文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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62.バカでワガママ

 

射命丸文は、もう限界だった。

 

意識があるのも奇跡に等しい、重篤な傷。

病的とも言える矜持が、彼女の身体を動かしていた。

 

『会話ができた』『歩いていた』

 

その二つを理由にして、俺は彼女が回復していると錯覚していた。

 

「……だったら、この血はなんだ」

 

今まで座っていた廊下が赤く染まっている。

 

「これじゃセイバーにやられた時と、何も変わってないじゃないか……」

 

数時間前、エクスカリバーで斬られた胸の裂傷は少しだって塞がっていない。

人間だったら、とっくに致死量を超えた血を流している。

一度意識すると、むせ返りそうな血液の匂いが鼻腔を刺激した。

血液の大半を構成しているヘモグロビン。錆びた鉄のような独特の匂い。

 

そう……流れているものは、人間も妖怪も大差はない。

妖怪であろうと、人と同じ血が流れている。

彼女が人と違う存在であると、どこかでずっと考えていた。

結局、俺は文の痛みを少しだって理解してなかった。

彼女は妖怪であっても、俺たちと同じ生きた存在なのは変わらない。

決して不死身じゃないのに、それすらもどこか曖昧に感じていた。

 

廊下の奥まで続く、鮮血で作られた一筋の道。

踵を返して、文の部屋まで続く血路を辿っていく。

これを見てしまったらもう、彼女に戦わせようなんて思えない。

あいつはプライドのためだけに、自らの命を投げ捨てようとしている。

それを無視するなんて、俺にはできない。

もう文の意志を、顧みている場合じゃなかった。

この状態で、ギルガメッシュ相手に戦えるわけがない。

このまま戦えば、何もできずに確実に死ぬ。そうなる前に、彼女を止めてみせる。

 

「…………」

 

俺が何を言ったところで、右から左だ。

素直に聞き入れてくれるはずがない。その時は、彼女を無理やり拘束する。

抵抗を受けるのは、間違いないだろう。

しかし昨日までなら無理だとしても、今の彼女なら可能かもしれない。

少なくとも、ギルガメッシュを倒せる確率よりも確実に高い。

本来なら、絶対にあり得ない選択肢。

俺なんかがそんな発想に至れてしまう。それ自体が彼女の限界を示していた。

 

それでも射命丸文は、サーヴァントでもある。人間とは存在の規模が違う。

下手をすれば、殺される場合だってある。

……いや、俺はマスターである以上、彼女をこの世界に留めるために必要だ。

最悪、死んでいないだけの状態にされてしまう。

そして、そんな手段を彼女は間違いなく知っているだろう。

 

……こんなところで、怖じ気づいては駄目だ。

どんな手を使ってでも、死地に向かおうとする彼女を阻止する。

 

「…………」

 

左手の甲には、今も令呪が刻まれている。

残り一画の令呪――サーヴァントに対する絶対命令権。

俺と文の間で禁忌となった最後の一画。

それを使うことになったとしても、やむを得ない。

 

この感情は、俺から生まれた強烈なエゴだ。

他者の意志を少しも顧みない、利己的な衝動だ。

そうであっても、俺は彼女に生きていて欲しかった。

 

「……なんて欺瞞だ」

 

廊下の終着点、和室の前に立った。

耳を澄ませても衣擦れどころか、何の音も聞こえなかった。

……もしかしたら、彼女は部屋にいないのかもしれない。

あの血溜まりを俺に見られたら、厄介だと思うはず。

それに勘付いて、一人でギルガメッシュと戦いに行った可能性がある。

 

そもそも俺の存在は足手纏いであり、彼女の助けにすらなれない。

一緒にいるメリットが元からなかった。

魔力供給を必要としない射命丸文は、マスターが近くにいる必要はない。

ずっと忘れていたが、それこそ他のサーヴァントと違う大きなアドバンテージ。

 

「…………?」

 

それなら、どうして文は俺とずっと一緒にいてくれたんだ……?

今になって、ふと疑問に思った。

 

だけど今は、そんなことを気にしている場合じゃない。

彼女に会う必要があった。

そんなに広くもない部屋だ。いるかどうかなんてすぐわかる。

 

「文、部屋にいるのか?」

 

念のために声を掛けたが、返事はない。

最悪の想像が脳裏に浮かんでしまう。

襖越しではあったが、人がいる気配を感じない。

 

「……開けるぞ」

 

俺を置いて、ギルガメッシュのところに行ったのだろうか。

それとも――いや。

これ以上、馬鹿な想像は止めて直接確認するしかない。

 

 

 

 

俺のつまらない想像に反して、射命丸文は部屋にいた。

何も変わらずにいた。

何も変わらずに死に瀕していた。

 

「――文!!」

 

彼女は布団の上に顔を埋めて、倒れていた。

青白くぐったりと倒した姿は、死人すらも想起させてしまう。

俺と遠坂の前で見せた姿は、彼女が無茶をして作り出した演技だった。

 

彼女の上体を起こす。

呼吸はしている。浅く短い呼吸を繰り返している。

やはりセイバーから受けた傷は、少しも塞がっていない。

傷口が熱を持ち、脈を打っていた。

小さな身体から、残された血を全て絞り出そうとしている。

 

「文! しっかりしろ!」

 

朦朧としていたが、意識は完全に失っていない。

焦点の合わない瞳が中空を彷徨っている。

……少しして、顔だけを俺に向けてくれた。

 

「あー、士郎さんじゃないですかー。えへへー……そろそろ行きますかー」

 

それは、子供みたいな声だった。

口に笑みを浮かべようとするが、引きつるだけで形を成さない。

 

「あ、そうそうー。私、ずっと言いたかったんですよー」

「……文? どうしたんだ?」

 

文の様子が明らかにおかしい。

視線がぼんやりとして、心というものをどこかに置き去りにしている。

 

「私、士郎さんのご飯がすごい好きです。だから、そんな美味しいご飯を作ってくれる士郎さんも大好き―。……えっと、それがずーっと言いたかったの。でも恥ずかしかったんだー。やったやった! 言えちゃった!」

「文……」

 

……もう見てられなかった。

見た目以上に幼い感じで、会話すらも成立していない。

理性が壊れた時も、ここまでじゃなかった。

あの時だって、受け答えだけはしっかりとしていた。

 

「馬鹿……! そんなこと言っている場合か……!」

 

畳に手を突いて自分の力で起き上がろうとする。

だが、全身が痙攣を起こしたように震えてた。

彼女にはもう、身体を支える力すら残されていない。

 

「あー……言えたー。良かったー」

 

無理をして力んでしまったせいか、俺の腕から滑り落ちてしまった。

抱きとめようとしたが、頭から畳の上に落ちてしまう。

 

「文!!」

 

慌てて、少女を抱き上げた。

 

「…………? 士郎さん、どうして私の部屋に? あれ?」

 

ずっと曖昧だった目の焦点が元に戻っていた。

さっきまでの記憶が抜け落ちたようだったが、瞳に理知的なものが宿っている。

 

「……駄目だ駄目だ。頭の中がぐずぐずだ。もう心が半分ぐらい崩壊している」

 

頭を打ったせいなのか、心の平衡はなんとか保てている。

それでも、快方には向かっていないのは明白だった。

 

「……大丈夫なのか?」

 

今日だけで、何回したのかわからない質問。文にも指摘されてしまっている。

彼女にどう答えて欲しいのか……。そんな自分の気持ちすらわからない。

 

「ええ、勿論です。……さて、ギルガメッシュを倒しに行きましょうか」

「……いいからそこで寝ているんだ! あとは俺がなんとかする!」

 

俺の言葉に、少女の半眼が睨み付けるように鋭くなる。

身体を支える俺の腕をやんわり跳ねのけると、今度こそ自力で上体を起こす。

 

「……またその話ですか。下らない問答は止めにしましょう。見ての通り、私も余裕がありません。頭もパーになっています。……あなたの理想とやらにも構っていられません。次に馬鹿なことを言うと、そのよく喋る舌を引きちぎりますよ」

 

決して冗談で言っているわけではないのが、雰囲気からわかってしまう。

声の張りは元に戻っていたが、いつものゆとりを感じさせない。

ここから先の言動は、彼女に対する敵対行為を意味する。だとしても、俺は。

 

「駄目だ。これだけは絶対に譲れない。何があってもおまえをギルガメッシュと戦わせない」

「――――――」

 

瞳に懐疑が宿った。俺の真意を測ろうとする赤の双眸。

 

「黙って欲しかったら黙る。俺の舌だってくれてやる。だから今は安静にしているんだ」

 

血の目に宿る重圧に怯みそうになる。

だけど俺は目を逸らさない。ここで視線を逸らせば、折れたことになる。

 

「本気で言っているようね。…………これが最後通牒。発言を、撤回しなさい」

 

言葉から、感情と言うものが消えた。

スイッチのオンオフを切り替えるように、部屋の空気も変わってしまう。

空間が恐怖によって、塗り固められた。

人間の根っこの部分が、警報を鳴らしている。

暗闇を恐れる感情と似た、得体の知れないものに対する根源的な恐怖。

これまで何度となく味わった、射命丸文の人を喰らう妖怪としての性質。

 

「……………………」

 

……これが本当に、瀕死の少女が出せる殺気なのか?

今すぐに屈服したい感情が湧き上がる。

許しを請いたい。すべてが嘘だと言って、楽になりたい。

 

「いや……俺は絶対に譲らない」

 

声を、絞り出した。

本能ではなく、己の信念を言葉にして絞り出す。

声は震えていなかった。

だが、これでもう後には引けない。逃げ道は決定的に塞がれた。

無理やり押し込めた感情で、胸が潰れそうになる。

 

 

 

 

一分が過ぎた。永遠にも感じる60秒。

重圧に耐えかねて、呼吸を忘れたように肺が止まっている。

一度だけでいい。

たった一度だけ、肺に溜まった空気を吐き出してしまいたい。

だけど、そんな余裕なんてあるはずがない。

 

密着とも言える距離。

俺が文を捕らえようとしても、速度の差だけはどうやっても覆せない。

俺の初動を確認したあとでも、彼女は簡単にあしらえる。俺の行動なんて、止まって見える。

つまり文は後手に回ろうが、どうとでもできる。

いくら瀕死だと言っても、根本的な身体能力の差はどうしようもならない。

 

……もう、令呪を使うしかないのか?

 

「ねえ、士郎さん」

 

場の空気にそぐわない優しげな少女の声。僅かに緊張を解いてしまう。

一瞬の空白。

コンマ一秒にも満たない虚を突かれて、左手首が掴まれた。

俺よりもずっと小さな手によって、ギシギシと骨が軋みを上げる。

 

「……ぐあっ!」

 

思わず、歯を食い縛ってしまうほどの痛みが走った。

そうしなければ、耐えられずに絶叫だって上げていたかもしれない。

手首から先が震えるだけで、指が一本も動かせない。激痛によって、身体もまともに動かせない。

 

まずい……。

いま握られているのは、令呪のある左手だ。

当然、文もここに令呪があるのを知っている。

彼女は、これを狙っていた。

 

「ひとつだけいい?」

 

感情を感じさせない平坦な声。

その問いに対し、俺は声を出さずに首を縦に振って答える。

 

「セイバーのマスターが言ってた通り、ここであの男を倒さないと勝ち目がないわよ? それもわかった上で言っているの?」

 

少しだけ、手首を握る力が弱くなる。

今度は言葉で答えろと言っていた。

 

「……わかっているさ。だけど、俺は文に死んで欲しくない」

 

ギルガメッシュを倒せるのは、重傷を負った今しかチャンスがない。

それは、英雄王の強さを目の当たりにした遠坂が繰り返し言っていた。

 

たとえそうであっても、ここで自分を曲げるなんて絶対にできない!

 

「あっそう」

 

人間味を感じさせない無機質な声。それは、死刑執行の言葉だった。

反射的に目を閉じてしまう。

目を背けたくなかったが、人体の一部が壊される恐怖に抗えない。

左手首を掴む少女の腕に、これまでとは比較にならない力が込められる。

 

「うぐ、ああああああ…………ッ!!」

 

絶対に叫ぶまいと誓っていたのに、どうしようもない激痛に叫んでしまった。

手首が、折れてしまった。

 

そのまま砂糖菓子のようにあっけなく潰されて、俺の左腕がポトリと畳に落ちた。

 

 

 

 

「――おかしいの。とても恐がりで痛がりなのに、強がっちゃってる。あなたは本当に、バカでワガママ」

 

固く閉じていた目を、ゆっくりと開けた。

……瞼の裏の光景と異なって、左腕は掴まれたまま存在していた。

折れてもいないし、しっかりと生えている。

 

俺は……夢でも見せられたのか?

 

「……自覚はしている。だけど、死のうとしているやつを目の前にして見過ごすなんて、俺には絶対にできない」

「自覚した馬鹿につける薬はないわね。変なことに令呪を使われないよう、本気で左手を潰してもいいんだけど」

 

軽い口調で、ゾッとすることを言ってみせる。

必要とあれば、それぐらい平気でやる気だ。

だが夢の中であったとしても、俺の腕はもう潰されている。

だから、その覚悟はできていた。

 

「ふう……これ以上力みすぎると、失血性のショックでまた倒れそうです」

 

そう言って、固く掴んでいた俺の左腕を解放する。

同時に場を支配していた恐怖も消え去った。

 

「腕は平気ですか?」

「ああ、ちゃんと繋がっているみたいだ……」

 

ずっと溜め込んだ息を吐き出して、手首に異常がないか確認する。

工業機械のような力で握られていたが、筋や神経に大して痛みはない。

 

「怪我をさせずに痛みを与える方法って知っておくと何かと便利ですよ? 教えましょうか?」

「いや、遠慮しておく」

 

今は痺れでしっかりと動かせないが、痛みが徐々に引いていくのがわかる。

彼女の顔を再び見ると、見慣れた顔をしていた。

人を馬鹿にしたような、底意地の悪い笑み。

だけどその顔を見ただけで、俺はこれまで以上に安心してしまう

 

「おバカな士郎さん……」

 

少女もまた俺の顔を見て、やれやれと肩を竦めた。

その動作だけでもつらいのだろう。整った顔が強ばった。

 

「いたたた。……本当は言いたくなかったけど。ここまでずっとみっともないところを見せてるし、今更隠しても仕方がないか」

 

何を言うつもりなのか、再び俺の左手を取って、顔を真っ直ぐ見据える。

痺れた腕を優しく撫でながら、似合わない苦笑いを浮かべた。

そして、小さく息を吐き出した。

 

「えっと、このままだと私、死んじゃいます」

 

射命丸文は、そう言った。

それは、あまりに予想外な少女の告白だった。

 

 

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