文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
射命丸文は、かつてなく衰弱している。
撫でられただけでも、死んでしまいそうな状態だ。
そんな彼女の首を剣で斬り落とす――。
「――――――」
ドクドクと鼓動が異常なほど早まり、とてもうるさい。
文を連れ出す機会をずっと窺っていたが、事態は最悪なものになってしまった。
これ以上、ここにいるのは耐えられない。
文の助言を巡らせても、全力で走って助け出す以外の選択肢は思い浮かばない。
俺の魔術を使っても、サーヴァントが相手では挑発に終わる。
「は……」
息を殺しながら、一歩だけ文に近づいた。
歩く音だって、うるさく感じてしまう。だが、誰も気づく様子はない。
少しぬかるんではいるが、全力で走るのは問題ない。
……エクスカリバーの剣先が、少しでも男から逸れたら走り出す。
このまま何もせず傍観しているよりも、少しでも助けられる可能性に賭ける。
「そうだな――」
セイバーは、どこか自嘲的に再び死にかけの少女を見る。
そして重く息を吐いたが、それすらも彼女自身に向けたものだった。
そこに文に対しての感情は、何も存在しない。
「アーチャー、あなたの言う通り、私の国にもこのような化生の類はいた。民のために剣を振るったのも一度や二度では足りない。……だが、貴様の言われるがままに行動するのは、どうやら私は存外気に入らないようだ」
セイバーらしくない、感情的な言葉だった。
「言葉が正しいものであろうとも、貴様にだけは従う謂われはない。……いや、違うな。私に命を下せるのは、最初からマスターである凛だけだ!」
彼女の視線も剣の切っ先も、二度と射命丸文に向けられなかった。
黄金の男は呆れるように目を細め、嘆息を吐き出す。
「たわけ――。貴様の考えはそこらの幼童と同じだな。いや、我の威光を受け入れられないようでは、童よりも道理を理解しておらぬわ。……ただな、我にとって今の話も些事に過ぎぬ。これ以上、時間を使うのも下らん。……まあいい。おまえがやらないと言うのなら――我が直接、手を下してやろう」
不意に男は、中空に右手を掲げる。
その時には鍵のような形状をした剣が握られていた。
それがあいつの宝具だろうか。
だが内包している魔力からして、強力な概念武装には見えない。
『――
そう紡ぐ言葉と同時に、背後の空間が歪む。
男の背後の闇が赤色に染まり、水面のように揺れていた。
「な……!?」
誰のものとも知れない驚嘆の声が上がる。
男が背負う真紅の空間に、鋭利な切っ先が浮かんでいた。
それはひとつだけではなく、剣、刀、槍、斧と言った武器の群だった。
数十という、数えるのも愚かしい凶器の軍勢が、揺らぐ水面に浮き立つ。
「あれって、もしかして……」
遠坂の先の言葉は続かなかったが、俺でもわかった。
浮かんだ全ての武器がサーヴァントの宝具と同等か、それ以上の神秘があった。
……あり得なかった。
あり得ないが、あの背後の武器が全て宝具としか考えられない。
「これは我が収集した王の宝よ。そのような醜悪な化物に使うなど、どれであろうと惜しいものばかりだ。しかしな、この世を乱すも正すも、全て人が為すべきこと――。貴様のような余計に過ぎぬ存在は、早々にこの世から消え失せるがいい」
声に従うように背後の軍勢が、少女に矛先を向けた。
「――文!!」
その時、俺の両脚は無意識のうちに動いていた。
自分が死ぬよりも恐ろしい事態の回避のために走った。
全ての思考を放棄して、直線で彼女に向かう。
十秒も掛からないで、文の手を握れる距離――。
「衛宮君!?」
最初に俺の行動に気付いたのは、遠坂だった。
男の剣群を見た時の顔とは別種の驚きを俺に向けていた。
「征け――」
宝具の軍勢の一群が放たれた。
あいつがアーチャーと呼ばれている由来を理解する。
あの男は、ああやって背後の武器を撃ち出して攻撃を行う。
そして吐き出される全てが、伝説を持つ宝具というデタラメ。
射出された数は、四つ。
そのどれか一つであっても、文の絶命は免れない。
投射の角度からして、セイバーの隣で膝を突く彼女だけを狙ったもの。
とても今の文に躱せるものじゃない。
仮に俺が盾になっても、何の意味もないだろう。
その程度で勢いを落とさず、二人とも貫かれて死ぬだけ。
「……は! ……は!」
それ以前に、俺が間に合わない!
射出された宝具よりも速く、彼女の元に辿り着くのは不可能だった。
……ふざけるな。このまま死ぬのを見ているだけなのか!
そんなの絶対に許せるわけがない! 思考をしろ、衛宮士郎!
文が俺に教えてくれたんだ! 悩め悩め思考しろ!!
何か……何か、あるはず……何かが――。
「セイバー! お願い!!」
遠坂らしくない大きな声が聞こえた。
セイバーがマスターの視線の先を追った。そこにいるのは死にかけの少女。
「……わかりました」
翠の瞳が俺を一瞥する。それは明らかに侮蔑だった。
遠坂が叫んだ意味を知り、セイバーの視線の意味も理解する。
『なぜ敵のマスターを助ける必要があるのか』と――。
だが瞳に感情を灯すのも、ほんの一瞬。
遠坂の剣であるセイバーに、疑問はあっても私情を挟む余地はない。
「はぁ――!!」
己の頭上を通過しようとする赤い刀剣を、自身の宝具で叩き付けた。
体重を乗せた大上段でも、剣は勢いを殺せず逸れるだけ。
軌道を外れた赤い剣は、雨で濡れた芝生を貫いて一帯を炎上させた。
宝具に付加された力だった。こんなに色濃い炎は一度だって見たことがない。
残りの宝具も、魔力でブーストされた彼女の剣によって、次々にねじ伏せていく。
そして、四つ全てを迎撃した。
セイバーは文との戦闘の疲れも見せずに、今の剣舞で息の一つも乱していない。
「ほう、流石よな。その魔力、その剣技。少しも衰えてはいないようだ。我が見込んだだけはある。まさに獅子と呼ぶに相応しい女よ」
文を狙ったはずの剣を邪魔されても、男は気にもとめずにいた。
それどころか嬉しそうに顔を歪ませ、セイバーに手放しの賞賛を送る。
しかし男の放った宝具は、たった四つでしかない。
あいつの背後で待機する宝具の数は、ここにいる全員の指を足しても届かない。
もしあれが一斉に射出されれば、俺たちは跡形すらも残らないだろう。
けれど今は、絶望的な状況を分析している場合じゃない。
「文! 文!!」
ようやく、少女の小さな手を握れた。
俺のガラクタの心が、たったそれだけで涙が出そうになる。
二度と放したくないと思った。
今にも崩れ落ちそうな文の手は冷たく、体温というものを感じさせない。
「……文! 大丈夫か!?」
馬鹿な質問だった。だけど、確認せずにはいられなかった。
返事はない。それでも、俯いた少女の瞳は生気を失ってはいない。
セイバーに斬られる直前に浮かべていた諦めの色はどこにもない。
言いたいことは色々とあったが、今ここにいるのは危険だ。
文を背負って、公園の外へ走り出す。
「…………!」
俺の首に回る少女の腕は、信じられないほど力強かった。
『絶対に死ねない』と彼女は心の底から叫んでいた。
「行くぞ」
手を握り返したくなったが、そんな暇はない。
……以前も文を背負ったことがあったが、やはり重さは感じなった。
そうだとも。
千年以上生きたとしても、見た目は成長すらも終えていない子供だった。
「遠坂、助かった……!」
遠坂を通り過ぎる前に、それだけ伝える。
ここにいるのは、他の誰よりも格好いい女の子だった。
同じ学園の同級生であるのを、誇りに思えるぐらいに。
彼女は一見すると呆れていたが、それ以上にさっぱりした顔をしていた。
「はあ、私もなにやってんだか。どう考えてもこんなのは心の贅肉よね。……ま、これで借金を返すどころか、衛宮君に大きな貸しを作れたし。よしとしますか」
少しだけ意地の悪い少女の声を聞きながら、俺は全力で走った。
「……本当にありがとう、遠坂」
俺は、また感謝を呟いた。
それは、決して遠坂には届かない言葉。だけど、今はそれでもいい。
次に感謝を伝えるのは、何もかもが終わってからだ。
一生を使っても返せない貸しを彼女に作ってしまった。
◇
「ハァ、ハァ、ハァ――」
少女の重みを背中に感じ、ただ走る。
遊具が一つもない公園を、ここまで恨めしいと思ったことはない。
身を隠す場所もなく、全力疾走で距離を取るだけ。
速く走るほど身体は大きく揺れる。
セイバーから受けた傷に響くだろうが、ここで速度を落とすわけにはいかなかった。
ぬかるむ土に足を取られそうになるも、何があっても転倒はできない。
このペースを乱せば、確実に命を落とす。
どれだけ距離を離そうと、外気の冷たさに匹敵する視線から逃げられない。
男の放つ魔射の射程からは、今も逃れ切れていない。
「滑稽なほど無駄な足掻きだ、雑種。我が殺すと決めた以上、貴様らの死は絶対だ。疾く死ぬといい」
男とは50メートルぐらい離れたはず。
それなのに、あいつの声は目の前で告げられたように鼓膜を響かせた。
向けられた殺意が、冷たく背中を刺す。
それはおそらく、俺の背中に宝具の一群を向けられたもの。
どれだけ速く走ろうとも、あの宝具を躱せない。
「こんなところで……終わらせるか! 死ぬものか! 文を死なせるか!」
自らを鼓舞する言葉は意味を得ず、背後の殺意に飲まれてしまう。
周囲に身を守れる遮蔽物はない。
いや、そもそもあの剣群を前に遮蔽物など意味もない。容易く貫き、俺たちを殺し尽くす。
「……私を前にして、他に剣を向けるとは随分と余裕だな、アーチャー」
セイバーの声は、怒気を感じさせるものだった。
剣を持った自分を前にして、相手にされないのを侮辱と感じている。
「何を言い出すのかと思えば、そのようなことか。王たるもの、如何なる時でも余裕であるもの。国を統べる存在とは、絶対の超越者でなければならぬ。でなければ、民も家臣も支配できぬわ。――ク、ハハハ、そうか! お前はその余裕の無さから、国が滅びたのだったな!! フ、ハハ、ハハハハハハ!」
王後の男の哄笑が、夜の公園を支配した。
「アーチャー! 貴様……!!」
大気を大きく揺らす、セイバーの怒り。
かつてない少女の憤激を受けても尚、男は笑うのを止めない。
彼女の怒りなど、些末であるように嘲笑う。
「貴様ァァ!!」
直後――鋭い金属が衝突する音が響いた。
振り向かなくても、何が起きたのかは明白。
セイバーが、男に向かって斬り掛かったのだ。
再び戦闘が始まった。
だが、その戦いに気を取られている余裕はない。
この一瞬だけが、公園から逃げおおせる唯一のチャンス。
セイバーが奏でる剣戟を背に、公園を駆け抜ける。
これは間違いなく、敗走だった。
正義の味方を目指すなら、逃げ出してはいけない戦い。
当然、俺がいたところで、ただ殺されるだけ。
だが、何もやらないのが問題だった。
爺さんから託された夢を追うならば、ただ一度の敗走だって許してはいけない。
でも今は、俺の背中に文がいた。雨と、自らの血で全身を濡らしていた。
熱を少しでも奪われないように身体を震わせ、寒さに耐え続けている。
生き足掻こうとする腕の力は、少しだって失われていない。
だったら俺は何もかもを捨て、彼女を助けることだけを優先する。
彼女に死なれるのが、怖くて仕方がなかった。
文を生かすためには、この敗走だって絶対に間違っていない。
そして、気付いた時には剣戟の音は聞こえなくなっていた。