文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
枕元の時計を見ると、正午になろうとしていた。
「…………もう昼か」
そんな寝起きの、朦朧とした意識で思う。
この世界は、俺がいなくても正常に動いていると。
おそらく、正義の味方としての衛宮士郎は誰からも必要とされていない。
しかし衛宮切嗣から託された理想が、今の衛宮士郎そのものだ。
それなのに俺は、何かを成し得る力がない。
力のない正義に価値はない。それはこの一週間ではっきりとした。
正義の味方になるには、救うべき人と倒すべき悪が必要だった。
聖杯戦争には、救うべき人も倒すべき悪もいた。
そう、確かにいたのだ。
だけど俺は、学園で救うべき命を救えなかった。
自らの甘さで殺すべき慎二も殺せなかった。
今はもう、悪はどこにもいない。
今回の聖杯戦争は終わりに向かって、急激に加速していた。
俺たちを除くと、残る陣営はイリヤスフィールと遠坂凛の二組だけ。
イリヤには多少の危うさがあるが、聖杯戦争に赤の他人を巻き込むような性格ではない。
そもそもイリヤには、バーサーカーに対して絶対の自信があった。
ライダーやキャスターのような小細工を弄したりはしない。
何があっても、バーサーカーと共に正面からぶつかってくるだろう。
遠坂凛は、冬木のセカンドオーナーとして一般人を巻き込んだりはしない。
彼女の人となりを考えれば、そんな大仰な肩書きがなくても他者を害するなんてあり得ない。
セイバーは敵対者には厳しく苛烈だが、悪に怒り、自らの正義のために動ける人物だ。
あとは俺たちを含めた三つの陣営が、たった一つの聖杯のための殺し合いをするだけ。
そこにはもう、救うべき人も、倒すべき悪もいない。
だから――衛宮士郎の聖杯戦争は、昨夜の時点で終わっていたのだ。
「それでも俺はもう迷わないし、違えない」
この先も、爺さんから託された理想を貫いていく。
それが借り物で、身勝手で、強迫的で、他の誰からも必要とされて無くても、衛宮士郎にとってかけがえのない綺麗なもの。
それだけは、何があっても絶対に変わらない。
陳腐な言い方だが、何ができるかではなく、何をするか。それが衛宮士郎に必要なものだった。
どれだけ矛盾を多く抱えても、俺は俺の理想を捨てたりはしない。
だから今は、聖杯戦争を生き延びるために全力を尽くそう。
「ふう」
布団の中で身を捩らせ、起き上がると身体の節々が痛んだ。
昨日受けたダメージの影響だろう。それでも、歩けない程ではない。
俺の正体不明な治癒能力は、未だに健在だった。
伸びをすると、短い欠伸が自然と出る。これだけ深く眠れたのは久しぶりだ。
今日は、ずっと見ていた彼女の夢も見なかった。
「…………」
夢のなかで見た射命丸文の存在は、まさしく奔放と言う言葉が当てはまる人物だった。
彼女の世界である幻想郷でネタを求め、西へ東へ、黒い翼を翻して飛び回る。
それは現代では、考えられないような生き方だ。
少し馬鹿にした考えかもしれないが、ストレスとは無縁のようにも感じた。
そんな意味でも、現代社会とは違う『幻想』と呼べるような場所なのかもしれない。
「……あれ?」
私服に着替えて居間に行くと、食欲を刺激する良い匂いが漂ってきた。
ふと、桜の姿が頭をよぎったが、今の彼女がうちには来るとは思えなかった。
桜とは、聖杯戦争が終わった後にじっくりと話すつもりだ。
時間は場合によって残酷でもあるが、それでも人を癒すのに時間は必要だ。
今回の聖杯戦争が終わって、何もかも落ち着いたら彼女と会おう。
その時に何があっても、俺は桜の味方でいようと思う。
藤ねえも学園の事件の影響で、当面の間は来れないだろう。
もっとも藤ねえの作る料理は、こんな胃袋を刺激するような匂いはしない。
そうなると、残る人物は――。
「やっぱりか」
予想通り、台所の覗くと桜のエプロンをつけて料理をする文がいた。
下駄を脱いだ文の身長は、桜よりも少し小さいので何とも映える姿である。
「おはよう、文。もう昼も近いけど。……何か作ってるのか?」
「おはようございます。今日は士郎さんから頂いたお小遣いで食材を買ってきました」
お小遣いというのは、俺が少し前に渡したお金のことだろう。
文は妖怪ではあるが、女の子である以上、俺に知られたくない生活必需品があると思ったからだ。
「本当は俺がやらなきゃいけないのに。お金まで使わせちゃって悪いな」
この家に初めて彼女が来た日。俺は家の仕事をやらせるなんてとんでもないと思っていた。
しかし今となれば、彼女もすっかり衛宮家の一員。あの時に感じていた罪悪感もなくなっていた。
「士郎さんは、身体以上に心が疲れています。たまにゆっくりしてください。睡眠は心のリセットです。どんなに気分が滅入っても眠ってしまえば、多少は心の整理がつきます」
彼女の言う通り、頭のなかは随分とすっきりしたと思う。
「それに一人で商店街を見て回るのも楽しかったですね。最近は聖杯戦争ばかりで、あまりこの世界を見てませんでしたから」
「それも仕方ないですけど」と言って、再び料理に専念する。
この世界にすっかり馴染んだ彼女は、もう炊飯器やガスコンロも使いこなしていた。
その適応能力の高さに改めて感心する。多少は手伝おうかと思ったが、料理は殆ど完成していた。
「さあ、できましたよー。幻想郷が外界から閉ざされて百三十年余り。海の食材を使うのは随分と久しぶりです。士郎さんのお口に合えばいいんですけど。そこが、ちょっと心配」
文が炊飯器を開けると、炊き込みご飯が入っていた。
調整の難しいご飯の水加減も丁度良いようだし、初めて炊飯器を使ったとはとても思えない。
少し焦げた匂いがまた食欲をそそる。しかもメインの具材は、毛ガニと牡蠣……何ともリッチだ。
「文、すごく美味しそうだけど、お金は足りたのか?」
「すっからかんです。まま、そんなことは気にせずに。どうぞどうぞ」
副菜はふろふき大根と小女子と大根のサラダ、汁物はアサリの味噌汁だった。
メイン料理は、あくまで炊き込みご飯という主張がはっきりとした献立だ。
味が濃いものが多いと、炊き込みご飯本来の味が邪魔されるという配慮だろう。
不慣れな調理器具で作ったとは思えないハイレベルな料理だった。
「……うん、美味しい」
「んふふ。でしょー。料理上手の士郎さんに褒められるのは最高に気分がいいですねー」
たったそれだけの感想に、少女は顔を大きく綻ばせた。
炊き込みご飯には、毛ガニと牡蠣という二つのメイン食材が入っていたが、お互いに喧嘩せずにうまく調和していた。
おそらく、出汁の味をそこまで濃くしなかったのが成功の秘訣だ。
この味からして、出汁は薄口醤油、酒、みりん、かつお節、だし昆布だけだろう。
「普段は扱わない食材だったので、苦心した甲斐がありました。……もっと褒めてくれてもいいですよ?」
「このふろふき大根も良くできてる。味噌だれに隠されたいりごまが良いアクセントになってるな」
「でしょー。んふふー……顔が勝手ににやけちゃいます」
文は含みのない顔で、自分の作った料理に口に運んでた。
昨日、柳洞寺で見た少女とは別人だったが、当然そんなことはない。
俺を睨んだ文も、今の文も等しく同じ人物だ。
妖怪として、新聞記者として、女の子としての射命丸文がいるだけ。
状況に応じて、どの顔が強く出ているか程度の差でしかない。
……何事においても自信たっぷりなのは、どんな時であっても変わらないけど。
「んく? ……どうしたんですか? もしかしてお腹一杯ですか?」
行儀悪く箸を口に咥えているため、少し舌足らずな発音だった。
普段の滑舌の良さを考えると、何だかおかしく感じる。
「いや、まだ食べるよ。それよりも今日はこれからどうするんだ?」
「……んーと、どうしましょうか」
イリヤは、俺たちを殺しに来ると言っていた。それでも、陽の出ているうちに襲撃するとは思えない。
聖杯戦争は人目に付く日中に戦わないのが、原則的なルールだ。
厳密に守る必要はないが、わざわざそのルールを違えるとは思えない。
遠坂もそれは同じだろう。この地のセカンドオーナーとして神秘の秘匿は責務だ。
そうなると、陽の沈むまで時間ができる。
「……俺は、最近サボりがちな魔術鍛錬でもするかな」
折角イリヤに魔術回路を開けてもらったのだ。試してみたいこともいくつかある。
「じゃあ……士郎さん。今日一日は私に付き合ってください」
「え?」
鍛錬をしたいと言った側から、文から予想だにしない誘いがきた。
もっと詳しくいえば、俺の話を聞いた上で完全にスルーしていた。
……前に俺の魔術鍛錬中に欠伸してたので、よっぽどつまらなかったのだろう。
「そうですね。新都に行きましょうか。あそこは都会なので楽しそうです」
「なんでさ」
とても良い提案だと言わんばかりだった。
ここまで自信満々だと俺の魔術鍛錬が間違っているものだと思えてくる。
……イリヤに魔術回路を開いてもらうまで、別の意味で間違っていたけど。
「でも聖杯戦争の最中だし……そんな場合じゃなくないか?」
「……はて? おかしなことをいいますね。私がこの世界に来た目的は聖杯戦争ではなくて、外界へのネタ探しだと言ったはずです。だったら暇ができた時ぐらいは本職に精を出したいですし。……取材と言っても、観光のようなものになるでしょうけど」
「……文からすれば、ここは外の世界じゃなくて、別世界じゃないのか?」
「まあまあ、それはそれこれはこれ。似たようなものです」
言うほど似ているかなと思ったが、それを口に出すのは野暮だろうか?
新聞記者の少女は、和綴じの赤い手帳と万年筆を携えると、すくっと立ち上がった。
期待と好奇心に満ちた目が、俺を捉えて離さない。どうやら拒否権はないらしい。
「ふう、仕方がないな……」
「士郎さんは話がわかりますね! それじゃ、遊び……もとい取材に行きましょう!」
俺たちには、息抜きが必要かもしれない。
そして聖杯戦争の終わりも近い。戦いが終われば、文は幻想郷に帰ってしまう。
そうなれば、こんな機会は二度とない。今日の戦闘のなか、命を落とす可能性だってある。
それに……文のように可愛い女の子と二人と遊びに出かけるなんて、またとない機会だ。
一般的な若者より、その手の欲求が薄いのは自覚している。
だからといって、全く興味がないわけではない。俺も男だし、実はエッチな本だって持っている。
「じゃあ、今日は文とデートだ。一応は恋人同士だしな。それと文がお上りさんにならないように見張っておかないと」
「なっ! いくら私でもそこまで恥ずかしい真似はしません! ……そ、それにデートってなんですか! わ、私は取材だと言ったでしょう!」
少女が顔を赤くして否定する。
藤ねえと桜の前でした例の恋人宣言は、どうもやりすぎたと思っているらしい。
恋人の話は、あの日以降一度も出なかった。
普段は俺がからかわれているため、今日ぐらいは意趣返しもいいだろう。
攻撃力はとても高い彼女だが、実は防御力が皆無なんじゃと最近は思っている。
「ああもう……! なんなのデートって……!」
顔を赤くする少女の姿は、普段毒づく彼女からは考えられない。
この天狗少女は、達観した感性を持っているが、免疫がないものも幾つかある。
そんな反応が妙におかしくて、人外の彼女から否が応でも女の子らしさを感じてしまう。
本人に言えば昨夜にみたいに凄まれるので、絶対に言わないけど。
「じゃあ、準備してくるから待っててくれ」
新都に行くなら、上着を用意したほうがいいだろう。
あ、大事なことを言い忘れていた。
「それとごちそうさま。とても美味かった。……図々しいけど、また作ってくれたら嬉しい」
「…………あ、はい。お粗末様でした」
彼女にしては珍しく、間を空けた返答だった。
◇
俺たちは、新都に向かうバスに揺られている。
やはり平日昼下がりだけあって乗客は少なく、老夫婦が最後列に座っているだけ。
並んで座る俺たちを見て、どこか微笑ましい眼差しを送ってくる。
悪い気はしないけど、なんだかこそばゆくも感じる。
文もその視線に気付いたようで、老夫婦に人好きのする笑顔を返していた。
学園はあの事件以降、未だに休校のままだ。
学園からは不要な外出をせずに自主勉強を励むようにと通達が来ていた。
こうやって平日の昼下がりに遊びに出かけるのは、些かまずいかもしれない。
まあ今更気付いたところで、浮かれた文を見ていると引き返すのは不可能だ。
「はい、撮りますよー」
彼女はいつものカメラで何枚も写真を撮っていた。
それを笑って許容する老夫婦に、心のなかで感謝の言葉を送った。
「んー、バスに乗るのは初めてです。早速貴重な経験ができました。士郎さん士郎さん。このバスの式……ではなくて動力はなんですか?」
目を輝かして、俺に質問を投げ掛ける。
昨日の夜に「感情の起伏が薄くなった」と言っていたが、どう見ても今の文は好奇心に溢れている。
赤い瞳は爛々と輝いており、新しい玩具を手に入れた子供と変わらない。
この姿からはとてもじゃないが、昨夜の捕食者の顔は思い出せなかった。
あの時は、本当に殺されるかと思った。
「それとそれと! あの吊り下がっているあの輪っかの飾りはなんですか!? 首を吊るにしては輪が小さいように思えますけど!」
異常なほどのテンションの高さだ。
というか、つり革に対して発想がサイコパスのそれだ。怖い。
「動力は化石燃料。燃料を燃やして内燃機関を動かしている。昔だと臭水と言われたんだっけ? ……それとあの輪っかはつり革。乗客があれを握って身体を支えるもの。誓って絞首用の設備じゃない」
「なるほどなるほど。つまりは席が全て埋まって、その上で立って乗る客までいると。なんだか居た堪れない光景ですけど、そういうことですかね」
手帳を開いて、つらつらと文字を書き始める。
時折筆が止まるのは俺の言葉をそのまま写すのではなく、自分なりの解釈で文章を組み替えているのだろう。
文の理解力は早い。ただ今の話もどう解釈したのかは、手帳を見なければわからない。
正直に言えばかなり気になったが、俺も命が惜しいのでやめておこう。
少しして、新都のバスターミナルに到着した。ずっと文のテンションは高めだ。
バスに揺られるのに飽きた文が、速度に駄目出しを始めた時はどうしようかと思った。
窓から飛び出しそうな勢いだったので、それを宥めるのに必死だった。
単にからかわれただけかもしれないが、今の文の上がり具合ならやりかねない。
「うーん、大きいです! 幻想郷にこんな大きな建物は一つもありませんよ! 膠灰の建造物も珍しいのに、それがこんなに大きくてこんなに沢山だなんて。にわかには信じられない光景です!」
立ち並ぶビル群を見て文が大きな嘆息を漏らした。
そして、くるくると回りながらシャッターを切る。にわかには信じられない光景だった。
出掛ける前の冗談が、こうして現実のものになるなんて思わなかったぞ……。
「あの子……何やってるんだ……?」
「雑居ビルなんて撮ってどうしたのかしらね……?」
「あれ、『私かわいいでしょ』アピールだよ。ボク、そういうの詳しいんだ」
周囲から、残念なものを見る目を感じた。
ただのビルをカメラに撮ったら、悪目立ちは避けられない。
奇人変人の扱いならまだ良いが(良くないけど)、文の見た目を考えると不登校児として補導される可能性もある。
妖怪である彼女の身分を証明するものなんて何もない。避けないといけない事態だった。
「新都には何度か来ましたが、遊び……取材目的で来るとやはり新鮮に見えますね」
「それに今は昼だしな。見え方も違ってくるんじゃないか?」
回転するのをピタッと止めて、俺と正面から向き合ってくれた。ホッとする。
「言われてみればそうかも。あっ……あのネクタイと帽子、かわいい!」
そう言って、今度はショウウィンドウのマネキンを撮り始めた。
頼むから妙な行動を取らないでほしい。
人目を引く整った外見をしているから、余計に奇行が目立ってしまう。
しかし彼女は狙ってやっている節もあるので、下手に突っ込むと余計な行動をしかねない。
「うーん。いいですね、新都。一つの店だけでもその日一日を潰せそうです」
「ああ、そうだな。俺もこうやって遊ぶ目的だけで新都に来るのも久しぶりだ」
官民一体の都市開発によって、新都は県一番の繁華地帯と言っても過言ではない。
そんな繁華街で俺は彼女をエスコートする事態になったが……さて、どうなることやら。