文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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60.残されたカード

 

 

――耳鳴りが止まらない。

 

遠坂凛を、取り巻く音。

雨に濡れたアスファルトを叩く足音、不規則な呼吸、波打つ心臓の鼓動。

そして、頭から爪先まで伝播する大きな耳鳴り。

内耳から脳に至る聴覚経路が神経に触れて、不快な音を立てている。

戦場から抜け出した今も、そんな騒音が彼女を苦しめていた。

 

夜明けまで、あと数時間と迫った夜半。

凛は冬木中央公園から深山の遠坂邸まで、ただひたすらに走っていた。

もう公園を抜けてから、かなりの時間が経っている。

ギルガメッシュが追ってくる気配はない。

逃げ切れたと考えても良いのか。いや、それは違うと彼女は考えた。

 

(そもそも金ピカは、私なんて眼中にもなかった)

 

ギルガメッシュにとって、遠坂凛はどういった存在であったか。

彼女は才能、実力ともに恵まれた魔術師だ。それは、紛れもない事実。

しかし英雄王からすれば、セイバーを現界させるために必要な道具でしかなかった。

だとしたら、セイバーが消失した今、彼女を生かす価値などない。

それは裏を返せば、殺す価値もないということ。

 

――逃げ切ったのではない。

元より彼女は、ギルガメッシュに相手にされていなかった。

初めから追われてもいない。だから走る必要もなかった。

だけど、少女は走るのを止められなかった。

ギルガメッシュに対する恐怖心からではない。

どろどろした負の感情が、胸のなかで燻っていた。

相手にされなかった悔しさはある。

だが、そのおかげでこうして生きていられる。

それに対して、どこか心の底でホッとしていた。

 

彼女は、愕然とした。

それに気づいた途端、自分の存在がとても卑しく思えた。

『常に優雅であれ』という遠坂家の家訓にも背いてしまっている。

何よりも、自分のために戦ってくれたセイバーに顔向けができない。

 

(でもそんなの、彼女を置き去りにした時点でわかっていたことよね……)

 

命を賭して、ギルガメッシュに挑んだセイバーを見捨てた。

ここまでの道すがら、何度となく思った。

無謀を承知で、英雄王に挑むことはできただろうか、と――。

出力は落ちたが、ギルガメッシュは『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を至近距離で受けていた。

そのダメージは、計り知れない。

手持ちの宝石を全て使えば、一矢報いることができたかもしれない。

だが、彼女はそれをしなかった。

如何なる状況であっても、遠坂凛は勝てない戦いをする性分ではない。

それに一矢報いたところで何になる? 倒さなければ意味がない。

冬木のセカンドオーナーである以上、そんな時でこそ冷静でいなければならない。

 

男の目的は、未だ不明。

セイバーに執着していたが、彼女も自らの手で葬っている。

真名と10年前の聖杯戦争に参加したこと以外は、何一つわかっていない。

そして、これまで相対したどのサーヴァントよりも、規格外の力を持っている。

本来の定数である六体のサーヴァントは、既に倒された。

聖杯は十分に満ちているだろうが、今のところ顕現する気配はない。

それが意味することは、ただ一つだけ。

聖杯戦争は、サーヴァントが残り一騎になるまで終わらない。

 

もしギルガメッシュが聖杯を手に入れたら、ろくな使い方はされないはず。

他者を顧みない、傲岸不遜を体現したような男だった。

今回の聖杯戦争を抜きにしても、このまま野放しにしていい存在ではない。

そして、マスターの存在も不明。

受肉したサーヴァントであるなら、マスターの存在は不要だ。

既に死んでいるかもしれないし、そうでなくとも冬木にいない可能性ある。

ただそれは『かもしれない』という仮定。結局は何もわかっていない。

だったら、最悪の事態に備えるしかない。

聖杯戦争の原則から外れた、八騎目のサーヴァントが現れた。

これから先、何が起こっても不思議ではない。

 

(あんなやつが出てきた以上、やらなきゃいけないことが沢山ある……!)

 

しかし、凛は思った。

それは、セイバーを捨て駒にするほどの価値はあったのか、と。

遠坂凛の選んだ道は、この地の管理者として魔術師として、間違った判断ではない。

だがそれは、人間らしさとは無縁のもの。

勿論、凛はそんな『人間らしさ』よりも『魔術師』としての生き方を選んだつもりだった。

魔術師として生きる以上、人並みの感傷なんて不要なもの。

そう思っていた。だけど。

己を責め立てるような耳鳴りは、未だに止まらない。

途端、鼻の奥につんとした痛みが走った。

その痛みによって、涙腺がかつてないほど緩みそうになった。

(…………これを感傷と言わずなんと言うのかしらね)

 

だけど、泣くわけにいかない。

泣けば泣いた分だけ思考がぶれる。ただの逃避行動でしかない。

泣くことで発生する脳内のエンドルフィンが、一時的に気持ちを静めるだけ。

それは、有りもしない快楽に逃げていると変わらない。

 

泣いてはいけない。感情的になってはいけない。

そもそも、そんな資格は有りはしない。

セイバーがギルガメッシュに殺された瞬間、遠坂凛の魔術師としての顔が表面化した。

他者を顧みない利己的で冷徹な性質が、こうして彼女を生き長らえさせた。

今になって、涙を流すなんて甘えを許せない。

凛が、セイバーを見捨て逃げ出したのは覆しようもない事実。

泣いてはいけない。絶対に。絶対に。

 

 

 

 

遠坂凛が自宅の屋敷に着いた頃、吐き出す息は白さを増していた。

肩で息を繰り返しており、酸欠によって今にも気を失いそうだった。

深山町の自宅まで一歩も休むことなく、内罰的に走り通した結果だ。

呼吸を整えて、玄関扉を魔術によって解錠する。

 

「……あっ」

 

家に入ろうとした時、入口の段差に躓きそうになった。

こんなことで転んだら、情けなさのあまり笑い話にもならない。

傘もささずに冷たい雨に濡れて、二度もサーヴァントの戦いに身を投じた。

彼女が思っていた以上に、身体は疲れ切っていた。

 

「シャワー浴びたいわね……」

 

赤い上着とスカートは、重く感じるほど雨を吸っている。

熱いシャワーを浴びれば、この纏わりつく不快感から解放されるだろうか。

そう考えたが、そんな時間はないのはわかっていた。

自覚できるほど心身ともに疲れている。だけど今はまだ休む時じゃない。

次に休むのは、すべてが終わってからだ。

彼女は、これから自分が何をすべきか心に決めていた。

もしかしなくても、これは間違った判断なのかもしれない。

だけど、他に方法が思いつかなかった。

 

地下室へと足を運ぶ。

石壁と石畳で造られた部屋は、どこか厳かな雰囲気があった。

部屋の奥に、サーヴァント召喚に使った召喚陣が変わらない姿のままある。

溶解した宝石によって描かれた、遠坂家に伝わる召喚陣。

 

その傍らには、一本の短剣があった。

柄手が短いのが特徴的な、白い短剣だった。

積み重ねた時代を感じさせる姿ではあったが、錆は一つも浮いていない。

 

「……セイバー」

 

顔に悲嘆を浮かべ、少女は少し躊躇いながら短剣を手に取った。

これが遠坂凛に残された最後のカード。ほかのカードは残らず使い切った。

 

だが、彼女はこのカードを切る資格を持っていない。

聖杯戦争のマスターは、サーヴァントを失おうが身体から令呪は消失しない。

未だ一画の令呪が彼女の右腕に刻まれている。

こうして凛が生きている以上、聖杯戦争の参加資格は残っていた。

 

しかし、少女の細腕に、この短剣は余りにも重すぎた。

短剣を持ち上げた右手が震えてしまって、落としそうになる。

震えを抑えようと、自らの身体を抱く。それでも止まらなかった。

 

「う、うぅぅ……セイバー……ごめんなさい……」

 

彼女の手にはもう、キングのカードは存在しない。

 

 

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