文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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53.風が止んだとき

 

 

セイバーの振り下ろした聖剣は――。

本当にあっさりと、射命丸文の左肩から右脇まで斬り裂いた。

 

「…………」

 

聖剣の刃は彼女の皮や肉だけではなく、臓腑までも達した。

少し遅れて溢れ出す大量の血。

深く鋭い傷だった。人間だったら、その場で死に至るもの。

ただ深いだけなら、問題ではない。

妖怪の驚異的な再生力によって、たちどころに塞がってしまう。

 

しかし、それはただの刃傷ではなく、英雄アーサー王の聖剣によるもの。

妖怪である彼女にとって、決して受けてはいけない。

聖剣の刃傷は、究極の毒となり少女を蝕む。

そんな決定的な一撃が、彼女の胸を酷たらしく斬り開いた。

 

目を逸らしたくなる残酷な光景だった。

だけど、一秒だって目を逸らしてはいけない。

 

「いっ、たぁ……」

 

か細く漏れた声。もう悲鳴とすら呼べない。

雨と風が止んでなければ、掻き消されたであろう少女の慟哭。

 

「…………あ、ああ」

 

これ以上、身体に力が入らない。

身体がガクガクと震えていて、その場に崩れ落ちてしまう。

まるで座り込むように、膝から地面についた。

前にも後ろにも、少女は倒れなかった。

だけど、もう二度と立ち上がれない。

誰の目から見ても、彼女はここで終わっていた。

 

全身を赤色に染め、肌は白く冷たくなっていく。

間違いなく、死に瀕している。

本当は誰よりも、死から遠い存在だった。

そんな一人の妖怪が、いま終わりを迎えようとしている。

 

「これで終わりです」

 

セイバーには疲労があり、大きな傷もあった。

しかし、致命傷と呼べるものは一つもない。

文と比べれば些細なもので、このまま戦闘続行するのも支障はない。

 

文は片翼をもぎ取られて、胸にも大きな傷があった。

決して、万全の状態とは言えなかった。

それでも全力を出して戦いに挑んだはず。

それなのに、セイバーは宝具も使用せずに余力すら残している。

 

……ああ、もう考えるまでもない。

ここに、勝敗は決した。

遠坂の宣言通り、聖杯戦争はセイバーの勝利によって幕は引かれた。

 

「……アーチャー」

 

セイバーは、ゆっくりと文を見る。

彼女の向ける視線には、確かな熱があった。

未だ戦闘は終わっていないとでも言うように。

瀕死の少女に対して、油断も見せていない。

文が普段から見せるような、相手を見下す感情はどこにも含まれてない。

ただ冷静に文の動向を観察していた。そこに付け入る隙などない。

 

「……まだ息がありますか。やはりあなたを殺すには首を斬り落とす必要があるようだ」

 

風王結界から開放された聖剣を、文の首に宛がった。

でも彼女は膝をついたまま指一つ動かす力もなく、反応を示さない。

 

「…………」

 

意識は失ってない。

でもその赤い瞳は曖昧であり、言葉を返す余力も残されていない。

以前なら、どんな窮地であっても言葉遊びのような皮肉を返していた。

もし死ななくても、失血によって昏倒するのは時間の問題だった。

だが意識を失うよりも早く、セイバーが文の命を刈り取る。

 

「なんて素敵な光景……。少し、写真に撮りたかったな……」

 

混濁した意識のなか、うわ言のように紡いでいた。

剣の少女をぼんやりと見て、口だけは少しだけ笑っていた。

その意味はわからなかった。

だけど最期の言葉にしては、あまりに儚い願いだった。

 

「マスター、命令を――」

 

セイバーは、遠坂の剣だ。

射命丸文の命を奪う意志は、遠坂凛のものでなければならない。

 

「ええ……わかってるわ」

 

遠坂の顔に浮かぶ、確かな翳り。

魔術師として完成しているかもしれないが、彼女もまだ十代の少女。

射命丸文は、人間ではない。

それでも、自分より年下に見える少女を殺すのには抵抗があった。

 

「……はあ」

 

彼女は、公園の重く冷たい空気を吐き出す。

その瞬間はもう翳りはなく、彼女の名前そのものの表情。

それは、魔術師としての遠坂凛の顔だった。

 

「……衛宮君、これからあなたのサーヴァントを殺す。でも、恨まないでなんて言うつもりはない。憎かったらいくらでも私を憎みなさい。……聖杯戦争に勝つことは、お父様から託された悲願。そして私自身の願いでもある。今更、他人の命を奪うことに躊躇わない」

「……………………」

 

遠坂に言葉を返したかった。

でも咄嗟に出そうになった言葉を飲み込む。

ここでどんな言葉を言おうとも、彼女の心には絶対に届かない。

いや、届いたとしても、その言葉を飲み込んでしまう。

聖杯戦争に懸けた意思は本物であり、文の命を奪う意志も覆らない。

 

「だけど……」

 

……そうはさせない。それを許してはいけない。

遠坂の聖杯戦争に懸けた悲願と同じように、俺にも絶対に譲れないものがあった。

正義の味方を目指す者として、傷ついている人を放っておけない。

目の前で誰かが傷ついているのなら、絶対に止めてみせる。

彼女を助けられるなら、俺は何だってしてみせる。

それがどんなに卑怯な手だとしても。

 

俺には一つだけ、文を助ける手段があった。

それもかなりの確率で、彼女の命を救える。

さっきのように、命懸けでセイバーとの間に入るわけではない。

それをすれば、今度こそ遠坂のガンドの餌食になって終わりだ。

そんな俺が、文を助けられる手段。

正式なサーヴァントとは言えない、射命丸文だから許される裏技。

そう大袈裟に言っても、大したことはない。方法も簡単だった。

 

それは、最後の令呪を使って……文との契約を打ち切るだけ。

内容は何だって構わない。

最後の一画を使えば、少女は俺という『かすがい』から解放される。

たったそれだけで、射命丸文は幻想郷に帰れる。

令呪を使うのを遠坂たちに気づかれない限り、絶対にうまくいく。

 

今になって思えば――。

二つ目の令呪をあんな形で消費したのも、この状況に備えてのものだったかもしれない。

俺は、無意識のうちに『文はセイバーに勝てない』と思っていたのだろう。

いいや……それだけじゃない。

俺はセイバーと初めて邂逅した時、この出来損ないの心が激しく揺れていた。

それはもう、最初から文を信じ切れずにいたのと同じ。

彼女をサポートできる力がないだけではなく、彼女の心すらも裏切っていた。

二つ目の令呪を使った時の文の顔が忘れられない。

 

『――文、頑張れ。セイバーに負けるな』

 

令呪に籠められた、そんな陳腐な願いに。

 

『ええ、ええ! 頑張ります! 頑張りますとも! 見ていてください! 士郎さん!!』

 

本当に嬉しそうにしていた。俺なんかを心の底から信頼してくれた。

それなのに、衛宮士郎という存在は――。

どうしようもない未熟者なんかじゃなく。

それ以上の、どうしようもない裏切り者だった。

 

これ以上、考える必要もなかった。……最後の令呪を使おう。

その後に何が起ころうとも知ったことか。聖杯戦争がどうなろうと関係ない。

文の命に比べたら、聖杯なんてどうでもいい。

それよりも心配なのは、彼女の怪我の具合だ。いつ死んでしまってもおかしくない。

それは幻想郷に送り返したあと、彼女の仲間に託すしかない。

 

……別れがこんな形になるとは思わなかった。だけど俺はもう合わせる顔がない。

せめて一言だけ謝りたかった。一言だけ感謝が言いたかった。

『勝たせてやれなくて、ごめん。それと、俺なんかに付き合ってくれてありがとう』と。

そんな機会は二度と訪れない。言葉に出せば、遠坂たちに気づかれてしまう。

 

「ク……ッ!」

 

令呪の刻まれた左の拳を血が滲むほど握る。

そこに籠もった熱の正体は、左手に魔力が込められているだけではない。

ああ……本当は伝えたい言葉だって別にあるんだ。

『ごめん』でも『ありがとう』でもなく、もっと大切な言葉。

でもそれだけは彼女を裏切った俺には、口が裂けても言葉にできない。

だからこうやって、握り潰す――。心にだって、二度と浮かばないように。

 

少し前の風雨は、もう気配を感じさせないぐらい遠い。

 

 

 

 

夜雨の止んだ冬木中央公園は、寂寞としていた。

冷たく湿った空気が辺りに満ち、死に瀕した少女の荒い息づかいだけが聞こえる。

聖杯戦争の終結――。

セイバーは宛がった剣で、彼女の首を刎ねる。

妖怪であっても、聖剣で首を落とされれば絶命は免れない。

 

「…………」

 

文にも、以前のように避ける力もない。

それどころか、自分の死を受け入れているようにも見える。

こうして、膝をついているのだって辛いはず。

だったら、前に倒れたらいいんだ。

それだと、無理をしてセイバーに首を差し出しているみたいじゃないか――。

 

「衛宮くん……彼女に伝えたい言葉はないの?」

 

ただの一言。

遠坂凛がセイバーに命令すれば、彼女の命が終わる。

文は感情の読み取れない虚ろな瞳で、セイバーを見上げている。

何の抵抗も見せない。

自由気ままに空を駆ける彼女を知っていれば、なんと似合わない姿なのか。

 

情けないが、これ以上は見ていられなかった。

文の傷つけられる姿も、セイバーが傷つける姿も、遠坂が命令を下す姿も。

もう限界だった。最後の令呪に魔力を灯す。

この行為だって、彼女に対する裏切りそのもの。

そうだとしても、文に死なれるぐらいならどう思われようとも構わない。

 

 

――足音が響いた。

雨にぬかるんだ土壌を踏み潰す金属音。

それは、かつてないほど唐突だった。

 

「ようやく決着か。このような児戯を眺めるのも酔余の一興ではあったが、それにも些か厭きていたところだ」

 

黄金の男――。

金色にあしらわれた大仰な甲冑を纏い、同じく金色に染まった髪。

こんな開けた公園で誰も気づかずにいたのが、不自然と思える風貌だった。

それは、姿形だけではない。

 

「久しいな、セイバー。それに図らずもこの場所とはな。フ、ハハ。何とも数奇と言えるではないか」

 

一目見て理解できてしまう。夜の闇すら照らし出す黄金の存在感。

噎せ返りそうになる破格の重圧。

ここにいる誰だって男の存在を無視できずに視線を向けてしまう。

 

その男は俺たちの視線を歯牙にもかけずに、こちらに向かって悠然と歩く。

……いや、『こちら』というのは語弊があった。

怜悧な双眸は俺や遠坂だけでなく、サーヴァントである文も映っていない。

紅玉の瞳にあるのは、セイバーだけ。

男からすれば、視界の端にいる俺たちなんて存在していないのと変わらない。

 

「アーチャー! なぜ貴様がここにいる!?」

 

セイバーが、文に宛がった剣をそのままに声を荒げた。

アーチャーと呼ばれた男の重圧を一身に浴びたが、セイバーは怯まない。

彼女の態度からして、あの男とは浅からぬ因縁があるようだった。

 

「あいつは……」

 

前に会った覚えがある。

聖杯戦争の初日、冬木教会の長椅子に座っていた男だ。

あの時は髪を下ろしていたが、その程度で見間違えるはずもない。

教会で見た時から変わらない、何人も寄せ付けない存在感。

しかし、放たれた重圧はあの日とは比較にならない。

意識を向けられずとも、ここにいるだけで押し潰さそうだった。

 

男はセイバーから10メートルぐらいの距離で歩みを止めた。

彼女が全力で踏み込めば、黄金の男に斬り込める程度の間合い。

セイバーが浮かべるのは、紛れもなく敵意。

黄金の男はそれに何も動じず、口を薄く開けて笑った。

文とよく似た他者を見下すための笑みだった。

 

「なに、そこでな。煩わしい雨が止むのを待っていたわけだ。セイバー、貴様とは久方ぶりの再会であろう? 我の髪が乱れてはなるまいよ」

 

逆立てた金糸の髪を整えるように触れる。

 

「光栄に思うがいい。これもおまえのためだ」

 

口角を上げて、黄金の男はくつくつと笑う。

自分の言葉は当然の真実であるように、セイバーに告げる。

 

「……貴様」

 

そんな尊大極まる態度に、セイバーは不快感を募らせる。

彼女の感情と呼応するように、聖剣を握る手も強くなっていった。

 

「アーチャー、戯言はそれまでだ! 私の質問に答えろ!」

 

セイバーは、不快感のままに激昂した。

しかし男がセイバーに見せる態度は、敵意や悪意ですらない。

この場には決して相容れない、別の何かだった。

 

そして、これまで文の首筋に宛がった聖剣を男に向けた。

彼女の血で濡れた剣を突き付けられても、男は眉一つも動かさない。

 

「――――」

 

その時、文の瞳が色を帯びた。

曖昧に揺れていた瞳が真紅に染まり、閉じかけた虹彩が大きく開く。

それだけではない。

 

「文――!?」

 

怒りだった。大きな怒りがあった。

理性が砕けた時も、怒りだけは剥き出しにしなかった。

彼女がこんな顔を見せたのは、一度だってない。

空気が震えるほどの殺意を、深い赤の瞳に乗せてセイバーに向けた。

 

そんな究極の殺意を受けても尚、セイバーには気付かない。届かない。

あの男が現れてから剣の少女は、一度たりとも文に目も心も向けなかった。

黄金の男によって、射命丸文の存在がセイバーから消えてしまった。

ほんの少しでも意識が向いていれば、敵対サーヴァントにこんな隙を見せたりはしない。

 

それは、セイバーだけではない。

射命丸文のマスターである俺も、男が現れてから令呪を使うのを忘れていた。

男の存在の大きさに、少し前までの判断が頭から抜け落ちていた。

 

「……クソ。こんな時まで俺は何をやっているんだ」

 

しかし見ようによっては、これはチャンスでもあった。

セイバーの気が男に向いている以上、令呪使用に気づかれる可能性が格段に減る。

考えてみたら、令呪を使用してすぐに文が帰還できるとは限らない。

タイミングとしては、間違いなく今が最高の瞬間。そして、潮時だった。

 

「…………」

 

左手に刻まれた令呪に魔力を込める。

……これが最後の機会だと思って、もう一度だけ彼女の顔を見た。

 

「……なんで、なの?」

 

天狗の少女は、儚げな言葉を漏らしていた。

誰に言うわけでもなく、小さな声。

そして、殺意に波立つ瞳を俺に向けた。

 

「何があっても……令呪を使うな」

 

その言葉は、蚊が鳴くよりも小さかった。

だが彼女の殺意と決意の込められた瞳が、どんな言葉よりも雄弁に語っていた。

 

『令呪を使って、文を幻想郷に返す』

 

そんな俺の企みは、とっくに見抜かれていた。

浅慮だと咎めるように、赤い瞳が俺を責め立てる。

それでも、これからどうすればいいなんて考えるまでもない。

 

彼女の意思を顧みずに、このまま幻想郷に送り出すのが最善。

次善策など存在しない。

令呪を使わない以外の選択は、確実な死が待っている。

セイバーと遠坂、そして黄金の男の意識は、まだこちらには向けられていない。

そうだとしても、もう彼女は瀕死だった。ふとした拍子で命を落とす。

 

当然、文もそれを理解しているはず。

聖剣によって胸を切り開かれて、まともに話すこともままならない。

そんな状態で、ここに残っても何ができるわけでもない。

迷う時間だって、無限ではない。

時間の浪費は少ない選択肢を更に減らし、彼女を確実な死へと近づける。

 

「――――ああ」

 

そんな絶望的な状況にあっても、衛宮士郎は考えてしまった。

『射命丸文の意志を尊重する』という、とびっきり狂った選択を。

……馬鹿げている。

その考えは、どんな道理からも外れている間違いでしかない選択。

 

『思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい』

 

彼女が俺に教えてくれた言葉だった。

『結論を一つにせず、思考を巡らせろ』という選択肢の話。

最善は『令呪を使用して射命丸文の幻想郷への帰還』。

次善策はない。

残った最後の選択肢――『令呪を使わずに彼女とこの場面を乗り切る』。

 

……ああ、本当に馬鹿げている。

遠坂、セイバー、アーチャーと呼ばれた男がいる中でどうやって乗り切る?

不可能だ。俺たちはきっと、抵抗すらもできずに殺される。

 

「だけど、それでも……」

 

俺は射命丸文との関係を、こんな形で終わらせたくなかった。

……どうしようもなく馬鹿げた自己満足だ。

それは掲げた理想からも反した、衛宮士郎という個人の我儘だ。

 

「あ……あ……!」

 

今や言葉も話せなくなった少女の赤い瞳が、激しく俺を糾弾する。

意識を保っているのも、奇跡に等しい出血量。

だが、膝をついたまま倒れない。

そんな状態になっても、彼女が幻想郷への帰還を拒む理由がわからない。

 

それでも死にかけの身体に宿る意志は、馬鹿げたほど直向きだった。

 

 

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