枚歯に攻撃を阻まれて、刃は肉を貫くには至らない。
それでも、体重を乗せた一撃だ。深く突き刺さっており、そう簡単には抜けない。
「よっと――少しお借りしますね」
「く……!」
文は足を折りたたむだけで、キャスターから簡単に短剣を奪い取った。
「少しばかりお待ちを」
文が短剣の刺さった靴を脱いで片足立ちになる。
「……ッ!!」
一見すると文は隙だらけだったが、キャスターは何もしない。
ただ、苛立っているのはわかる。
文は短剣を下駄から抜こうとしていたが、なかなか抜けない。天狗の頬が少しだけ赤くなった。
「いやあ、困りました。これ、かなり深く刺さってますよオホホ」
「……あなた、いつから私に気づいてたの?」
「キャスターさん……あなた、私に言いましたよね。『風を意のままに傅かせる』と。風を操れる私は、風の流れも当然読めます。その私にあなたの呼吸が読めないと思いますか?」
文はキャスターの質問に答えてはいるが、意識は短剣の刺さった靴に集中していた。
「これ本当に抜けないですね。力任せに抜くと傷が大きくなりそうですし……」
キャスターを一顧だにせずに、再び作業に没頭する。
……射命丸文は、相手の神経を逆撫ですることに関して超一流だった。
「あなたの呼吸、気絶しているにしては不自然でしたから。それに……これから誰かを突き刺そうなんて人は、余程の達人でも無い限り呼吸のリズムが乱れます。だから、こうやって察知できるわけです」
サーヴァントは幽体だ。
肉体は存在せず、エーテルによって編まれている。
サーヴァントに食事は不要であり、睡眠も必要ない。
それでも、呼吸だけは止めることができない。
呼吸は酸素を取り込み、体内に溜まった炭酸ガスを吐き出すためだけの行為ではない。
生前の習性が一番の理由だが、他にも身体能力や自然干渉にも影響する。
キャスターからすれば、呼吸の乱れは魔術行使にも支障が出るだろう。
文が相手の呼吸が読めるのなら、あのずば抜けた回避能力も頷けてしまう。
「お、抜けました。でもちょっと穴になっちゃったかな。……ではこれは一生お借りしますね」
下駄から抜けたキャスターの短剣を、山の方角に投げる。
天狗の剛腕によって、短剣は敷地外の円蔵山の茂みに消えてしまった。
「魔術師に一杯食わせるとはとんだ狸ね!」
キャスターは短剣が闇に消える直前に、高速神言を詠唱した。
銃の引き金を引くような速さで大魔術が発動。かつてない至近距離で光線が文を狙った。
「私は狸なんかじゃありませんよ! 烏天狗です!」
キャスターの攻撃は、完全に不意を突いていた。
文は詠唱後のタイミングで葉団扇を薙ぐ。
文の前に竜巻が発生して、一瞬で光線を飲み込んでいく。
竜巻に触れると、質量を持たない魔力が散り散りに拡散してしまった。
「ふむ。魔力を逃がすだけなら、これぐらいで十分ですね」
「……これでも駄目なのね。憎たらしい」
キャスターは、文の対処に恨み言を吐く。
だがその結果を予想していたのか、すぐに平静を取り戻していた。
「どーしますか? これ以上やっても無駄ですけど?」
首を可愛らしく傾げて、キャスターに尋ねる。
それは事実上、射命丸文の勝利宣言だった。
「……悔しいけど、今の材料だけじゃあなたを倒しきるのは不可能みたいね。魔術師がホームでいいように負けるなんて洒落にならないわ。……そこで提案があるんだけど、どう?」
「……怪しい宗教の勧誘なら、お断りしますけど」
「勧誘じゃなくて、提案よ。そうね。聖杯戦争の情報を私の知る限り提供するから、今回は見逃す気はない?」
思いがけないキャスターから提案に、文が傾げた首はそのままに顎に手を置く。
「……魔術師との取引ですか。……あまり気が進みませんね。しかし『情報』という言葉は、いつ聞いても甘美な響きです。うーんうーん、どうしようかなー。……あっそうだ」
文が良からぬ何か思いついた顔でこちらを見た。
「士郎さーん!! どうしましょうかー!? さくっとやっちゃいますー?」
文が俺に意見を求めて大声を上げた。
何もせずに、池の側でぼけっと立ち尽くしていた俺に。
文が俺に求めている判断――。
それは、キャスターを殺すかどうかの判断だった。
犠牲者を減らすには、聖杯戦争をすぐに終わらせなくてはいけない。
俺は手を血に染める決意はできている。正義の味方という名の人殺しだ。
だからといって、柳洞寺の人たちを手にかけていないキャスターを殺してもいいのか――。
「…………?」
枯れ木――。
目の前に枯れ木があった。
まったく気づかなかった。いつの間に……?
……いや、違う。
これは枯れ木なんかじゃない。
一切の気配を感じさせない、生きているかどうかも怪しい。
そんな枯れ木のような長身痩躯の男の姿。
俺は今まで気付かずに、あの文ですら感じ取れずに。
闇に紛れた男の姿は、さながら幽鬼のようであり――。
「が……!」
もう、遅かった。
幽鬼の放つ拳が、俺の腹部に突き刺さる。
突き抜ける衝撃は、本当に背中まで貫通したようだった。
◇
「葛木、先生――?」
肺に残された空気が、最後にそれだけを紡いだ。
くたびれた深緑のスーツを着込んだ男は、間違いなく葛木宗一郎だった。
まさか、先生がキャスターのマスターだとでもいうのか――?
いや、あいつはキャスターだ。傀儡のように操られている可能性も。
このまま何も確認もせずに、攻撃はできない。
もっとも俺はあまりの苦痛に攻撃どころか、呼吸すらままならない。
「あ……ぐ」
痛みに喘いで数歩よろめくと、今度は後頭部を肘鉄が抉る。
目の奥に火花が散った。
容赦の欠片もない連撃は、相手の命を奪うのに何の躊躇もない。
後頭部の一撃で失いかけた意識――それは、次の横隔膜への膝蹴りで強制的に覚醒させられる。
そのまま腕を取られて、砂利引きの地面に押し倒された。
「がはッ!!」
意識を失わずに済んだのは、幸運だった。
敵の前で気絶する真似なんて、絶対にしてはいけない。
意識を覚醒させるため、舌を噛み切る準備もできている。
苦痛で停止寸前だった肺を無理矢理働かせ、体内に酸素を取り込む。
狭まった気管から、ひゅーひゅーとか細い呼吸音。車に轢かれた野良犬のようだった。
「士郎さん!?」
文も今まで葛木先生……いや葛木宗一郎の存在を察知できていなかった。
珍しく焦燥を覚えた文が駆け出したが、魔女が予定調和のように道を塞ぐ。
「駄目よ、駄目駄目。あなたはそこから動いちゃいけないわ」
「……キャスター、そこをどきなさい。――どけ」
聞き違いかと思ったが、文の口から出たのは明確な殺意を孕んだ声だった。
激情に飲まれるわけでもない、底冷えするような冷酷さ。
「宗一郎様があの状態の坊やを始末するのに数秒も掛からないわ。あなたが坊やの元までは一秒も掛からないでしょうけど、それは私が邪魔をするもの」
駄目だ文……。そいつの口車に乗ってはいけない。
「フフフ、あなたでも私を殺すのに数秒で足りるかしら? その頃には確実に坊やは死んでるわね。命が惜しいのなら、そこでじっとしていなさい」
「…………」
文は両手を下ろして、キャスターに無防備な姿を晒す。
その文らしからぬ態度に満足したのだろう、魔女は声に出さずに笑った。
……俺はもういいから、キャスターを倒してほしい。これ以上、文の足を引っ張りたくない。
「……キャスター。衛宮をどうする? 殺すか?」
抑揚のない話し方。
葛木宗一郎という男は寡黙だった。俺の知っている葛木と言って間違いない。
それにキャスターとの遣り取りを考えると、こいつは操られているとは思えない。
「宗一郎様、申し訳ないですけど坊やを始末するのは少し待ってもらえますか? このアーチャーをどうしても手に入れたいので」
「ああ、わかった」
葛木が倒れる俺の腕を更に捻り上げて、逃げられないように拘束する。
「…………ぐうう!」
あと数ミリでも腕を捻られたら、関節が外れてしまうギリギリだった。
……逃げる以前に立ち上がるのもままならない状態。
これは文が変な動きをしたら、すぐにでも俺を殺すというアピールだろう。
キャスターは俺の醜態を満足そうに一瞥して、再び文の方を向いた。
「……あなたはマスターの存在を軽んじているのね。もし付け入る隙があるなら、ここだと思っていたわ。聖杯戦争を戦うのはサーヴァントだけど、マスターも参加者なの。それをただの足手纏いにしか思っていないようじゃ、どのみちどこかで負けていたわね」
キャスターは、冷たい手で文の頬に触れる。
それでも文は、キャスターではなく俺だけを見つめていた。
「……アーチャー、天狗は仲間を大切にすると言ってたけど、それは相互に信頼を寄せてこそ。動物を飼うような一方通行の関係ではないの。マスターを一度でも頼ったことはある? フフ、あるわけないわよね。あなたの坊やに対する扱いはとても仲間とは言い難いわ」
文は反論せずに無表情のままで、拘束された俺を見る。
そんな少女の顔を見ていると、どうしようもない罪悪感が込み上げてくる。
「…………くそ」
キャスター、お前の言っている言葉は全部間違ってる。
遠坂やイリヤと違って、俺はマスターとしても魔術師としてもちっとも優秀じゃない。
こんな状況に陥ってしまって文を困らせているのが、何よりの証拠だ。
でも文は、こんな俺の意見をいつだって尊重してくれた。
ライダーを倒した時だってそうだ。そして今だって……。
それこそが、お前の言っている信頼じゃないのか――?
「フフフ、これで形勢逆転――!?」
そう勝ち誇った時、キャスターの姿が轟音とともに消えた。
◇
一体、何が起きたのか?
瞬きの暇もなくキャスターが境内から掻き消えてしまった。
それに答えてくれたのは――第三者の甘い声。
「――それ壊れちゃったから、あなたにあげるわ」
子供特有の無邪気さと残虐性が混じった、アンバランスな声の主。
正門付近に見覚えのある大小二つの人影。
見紛うはずもない巨漢の正体はバーサーカーであり、傍らの少女はイリヤスフィール。
「イリヤ……!」
間髪入れずに再び轟音が境内に響く。柳洞寺の一角を何かが破壊した。
ふと、バーサーカーが斧剣を持っていないことに気づく。
今まで斧剣を持っていた腕は、張り詰めた力を解放したように震えていた。
バーサーカーが斧剣をキャスターに目掛けて投擲したのだ。
アサシンに両断されたとしても、巨人の強腕によって投げられた斧剣の破壊力は想像に難くない。
「クスクス。キャスター程度じゃ数秒いらなかったわね。あなたの召喚したアサシンのほうがよっぽど手強かったわよ」
イリヤが嗜虐に口を綻ばせている。
彼女がここにいる意味――アサシンはバーサーカーに倒されたのだ。
「文は……!?」
それよりも今は文だった。彼女は無事なのか?
文はキャスターと手の触れ合う位置にいた。平気なはずがない。
「…………し、心臓が止まりかけました……」
彼女のいた方角を見ると、地面にぴったりと張り付いている文の姿があった。
ものすごい格好だったが、怪我もなさそうで安心する。
投擲された斧剣に巻き込まれる直前、体勢を最大まで低くして避けたのだろう。
彼女の反射神経なら十分に可能だ。
「ふう。今のはヒヤッとしましたね。……相変わらずイリヤさんは容赦ないです」
未だに潰れたままの姿勢でイリヤに話しかける。
「アヤもよく避けられたね。フフ、とっても恥ずかしい格好だけど。……でもピンチのところを助けてあげたんだから、少しぐらい感謝したらどうなの?」
「ありがとうございます。イリヤさん」
地面から跳び上がり、服に付いた埃を叩いてから、ぺこりと頭を下げた。
予想とは違う反応だったのか、イリヤが驚いている。
「……意外と素直なのね。皮肉の一つでも返されると思ったからちょっとだけ驚いちゃった」
「清く正しい射命丸ですから。まったく失礼な反応ですね」
いつの間にか、拘束されていた身体が軽くなっていた。
倒れた姿勢のまま首だけ後ろを向けると、葛木の姿がいない。
この短時間で、どこに行ったのか……?
「士郎さん、大丈夫ですか!?」
文がほんの一瞬で俺の側まで移動していた。もういちいち驚いてもいられない。
未だに倒れたままでいる俺に手を差し伸べる。
「ああ、ありがとう」
大丈夫とは言える状態ではないが、これ以上格好悪いところは見せたくなかった。
差し伸ばされた手。
普段はブン屋としてペンを握る手。そしてライダーの胸を貫いた腕。
俺は躊躇うことなく、差し伸ばされた手を力強く握る。
「それならよかったです。とても心配しました」
文が笑ってくれた。
いま握っている温かい手は、間違いなく女の子のものだった。