文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
……決着は、ついただろうか。
負傷した文を背負い、セイバーとギルガメッシュの戦いから逃げ出した。
それから、かなりの時間が経過している。
温暖な冬木でも冬の夜は長く、世界は未だ宵の中にあった。
居間のなかは閑寂としていたが、胸のなかには焦燥感が募っていく。
そんな相反した状況に耐えらず、意味もなく居住まいを正してしまう。
畳と衣服の擦れる音だけが、夜の静けさを汚していた。
文の傷の手当てを済ませてから、何もせずにじっとしている。
セイバーから受けた彼女の傷は、とても酷いものだった。
聖剣による左肩から右脇を抜けた裂傷は深く、表面的にも塞がっていない。
並外れた再生能力を持つ文であっても、決定的な一撃だった。
良くなっているのか悪くなっているのか、そんな判断すらもつかない。
もう二度と起き上がれないんじゃないかと、悪い方向ばかり考えてしまう。
ただ意識の混濁は見られず、受け答えはしっかりとしていた。
以前のように側にいてやりたかったが、きっぱりと断られてしまった。
いくら食い下がっても、少女は頑なに許さない。
『士郎さんのどスケベ。もうあっちに行ってください』
どスケベ……。
生まれて初めて言われた言葉だった。
そう呆気に取られていたら、ピシャリと部屋の襖を閉じられてしまう。
俺も体力回復に努めたいが、とても休めるような状況じゃない。
それに色々な感情がごちゃごちゃになって、眠れそうにもなかった。
もしセイバーが負けてしまったら、次の標的は間違いなく俺たちだ。
そうわかっていながら、自宅に逃げたのは愚かな選択だったかもしれない。
あいつが俺の家を知っているとは思えないが、調べる方法はいくらだってある。
切嗣から受け継いだこの家は、魔術師の拠点と呼べるものではない。
通常の魔術師の家は、侵入者対策のトラップがある。
だがこの家は、警報を鳴らすだけだ。
聖杯戦争の初日、ランサーに侵入された時だって何もできなかった。
文が助けてくれなかったら、確実に死んでいた。
だけど傷の手当ても可能で、安静にできる場所を他に知らない。
血まみれの文を抱えて、ホテルに駆け込むにはいかない。
無関係の人を巻き込む可能性だってある。
藤ねえや一成などの知り合いの家でも同様であり、結局この家しかなかった。
今のままでは、殺しに来てくれと言っているようなものだった。
「クソ……」
自らの不甲斐なさに、テーブルを叩いてしまう。
こんなことで得られるのは、じんわりと広がる手の痛みだけ。
状況は、限りなく追い詰められている。
遠坂たちの勝利を信じたいが、相手はあのデタラメなサーヴァントだ。
連戦であるセイバーは元より万全ではなく、勝ちを望むのは厳しいかもしれない。
本当は今すぐにでも戻りたかったが、文を置いていくわけにもいかない。
結局、俺にできるのは彼女の回復を信じて、無事に夜が明けるのを待つだけ――。
「……なんだ?」
玄関の戸を乱暴に叩く音が聞こえた。
緊張が走るが、結界は反応を示していない。
少なくとも、敵意は持った相手ではない。
こんな深夜帯に訪ねてくる人物なんて限られている。
藤ねえとも考えにくい。……だとすればいったい、誰が?
ごちゃごちゃと考えを巡らせているうちに、さっきよりも強く叩かれる。
これ以上強く叩かれたら、玄関が破壊されてしまうかもしれない。
「……いや、そんなことはどうでもいい」
頭が混乱しているのか、つい余計なことまで考えてしまう。
「――衛宮君! いるなら今すぐ出てきなさい!」
懐かしい少女の声だった。
いや、本当はつい数時間前に聞いたもの。
だけど、もう何ヶ月も会っていないように思えてしまう。
「遠坂が生きていた……!」
聖杯戦争で、最大とも言える戦場から生き延びてくれた。
全身に歓喜が駆け巡った。急いで立ち上がり、暗い廊下を走る。
遠坂たちとの確執は、解消されたわけではない。
だが、今は生きてくれたことを素直に喜ぼう。
それに彼女は、命の恩人であるのは覆しようもない事実だ。
諸手を挙げて、生還を祝福しなければならない。
廊下の電気をつけるのを忘れたが、そんなのは後回しだ。
鍵を開けて、急いで戸を開ける。
そこにはちゃんと遠坂がいた。いてくれた。
「こんばんは、衛宮君。こんな時間に悪いわね」
息を切らせている以外は、いつも通りの遠坂凛だった。
でも、何かが違う。
目の前の彼女に、言葉では言い表せない違和感がある。
それが何なのかはわからない。
ただ一つわかるのは、遠坂が一人でいること。
彼女のサーヴァントであるセイバーがどこにも見えない。
「アーチャーは、生きてる?」
「……アーチャー」
何度聞いても違和感がある呼び方に、一瞬誰なのかわからなかった。
だが、言うまでもなく射命丸文のことだ。
「ああ、今は安静にしているから大丈夫だ。……それよりも、セイバーはどうしたんだ?」
「死んだわ」
予め用意していたように答えた。
「死んだ。殺されたの。ギルガメッシュに」
「…………!!」
聞きたくなかった言葉が、遠坂凛の口が次々と放たれる。
彼女の表情は、少しも変わらない。
自分と同じ顔をした仮面を被っているように、変化がない。
セイバーが死んだ――――?
死んだ。殺された。
心の中で何度繰り返しても『セイバーの死』としか意味を持たなかった。
感情を込めずに告げられた、剣の少女の死。
目の前が暗くなって、遠坂の顔がぼやけていく。
――信じられない。だが、彼女が嘘をつく必要がない。
だけど……セイバーが殺されて、どうしてそんな平気な顔でいられる?
遠坂のために戦ったセイバーに対して、何も感じていないのか?
「遠坂、おまえ……!」
「なによ……」
少女の目の奥が、微かに光っていた。
涙は流していない。
涙を流した跡があった。
遠坂は堪えきれない悲しみを、無理やり塗り潰していた。
セイバーを失って、平気なわけではない。
セイバーを失って、平気なふりをしているだけ。
「それで、アーチャーはどこ?」
「……文は、自分の部屋で寝ている」
寝ているはず。
そうであってほしい。
「起こしなさい」
「なっ……!」
思いがけない発言に、言葉が詰まってしまう。
遠坂は、何を言っているんだ……?
「今すぐに。叩き起こしてでも呼んできなさい」
「そんなことできるわけないだろ! あいつはもう自分で歩くことすらできないんだぞ!」
「それなら令呪を使ってでも、何とかしなさい!」
血が上る。完全に頭にきた。
この最後に残された令呪だけは、何があっても使えないもの。
これが俺たちにとって、どれだけ大事なものなのか……!
「――――ッ!! ふざけるな!!」
「無茶を言っているのは承知している。だけどもう時間がないのよ!」
無茶だと理解した上で、文を起こせと言っているのか。
何もかもわかっていながら、生死の境にいる少女を動かせと言っているのか。
「おまえは文を何だと思っているんだ!! わかっているならそんなこと絶対に言うな!!」
遠坂は黙ったが、青い瞳は揺らがない。
自分の主張を、覆すつもりはない。
命の恩人だったら、文を殺してもいいとでも思っているのか!
「…………」
しかし、彼女の瞳は俺を見ていなかった。
俺の背中、廊下の先を見ている。視線を追って後ろを振り返った。
「……まったく、夜中にそんな大声を出したら近所迷惑ですよ。もう少し社会性を持ちましょうよ、士郎さん。コミュニティを作るのは人間の持つ基本的な傾向であって、最大の利点なんですから」
廊下の壁に寄りかかりながら、射命丸文がこちらに向かって歩いていた。
声はいつもの調子だった。だがその姿は痛ましくて、いつもとはかけ離れたもの。
「文! 大丈夫なのか!?」
肩を貸そうと慌てて駆け寄るも、手を前に出されて制されてしまった。
「だから、そう大声を出さないでください」
俺の声だって、今の彼女にはつらいかもしれない。
「あ……ああ、すまない」
「よろしい。そうやって心から謝れるところは好きですよ。私にはない、あなただけの美点です」
それが冗談であっても『好き』と言われただけで、じんわりと染み入るように嬉しくなってしまう。
文への心配が当然勝るものの、俺もどうかしているぐらい単純だった。
「それに……士郎さんに『大丈夫か?』と尋ねられたのはかれこれ何度目でしょうか? こんなことならメモしておけばよかったかも。もったいないことをしちゃった」
この人を小馬鹿にしたような態度は彼女らしい。
重傷なのは変わらない。それでも、いつも通りの彼女に鼻の奥が痛くなった。
「へえ、思ったより元気そうじゃない」
遠坂は感心した様子だったが、それに対して文は頬を少し膨らませた。
そんな女の子らしい態度を取る彼女に驚いてしまう。
一見すれば普段と同じに見えるが、やはり精神状態は以前のものとは違っている。
「何が元気なものですか。貧血でフラフラ。頭ははっきりしない。少し動くだけでもセイバーにやられた傷に響いて、涙が出そうだわ」
壁に寄りかかりながら、廊下に座わる。
軽快な口調とは裏腹に、本当は立っているだけでつらいのだろう。
血色はずっと悪いままで、よく見れば脂汗も浮かんでいる。
でもこうして喋れる程度に回復はしてくれたのだ。
「まあ話を聞く程度なら、何とかなるでしょう。……それでこんな夜中に何の用ですか?」
「セイバーがギルガメッシュに倒された」
さっきと同じように、間髪入れず遠坂が答えた。
つらそうな表情から一転し、仄暗い廊下に赤い光が灯った。
それ以上の変化は読み取れなかったが、彼女の死に衝撃を受けたのは間違いなかった。
「…………へえ、そうですか。そう、ですか。……それは、とても残念ね」
廊下の温度を下げるような文の声。
遠坂は彼女の変化に顔をしかめるが、そのまま話を続けていく。
「でもセイバーは最後、ギルガメッシュに大きな傷を負わせた。彼女の宝具を正面から受けたの。今の金ぴかはあんたと同じで歩くのもやっとなはず」
セイバーはギルガメッシュに、ただでやられたわけじゃなかった。
勝手な考えだったが、それが嬉しく感じてしまう。
「ふーん。……でも、それだけを伝えに来たわけじゃないでしょう?」
「もちろん。そのために私は恥を忍んでここまで来たんだから」
文は目を鋭く細めて睨みつけたが、遠坂は意に介さない。
「――今日中、いえ、この数時間のうちにギルガメッシュを倒しなさい。でなければ、あいつは傷を癒す。そうなれば、もう誰にだって勝ち目はないわ」
「なにを、言って……!?」
信じられなかった。
遠坂は、こんな状態の文に戦えと言う。
それも深手を負ったとしても、セイバーを倒したギルガメッシュと。
「遠坂!! ふざけるのも大概に――」
「静かに。……近所迷惑ですよ?」
異論を唱えようとした直前、文が鼻先に人差し指を立てた。
もう俺たちの間では、お馴染みとなったポーズだった。
「……それで私のところに? 情報提供には感謝しますが、随分と都合の良いことを言いますね。あの男がそんな状態なら、自分でなんとかしようと思わなかったんですか? ……あなたの可愛くて仕方のないセイバーの仇なんでしょう? 私なんかが出しゃばっていいんですかね?」
文の言いたいことも多少はわかる。
俺の見る限り、遠坂が怪我をした様子はない。
「……私ではサーヴァント相手にどうしようもならない。深い傷を負ったとはいえ、あいつは人間とは桁違いの存在よ。サーヴァントはサーヴァントでしか勝つことはできない。それを今日の戦いで理解した。……死ぬほど悔しいけど、ギルガメッシュに勝機があるのは、死に損ないのあんただけよ」
「まあ、そうですね。深手を負ったとはいえ、凛のようなただの人間では無謀でしょう」
……遠坂は優秀な魔術師であり、ただの人間ではない。
しかしあいつを相手にしたら、遠坂もほかの人間と変わらないと言いたいのだろう。
「……当然だけど、強制するつもりはないわ。現存するサーヴァントは、あんたと金ぴかだけ。あいつは聖杯を顕現させるため、近いうちにあんたたちを狙うのは間違いないでしょうね」
遠坂の言葉に間違いはないだろう。……それでも、今の文に何ができる?
とても戦える状態ではなのは、彼女にだってわかっているはず。
つまり遠坂は、ギルガメッシュがダメージを受けた今が唯一のチャンスと言いたいのだ。
この機会を逃したら、あの男が聖杯を手にするのは時間の問題だと。
それなら何とか逃げ回って、文の傷が癒えるのを待つのはどうなのか?
しかし、文が万全な状態になった時は、ギルガメッシュもまた万全になっている。
その状態で勝てるかどうかはわからない。
……いや、それでは勝ち目が薄いから、遠坂はこんな無茶を言っている。
残された道も他にもある。最後の令呪を使って、彼女を幻想郷に帰すこと。
おそらく、それは文が許さない。
それに彼女を幻想郷に帰せば、即座に聖杯が顕現する可能性もあった。
あの男が聖杯をどう使うのかは不明だが、ろくでもないのは間違いないだろう。
それなら……俺に何かできないのだろうか。
こうして遠坂の話を聞いてしまったら、何もせずにいるわけにはいかなかった。
文は、どうやっても動けない。だったら、俺一人でもあいつに立ち向かえばいい。
彼女と同程度の傷を負っているのであれば、俺でもできる何かがあるはず。
どんな手段でもいい。
あいつを、ギルガメッシュを俺の手で止めてみせる。
◇
最後に遠坂が話してから、数分が過ぎた。
開かれたままの玄関から、ひんやりとした風が廊下に流れてくる。
「少し……寒いですね」
文がぽつりと漏らした。
それだけの言葉だったが、何か不思議な違和感があった。
しかし今が刻一刻を争う状況ならば、すぐに行動に移さなければならない。
まずはどうにかして、ギルガメッシュを見つける必要がある。
廊下に座りながら考えていた文が、俺の目を見つめた。
その赤い瞳が、俺の揺らぎを捉える。
「……はあ、わかったわ。やってあげる」
「文!?」
思い掛けない言葉に驚いたのは、俺だけではない。
口には出さなかったが、提案した遠坂も目を見開いていた。
「士郎さんがよからぬことを考えてましたからね。『文は動けない。だったら俺が行ってやる』って、そんな大馬鹿が顔に書いてありましたよ。このまま蛮勇に任せて彼を死なせるのなら、私が行った方が万倍ましでしょう」
「そんな身体じゃ無茶に決まっているだろ! だから俺が――」
「ほーらでた。ザ・シロウイズム。……それに『無茶』なんて言葉をあなたから言われると思いませんでした」
何を考えているんだ?
今だって立ち上がれもしないで座ってすらいるのに。
「……衛宮君、アーチャーが言ったことは本当かしら? 金ぴかのところに自分一人で行こうだなんて」
「ああ、間違いない。そのつもりでいる」
「あのね、衛宮君。私の話をちゃんと聞いてた? いくら弱っていても相手は英雄王と言われた存在なのよ? それこそ死にに行くようなもの。……そもそも衛宮君が行って何とかなるなら、私はここに来てないわ」
……遠坂の言葉は、もっともだった。
普通に考えれば、俺の考えは馬鹿げたもの。文が動くのが最善なのは間違いない。
この選択は、最善でも次善でもなく、独善と呼ぶに相応しい。
俺のそんなところを、ずっと彼女に怒られてきた。ずっと心配をかけてきた。
それでも、俺のこの馬鹿は死んでも治らない。
これ以上、彼女が傷つくのを見たくない。
「遠坂の言う通りかもしれないけど、そんなことはやってみなきゃわからない」
「……これを本気で言っているとしたら、かなり腹立たしいわね」
遠坂は怒るというよりも、もはや呆れ果ててしまっている。
「この世の中に、打算のない自己犠牲ほど気持ちの悪いものはありません。私には理解不能です。……ですが、それが士郎さんの面白いところでもあるんで、許してやってくださいな」
「はあ……そんなの、許せるわけないじゃない」
遠坂は、溜め込んだ息を吐き出した。
でも俺の行為は、自己犠牲だと思っていない。
打算だってある。――好きな子に元気でいてほしい。
だからこれは、単なる俺の我儘だ。
「……ま、何にしても、あなたはこの世界に私を繋ぐ『かすがい』だという自覚を持ってください。つまらないことで死なれたら私が困るの。馬鹿なこと言ってないで、少し黙ってなさい」
「…………文」
それを言われると、何も言えなくなってしまう。
自らの身勝手さで、自分以外の誰かが不利益が被るわけにはいかない。
「アーチャー、あんたは本当に衛宮君に死なれたくないからなの? 悪いけど、それだけの理由で動くような殊勝さを持っているとは到底思えないわね」
遠坂は猜疑心を露わにし、ころころと変容する少女の表情を窺う。
どう見ても好意的とは言えない遠坂の視線に、文は苦笑いを浮かべていた。
「あやや、疑い深いですね。嘘を言ったつもりはないですけど、建前に聞こえてしまいしたか? 士郎さんに死なれてほしくないのは本心ですよ。このまま幻想郷に帰るのは困りますし。……それと決まりの悪い話ですが、今日は格好悪いとこばかり見せてましたからね。本音を言えば、今だって寝たいです。そういう気持ちが三割ぐらいあります。でもこの状況で布団に戻って爆睡したら、格好悪いにも程がありません? 私だって最後ぐらいは格好つけたいです」
「それってつまり、見栄やプライドってこと? 本当にそれだけなのかしら?」
「ふふ。本当にそれだけですよ。そんな見栄やプライドは、私たちにとってとても大切なものです」
「まあ、あんたがやってくれるならなんでもいいわ。……話を戻すわよ」
軽く言っているが、文の『見栄やプライド』の意味と重さは、俺も遠坂も聞いている。
彼女は、この俺たちの世界に妖怪が存在していた証を刻もうとしてた。
それが目的なら俺が出しゃばるのは、文の気持ちを踏みにじってしまう。
「あれから大して時間は経っていない。あのダメージでは、そんな遠くまでは動けない。おそらくまだ新都にいるはず。だから傷を癒される前にギルガメッシュを倒して、あんたがこの聖杯戦争に終止符を打ちなさい」
俺たちは、悠長に会話をしている余裕もなかった。
ここで話しているだけで、ギルガメッシュを倒せる可能性は少しずつ減っていく。
「だけど新都と言っても広いぞ。そんな闇雲に探して見つかるものなのか?」
「忘れたの? サーヴァントにはお互いの気配を察知する能力があるのよ。金ぴかがどこかに雲隠れする前なら、なんとかなるでしょうね」
それは忘れてない。でも彼女には。
「その察知能力ですか? 私にはないみたいなんですよ。サーヴァントの気配を一度だって感じたことありません」
「え、嘘……?」
遠坂は知らないだろうが、文は滅茶苦茶な方法でこの世界に召喚されている。
その結果、本来サーヴァントに備わっている能力もいくつか欠けていた。
聖杯から何も知識も与えられておらず、サーヴァントを知覚する能力もない。
しかしそれだと、これまで遠坂の話した計画が水泡と帰してしまう。
「……そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。私にはそういう時に役立つ優秀な仲間がいます。探索はこの子たちにお願いしましょう」
「……? この子たちって誰のこと?」
「ふふふ。では後ろを見てください。じゃーん」
遠坂の背後にある暗がりに、無数の何かがいた。
目を凝らして見てみると、それは何十羽もの烏だった。
その全てが、行儀よく一様にこちらを見ている。
鳴き声も上げずに夜の闇に溶け、不気味さを強調していた。
「ち、ちょっと……なんなのこれ?」
遠坂もまた、その異様な光景に面食らっていた。
俺も文が日常的に烏を従えているのは知っていたが、ここまでの数を見たのは初めてだ。
「ハシブトガラス。私が今日までに餌付けした烏たちです。そして、この子たちが私の目になります。烏は光り物が好きですし、あの派手な男でしたら、すぐに見つけてくれるでしょう」
これだけの鳥が上空から探してくれれば、見つけ出す可能性は十分にある。
……だけど、疑問もあった。
「でもこんな暗ければ、何も見えないんじゃないのか? フクロウみたいな猛禽類だったらともかく、烏は鳥目だろ?」
「ふふん、知らなかったんですか? 鳥が鳥目というのは迷信ですよ。ほとんどの鳥はただ昼行性で飛ばないだけの話です。それに烏に関しては、人間以上に夜目が利きます」
得意げな表情を浮かべていた。
鴉天狗というだけあって、眷属である烏にも誇りを感じているのだろう。
以前、ゴミ集積場に集まった烏を見て、この世の終わりみたいな顔をしてたからな。
そして文が小さく手を上げると、一斉に闇夜へと烏が飛び立っていく。
方角からして、新都に向かっているのは間違いない。
「……では、ちょっと着替えてきます。寝間着のままでは締まるものも締まりませんからね」
暗い廊下で座っていた少女が、立ち上がった。
手を貸そうとも思ったが、そう考えているうちに普通に歩きだしている。
ここに来た時とは違う、しっかりとした足取りだった。
大して時間は経過していない。それだけで、見違えるほど回復したのか。
……あの様子なら、本当にギルガメッシュと戦えるかもしれない。
「衛宮君、ちょっといいかしら?」
後ろ姿が廊下の角に隠れて見えなくなった頃、遠坂から声を掛けられた。
「どうかしたのか?」
彼女は古めかしい布にくるまれた物体を、どこからか取り出した。
形状からして、何か刃物のようなものが包まれている。
「カルンウェナン」
初めて聞いた言葉とともに、布を俺に差し出した。
「え? ……カルン、ウェナン……?」
受け取ろうとしない俺に痺れを切らしたのか、包んでいた布を外す。
中には、白い柄手をした短剣があった。
一目見ただけで理解する。その剣に内包された神秘を。
『カルンウェナン』――それが、この短剣の名前なのだろう。
「アーサー王……あの子が持っていた短剣よ。セイバーはこれで、魔女オルドゥーを真っ二つにしたわ。私はこれを触媒にして彼女を召喚した。衛宮君はこの剣を使いなさい」
それは、セイバーの形見とも言えるものだった。
セイバーも、遠坂に持ってもらいたいはず。
「いや、受け取れない。それは遠坂が持つべきだ」
「いいの。あんたは無理して使う必要はないわ。持っているだけでいい。……あいつの最期をセイバーに見せてあげて」
押しつけるように、遠坂から短剣を渡される。
持ってみることで実感したが、カルンウェナンは見た目以上に重かった。
それに普通の短剣と比べても、柄が短く、妙に振り回しづらい。
エクスカリバーには大きく劣るが、セイバーが持つに相応しい力を感じた。
「わかった。全てが終わったら返しにいく。……それで、遠坂はこれからどうするんだ?」
「私は別に行くところがあるわ。ただの思い違いだといいんだけど、気になることがあってね。……じゃあ頼んだわよ。金ぴかをこてんぱんにしてやりなさい」
それだけ言って遠坂は、一度も振り返らずにまだどこかへ行ってしまった。
◇
「…………」
文が自室に戻ってから暫く経ったが、一向に帰ってくる気配がない。
さっきの様子なら大丈夫だと思うが、ここまで待たされると心配になってくる。
それでも、女の子が着替えている部屋に入るわけにもいかない。
「……ん?」
ふと――どこからか、嫌な匂いがした。
馴染みのある匂いだった。どうしてか、思い出せない。
胸がざわつく。
匂いの正体を思い出すのを拒否しているように。
これは、聖杯戦争で何度も嗅いだ。
「……こ、れは」
そして――匂いの発生源はすぐ近くにあった。
わざわざ探す必要もなく、振り返って注意すれば、すぐに見つけられた。
廊下の明かりをつけずにいた自分が、どうしようもなく恨めしい。
「俺は……なんて馬鹿だ……」
どうして、気づけなかったのか。
さっきまで文の座っていた壁際の床――そこに大きな血溜まりが広がっていた。