文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
――耳鳴りが止まらない。
遠坂凛を、取り巻く音。
雨に濡れたアスファルトを叩く足音、不規則な呼吸、波打つ心臓の鼓動。
そして、頭から爪先まで伝播する大きな耳鳴り。
内耳から脳に至る聴覚経路が神経に触れて、不快な音を立てている。
戦場から抜け出した今も、そんな騒音が彼女を苦しめていた。
夜明けまで、あと数時間と迫った夜半。
凛は冬木中央公園から深山の遠坂邸まで、ただひたすらに走っていた。
もう公園を抜けてから、かなりの時間が経っている。
ギルガメッシュが追ってくる気配はない。
逃げ切れたと考えても良いのか。いや、それは違うと彼女は考えた。
(そもそも金ピカは、私なんて眼中にもなかった)
ギルガメッシュにとって、遠坂凛はどういった存在であったか。
彼女は才能、実力ともに恵まれた魔術師だ。それは、紛れもない事実。
しかし英雄王からすれば、セイバーを現界させるために必要な道具でしかなかった。
だとしたら、セイバーが消失した今、彼女を生かす価値などない。
それは裏を返せば、殺す価値もないということ。
――逃げ切ったのではない。
元より彼女は、ギルガメッシュに相手にされていなかった。
初めから追われてもいない。だから走る必要もなかった。
だけど、少女は走るのを止められなかった。
ギルガメッシュに対する恐怖心からではない。
どろどろした負の感情が、胸のなかで燻っていた。
相手にされなかった悔しさはある。
だが、そのおかげでこうして生きていられる。
それに対して、どこか心の底でホッとしていた。
彼女は、愕然とした。
それに気づいた途端、自分の存在がとても卑しく思えた。
『常に優雅であれ』という遠坂家の家訓にも背いてしまっている。
何よりも、自分のために戦ってくれたセイバーに顔向けができない。
(でもそんなの、彼女を置き去りにした時点でわかっていたことよね……)
命を賭して、ギルガメッシュに挑んだセイバーを見捨てた。
ここまでの道すがら、何度となく思った。
無謀を承知で、英雄王に挑むことはできただろうか、と――。
出力は落ちたが、ギルガメッシュは『
そのダメージは、計り知れない。
手持ちの宝石を全て使えば、一矢報いることができたかもしれない。
だが、彼女はそれをしなかった。
如何なる状況であっても、遠坂凛は勝てない戦いをする性分ではない。
それに一矢報いたところで何になる? 倒さなければ意味がない。
冬木のセカンドオーナーである以上、そんな時でこそ冷静でいなければならない。
男の目的は、未だ不明。
セイバーに執着していたが、彼女も自らの手で葬っている。
真名と10年前の聖杯戦争に参加したこと以外は、何一つわかっていない。
そして、これまで相対したどのサーヴァントよりも、規格外の力を持っている。
本来の定数である六体のサーヴァントは、既に倒された。
聖杯は十分に満ちているだろうが、今のところ顕現する気配はない。
それが意味することは、ただ一つだけ。
聖杯戦争は、サーヴァントが残り一騎になるまで終わらない。
もしギルガメッシュが聖杯を手に入れたら、ろくな使い方はされないはず。
他者を顧みない、傲岸不遜を体現したような男だった。
今回の聖杯戦争を抜きにしても、このまま野放しにしていい存在ではない。
そして、マスターの存在も不明。
受肉したサーヴァントであるなら、マスターの存在は不要だ。
既に死んでいるかもしれないし、そうでなくとも冬木にいない可能性ある。
ただそれは『かもしれない』という仮定。結局は何もわかっていない。
だったら、最悪の事態に備えるしかない。
聖杯戦争の原則から外れた、八騎目のサーヴァントが現れた。
これから先、何が起こっても不思議ではない。
(あんなやつが出てきた以上、やらなきゃいけないことが沢山ある……!)
しかし、凛は思った。
それは、セイバーを捨て駒にするほどの価値はあったのか、と。
遠坂凛の選んだ道は、この地の管理者として魔術師として、間違った判断ではない。
だがそれは、人間らしさとは無縁のもの。
勿論、凛はそんな『人間らしさ』よりも『魔術師』としての生き方を選んだつもりだった。
魔術師として生きる以上、人並みの感傷なんて不要なもの。
そう思っていた。だけど。
己を責め立てるような耳鳴りは、未だに止まらない。
途端、鼻の奥につんとした痛みが走った。
その痛みによって、涙腺がかつてないほど緩みそうになった。
(…………これを感傷と言わずなんと言うのかしらね)
だけど、泣くわけにいかない。
泣けば泣いた分だけ思考がぶれる。ただの逃避行動でしかない。
泣くことで発生する脳内のエンドルフィンが、一時的に気持ちを静めるだけ。
それは、有りもしない快楽に逃げていると変わらない。
泣いてはいけない。感情的になってはいけない。
そもそも、そんな資格は有りはしない。
セイバーがギルガメッシュに殺された瞬間、遠坂凛の魔術師としての顔が表面化した。
他者を顧みない利己的で冷徹な性質が、こうして彼女を生き長らえさせた。
今になって、涙を流すなんて甘えを許せない。
凛が、セイバーを見捨て逃げ出したのは覆しようもない事実。
泣いてはいけない。絶対に。絶対に。
◇
遠坂凛が自宅の屋敷に着いた頃、吐き出す息は白さを増していた。
肩で息を繰り返しており、酸欠によって今にも気を失いそうだった。
深山町の自宅まで一歩も休むことなく、内罰的に走り通した結果だ。
呼吸を整えて、玄関扉を魔術によって解錠する。
「……あっ」
家に入ろうとした時、入口の段差に躓きそうになった。
こんなことで転んだら、情けなさのあまり笑い話にもならない。
傘もささずに冷たい雨に濡れて、二度もサーヴァントの戦いに身を投じた。
彼女が思っていた以上に、身体は疲れ切っていた。
「シャワー浴びたいわね……」
赤い上着とスカートは、重く感じるほど雨を吸っている。
熱いシャワーを浴びれば、この纏わりつく不快感から解放されるだろうか。
そう考えたが、そんな時間はないのはわかっていた。
自覚できるほど心身ともに疲れている。だけど今はまだ休む時じゃない。
次に休むのは、すべてが終わってからだ。
彼女は、これから自分が何をすべきか心に決めていた。
もしかしなくても、これは間違った判断なのかもしれない。
だけど、他に方法が思いつかなかった。
地下室へと足を運ぶ。
石壁と石畳で造られた部屋は、どこか厳かな雰囲気があった。
部屋の奥に、サーヴァント召喚に使った召喚陣が変わらない姿のままある。
溶解した宝石によって描かれた、遠坂家に伝わる召喚陣。
その傍らには、一本の短剣があった。
柄手が短いのが特徴的な、白い短剣だった。
積み重ねた時代を感じさせる姿ではあったが、錆は一つも浮いていない。
「……セイバー」
顔に悲嘆を浮かべ、少女は少し躊躇いながら短剣を手に取った。
これが遠坂凛に残された最後のカード。ほかのカードは残らず使い切った。
だが、彼女はこのカードを切る資格を持っていない。
聖杯戦争のマスターは、サーヴァントを失おうが身体から令呪は消失しない。
未だ一画の令呪が彼女の右腕に刻まれている。
こうして凛が生きている以上、聖杯戦争の参加資格は残っていた。
しかし、少女の細腕に、この短剣は余りにも重すぎた。
短剣を持ち上げた右手が震えてしまって、落としそうになる。
震えを抑えようと、自らの身体を抱く。それでも止まらなかった。
「う、うぅぅ……セイバー……ごめんなさい……」
彼女の手にはもう、キングのカードは存在しない。