文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
寒夜の極限まで冷え切った空気を肺に吸い込む。
疲労の溜まった身体はそれ以上の酸素を求めるが、限界まで吸う必要はない。
人の身体は無意識のうちに、吐いた分だけ吸うようにできている。
大きく呼吸は、余計な疲れを招くだけだ。
新都の夜は、人気もなく不気味なほど静かだった。
今はもう止んでいるが、冬の凍てつく風雨には誰も触れたくないのだ。
雨に濡れて、夜と同じ色まで黒ずんだアスファルトの上を走る。
俺の背中にいる少女の呼吸の乱れは、公園の時より収まっている。
それでも、寒さに震えていた。
俺の肩に置かれた腕は、外気と同じぐらい冷たくなり死人と変わらない。
だけどその腕の力は、一度だって抜けずに生きる意志を感じた。
こうして戦線から逃げ出した今、これからなんて何も決まってはいない。
だが文が諦めずにいる以上、俺はすべてを差し出す覚悟でいる。
彼女が必要と言うのであれば、血の一滴すらも残さず捧げてしまってもいい。
「……寒いな」
150メートルの高さを誇る冬木センタービルが、こちらをじっと見下ろしてる。
新都と深山の境界線である冬木大橋まであと少し。
ここまで来れば、もう逃げ切れたと考えていいはず。
いや、逃げ切れたのではない。遠坂とセイバーに逃がしてもらったのだ。
今この瞬間もセイバーは、アーチャーと呼ばれた男と戦闘中だろう。
あのアーチャーの攻撃手段は、これまでの聖杯戦争を覆すものだった。
弓を用いずに、無数の宝具を虚空に展開して対象に放つ。
その宝具の一つ一つが、ただの一撃でサーヴァントを屠る威力を秘めている。
これまでずっとサーヴァントの戦闘能力に驚かされたが、誰もあのアーチャーとは比肩できない。
それだけ強さの規模が抜きん出ていた。
バーサーカーの『十二の試練』ですら、あいつが相手だとどうにもならないだろう。
それでもセイバーが、簡単に負けるとは思えない。
ライダーとバーサーカーを倒した射命丸文を、セイバーは余力を残し退けた。
文との戦闘による消耗はあるが、彼女は『
アーチャーが使う剣群の中にも、エクスカリバーと同等以上のものはなかった。
そして、宝具とは聖剣の担い手のみが開放ができる。
アーチャーの宝具による剣群だって、聖剣の光によって飲み込まれるだろう。
……そこには希望的観測も、含まれているかもしれない。
勝手な想像であっても、俺たちを助けてくれた彼女の負けを考えたくはなかった。
そう、遠坂は俺たちを助けてくれた。
いや、うぬぼれで無ければ、遠坂は『俺を』助けてくれた。
あの時、あの男が現れなければ、セイバーは間違いなく文を殺していた。
これは確実だ。あんな状況にならなければ、絶対に見逃さなかった。
だけど彼女は俺だけではなく、倒すべき敵である文も魔射から守ってくれた。
本来殺す予定の相手を、わざわざ助けてくれた。
……それはどうしてか。
セイバーによると遠坂は『俺を殺す予定はなかった』と言っていた。
それに文を倒した後、聖杯戦争の記憶を奪うとも。
それは俺からすれば、恐怖でしかない。だが、遠坂には最善だった。
……もし文をアーチャーに殺されていたら、俺はどうなっていたか。
十中八九、逆上して男に立ち向かっていた。そして、為す術なく殺された。
……もしかしたら、それすらも見越して文も助けてくれたのか。
それなら遠坂は俺の命だけではなく、俺のガラクタの心まで救ってくれたことになる。
俺にとって、遠坂は憧れの対象だ。
でも遠坂からしたら、俺なんて同級生の一人でしかない。死んだとしても、困りはしない。
遠坂凛という少女は自分で言うほど、非情な魔術師に徹し切れてはいない。
だけど彼女は、その甘さに付け込まれても物ともしない。
そんな才能と実力がある。
聖杯戦争を最後まで勝ち抜けるのは、彼女のような強かな人物だ。
……こうやって、逃げ出してしまった俺が言えた義理ではない。
願うことだって、無責任で身勝手なものでしかない。
それでも、俺は遠坂に聖杯戦争を勝ち残って欲しいと思った。
◇
冬木大橋は町と町を繋ぐ橋だけあって、こんな時間帯でも車の往来はある。
ただ歩道は車道から目立たない位置に敷かれており、車から俺たちの姿が見られる心配はない。
だから魔力で強化した視力で、歩道を対岸まで確認する。
俺は重傷の女の子を背負っている。万が一にも目撃されるわけにはいかない。
「ふう……」
確認が終わって橋の歩道に足を踏み入れたところで、徐々に走るペースを落としていった。
体力的にはまだ可能だったが、これ以上走れば文の体力を消耗させるだけ。
早く家に戻って、彼女の手当てをしたい。
耳元から聞こえる少女の吐息を聞いていると、気持ちはどうしても焦ってしまう。
妖怪である彼女にとって、普通の傷なら半日足らずで完治する。
それこそ、目で見てわかるぐらいの速度で治っていく。
人間と本質から別種の生き物であるのを、否が応でも理解してしまう。
逆に英雄によって受けた傷。
伝承で魔物を討ち滅ぼした英雄からの攻撃は、妖怪にとって猛毒になる。
そして、二人の決着をつけたエクスカリバーによる攻撃。
射命丸文という妖怪を殺すための一撃。
たとえ刃傷が命を奪うほどじゃなくても、聖杯戦争中での完治は絶望的だ。
だからもう、文は戦えない。
これ以上は無茶させないよう、寝床に縛ってでも治療だけに専念させよう。
「士郎さん……」
背後からの声に、思案から呼び起こされる。
「文、起きたのか?」
俺のすぐ耳元で、何度も聞いた少女の声。
顎を肩に乗せているため、囁き程度でもはっきりと聞き取れた。
でもこの体勢では、顔を見るのは難しい。
そうであっても、彼女の声を聞いて心から安堵した。
公園では会話すらも難しかったが、この短時間で多少は回復したのだろう。
「いえ、ずっと起きてました」
「そうか」
公園からここまで、規則的な呼吸を繰り返すだけだった。
だから寝ていたと勘違いしていた。
声量は小さかったが、声色には苦痛は感じさせない。
「傷は……大丈夫なのか?」
彼女からしたら、とても馬鹿らしい質問だ。剣で胸を開かれて、大丈夫なはずがない。
でも俺が彼女にしてやれるのは、そんな安否の確認だけだった。
「ちょっとキツいですね。泣けてくるほど力が入りません。いやはや、こんなに痛い思いをしたのも、どれぐらいぶりでしょうか。……立っていられないほどの傷なんて、生まれて初めてかもです。バーサーカーに翼をもがれた時もそうでしたが、ここに来てから痛い思いをしてばっかりですよ」
自分に呆れたように乾いた笑みを溢した。
饒舌とも言える調子ではあったが、聞いているだけで胸が詰まってしまう。
「あれだけの大見得を切ったのに、士郎さんには随分と格好悪いところを見せてしまいました。今まで何かにつけて格好つけてたから、とても情けなかったです。とても恥ずかしかったです。……しょんぼり射命丸です」
……俺は、なんと返せばいいのだろうか。
気の利いた言葉は、何一つ思い浮ばなかった。
しかしどんな言葉を連ねても、彼女には慰めにもなりはしない。
それ以前に彼女の心を裏切った俺は、何かを言える立場じゃなかった。
「……………………」
沈黙が続いた。
300メートルほどの冬木大橋も、まだ中間程度しか進んでいない。
「実を言うと……最後に私を斬ったセイバーの剣。躱そうと思えば躱せました」
ぽつりと少女が呟く。
……あの瞬間、確かに違和感があった。
文は回避をせず諦めたような様子で、セイバーの剣を受け入れていた。
「嘘じゃないよな……」
「はい、嘘じゃありません。もしあそこで回避しても、どのみち負けていたでしょうけど」
文の言う通り、あのまま戦っていても聖剣を拾われた時点で勝ちの目はなかった。
長引けば宝具の解放によって、殺されていたかもしれない。
「あの時、私は死んでいいと思った。死の恐怖を塗り潰す高揚が、私を満たしました。だから死ぬ覚悟はできていたんです。…………私が千年以上も生きていたのは、彼女のような存在に滅ぼされるためだと。幻想郷でただ生き永らえるなら、死力を尽くして人の手で討たれるのも悪くない。そう思いました」
少女の身体は、失血と雨に打たれたせいで冷え切っている。
だがセイバーによって斬られた傷が少しずつ熱を帯び始めてた。
彼女の熱を持った血が俺の背中まで滲んでいた。
このまま小さな身体のなかの血を、全て流してしまうじゃないのかと。
そう思った時――。
「ぐ……文……!?」
突如、俺の肩を尋常じゃない力で掴まれた。
肩が握り潰されてしまいそうだった。
痛みのあまり、歩くのすらもままならない。
「でも――あの男が現れた瞬間、私は忘れられた。私の存在の全てが、彼女の意識の外へと抜け落ちた。……あんなたった一瞬で、私の存在は塵芥になった! それどころか、こともあろうに私を救うだと! どこまで舐めれば気が済む!!」
全てを絞り出すように、少女が怒声を吐き出していく。
死にかけているとは思えないほどの握力。
肩の骨が砕かれるほどの激痛。
ミシミシと軋んでいく鎖骨の音が伝導して、俺の内耳を震わせている。
しかしその軋む音以上の絶叫が、俺の脳と心臓を震わせた。
「……許せるか! 絶対に許してなるものか!! 私を、天狗を、ああも埒外に見下すだと……! ふざけるな!! あのガキが、生きたまま腑分けにしてやる!! 豚のように泣き叫ぼうとも、五臓六腑を喰らい尽くしてくれる!!」
文飾に彩られた言葉ではなく、感情のままに吐き出された叫喚。
人としての本能が、彼女の怒りに脳髄を痺れさせ、足を竦ませる。
彼女に恐怖心を感じるのは、これで何度目になるか。
何も知らなければ、恐怖に取り込まれて発狂していたかもしれない。
だが俺はそんな感情よりも、同情や憐憫が勝ってしまった。
「う、ううあああああああ…………!!!」
……文が吐き出したもの。それは、憤怒ではなく慟哭だった。
少女は、怒りをぶつけているのではない。
怒りすら凌駕する、魂の声を喚き散らしている。
命を差し出すのに相応しいと思った相手に無視された。
セイバーの中で、射命丸文が無価値になってしまった。
そんな敵だったはずの存在に、命すらも救われてしまった。
それが彼女にとって、俺の前で吐き出すほどつらく悔しかった。
人々に忘れ去られて、この世界からも消えてしまった妖怪。
彼女が感じている怒りと恐怖を、俺は少しだけ理解できたかもしれない。
「文……」
気付けば、俺は彼女の名前を呼んでいた。
そんな中身のない声に反応するように、肩を握る力が弱くなる。
強い痛みが両肩に残ったが、そんなのどうだっていい。
ポタリと、暖かな雫が首筋を打った――。
雫の正体はすぐに気付けた。だけど。
「……泣いてなんかいませんよ。また雨なんじゃないですか?」
雨は止んでから、もう随分と久しい。
だけど少女は泣いてないと言った。だったら、これは雨なんだろう。
「ごめんなさい。ちょっとだけ、こうさせてください……。今日は酷く、疲れました。……それと令呪を使わないでくれて、ありがとう……」
彼女は顔を誰にも見られないように、痛みが残る肩に顔をうずめた。
湿り気を含んだ黒髪が首筋に触れて、くすぐったさを感じる。
少女は、眠ったわけではなかった。
冬木の夜が、かつての沈黙を取り戻す。
聞こえるのは、水かさが増した未遠川の音。たまに橋を渡る車の音。
それに混じって小夜烏のなき声が、微かに聞こえた。
聖杯戦争の夜は、終わりそうもない。