文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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46.「32,400円です」

 

 

「ハ――ハァ――」

 

全身の筋肉が、悲鳴を上げる。

血中を巡る乳酸が、これまでにない疲労を脳に送っている。

無理もない。人を背負ったまま、足場の悪い森のなかを2時間以上走りっぱなしだ。

だが身体がどれだけ休息を求めようとも、俺は絶対に休むわけにはいかない。

 

万が一、おまえがここで挫けてみろ――。

絶対に取り返しのつかない事態になるぞ、衛宮士郎。

おまえは、おまえを守ってくれた女の子すら助けられないのか――?

 

 

「クソ……! まだ抜けられないのか……!!」

 

簡単な応急処置をしたが、ただの止血程度のもの。

それもこんな不衛生な場所では、破傷風をはじめとした感染症にもなりかねない。

 

後先考えず走っているが、同じような景色ばかりで出口に向かっているのかも定かではない。

アインツベルンの森は、あまりにも広大だった。

ただ広いだけではなく、全域に常緑高木が生えており、視界が狭く空も真上しか見えない。

そのせいで、方向感覚が掴みにくい。

文に頼れない状況になって、それを強く理解する。

俺にできるのは、来た時に使ったと思われる道を辿るだけ。

そんな不確かな現状に苛立ちと焦燥が募り、疲労感もより一層強くなっていく。

 

「ハァ、ハァ…………」

 

それでも、投げ出し、足を止めようとは絶対に思わなかった。

背中越しから伝わる微かな心音。少女の命の脈動が俺の両脚を支えていた。

 

「……大丈夫だ。絶対に大丈夫だ」

 

この鼓動を感じていられる間なら、俺は決して挫けたりはしない。

この状況にも――そして自らの理想にも。

 

なんてことだろうか。

俺は――こんな時だって彼女に助けられていた。

無力な俺でも彼女を救えるという事実だけで、こんなにも心を強く支えてくれる。

それが、堪らなく胸を熱くさせる。

 

「大丈夫だ! 大丈夫……! 俺は何があっても文を死なせたりしない!」

 

 

そして、ついに森が切れた。

腐葉土が堆積した土壌ではなく、久しぶりにアスファルトで舗装された道路を両足で踏みしめる。

時計を見ると、イリヤの居城から3時間が経過していた。

森を抜けて奇妙な達成感を覚えたが、それはただの錯覚だ。少女の命は、まだ救えてはいない。

 

「はあ、はあ、はあ……!」

 

あの激戦が嘘だったように、夜の風が閑散とした道路に流れている。

氷のように冷たくなったアスファルトに立ち尽くし、取り返しの付かない事実に気付く。

 

「馬鹿か俺は……。ここはまだ、冬木の郊外じゃないか……」

 

走っている時は、森の出口がゴールのように感じていたが、それはとんでもない間違いだった。

森の外は道路があるだけで、人の住む土地ではない。

俺の家どころか、新都までも車で一時間以上かかる僻地。

文の飛行能力があって、この距離を短時間で来れただけ。

ここは本来、歩いて来れるような場所じゃない。

俺はいったい、何に浮かれていたんだ……。そんなの、少し考えればわかるじゃないか……。

 

こんな夜中とも言える時間帯。

冬木市郊外の道路に車が通るなんてまずない。

仮に運良く通ったとしても、こんな血まみれの男女を誰が乗せてくれる?

厄介事だと思われて、無視される可能性だってある。

 

「どうする……? どうすればいい……?」

 

仮に何時間か掛けて、町に戻ったとしても文の命が保つ保証はどこにもない。

この立ち止まって悩む時間だって、致命的なものになる。

 

「クソ、どうしたら……」

 

文は目を覚ます様子もなく、間隔の短い呼吸を繰り返している。

血の気は引いて、顔は白く冷たくなっている。

こんな容態ではとてもじゃないが、良くなっているようには思えない。

早く本格的に治療をしなければ、手遅れになってしまう。

 

その時――。

ざくりと――後方から土を踏む音が聞こえた。

たった今走り抜けた森の方角からだった。その足音が徐々に近づいてくる。

 

「誰だ……?」

 

これ以上の厄介事は御免だった。

突然の事態に、考えが纏まらずにパニックになりそうになる。

それでも今は、正体を確かめるために振り返るしかない。

なぜか、そうしなければいけない気がした。

 

 

「……え? もしかして、衛宮君?」

 

そこには、遠坂凛がいた。

彼女もまた走り疲れた様子で呼吸を整えている。

 

「……どうして遠坂が俺の後ろから来るんだ?」

 

突然現れた遠坂に驚いて、そんなどうでもいい言葉を口にしてしまう。

だが遠坂は俺よりも先に、この森を抜け出そうとしていたはず。

彼女が道に迷うとは思えないし、どうして俺の背後から来るのか?

俺も全力で走ってはいたが、人を背負った俺が先に森を抜けるとは思えない。

 

「敵のテリトリーで無闇に逃げるより、しばらく身を潜めたほうが安全と思ったからよ。でもあんたたちがバーサーカーの相手をしてくれたおかげでなんとかなったみたいね」

 

……遠坂の傍らに、セイバーの姿はなかった。

セイバーは、バーサーカーによって走り回れるような状態ではない。

 

「……セイバーは無事なのか?」

 

遠坂たちとは敵対してはいるが、セイバーも今ある心配事の一つだった。

バーサーカーの腹部を抉る一撃を受けている。無事かどうかだけでも確認したい。

 

「ええ、セイバーは先に私の家で治療中のはずよ。レイラインの繋がりを感じるから問題ないと思うけどね。……それよりも今回のことで気落ちしてなきゃいいんだけど。彼女、あの通り、負けず嫌いでプライドが高いから」

 

どうやら遠坂は、令呪の力でセイバーを自宅まで転移させたらしい。

空間転移なんて、神話級の大魔術だ。

そこまでを可能とする令呪の効果に改めて驚かされる。

俺の左手にも二画残る令呪――使うタイミングは考えなければならない。

もし気絶した文を自宅に飛ばせても、怪我を診る人がいなければ意味がないだろう。

 

「…………あれ? ちょ、ちょっと待って? 衛宮君がここにいるってことは……。え? ウソ? もしかしてあんたたち、バーサーカーに勝てたの?」

「ああ……バーサーカーは文が倒してくれた」

 

俺は見ているだけで何もできなかった。

思わず、そんな言葉も吐き出しそうになったが、なんとか抑えた。

それは俺の問題であって、遠坂に言うような言葉じゃない。

 

「どうやったかは知らないけど……まさかその娘がね。セイバーがバーサーカーの命をかなり削ったけど、信じられないわ。……今はあんたの背中でおねんねしていると。で、そいつ大丈夫なの?」

「ッ! これが大丈夫そうに見えるのか!?」

 

遠坂の物のついでのような言い方に、語調が荒くなってしまう。

俺の苛立ちが遠坂にも伝わったのだろう。不機嫌を露わにして眉間に皺を寄せた。

遠坂が俺の後ろに回って文の状態を確認すると、息を飲む音が聞こえた。

 

「なに、これ……?」

 

バーサーカーにもぎ取られた文の翼を見たのだろう。

数時間経った今も、血が止まらずにいる。

 

「……今のは考えなしの発言だったわ。ごめんなさい」

 

遠坂が申し訳なさそうに謝罪をする。

素直に謝られると思っていなかったので、どう反応していいのかわからない。

 

「……………………」

 

双方無言のまま、気まずい空気が流れる。

だが俺は、こんなところでぐずぐずしている暇はない。

今すぐ徒歩で新都に向かうべきか、別の手段を考える必要があった。

 

「ん。そろそろかしらね」

 

遠坂が腕時計を確認しながら、そう呟いた。

 

「そろそろって、なにがだ……?」

「まあ、待ってなさい」

 

文の容態もあって、どうしても焦りが先行してしまう。

遠坂の言葉に従うよりも、街に向かって走り出したほうがいいんじゃないか――?

 

「――来たわ」

 

……新都に続く道路から、車の走行音が聞こえてきた。

こんな状態の文を誰かに見られるのはまずい。背中の少女を隠すように数歩下がる。

 

「うん。時間ぴったり」

 

満足そうな遠坂の目の前に停止したのは、一台のタクシーだった。

その様子からして、彼女が手配したものだろう。

 

「衛宮君、ついでだから乗ってきなさい。この後どうせ家に帰るんでしょ?」

「……いいのか?」

「そんな顔をしたヤツ、いくら私でも放っておけないもの。それにいろいろと借りがあるしね。これでチャラにしてもらうわ」

 

このタイミングで車による移動ができるなんて、思ってもなかった。

 

「ありがとう。遠坂はいいやつだな」

「……随分と調子のいい台詞だこと。でも素直に感謝を伝えられるのは衛宮くんの美徳ね」

 

しかし、タクシーの運転手に傷だらけの文が気づかれる可能性がある。

翼さえ見られなければ普通の少女と変わらないが、全身の傷はここまで酷いと隠し通せそうもない。

もしも人間ではない文が、一般の病棟に運び込まれたら大変な事態になってしまう。

 

「……悪いけど、ちょっとだけ待ってて」

 

遠坂は運転席に回って、タクシーの運転手と少し言葉を交わした。

この距離からでは聞き取れないが、まさか文について話を付けたのだろうか?

 

「さ、いいわよ。乗りなさい」

「……今なにを話したんだ?」

「別に何の話もしてないわよ? このままじゃ彼女が怪しまれるから、認識を逸らす暗示を掛けただけ」

 

なんてこともないように、遠坂が言う。

魔術的な耐性のない人間であれば、苦労もなく認識阻害の魔術を掛けられるらしい。

後部座席で文を横にしたいので、遠坂には悪いが助手席に座ってもらう。

……車内での会話も暗示によって、運転手の耳には入らなくなっているらしい。

タクシーの運転手には悪い気がしたが、遠坂も暗示で料金を踏み倒す真似まではしないだろう。

 

「……………………」

 

大丈夫だとしても、遠坂と会話をする気分にもなれず、時間だけがいたずらに過ぎていく。

所在なく視線を彷徨わせながら、文の容態ばかりが胸中を占める。

ただ暖房の効いたタクシーで横になれたおかげか、顔色と呼吸も少し安定しているように見える。

 

「よかった……」

 

一つだけ気になっていたことがあったので、遠坂に確認してみた。

 

「遠坂は携帯電話を持っていたのか?」

「……いきなりなによ? 持ってないわよ。そんなもん」

 

前置きもなしに、そんなことを訊かれたら遠坂も怪しく思うだろう。

文から会話に脈絡がないと言われたばかりだった。

 

「じゃあ、どうしてタクシーを呼べたんだ?」

「はあ。なんだ……そんなことね。タクシーでここまで来たんだから、帰りも考えるのは当然じゃない。時間になったら、もう一度ここまで来るように頼んでおいたのよ」

 

俺のようにサーヴァントの力を借りれば、車よりも早くアインツベルンの森に着けたはずだ。

だが、神秘とは秘匿されるもの。

なるべくセイバーには頼らずに、タクシーを移動手段として使ったのだろう。

闇に紛れていたとしても、軽々しく空を飛んでくるなんて本来はとんでもない行為だった。

遠坂からしたら、極めて軽率な行動だ。絶対にばれないようにしないと。

 

「そういえば……彼女、アーチャーなんだっけ? ……とても聖杯戦争の三騎士には見えないわね」

「本人は忘れていたみたいだけど、どうやらそうみたいだな」

 

他の三騎士であるセイバーやランサーは、騎士や戦士の姿をしていたが、彼女はとてもそうは見えない。

翼を除けば、どこにでもいるような普通の少女だ。

聖杯戦争の関係者も消去法的に彼女をアーチャーだと呼んだだけで、実際は違うと思う。

俺も今更、彼女をアーチャーというクラス名で呼ぶ気にはなれない。文は文だ。

幻想郷の魔女の力で、聖杯戦争のシステムを根本からねじ曲げたらしく、サーヴァントとして確立しているのかも怪しい。

ただ彼女は、これまでの戦いを見た限り、遠距離戦も土俵の一つにしてた。

そんな状況も含めて、アーチャーと思われても仕方がないかもしれない。

 

「ふーん。肉体を持ったサーヴァントか。……私のセイバーも似たようなものだけど、アーチャーはそれに輪を掛けて特殊みたいね。そんなのがなんで聖杯戦争にいるんだか」

 

セイバーも似たようなもの……?

詳しく聞きたかったが、これ以上は教えてくれないだろう。

 

「なんでも、自分が書いている新聞のネタを求めてこの世界に来たらしいぞ。ここ何日かはそうでもないけど、初めのうちは聖杯戦争にも大して興味がなかったみたいだ」

「ホント、呆れちゃうわね。何なのよ、新聞のネタって。…………教会でタクシーを停めてあげるわ。そいつの怪我、綺礼に診てもらいなさい」

「綺礼って、教会の言峰神父のことだよな。なんであいつなんだ?」

 

あの言峰綺礼という男は、文が度々怪しんでいる存在だった。いつか折檻すると冗談半分に言っていた。

それに、俺自身も不信感を拭えずにいる。

明確な理由があるわけはなく、澱みのような近寄りがたい空気を教会に放っていた。

聖杯戦争の監督者と言っても、可能な限りは関わりたくない相手だ。

 

「あんな顔しているけど、綺礼は心霊医術のエキスパートよ。霊体、精神の傷を治す手腕なら司祭レベルね。もっとも監督者という立場上、直接的な手助けはできないと思うけど。もしかしたら、話ぐらいは聞いてくれるかもね」

 

文の治療――。俺からすれば、願ってもない話だった。

だがそれは遠坂からすると、自分の足を引っ張る行為だ。

聖杯戦争を勝ち抜こうと合理的に考えれば、俺たちを助ける理由がない。

今だってそうだ。

俺たちをあのまま道路に放っておけば、勝手に自滅していた。

そもそも俺より戦闘力で勝る遠坂なら、あの瞬間に聖杯戦争の終止符だって打てた。

だけど遠坂は、それをしなかった。

もしかしたら、そんな選択肢すらも彼女は思いついていなかったかもしれない。

 

「……ありがとう。繰り返すけど、遠坂は本当にいいやつだな」

「フン。何を勝手に納得してんだか。少しでもそう思ってるのなら、タクシー代は割り勘にさせてもらうからね」

 

ああ、それぐらいだったら喜んで払わせてもらうさ。

 

 

 

 

それから一時間ほど掛けて、新都の郊外にある冬木教会に着いた。

遠坂は「先に話を付けてくる」と言い残して、一人で教会に入っていった。

教会へ向かう時の苦々しい顔を見るに、どうやら彼女もあの言峰綺礼という神父は苦手らしい。

タクシーのなか、さして上等ではない膝の上で眠る少女の寝息を聞きながら帰りを待つ。

 

「…………」

 

これまで、タクシーの運転手は一言も言葉を発していない。

本当に認識を逸らす暗示を掛けただけなのだろうか……?

遠坂による魔術だから万が一はないだろうけど、眼鏡のずれた虚ろな表情に少しだけ心配になってくる。

……そうぼんやりと考えていたら、思ったより早く遠坂が教会から出てきた。

 

「どうやら留守みたい。まったく、聖杯戦争の監督なのにどこで何をやってんだか。……もう、居て欲しい時に居ないなんてホント嫌なやつ。衛宮君もそう思うでしょ?」

「ああ……うん?」

 

返答に困る理不尽な同意を求めないでほしい。

 

「でも居ないんじゃ仕方がないわね。悪いけど自分でどうにかしてみなさい。……衛宮君、わかっているとは思うけど、この娘があんたのサーヴァントなら、彼女を助けるのはマスターとしての責務よ」

 

遠坂は知ってか知らずか、俺の核心を突く言葉を放つ。

俺は、彼女のマスターに足るような存在ではない。それでも絶対に彼女を救ってみせる。

 

「ああ――わかった」

 

遠坂だけではなく、自分にも言い聞かせるように決意する。

 

「よろしい。……なによ。少しはマシな顔になったじゃない」

 

そして、遠坂は再び夜の町へタクシーを走らせた。どうやら先に俺の家に向かってくれるようだ。

 

「正直に言って、私はあんたたちを舐めていたわ。どうせどこかで脱落すると思っていた。でも蓋を開けてみれば、最強のサーヴァントを倒して、ここまで勝ち残ったのは衛宮君たちだった」

 

遠坂もバーサーカーが、最強のサーヴァントという認識は同じのようだ。

もしあのバーサーカーがもう一度出てきたら、文もセイバーも勝つための手立てがないだろう。

 

「だから今まで舐めていた分、これからはあんたたちを敵として、敬意を払わせてもらう。そして、遠坂の名に賭けて私たちが聖杯を手に入れてみせる」

 

タクシーが衛宮家に着くと、深山の住宅街はすっかりと寝静まっていた。

プロパンガスを使うタクシーの独特なエンジン音だけが聞こえる。

遠坂に礼を言ってから文を背負い、傷の手当のため玄関に向かう。

 

「――――」

 

助手席から遠坂の強い視線を感じた。

反射的に振り返ると、決意を秘めた紺碧色の眼差しが俺を見つめている。

目の色の深さに息を飲みかけたが、俺は視線を逸らさずに胸の中の言葉を告げた。

 

「俺は聖杯なんて必要ないんだ。文だってそう言ってた。何度だって言うが、俺は遠坂と戦いたくない」

 

これは聖杯戦争が始まってから、繰り返し遠坂に伝えている言葉だ。

今回もまた呆れられると思っていたが、遠坂の表情は少しも揺るがなかった。

 

「衛宮君、さっきの言葉は私からの宣戦布告よ。今更だけど、こんな馴れ合いはこの瞬間に終わらせてもらうわ」

 

遠坂の決意は最初から一度だって変わらない。言葉と態度が明確にそれを示している。

 

「あなたもここまで勝ち残ったんでしょ? 賽はとっくの昔に投げられたの。もうどうにもならないことぐらい理解しなさい。……それじゃあね。寝首には気をつけることね」

 

遠坂は、再びタクシーを走らせて夜に消えた。

おそらく自宅へ戻ったのだろう。

彼女もセイバーの容態が気になるはずなのに、最後まで俺たちを優先してくれた。

遠坂は相当なお人好しであると同時に、俺なんかと比べものにならないぐらい格好いい女の子だった。

それだけに最後に見せたあの目は、本気であると教えてくれた。

成り行き上、遠坂とは今まで一度も刃を交えなかったが、あれが最後の警告なのだろう。

こうして残る陣営が二組である以上、もう都合良く逃げ回れない。

 

「でもな、遠坂……」

 

いくら甘いと言われても、聖杯のために殺し合うなんて間違っている。

何をどう言われたって、その考えだけは曲げるつもりはない。

でも今はそんな義憤に燃えるのではなく、文の怪我を診なければならない。

 

足早に玄関を潜り、彼女を部屋に運ぶ。

六畳の和室には、着替え以外にもインク、書き損じの原稿、フィルム、小説、酒瓶など。

おおよそ女の子らしくないものが散乱していた。

インクの匂いに混じって、どこか甘い女の子の香りもする。

文の私物を隅にどかして、干したままだった布団を敷く。

そして、その上に部屋の主である射命丸文を寝かせた。

俺には魔術的な治療はできないが、簡単な怪我の手当ぐらいなら部活動で覚えてた。

 

「……すまない、文」

 

文には悪いが、ぼろぼろになったブラウスをハサミで切って脱がした。

……下着に包まれた小振りな胸が露わになって、心臓が少し高鳴ってしまう。

不可抗力であっても、浅く上下する膨らみに目が行ってしまうのは、健全な男の性なのか。

しかしそんな邪な考えは、身体を預けてくれた文への裏切りだった。

邪念を振り払い、まずは消毒をするために傷口を濡れたタオルで拭いて洗浄する。

 

ふと、おかしなことに気付いた。

 

「これって……?」

 

傷の状態次第で最悪この手で縫うことも考えていたが、体のどこにも傷らしい傷がない。

血が付いていたら酷く見えていただけで、拭いてみたら跡形すらなくなっている。

……思い出してみれば、ライダーにやられた時もそうだった。

学園で受けた傷も、大半はその日のうちに殆ど塞がっていた。

今まで冷たかった体も体温を取り戻しており、肌も健康的な色に落ち着いている。

そういえば、タクシーに乗った時点で、呼吸も寝息と呼べるものになっていた。

 

……たった数時間でこの再生力は普通じゃない。妖怪という存在はみんなこうなのか?

全身の傷の大半は、無茶な状態で使用したスペルカードが原因だった。

それを加味しても以前より傷の治りが早い気もしたが、他に何か要因があるのだろうか?

 

しかし、バーサーカーに根本からもぎ取られた背中の翼は今も生々しい傷を晒していた。

片翼だけの姿を見ると、不甲斐ない気持ちが湧き上がる。

胸の下の辺りにも惨たらしい痣がある。これもバーサーカーに殴られた傷だ。

現存する傷は、翼と胸と右肩だけ。全部バーサーカーにやられたものだった。

 

「…………う」

 

消毒を終えた翼の生々しい傷に、抗生物質入りの軟膏を塗布していく。

少女の顔が苦痛に歪んだが、我慢してもらうしかない。

そして可能な限りの治療を済ませたら、ガーゼと包帯で処置して、洗濯したてのパジャマを着せた。

水分も摂らせたかったが、点滴でもない限り意識を失った状態の給水は危険だ。

 

 

「すう、すう……」

 

少女は今、静かに寝息を立てている。

最悪の場合、正体がばれるのも覚悟で病院に連れて行くつもりだったが、この様子なら大丈夫そうだ。

つたない処置ではあったが、これが今の俺にできる精一杯だった。

 

「文……早く元気になってくれ」

 

小さな手を握って、直接体温を感じる。

馬鹿な自己満足に過ぎないが、少女の体温を感じると、俺は涙が出そうなぐらい安心できた。

 

 

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