文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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56.小夜烏の声

 

 

寒夜の極限まで冷え切った空気を肺に吸い込む。

 

疲労の溜まった身体はそれ以上の酸素を求めるが、限界まで吸う必要はない。

人の身体は無意識のうちに、吐いた分だけ吸うようにできている。

大きく呼吸は、余計な疲れを招くだけだ。

 

新都の夜は、人気もなく不気味なほど静かだった。

今はもう止んでいるが、冬の凍てつく風雨には誰も触れたくないのだ。

雨に濡れて、夜と同じ色まで黒ずんだアスファルトの上を走る。

 

俺の背中にいる少女の呼吸の乱れは、公園の時より収まっている。

それでも、寒さに震えていた。

俺の肩に置かれた腕は、外気と同じぐらい冷たくなり死人と変わらない。

だけどその腕の力は、一度だって抜けずに生きる意志を感じた。

 

こうして戦線から逃げ出した今、これからなんて何も決まってはいない。

だが文が諦めずにいる以上、俺はすべてを差し出す覚悟でいる。

彼女が必要と言うのであれば、血の一滴すらも残さず捧げてしまってもいい。

 

 

「……寒いな」

 

150メートルの高さを誇る冬木センタービルが、こちらをじっと見下ろしてる。

新都と深山の境界線である冬木大橋まであと少し。

ここまで来れば、もう逃げ切れたと考えていいはず。

いや、逃げ切れたのではない。遠坂とセイバーに逃がしてもらったのだ。

今この瞬間もセイバーは、アーチャーと呼ばれた男と戦闘中だろう。

 

あのアーチャーの攻撃手段は、これまでの聖杯戦争を覆すものだった。

弓を用いずに、無数の宝具を虚空に展開して対象に放つ。

その宝具の一つ一つが、ただの一撃でサーヴァントを屠る威力を秘めている。

これまでずっとサーヴァントの戦闘能力に驚かされたが、誰もあのアーチャーとは比肩できない。

それだけ強さの規模が抜きん出ていた。

バーサーカーの『十二の試練』ですら、あいつが相手だとどうにもならないだろう。

 

それでもセイバーが、簡単に負けるとは思えない。

ライダーとバーサーカーを倒した射命丸文を、セイバーは余力を残し退けた。

文との戦闘による消耗はあるが、彼女は『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を残している。

アーチャーが使う剣群の中にも、エクスカリバーと同等以上のものはなかった。

そして、宝具とは聖剣の担い手のみが開放ができる。

アーチャーの宝具による剣群だって、聖剣の光によって飲み込まれるだろう。

……そこには希望的観測も、含まれているかもしれない。

勝手な想像であっても、俺たちを助けてくれた彼女の負けを考えたくはなかった。

 

そう、遠坂は俺たちを助けてくれた。

いや、うぬぼれで無ければ、遠坂は『俺を』助けてくれた。

あの時、あの男が現れなければ、セイバーは間違いなく文を殺していた。

これは確実だ。あんな状況にならなければ、絶対に見逃さなかった。

だけど彼女は俺だけではなく、倒すべき敵である文も魔射から守ってくれた。

本来殺す予定の相手を、わざわざ助けてくれた。

 

……それはどうしてか。

セイバーによると遠坂は『俺を殺す予定はなかった』と言っていた。

それに文を倒した後、聖杯戦争の記憶を奪うとも。

それは俺からすれば、恐怖でしかない。だが、遠坂には最善だった。

……もし文をアーチャーに殺されていたら、俺はどうなっていたか。

十中八九、逆上して男に立ち向かっていた。そして、為す術なく殺された。

 

……もしかしたら、それすらも見越して文も助けてくれたのか。

それなら遠坂は俺の命だけではなく、俺のガラクタの心まで救ってくれたことになる。

俺にとって、遠坂は憧れの対象だ。

でも遠坂からしたら、俺なんて同級生の一人でしかない。死んだとしても、困りはしない。

 

遠坂凛という少女は自分で言うほど、非情な魔術師に徹し切れてはいない。

だけど彼女は、その甘さに付け込まれても物ともしない。

そんな才能と実力がある。

聖杯戦争を最後まで勝ち抜けるのは、彼女のような強かな人物だ。

……こうやって、逃げ出してしまった俺が言えた義理ではない。

願うことだって、無責任で身勝手なものでしかない。

 

それでも、俺は遠坂に聖杯戦争を勝ち残って欲しいと思った。

 

 

 

 

冬木大橋は町と町を繋ぐ橋だけあって、こんな時間帯でも車の往来はある。

ただ歩道は車道から目立たない位置に敷かれており、車から俺たちの姿が見られる心配はない。

だから魔力で強化した視力で、歩道を対岸まで確認する。

俺は重傷の女の子を背負っている。万が一にも目撃されるわけにはいかない。

 

「ふう……」

 

確認が終わって橋の歩道に足を踏み入れたところで、徐々に走るペースを落としていった。

体力的にはまだ可能だったが、これ以上走れば文の体力を消耗させるだけ。

早く家に戻って、彼女の手当てをしたい。

耳元から聞こえる少女の吐息を聞いていると、気持ちはどうしても焦ってしまう。

 

妖怪である彼女にとって、普通の傷なら半日足らずで完治する。

それこそ、目で見てわかるぐらいの速度で治っていく。

人間と本質から別種の生き物であるのを、否が応でも理解してしまう。

逆に英雄によって受けた傷。

伝承で魔物を討ち滅ぼした英雄からの攻撃は、妖怪にとって猛毒になる。

そして、二人の決着をつけたエクスカリバーによる攻撃。

射命丸文という妖怪を殺すための一撃。

たとえ刃傷が命を奪うほどじゃなくても、聖杯戦争中での完治は絶望的だ。

だからもう、文は戦えない。

これ以上は無茶させないよう、寝床に縛ってでも治療だけに専念させよう。

 

「士郎さん……」

 

背後からの声に、思案から呼び起こされる。

 

「文、起きたのか?」

 

俺のすぐ耳元で、何度も聞いた少女の声。

顎を肩に乗せているため、囁き程度でもはっきりと聞き取れた。

でもこの体勢では、顔を見るのは難しい。

そうであっても、彼女の声を聞いて心から安堵した。

公園では会話すらも難しかったが、この短時間で多少は回復したのだろう。

 

「いえ、ずっと起きてました」

「そうか」

 

公園からここまで、規則的な呼吸を繰り返すだけだった。

だから寝ていたと勘違いしていた。

声量は小さかったが、声色には苦痛は感じさせない。

 

「傷は……大丈夫なのか?」

 

彼女からしたら、とても馬鹿らしい質問だ。剣で胸を開かれて、大丈夫なはずがない。

でも俺が彼女にしてやれるのは、そんな安否の確認だけだった。

 

「ちょっとキツいですね。泣けてくるほど力が入りません。いやはや、こんなに痛い思いをしたのも、どれぐらいぶりでしょうか。……立っていられないほどの傷なんて、生まれて初めてかもです。バーサーカーに翼をもがれた時もそうでしたが、ここに来てから痛い思いをしてばっかりですよ」

 

自分に呆れたように乾いた笑みを溢した。

饒舌とも言える調子ではあったが、聞いているだけで胸が詰まってしまう。

 

「あれだけの大見得を切ったのに、士郎さんには随分と格好悪いところを見せてしまいました。今まで何かにつけて格好つけてたから、とても情けなかったです。とても恥ずかしかったです。……しょんぼり射命丸です」

 

……俺は、なんと返せばいいのだろうか。

気の利いた言葉は、何一つ思い浮ばなかった。

しかしどんな言葉を連ねても、彼女には慰めにもなりはしない。

それ以前に彼女の心を裏切った俺は、何かを言える立場じゃなかった。

 

「……………………」

 

沈黙が続いた。

300メートルほどの冬木大橋も、まだ中間程度しか進んでいない。

 

「実を言うと……最後に私を斬ったセイバーの剣。躱そうと思えば躱せました」

 

ぽつりと少女が呟く。

……あの瞬間、確かに違和感があった。

文は回避をせず諦めたような様子で、セイバーの剣を受け入れていた。

 

「嘘じゃないよな……」

「はい、嘘じゃありません。もしあそこで回避しても、どのみち負けていたでしょうけど」

 

文の言う通り、あのまま戦っていても聖剣を拾われた時点で勝ちの目はなかった。

長引けば宝具の解放によって、殺されていたかもしれない。

 

「あの時、私は死んでいいと思った。死の恐怖を塗り潰す高揚が、私を満たしました。だから死ぬ覚悟はできていたんです。…………私が千年以上も生きていたのは、彼女のような存在に滅ぼされるためだと。幻想郷でただ生き永らえるなら、死力を尽くして人の手で討たれるのも悪くない。そう思いました」

 

少女の身体は、失血と雨に打たれたせいで冷え切っている。

だがセイバーによって斬られた傷が少しずつ熱を帯び始めてた。

彼女の熱を持った血が俺の背中まで滲んでいた。

このまま小さな身体のなかの血を、全て流してしまうじゃないのかと。

そう思った時――。

 

「ぐ……文……!?」

 

突如、俺の肩を尋常じゃない力で掴まれた。

肩が握り潰されてしまいそうだった。

痛みのあまり、歩くのすらもままならない。

 

「でも――あの男が現れた瞬間、私は忘れられた。私の存在の全てが、彼女の意識の外へと抜け落ちた。……あんなたった一瞬で、私の存在は塵芥になった! それどころか、こともあろうに私を救うだと! どこまで舐めれば気が済む!!」

 

全てを絞り出すように、少女が怒声を吐き出していく。

死にかけているとは思えないほどの握力。

肩の骨が砕かれるほどの激痛。

ミシミシと軋んでいく鎖骨の音が伝導して、俺の内耳を震わせている。

しかしその軋む音以上の絶叫が、俺の脳と心臓を震わせた。

 

「……許せるか! 絶対に許してなるものか!! 私を、天狗を、ああも埒外に見下すだと……! ふざけるな!! あのガキが、生きたまま腑分けにしてやる!! 豚のように泣き叫ぼうとも、五臓六腑を喰らい尽くしてくれる!!」

 

文飾に彩られた言葉ではなく、感情のままに吐き出された叫喚。

人としての本能が、彼女の怒りに脳髄を痺れさせ、足を竦ませる。

彼女に恐怖心を感じるのは、これで何度目になるか。

何も知らなければ、恐怖に取り込まれて発狂していたかもしれない。

だが俺はそんな感情よりも、同情や憐憫が勝ってしまった。

 

「う、ううあああああああ…………!!!」

 

……文が吐き出したもの。それは、憤怒ではなく慟哭だった。

少女は、怒りをぶつけているのではない。

怒りすら凌駕する、魂の声を喚き散らしている。

命を差し出すのに相応しいと思った相手に無視された。

セイバーの中で、射命丸文が無価値になってしまった。

そんな敵だったはずの存在に、命すらも救われてしまった。

それが彼女にとって、俺の前で吐き出すほどつらく悔しかった。

 

人々に忘れ去られて、この世界からも消えてしまった妖怪。

彼女が感じている怒りと恐怖を、俺は少しだけ理解できたかもしれない。

 

「文……」

 

気付けば、俺は彼女の名前を呼んでいた。

そんな中身のない声に反応するように、肩を握る力が弱くなる。

強い痛みが両肩に残ったが、そんなのどうだっていい。

 

ポタリと、暖かな雫が首筋を打った――。

雫の正体はすぐに気付けた。だけど。

 

「……泣いてなんかいませんよ。また雨なんじゃないですか?」

 

雨は止んでから、もう随分と久しい。

だけど少女は泣いてないと言った。だったら、これは雨なんだろう。

 

「ごめんなさい。ちょっとだけ、こうさせてください……。今日は酷く、疲れました。……それと令呪を使わないでくれて、ありがとう……」

 

彼女は顔を誰にも見られないように、痛みが残る肩に顔をうずめた。

湿り気を含んだ黒髪が首筋に触れて、くすぐったさを感じる。

少女は、眠ったわけではなかった。

 

冬木の夜が、かつての沈黙を取り戻す。

聞こえるのは、水かさが増した未遠川の音。たまに橋を渡る車の音。

それに混じって小夜烏のなき声が、微かに聞こえた。

 

聖杯戦争の夜は、終わりそうもない。

 

 

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