文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
二人の繋がれた手は、いつの間にか解けていた。
カーテンの隙間から、朝影が漏れている。
そんな静かな光が室内を照らして、朝の訪れを優しく教えてくれた。
部屋を閉め切っていたため、空気は少し澱んでいたが、不思議と嫌な気持ちにはならない。
朦朧とした頭で、時計を確認すると時刻は8時を過ぎていた。
「もうこんな時間か……」
まだ6時ぐらいと思っていたから、また随分と寝坊をしてしまっていた。
変な姿勢で寝ていたので、身動きをする度に身体から小気味いい音が鳴る。
聖杯戦争が始まってから、衛宮士郎の生活習慣はすっかり乱れてしまった。
「…………」
少女は、今も眠っていた。
寝息すら聞こえない静けさに一瞬悪い想像がよぎるも、彼女の胸はしっかり動いていた。
思い返してみれば、彼女の寝ている姿を見るのはこれが初めてだった。
射命丸文は未だかつて、隙らしい隙を見せた記憶がない。
こんなあどけない子供のような顔を晒しているのが、そもそもあり得なかった。
もしかしたら……彼女なりに俺を信頼してくれた証拠なのだろうか?
自意識過剰と言ってしまえば、それまでの話。
もしその考えが本当だったら、こんなに嬉しいことはなかった。
「そうだな……。今のうちに包帯とガーゼを清潔なものに交換しようか」
目が覚めないよう、布団をゆっくりとめくる。
昨夜に着せたパジャマを脱がすために、上からボタンに手を掛けていく。
女性もののパジャマは、ボタンの向きが左右逆なので少しだけ外しづらい。
「……なにを、してるんですか?」
上から二つ目のボタンを外し終えた時、目覚めたばかりの少女と目が合った。
どうしてか、これ以上ない蔑みの視線を俺に向けている。
「なにって……パジャマを脱がそうとしているだけだけど。おはよう、文。元気そうで良かった」
……何か重大な要素を忘れている気がするが、朝の挨拶をした。
挨拶は大切だ。人間関係を円滑にする重要なファクターだ。
その際にお互いに笑っていれば、なお良い。
「ええ、おはようございます。…………そ、それで、なんで、わ、私のパジャマを、脱がしてやがるんですか……?」
口元が変に震えており、いつもの笑みすら作れずにいる。
彼女の視線から、蔑みとは違う、羞恥の感情が混じり始めた。
それにどういうわけか、全身がぷるぷると震えていた。
…………はて、どうしたんだろうか?
「あ」
三つ目の――小さな膨らみの上にあるボタンに手を掛けた時、ようやく自分の問題行動に気付いた。
もちろん、治療行為は問題ではない。だが、客観的に俺たち二人を見れば大問題だった。
文の顔がみるみる紅潮していく。もう耳まで真っ赤だった。
羞恥なのか怒りなのか、はたまたその両方なのか。
どちらにしろ、衛宮士郎に対して良くない感情なのは確かだった。
「それは……いや! ……ちょっと待とうか、文! してはいけない勘違いをしているぞ!?」
「……ええ。私も馬鹿じゃないので、現状は概ね把握しているつもりです。士郎さんにそんな度胸があるとは、とても思えませんしね。……で、でもね。は、恥ずかしいものは……恥ずかしいの。そ、そんな覆い被さるような姿勢で、ボタンを外されたら……きっと、だ、誰だって、そう思う……」
文の口調がごちゃ混ぜになって、安定していない。
よく見たら目には、涙すら浮かべていた。
あのバーサーカーを倒した射命丸文が、人前で泣いてしまっている……!
信じられなかったけど、それ以上に胸が苦しい。
女の子を泣かせてしまう罪悪感は、こんなに胸が苦しくなるものなのか……?
そんな当たり前の事実を、俺は今日初めて知った。
「そ、そうだよな。本当に悪かった! だから、その小刻みに震える拳をどうにか押さえてくれ!」
文の拳がプルプルと震えており、俺という標的に放たれる瞬間を、今か今かと待ち構えていた。
さっきまでの朝の清々しさは、どこに行ってしまったんだ。一瞬で修羅場になってしまったぞ。
「……ほんっとうにすまない! 俺も起きたばかりで寝ぼけてたみたいだ!」
ただ真摯に、ただひたすらに、謝り続ける。
……俺は文に殴られるのか。
コテコテなラブコメのように殴られてしまうのか。
相手が普通の女の子だったら、本気で殴られても仕方がない。
俺は、それだけの大罪を犯してしまった。
でも文の力で殴られたら、頭だったら爆ぜる。胴だったら貫通する。
どちらにしろ、デッド・オア・ダイだ。
本気じゃないとしても、悶絶するようなダメージは必至だった。
落ち度は完全に俺にある。ここで殴られようとも、文句は言えない。
だから、心のなかで十字を切った。
生きていられますように。
生きていられたら、文に美味しい朝食を作れますように、と。
……キリスト教徒ではないけど、たまには俺だって神に祈りたくなる。
「……わ、わかりましたから、みゃずはその。えっとえっと。その、て、手を放してくだしゃぃ……」
がたがたの滑舌で、少女が現状を伝えてくれる。
俺の右手は、未だに文のパジャマのボタンを掴んだままだった。
「あ……ああ! ご、ごめん! 気付かなかった!」
「あぅ、ううぅ…………」
「…………殴らなくていいのか? できたら加減してくれると助かる!」
慌ててボタンから手を放して、文の顔色を窺う。真っ赤な上に涙目だった。
「……こ、これで殴るなんて、どんな馬鹿な女の子なんですか……。そのぐらいの分別……私にだって、あります……」
文はゆっくり上体を起こすと、恥ずかしそうに胸元の着崩れを直した。
「まったく、グス……。わ、私の格好いいイメージが台無しです……。というか、こんなの私じゃありません……。何だか起きてからずっと、か、感情がおかしいの……。やっぱ、あ、あんな無茶をしたせいかな……グス」
あの射命丸文が、人前なのに堪え切れず、鼻を啜っている……!
格好いいかどうかは一考の余地があるが、飄々と、どんな時だって余裕の態度を崩さないのが彼女本来のイメージだ。
そこから大きく逸脱しているのは間違いない。
というか、さっきから罪悪感で胸が痛くて苦しい。何なんだ……これは?
「……し、士郎さんは、傷の手当てをしてくれたんですね……。じゃあ、怒れませんよ……」
「あ、ああ……そのつもりだったんだけど。俺も頭が働いてなかった。本当にすまない」
頭を下げると同時に、両手を合わせて再び謝罪を重ねる。
今の様子から察するに、どうやら許してくれたらしい。
「……それと水分を急いで摂ったほうがいいと思うんだ。何かリクエストはあるか? 酒は流石に駄目だけどな」
「クス……それは士郎さんなりの冗談ですかね。でしたら、温めのお茶をお願いします……」
「わかった。すぐに持ってくる」
急いで立ち上がって、文の部屋から出る。
「…………」
襖を閉める時、一瞬だけ文の顔が見えてしまった。
苦痛に歪んでいた。
俺の前だと平気な様子だったが、実際は激痛があったのだ。
文は、それを無理して隠した。
だから俺も気付かないふりをして、台所へと向かった。
「んぐんぐんぐ」
用意したお茶を、喉を鳴らして飲み干していく。
あれだけの失血をしたのに、今までまったく水分を摂っていなかった。
とても喉が乾いていたはずだ。
水分は摂り過ぎるということはない。温くしたお茶を、少女の湯飲みに再び淹れた。
「……朝食は食べるか? 文が買ってくれた毛ガニが残ってたから、カニ雑炊を作ってみたんだけど」
急ごしらえなので、出汁はちゃんと取れていない。
でも味見した感じでは、そんなに悪くない出来だと思う。
「ええ、いただきます。…………んん!?」
「ど、どうした? 熱かったのか!? 口の傷にしみたのか!?」
作ったばかりの雑炊を口に入れた途端、文が変な声を出した。
「……士郎さん、このお雑炊、美味しすぎる。……ショウガも入って、体も心も温まりますね」
良かった……。
さっきからどうしても、文の一挙手一投足が気になってしまう。
美味しいと言ってくれたのも、なぜかいつも以上に嬉しい。
「……ふう。美味しいものを食べると生を実感しますね」
「はは、いくらなんでも大げさだろ」
……少しは落ち着いてくれたようだが、起きた直後の文はなんだったんだろう?
『取り乱す』なんて言葉は、彼女から最も縁遠いはずだ。
「……よければおかわりもあるけど、食べるか?」
「鍋ごとください」
用意した朝食は、とても美味しそうに食べてくれた。
食欲に関しては問題なさそうだ。
そうなると、次に心配になるのはバーサーカーにもがれた翼だった。
背中を見ると、パジャマ越しに血が滲んでいる。
あの出血量だ。一度の包帯とガーゼだけではどうにもならないだろう。
「その……背中の傷は、大丈夫なのか?」
「背中……。ああ、私の翼のことですか。そんなに気を使わなくていいですよ。ふふ、私と士郎さんの仲じゃないですか」
「……ごめん。変に気にしすぎた」
直接的な単語を使うのを避けたせいで、逆に気を使われてしまった。
左の翼と殴られた胸の痣以外はほぼ完治しており、やはり文の再生力は並大抵じゃない。
見た目だけなら人間と同じなのだが、根本的な構造が別物だ。
それだったら、バーサーカーにもがれた彼女の翼だっていつ治ってもおかしくないはず。
「まあ、駄目でしょうね」
「……え?」
文の口から呆気なく告げられた、耳を疑う言葉。
「本来なら、肉体の欠損なんて大した問題じゃありません。事故で千切れたのなら数日のうちに生えてきたでしょう」
「だったら、どうして……」
「英雄様、直々ですからね。私たち妖怪は人間とは違って、精神の生物です。肉体に受けた傷は取るに足りませんが、精神へのダメージはその限りではありません。ヘラクレスのような大英雄の攻撃は、私の精神をズタズタに破壊してしまいました。私にしてみたらとんでもない猛毒です」
「猛毒……そう、だったな……」
バーサーカーとの戦いの時、文が『英雄の剣は妖怪にとって毒になる』と言っていた。
「英雄は魔を討つ存在ですから、私のような妖怪はどうしても相性が悪いんですよ。相手の動きだって、霞がかったように読みにくくなります。そして彼ら英雄から直接傷を負わされてしまうと……もうどうしようもないです。ある程度の傷なら治ります。ですが、この翼に関しては腐り落ちてしまったようなもの。それでもバーサーカーを私の手で倒せたから、この程度で済みました」
長舌に疲れたのか、喉の渇きを癒すようにお茶を飲んだ。
……だったら、もう文の翼はもうどうにもならないのか。
バーサーカーを討てた代償だったとしても、あまりに惨たらしい結果だった。
俺なんか、ただそこにいるだけ。戦うのも、傷を負うのも、いつだって文の役目だ。
「……そんな顔しないでくださいな。『ネタは自分の脚で稼ぐ』が私の持論ですが、何も完全に飛べなくなったわけではありません。速度も精密性も格段に落ちますが、なんとかなるでしょう。それよりも記事は腕がなければ書けません。だから私はこの右手が残っている限り大丈夫です」
……大丈夫なはずがない。肉体が欠損して、大丈夫でいられるはずがない。
烏天狗にとって、漆黒の両翼はアイデンティティみたいなもの。
初めて会った日――彼女は、公園で烏天狗だと名乗ってくれた。
その時、あんなにも誇らしげに広げた翼を見せてくれたじゃないか――。
「……………………」
慰めの言葉なんて、気休めにもならない。
そもそも、今の彼女を慰められる言葉なんて、この世に存在しないだろう。
何を言おうとも、見え透いた安い言葉になってしまう。
だけど、何も声を掛けられない自分もどうしようもなく情けない。
悔しくて、辛くて苦しい。衛宮士郎の心が、どうにかなってしまいそうだった。
それでも、彼女がいつもの顔で大丈夫と言うのなら、俺はその言葉に従うしかなかった。
◇
「それでは、今後の方針を決めましょうか」
食後の休憩が終わり、一息ついたところで文が気を取り直すようにそう言った。
以前は俺の台詞だったのだが、もう聖杯戦争の主導は彼女にある。
「ああ、わかった。そうしよう」
文の傷は心配ではあるが、それについては俺も異論はなかった。
遠坂たちと殺し合う気なんて、俺には毛頭ない。
それでも相手がやる気なら、何らかの形で迎え撃つしかないだろう。
「セイバーがバーサーカーに負わされた傷は、一日程度で治るものではありません。それに、二日で都合三度の宝具使用。凛さんの魔力も枯れ果てているはず。挑むなら早ければ早いほどいいんですが、私も今日は動けそうもないです。なので、今日一日は治療に専念をして、明日の夜に挑むのはどうでしょうか?」
文は召喚された当初とは違い、最近はずっと聖杯戦争に積極的だった。
たった一日の休養で動けるか怪しかったが、俺は彼女の再生能力を信じるしかなかった。
「でも、遠坂のところは魔術師の家だぞ。考えもなく攻めるのは危険じゃないか?」
無暗に拠点に攻めるという意味では、イリヤの時もそうだった。
だけど、雪の少女は最後まで小細工には頼らず、バーサーカーの実力だけを信じた。
イリヤが手段を選ばずに最初から全力でいれば、聖杯は彼女の手にあったはず。
それだけ桁外れの実力が、バーサーカーにはあった。
遠坂は人の道から外れた行為はしないが、勝つためになら可能な限りの最善を尽くす。
それに彼女は、自分の家を隠していない。それがどうしても罠としか思えなかった。
余談だが、深山の小高い丘にある遠坂邸は、昔から曰くつきの幽霊屋敷として噂されている。
「そんなのは、私の風で木っ端微塵にしてみせますよ。あの程度の人間の張った結界なんて、我ら天狗の起こす風の前には児戯に等しい。……それともライダーの時のように超高度から、家ごと消し飛ばしてみせましょうか? それぐらいならまだできますよ?」
彼女ならではの発想だった。
ライダーの時と違って、建築物なら移動だってしない。文なら百発百中だろう。
奇襲としてはこの上ないぐらいに完璧だ。でもそれだと――。
『そんなことをしたら遠坂が死んでしまうんじゃないか』と言いかけた。
……セイバーはともかく、文が本気で風を起こせば、人間である遠坂は死んでしまう。
これまでの付き合いでわかったこともある。
射命丸文にとって、遠坂凛という稀代の才能を持った魔術師は、その他大勢に過ぎない。
好きでもなければ、嫌いでもない。いてもいなくても同じ。その程度の存在。
だから文は必要があれば、遠坂を殺すのを躊躇わない。
俺がここで『そんなことはやめろ』と言うのは簡単だ。
でも、ボロボロの状態で聖杯戦争を戦う文に、そんな言葉を口にしていいのか。
だからと言って、何もしないで見逃すなんて真似は絶対にできない。
「……ま、今のは冗談ですよ。そんな卑怯な手を使って勝てても面白くないですからね。正面からぶつかり、完膚無きまでに敗北を認めさせ、お二人をぴーぴー泣かせてやりましょう」
何も言わないでいた理由を察してくれたのか、彼女は少し笑いながら豪語する。
……俺が射命丸文を少し理解できたように、文は俺のことを何でも知っているんだな。
「じゃあ、いつかのバーサーカー戦のように住宅地で戦うのも手か? セイバーの宝具は攻撃範囲が広域だから、住宅が密集している場所では使えないはずだ」
遠坂が人避けの結界を張ってくれるだろうし、近隣住民を巻き込む戦いは絶対にしない。
少し卑怯な気もするが、遠坂が冬木のセカンドオーナーであるのを逆手に取った作戦だ。
「……それだと相手が全力を出せないじゃないですか。そんな状況で勝っても言い訳の材料にされてしまいます。それじゃ駄目ですね。却下です」
文の一言で無しになった。なんでさ。
俺にはやっぱり、この天狗少女が何を考えているのかを理解できていなかった。
◇
どういうわけか、文は卑怯な手を使わずにセイバーを倒したいらしい。
マスターも狙わずに、セイバーと正面から決闘と呼べる戦いをしたいようだった。
理由が不明だったので確認してみたら『前にも話した』と言われてしまった。
「照れくさいので、もう絶対に言いません。忘れてしまった士郎さんなんて、もう知りません。つーん」
ついには、この始末だ。しかも『つーん』って。
俺も文に命を預けるつもりだから、知っておきたかったけどな。
ただマスターである遠坂を狙わないでくれるのは、これ以上ない条件だった。
「うーん……」
思い出せるのは、アサシンの前で啖呵を切った時――。
『全てのサーヴァントを倒して、この世界に妖怪がいた証を立てる』と彼女は言っていた。
でもその直後に敵前逃亡して、あの発言も『その場で思いついた出まかせ』だと言った。
ついでに『最新デジカメを買うのが、この世界に来た目的』だと言い切った。
「だけど、もしかして……?」
最初の発言だけは本当で、他は彼女の照れ隠しだとしたら――。
「な、ななななんで急に、あ、頭を撫でるんですか……!?」
「いや、なんか急に文が可愛くなって…………どうかしてた。ごめん」
「…………か、わわかわいいって! そ、そんなの千年前から知ってますよ! 馬鹿にしないでください!」
なんだろうか、この可愛い生き物。一生愛でてていたい。
文が落ち着きを取り戻した後、二人で今後の方針を綿密に話し合った。
その結果、目立つ遮蔽物もなく、人目に付かない冬木中央公園で遠坂たちを迎え撃つ計画になった。
慎二とライダーの時は俺一人だけだったが、今度は文と二人で待ち構える。
今回はライダーの時と違って戦略もなにもなく、作戦と呼べるものはない。
だから作戦ではなく、ただの計画だ。
あの場所なら、セイバーが宝具を開放しても問題ない。文だってスペルカードを使える。
文もセイバーも、己の実力を発揮できるはず。
俺としては過去のトラウマから近づきたくない場所だったが、そんなのは関係ない。
俺は、射命丸文のただ一人のパートナーだ。
彼女が望むものを望むがまま、何もかも差し出す覚悟はできている。
懸念があるとすれば、遠坂が決闘に乗ってくれるかだ。
だけど、それも心配ないと思う。
遠坂凛という少女は、正面から売られた喧嘩なら間違いなく正面から買ってくれる。
昨夜は『寝首に気をつけろ』と警告していたが、その心配もない。
俺はそんなところも含めて、遠坂を買っていた。いや、信頼していると言うべきか。
本当に寝首を掻くつもりがあるなら、わざわざ相手に伝えてやる必要すらない。
『非情になれない』というのは、少し語弊があるかもしれない。
遠坂も文と同じで、卑怯な手を使わず、正面からぐうの音も言わせないほど相手を負かせたい。
それだけは、お互いに共通しているのは間違いなかった。
「さて、方針も決まりましたし、私はまた眠らせてもらいますね。……お腹にものを入れたせいか、さっきから眠くて仕方がないです」
ふわ、と目尻に涙を浮かべて可愛らしい欠伸をした。
前までは絶対見せてくれなかった姿に、驚きと嬉しさを感じた。
「わかった。……でもその前に包帯を交換しないか? ここに用意してあるから」
パジャマから血が滲んでいたのが、ずっと気になっていた。
言い出すタイミングを窺っていたけど、これから寝てしまうのなら今しかない。
「――――」
しかし文は、俺の言葉に反応せずに唖然とするだけ。
「それとパジャマも新しいものに換えよう。汗もかいているだろうし、身体もちゃんと拭こうか」
そんなこともあろうかと、おろしたてのパジャマも用意しておいた。清潔なタオルもある。
「しくしく」
文が唐突に目を両手で押さえて泣き出してしまった。
狼狽えそうになったが、 声で『しくしく』と言っている辺りどうも胡散臭い。
「ど、どうしたんだ……?」
「士郎さんは、私を女の子として見てくれないのですね」
急に心臓を叩かれたような言葉が、文の口から出る。
今日は起きてからずっと文にドキドキされっぱなしなのに、どういうつもりなんだ……。
「そ、そんなことはないぞ。俺が言うのも変かもしれないけど、その、文は凄く綺麗だし、とても魅力的だと思う。……でも今はそれよりも、傷の手当てのほうが大事だよな」
「…………しくしくしく」
今度は芝居がかった口調と違って、『しくしく』に落胆が籠められていた。
意味深な質問といい、彼女は一体なにが言いたいのか。
「も、もう言うのも恥ずかしいですけど……。そ、そそそそんなに見たいんですか………………私の裸」
「!!」
今の俺は、文の役に立ちたいという感情が優先されて、他がいい加減になっていた。
こうして直接言われるまで、そこに気が回らずにいた。
パジャマのボタンを外した時も、寝ぼけていたのが原因じゃない。
彼女の力になりたい気持ちが空回ったせいだ。
……こんなじゃ治療に託けて、彼女の裸を見ようとする変態でしかない。
同じ轍を踏んでしまった。……我ながら度し難いな、これは。
「すまない……。悪いけど一人でやってほしい。タオルと着替えはここにあるから。……それと何か手伝って欲しいことがあれば言ってくれ。すぐに行くから」
文の返事を聞く前に、急いで部屋から退出する。
「まったく…………どんだけ間抜けなんだ、俺は」
そっと閉じた襖に背中を預けるようにして、ずるずると座り込む。
「文も朝からずっとおかしいけど、俺も大概だな、これは……」
文には聞こえないよう、小さく呟いた。
高ぶった気持ちを少しでも落ち着かせるため、深呼吸を繰り返す。
……少しして襖の向こうから、衣擦れや、水の跳ねる音がした。
「…………」
音だけだと、より蠱惑的に聞こえるのはなぜだろうか。
……! 何を考えて! 馬鹿か、俺は!
どうやら、この頭もいよいよおかしくなってしまったようだ。
馬鹿な煩悩を振り払うため、両頬を強く叩く。
そして、強い決意の元、襖越しの少女に声を掛けた。
「……文、勝とうな。勝って、聖杯戦争を終わらせよう」
衣擦れの音がピタリと止まった。
「――当然。そんなの、確認するまでもないわね」
自信に満ちた文の声。
いま彼女が浮かべている顔だって、俺には想像ができた。