文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
セイバーの振り下ろした聖剣は――。
本当にあっさりと、射命丸文の左肩から右脇まで斬り裂いた。
「…………」
聖剣の刃は彼女の皮や肉だけではなく、臓腑までも達した。
少し遅れて溢れ出す大量の血。
深く鋭い傷だった。人間だったら、その場で死に至るもの。
ただ深いだけなら、問題ではない。
妖怪の驚異的な再生力によって、たちどころに塞がってしまう。
しかし、それはただの刃傷ではなく、英雄アーサー王の聖剣によるもの。
妖怪である彼女にとって、決して受けてはいけない。
聖剣の刃傷は、究極の毒となり少女を蝕む。
そんな決定的な一撃が、彼女の胸を酷たらしく斬り開いた。
目を逸らしたくなる残酷な光景だった。
だけど、一秒だって目を逸らしてはいけない。
「いっ、たぁ……」
か細く漏れた声。もう悲鳴とすら呼べない。
雨と風が止んでなければ、掻き消されたであろう少女の慟哭。
「…………あ、ああ」
これ以上、身体に力が入らない。
身体がガクガクと震えていて、その場に崩れ落ちてしまう。
まるで座り込むように、膝から地面についた。
前にも後ろにも、少女は倒れなかった。
だけど、もう二度と立ち上がれない。
誰の目から見ても、彼女はここで終わっていた。
全身を赤色に染め、肌は白く冷たくなっていく。
間違いなく、死に瀕している。
本当は誰よりも、死から遠い存在だった。
そんな一人の妖怪が、いま終わりを迎えようとしている。
「これで終わりです」
セイバーには疲労があり、大きな傷もあった。
しかし、致命傷と呼べるものは一つもない。
文と比べれば些細なもので、このまま戦闘続行するのも支障はない。
文は片翼をもぎ取られて、胸にも大きな傷があった。
決して、万全の状態とは言えなかった。
それでも全力を出して戦いに挑んだはず。
それなのに、セイバーは宝具も使用せずに余力すら残している。
……ああ、もう考えるまでもない。
ここに、勝敗は決した。
遠坂の宣言通り、聖杯戦争はセイバーの勝利によって幕は引かれた。
「……アーチャー」
セイバーは、ゆっくりと文を見る。
彼女の向ける視線には、確かな熱があった。
未だ戦闘は終わっていないとでも言うように。
瀕死の少女に対して、油断も見せていない。
文が普段から見せるような、相手を見下す感情はどこにも含まれてない。
ただ冷静に文の動向を観察していた。そこに付け入る隙などない。
「……まだ息がありますか。やはりあなたを殺すには首を斬り落とす必要があるようだ」
風王結界から開放された聖剣を、文の首に宛がった。
でも彼女は膝をついたまま指一つ動かす力もなく、反応を示さない。
「…………」
意識は失ってない。
でもその赤い瞳は曖昧であり、言葉を返す余力も残されていない。
以前なら、どんな窮地であっても言葉遊びのような皮肉を返していた。
もし死ななくても、失血によって昏倒するのは時間の問題だった。
だが意識を失うよりも早く、セイバーが文の命を刈り取る。
「なんて素敵な光景……。少し、写真に撮りたかったな……」
混濁した意識のなか、うわ言のように紡いでいた。
剣の少女をぼんやりと見て、口だけは少しだけ笑っていた。
その意味はわからなかった。
だけど最期の言葉にしては、あまりに儚い願いだった。
「マスター、命令を――」
セイバーは、遠坂の剣だ。
射命丸文の命を奪う意志は、遠坂凛のものでなければならない。
「ええ……わかってるわ」
遠坂の顔に浮かぶ、確かな翳り。
魔術師として完成しているかもしれないが、彼女もまだ十代の少女。
射命丸文は、人間ではない。
それでも、自分より年下に見える少女を殺すのには抵抗があった。
「……はあ」
彼女は、公園の重く冷たい空気を吐き出す。
その瞬間はもう翳りはなく、彼女の名前そのものの表情。
それは、魔術師としての遠坂凛の顔だった。
「……衛宮君、これからあなたのサーヴァントを殺す。でも、恨まないでなんて言うつもりはない。憎かったらいくらでも私を憎みなさい。……聖杯戦争に勝つことは、お父様から託された悲願。そして私自身の願いでもある。今更、他人の命を奪うことに躊躇わない」
「……………………」
遠坂に言葉を返したかった。
でも咄嗟に出そうになった言葉を飲み込む。
ここでどんな言葉を言おうとも、彼女の心には絶対に届かない。
いや、届いたとしても、その言葉を飲み込んでしまう。
聖杯戦争に懸けた意思は本物であり、文の命を奪う意志も覆らない。
「だけど……」
……そうはさせない。それを許してはいけない。
遠坂の聖杯戦争に懸けた悲願と同じように、俺にも絶対に譲れないものがあった。
正義の味方を目指す者として、傷ついている人を放っておけない。
目の前で誰かが傷ついているのなら、絶対に止めてみせる。
彼女を助けられるなら、俺は何だってしてみせる。
それがどんなに卑怯な手だとしても。
俺には一つだけ、文を助ける手段があった。
それもかなりの確率で、彼女の命を救える。
さっきのように、命懸けでセイバーとの間に入るわけではない。
それをすれば、今度こそ遠坂のガンドの餌食になって終わりだ。
そんな俺が、文を助けられる手段。
正式なサーヴァントとは言えない、射命丸文だから許される裏技。
そう大袈裟に言っても、大したことはない。方法も簡単だった。
それは、最後の令呪を使って……文との契約を打ち切るだけ。
内容は何だって構わない。
最後の一画を使えば、少女は俺という『かすがい』から解放される。
たったそれだけで、射命丸文は幻想郷に帰れる。
令呪を使うのを遠坂たちに気づかれない限り、絶対にうまくいく。
今になって思えば――。
二つ目の令呪をあんな形で消費したのも、この状況に備えてのものだったかもしれない。
俺は、無意識のうちに『文はセイバーに勝てない』と思っていたのだろう。
いいや……それだけじゃない。
俺はセイバーと初めて邂逅した時、この出来損ないの心が激しく揺れていた。
それはもう、最初から文を信じ切れずにいたのと同じ。
彼女をサポートできる力がないだけではなく、彼女の心すらも裏切っていた。
二つ目の令呪を使った時の文の顔が忘れられない。
『――文、頑張れ。セイバーに負けるな』
令呪に籠められた、そんな陳腐な願いに。
『ええ、ええ! 頑張ります! 頑張りますとも! 見ていてください! 士郎さん!!』
本当に嬉しそうにしていた。俺なんかを心の底から信頼してくれた。
それなのに、衛宮士郎という存在は――。
どうしようもない未熟者なんかじゃなく。
それ以上の、どうしようもない裏切り者だった。
これ以上、考える必要もなかった。……最後の令呪を使おう。
その後に何が起ころうとも知ったことか。聖杯戦争がどうなろうと関係ない。
文の命に比べたら、聖杯なんてどうでもいい。
それよりも心配なのは、彼女の怪我の具合だ。いつ死んでしまってもおかしくない。
それは幻想郷に送り返したあと、彼女の仲間に託すしかない。
……別れがこんな形になるとは思わなかった。だけど俺はもう合わせる顔がない。
せめて一言だけ謝りたかった。一言だけ感謝が言いたかった。
『勝たせてやれなくて、ごめん。それと、俺なんかに付き合ってくれてありがとう』と。
そんな機会は二度と訪れない。言葉に出せば、遠坂たちに気づかれてしまう。
「ク……ッ!」
令呪の刻まれた左の拳を血が滲むほど握る。
そこに籠もった熱の正体は、左手に魔力が込められているだけではない。
ああ……本当は伝えたい言葉だって別にあるんだ。
『ごめん』でも『ありがとう』でもなく、もっと大切な言葉。
でもそれだけは彼女を裏切った俺には、口が裂けても言葉にできない。
だからこうやって、握り潰す――。心にだって、二度と浮かばないように。
少し前の風雨は、もう気配を感じさせないぐらい遠い。
◇
夜雨の止んだ冬木中央公園は、寂寞としていた。
冷たく湿った空気が辺りに満ち、死に瀕した少女の荒い息づかいだけが聞こえる。
聖杯戦争の終結――。
セイバーは宛がった剣で、彼女の首を刎ねる。
妖怪であっても、聖剣で首を落とされれば絶命は免れない。
「…………」
文にも、以前のように避ける力もない。
それどころか、自分の死を受け入れているようにも見える。
こうして、膝をついているのだって辛いはず。
だったら、前に倒れたらいいんだ。
それだと、無理をしてセイバーに首を差し出しているみたいじゃないか――。
「衛宮くん……彼女に伝えたい言葉はないの?」
ただの一言。
遠坂凛がセイバーに命令すれば、彼女の命が終わる。
文は感情の読み取れない虚ろな瞳で、セイバーを見上げている。
何の抵抗も見せない。
自由気ままに空を駆ける彼女を知っていれば、なんと似合わない姿なのか。
情けないが、これ以上は見ていられなかった。
文の傷つけられる姿も、セイバーが傷つける姿も、遠坂が命令を下す姿も。
もう限界だった。最後の令呪に魔力を灯す。
この行為だって、彼女に対する裏切りそのもの。
そうだとしても、文に死なれるぐらいならどう思われようとも構わない。
――足音が響いた。
雨にぬかるんだ土壌を踏み潰す金属音。
それは、かつてないほど唐突だった。
「ようやく決着か。このような児戯を眺めるのも酔余の一興ではあったが、それにも些か厭きていたところだ」
黄金の男――。
金色にあしらわれた大仰な甲冑を纏い、同じく金色に染まった髪。
こんな開けた公園で誰も気づかずにいたのが、不自然と思える風貌だった。
それは、姿形だけではない。
「久しいな、セイバー。それに図らずもこの場所とはな。フ、ハハ。何とも数奇と言えるではないか」
一目見て理解できてしまう。夜の闇すら照らし出す黄金の存在感。
噎せ返りそうになる破格の重圧。
ここにいる誰だって男の存在を無視できずに視線を向けてしまう。
その男は俺たちの視線を歯牙にもかけずに、こちらに向かって悠然と歩く。
……いや、『こちら』というのは語弊があった。
怜悧な双眸は俺や遠坂だけでなく、サーヴァントである文も映っていない。
紅玉の瞳にあるのは、セイバーだけ。
男からすれば、視界の端にいる俺たちなんて存在していないのと変わらない。
「アーチャー! なぜ貴様がここにいる!?」
セイバーが、文に宛がった剣をそのままに声を荒げた。
アーチャーと呼ばれた男の重圧を一身に浴びたが、セイバーは怯まない。
彼女の態度からして、あの男とは浅からぬ因縁があるようだった。
「あいつは……」
前に会った覚えがある。
聖杯戦争の初日、冬木教会の長椅子に座っていた男だ。
あの時は髪を下ろしていたが、その程度で見間違えるはずもない。
教会で見た時から変わらない、何人も寄せ付けない存在感。
しかし、放たれた重圧はあの日とは比較にならない。
意識を向けられずとも、ここにいるだけで押し潰さそうだった。
男はセイバーから10メートルぐらいの距離で歩みを止めた。
彼女が全力で踏み込めば、黄金の男に斬り込める程度の間合い。
セイバーが浮かべるのは、紛れもなく敵意。
黄金の男はそれに何も動じず、口を薄く開けて笑った。
文とよく似た他者を見下すための笑みだった。
「なに、そこでな。煩わしい雨が止むのを待っていたわけだ。セイバー、貴様とは久方ぶりの再会であろう? 我の髪が乱れてはなるまいよ」
逆立てた金糸の髪を整えるように触れる。
「光栄に思うがいい。これもおまえのためだ」
口角を上げて、黄金の男はくつくつと笑う。
自分の言葉は当然の真実であるように、セイバーに告げる。
「……貴様」
そんな尊大極まる態度に、セイバーは不快感を募らせる。
彼女の感情と呼応するように、聖剣を握る手も強くなっていった。
「アーチャー、戯言はそれまでだ! 私の質問に答えろ!」
セイバーは、不快感のままに激昂した。
しかし男がセイバーに見せる態度は、敵意や悪意ですらない。
この場には決して相容れない、別の何かだった。
そして、これまで文の首筋に宛がった聖剣を男に向けた。
彼女の血で濡れた剣を突き付けられても、男は眉一つも動かさない。
「――――」
その時、文の瞳が色を帯びた。
曖昧に揺れていた瞳が真紅に染まり、閉じかけた虹彩が大きく開く。
それだけではない。
「文――!?」
怒りだった。大きな怒りがあった。
理性が砕けた時も、怒りだけは剥き出しにしなかった。
彼女がこんな顔を見せたのは、一度だってない。
空気が震えるほどの殺意を、深い赤の瞳に乗せてセイバーに向けた。
そんな究極の殺意を受けても尚、セイバーには気付かない。届かない。
あの男が現れてから剣の少女は、一度たりとも文に目も心も向けなかった。
黄金の男によって、射命丸文の存在がセイバーから消えてしまった。
ほんの少しでも意識が向いていれば、敵対サーヴァントにこんな隙を見せたりはしない。
それは、セイバーだけではない。
射命丸文のマスターである俺も、男が現れてから令呪を使うのを忘れていた。
男の存在の大きさに、少し前までの判断が頭から抜け落ちていた。
「……クソ。こんな時まで俺は何をやっているんだ」
しかし見ようによっては、これはチャンスでもあった。
セイバーの気が男に向いている以上、令呪使用に気づかれる可能性が格段に減る。
考えてみたら、令呪を使用してすぐに文が帰還できるとは限らない。
タイミングとしては、間違いなく今が最高の瞬間。そして、潮時だった。
「…………」
左手に刻まれた令呪に魔力を込める。
……これが最後の機会だと思って、もう一度だけ彼女の顔を見た。
「……なんで、なの?」
天狗の少女は、儚げな言葉を漏らしていた。
誰に言うわけでもなく、小さな声。
そして、殺意に波立つ瞳を俺に向けた。
「何があっても……令呪を使うな」
その言葉は、蚊が鳴くよりも小さかった。
だが彼女の殺意と決意の込められた瞳が、どんな言葉よりも雄弁に語っていた。
『令呪を使って、文を幻想郷に返す』
そんな俺の企みは、とっくに見抜かれていた。
浅慮だと咎めるように、赤い瞳が俺を責め立てる。
それでも、これからどうすればいいなんて考えるまでもない。
彼女の意思を顧みずに、このまま幻想郷に送り出すのが最善。
次善策など存在しない。
令呪を使わない以外の選択は、確実な死が待っている。
セイバーと遠坂、そして黄金の男の意識は、まだこちらには向けられていない。
そうだとしても、もう彼女は瀕死だった。ふとした拍子で命を落とす。
当然、文もそれを理解しているはず。
聖剣によって胸を切り開かれて、まともに話すこともままならない。
そんな状態で、ここに残っても何ができるわけでもない。
迷う時間だって、無限ではない。
時間の浪費は少ない選択肢を更に減らし、彼女を確実な死へと近づける。
「――――ああ」
そんな絶望的な状況にあっても、衛宮士郎は考えてしまった。
『射命丸文の意志を尊重する』という、とびっきり狂った選択を。
……馬鹿げている。
その考えは、どんな道理からも外れている間違いでしかない選択。
『思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい』
彼女が俺に教えてくれた言葉だった。
『結論を一つにせず、思考を巡らせろ』という選択肢の話。
最善は『令呪を使用して射命丸文の幻想郷への帰還』。
次善策はない。
残った最後の選択肢――『令呪を使わずに彼女とこの場面を乗り切る』。
……ああ、本当に馬鹿げている。
遠坂、セイバー、アーチャーと呼ばれた男がいる中でどうやって乗り切る?
不可能だ。俺たちはきっと、抵抗すらもできずに殺される。
「だけど、それでも……」
俺は射命丸文との関係を、こんな形で終わらせたくなかった。
……どうしようもなく馬鹿げた自己満足だ。
それは掲げた理想からも反した、衛宮士郎という個人の我儘だ。
「あ……あ……!」
今や言葉も話せなくなった少女の赤い瞳が、激しく俺を糾弾する。
意識を保っているのも、奇跡に等しい出血量。
だが、膝をついたまま倒れない。
そんな状態になっても、彼女が幻想郷への帰還を拒む理由がわからない。
それでも死にかけの身体に宿る意志は、馬鹿げたほど直向きだった。