文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
「なんだって……?」
その言葉を絞り出すのが精一杯で、これ以上の言葉を繋げられなかった。
「この傷はそれだけ深いものなんですよ、士郎さん」
少女は、なぜか嬉しそうに答えた。
「伝説のアーサー王が持つエクスカリバー。その刃傷は、私にとって猛毒です。肉体の修復を遅らせ、精神にも損傷を与えている。それはもう何度も言ったこと。……更にセイバーに負けて、私の心は大きく揺らいでいる」
彼女は、パジャマからすでに着替えていた。
いま着ているのは、昨日の二人で買いに行ったブラウスのうちの一枚。
少し高かったが、彼女の押しの強さに負けて購入したもの。
帰宅直後、傷の処置をして包帯を巻いた。
しかし着替えたばかりのブラウスは、もう赤く染まっていた。
「肉体の損傷など問題ではありません。忘れ去られた時。心が折れた時。……そんな時に私たち妖怪は死ぬのです。このまま何もせずいたら、私は死んでしまいます。それは、純然たる死です」
続けざまに紡がれる『死』という単語に揺さぶられる。
「……私の住む幻想郷は、本気を出すとみっともないという風潮が蔓延しています。諸々の事情から、それは決して悪いことではありません。スペルカードは上手くできています。ルールで守られた競技であり、殺し合いとは違う。いくらでも言い訳がききますからね。事実、妖怪たちのプライドを守るのにも、一役買ったのでしょう」
俺の頭の中はぐらぐらと揺れるばかりで、彼女の話す内容は殆ど理解できなかった。
それでも、とても大事なことを言っているのはわかる。
「私が本気を出したのなんて、ほんの数えるほど。自慢じゃありませんが、私に勝てる存在なんてそういません。……だけど私は負けました。完膚無きまでに。スペルカードルールではなく、ただの殺し合いで負けた。その時は、それでいいと思いました。死んでもいいと思いました。ですが、ギルガメッシュを前にしたセイバーの目に私は映ってなかった。……悔しかった。それこそ人前で喚き散らしてしまうくらい悔しかった」
それがなんで、文が死ぬ理由と関係あるのか。
「おや……? 信じられないって顔をしてますね。残念なことに事実です。肉体に依存する人間と違って、妖怪の心はちょっとばかし繊細なんですよ」
その『ちょっとばかし』の差が、人間と妖怪を隔てる境界だと言うのか。
「セイバーは死んでしまった。だから私は、セイバーを殺したギルガメッシュを殺す――。そんなどうしようもない八つ当たりが、私の精神を安定へと導く。この傷を癒す」
ギルガメッシュを殺さないと、セイバーにやられた傷が原因で文が死ぬ。
……なんだよ、それ。
そんなの、ちっとも理屈に合っていないじゃないか。
屁理屈にすらなっていない。俺にはまるで理解できそうにもない。
「もう、本当にそれしか方法がないのか……?」
悲しそうに笑っていた少女が、はっきりと頷いた。
嘘は言っていない。嘘であって欲しかった。
「……今の状態からして、丁度夜が明けるころ。時間にすると二時間ほど。それを過ぎれば、私は死にます。確実に」
死ぬ。確実に。
……わからなかった。彼女が何を言ってるのかわからなかった。
理解を試みようと、彼女の言葉を何度も何度も反芻する。
しかしその途端に頭が鈍り、感情だって追いつかない。
これは怒りなのか、悲しみなのか。それすらもわからなかった。
わからない。わからない。俺にはもう、何もわからない。
「…………う、あ」
ふと、舌に苦味を感じた。思考が臨界点を超えていた。
心と体の誤作動――。
味覚野の伝導路がエラーを起こし、舌に誤った情報を伝達している。
……これは、俺の脳の味だった。
衛宮士郎を構成するものが、もう限界であると告げていた。
好きな女の子に死んでほしくないと、心と体がおかしくなるほど叫んでいた。
だったらもうこれ以上、深く考える必要はない。
もっと、シンプルに考えればいい。
いま俺たちの置かれている状況を考えて、それだけを理解しろ。
『夜明け前にギルガメッシュを殺さないと、射命丸文は死ぬ』
それが俺の心と体を正常に動かす、唯一の理解だった。
◇
駅から少し離れた新都のオフィス街。
近年の開発が進んで、高層ビルが建ち並んでいる。
古くからの町並みを残した深山町とは違う姿。
そんな新都の、深夜から早朝にかけての時間帯。
当然こんな時間に電車は運行しておらず、人は誰もいない。
ここにいるのは、俺一人だけ。文の姿もない。
「……ふう」
吐き出した息が、白く染まる。
それでも手は悴む様子もなく、じんわりと汗が滲んでいた。
そこに握られた三本の矢と、一本の短剣。
その矢は、文の手によって特殊な改造が施されている。
三本しか用意できなかった。
英雄王を相手にするには、心許ないもの。
だけど攻撃手段のない俺に、文が用意してくれた武器だ。
一本だって、無駄にはできない。
そして、遠坂から預かったカルンウェナン。
セイバーがかつて持っていた短剣。彼女の唯一の遺物。
遠坂は、それを俺に託してくれた。持っていて欲しいと、それだけを告げて。
……胸に燻る熱を吐き出して、天を仰ぐ。
数ブロック離れたこの場所でも、冬木センタービルがよく見える。
新都の開発を担う企業が詰め込まれた超高層ビルであり、冬木で最も空に近い場所。
「…………文」
夜明けは、すぐそこまで来ている。
文の余命が判明してから、一時間半が経過した。
夜明けまでは、もう三十分も残されてない。
それが文の残された時間。俺たちのタイムリミット。
彼女は空を飛ぶどころか、新都まで歩く体力も残ってなかった。
これ以上消耗させないために、文を背負って再び新都まで戻った。
そして指定された場所まで運ぶのも、かなりの時間が掛かってしまった。
文の使役する烏の情報により、ギルガメッシュの大まかな居場所は判明している。
過ぎた時間を考えれば、あいつが根城に戻っていても不思議じゃない。
幸いにも、それだけは免れた。
それでも、俺たちの状況が最悪なのは変わりない。
相手が魔物殺しの英雄であれば、射命丸文との相性は極めて悪い。
杉の森のフワワ、天の雄牛グガランナなど。あいつの伝説は、枚挙にいとまがない。
英雄王ギルガメッシュ――。
バーサーカーや、セイバー以上の難敵だろう。
そんな最強のサーヴァントを相手にして、射命丸文は瀕死の状態。
制限時間もある。タイムオーバーは死だ。
そんな絶望の状況下で、英雄王を倒す。
唯一の希望は、あいつもまたセイバーから受けたダメージが残されていること。
それを考慮しても、今の彼女に勝ち目があるようには思えない。
『――
魔術回路を走らせる。
イリヤによって魔術回路が生成されてから、精度はかつてないほどにいい。
アインツベルンの森の時と同じように、弓を投影で急造する。
ギルガメッシュを倒すための作戦。
ここまでの道すがら、文から聞いた言葉を一つずつ思い出していく――。
『勝機……ですか? 当然ありますとも。
まあ、こんな状況になって、やけっぱちになっているのも否定しません。
だとしても、勝ち目のない戦いはしないつもりです。
ええ、そのための策があります。ですが、それは私一人では為し得ません。
そこで、士郎さんの力が必要となります。
当然ですが、命の危険も及ぶものです。……覚悟はありますか?
……あやや、確認するまでもなかったですね。ごめんなさい、失言でした。
士郎さんの死は、私の死でもあります。
あなたという『かすがい』を失えば、私は幻想郷に強制帰還しますから。
そうすれば、私は失意のどん底のなか、幻想郷にある図書館で死ぬのを待つだけです。
……パチュリーさんも流石にビビり散らかすでしょうね。それはちょっと楽しみかも。
……ん? なんでそんな顔しているんですか? まさか、気づいてなかった?
少し考えれば、わかりそうなものですけど。いやまあ、それはいいでしょう。
たとえあなたが死んだとしても、私は絶対にあなたを恨みません。
ここで死ぬ運命だったと受け入れることにします。
うーん……そうですね。
私が死ぬまでの時間は、すべて士郎さんのために泣いてあげましょう。
……ふふ。そういっておけば、少しは格好がつくかな?
つまり――ここから先、あなたと私は一心同体。
私たちが生き残るには、英雄王ギルガメッシュを倒すしかありません。
これからそのための作戦を士郎さんに授けます。メモの用意はできてますか?
……いえ、冗談です。何とかして頭に叩き込んでください。まずはですね――』
そして俺は、ギルガメッシュを発見した。
視力を魔力で強化して、顔を確認するまでもなかった。
あれだけの存在を、見間違えるはずがない。
黄金色の圧倒的なオーラ。サーヴァントの中でも類を見ない、強烈な存在感。
遠坂の言った通り、ギルガメッシュは無傷ではなかった。
黄金の鎧は砕け散って、上半身を晒している。胸にも大きく焼け焦げた傷痕。
『
左肩から右脇――それは偶然にも、文と全く同じ位置だった。
……もしかしたら、それがセイバーの最も得意な剣の振り方かもしれない。
それなら文はギルガメッシュが現れるまで、彼女に手加減はされてなかった。
何の慰めにもならないが、どうしてか目の奥が熱くなる。
だが、男はそんなダメージを感じさせないように悠然と歩いていた。
幸運だったのは、俺が先にギルガメッシュの存在に気づけたこと。
自分を探している相手がいるとは、思っていなかったのもあるだろう。
だとしても、相手は紛れもなく聖杯戦争最大のサーヴァント。
奇跡的と言える確率。こうなれば、考える時間も惜しい。
この千載一遇のチャンスを、無駄にするわけにはいかない。
ギルガメッシュに気づかれるより先に、先手を打ってみせる。
「…………」
足踏みから胴造り、弓構えの三節を取った。
文から託された、三本の矢の一本を手にする。
『矢羽には、私の羽根を使ってあります。見栄えはよくないですが、そこは我慢してください。私の残された魔力と時間の兼ね合いで三本が限界でした。うまく運用すれば、その三本で十分事足ります。……頑張ってください。応援してますよ、士郎さん』
彼女に残された片翼。その羽根から作られた矢。
込められた魔力が、指先にチリチリと伝わってくる。
矢を弓に番え、墨染めの矢羽を大きく引いていく。
ギルガメッシュまでの距離は、目測でおおよそ50メートル――。
28メートルの弓道の的と比べて、倍近くある距離だ。
それでも、俺なら決して外す距離ではない。
矢羽を強く掴み、背中を向けて闊歩するギルガメッシュの後頭部を狙う。
人間と同じ姿をした相手に矢を向けるのを、躊躇してはいけない。
躊躇えば、それだけ精度が落ちてしまう。
「――――ふ」
そして、矢を放った――。
今まで無風だったオフィス街に、強い風が吹く。
射法八節の最後――姿勢を保つ残心ができないほどの追い風。
例えるなら、大口径の拳銃を撃ったような反動だった。
秒速60メートル。それが本来の和弓によって放たれた矢の速度。
つまり50メートルの距離であれば、一秒未満で届く。
それでも余程の不意を突かない限り、サーヴァント相手では意味がない。
しかし、文によって作られた矢は違う。
『私の魔力と愛情が込められた烏天狗の矢です。ただの矢とは比べるまでもありません』
どんな飛び道具であっても、放たれた直後が最も速い。
弓、クロスボウ、スリング、銃――。
そのどれだって、初速度こそ一番のスピードが出る。
だが風を纏った文の矢は、放たれた直後から速度を増していった。
『以前、士郎さんはバーサーカー相手にとても上手く当てました。弓に関しては結構な腕前をお持ちのようで、私も驚いたものです。……ふふ、とても格好良かったですよ。さて、そんなあなたの腕を見込んで次の標的は、ギルガメッシュです。総合的な力は比べるまでもなく、バーサーカーの方が上でしょう。筋力、耐久力、敏捷性、魔力の全てにおいて、バーサーカーがギルガメッシュに勝ります』
音の壁も越えた矢じり。
更に加速して、男の頭部へと吸い込まれていく。
息を飲むどころか、瞬きすらも許さないスピード。
『冷静になって、士郎さんの最善と思えるタイミングで矢を放ってください。そうすれば――』
ギルガメッシュが俺に気づくより先に、後頭部を狙えるという運を味方につけた。
『矢が中る』というイメージを自分に重ねて、最高のタイミングで矢を放つこともできた。
こんなチャンス、もう二度とないだろう。だが。
『間違いなく、当たりませんから』
男の頭を撃ち抜く直前――。
身を翻したギルガメッシュの側面を矢が通過して、オフィスビルが浮かぶ闇へと飲まれた。