文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
新都のオフィス街に硬質な音が響く。
ギルガメッシュが避けた矢が、ビルの壁面に刺さった音だった。
必中だと思った矢は、射命丸文の予言通り失敗に終わる。
俺は『中る』とイメージして放った矢を、これまで一度だって外したことがない。
しかも今の矢は文の特製のものであり、音速を超えるスピードが出ていた。
そうであっても、ギルガメッシュ相手には何の意味もなかった。
人間では、絶対にあり得ない反応速度。
サーヴァントと呼ばれる存在は、根本的に人間とのステージが違っている。
同じ舞台には、決して立てない存在なのだと理解してしまう。
そしてギルガメッシュが振り返り、気怠そうに揺れる深紅の半眼が俺を捉えた。
「……貴様か、雑種」
ギルガメッシュとの距離は、十分に離れている。
50メートル――。
それなのに、どうして俺まで声が届くんだ……?
「我に一矢報いようとでもしたのか? ……笑わせるなよ。この身はアーチャーを冠するサーヴァントだ。いくら不意を突こうとも、雑種如きの矢が当たるはずもないわ」
今はまだ反撃をする様子はない。
……予想した通り、ギルガメッシュは俺を敵として見ていない。
それも当然に思えてしまう。いま俺はそれだけの相手の前にいる。
射命丸文とは、別種のプレッシャー。
彼女が人間の根源的な恐怖の象徴なら、あいつは存在するだけで他の全てを圧倒する。
……文を倒して、聖杯戦争を最後まで勝ち残ったセイバー。
そんな彼女を殺した、イレギュラーである8人目のサーヴァント。
古代メソポタミアの王。半神半人の暴君。人類最古の英雄王、ギルガメッシュ。
「我はこの上なく機嫌が悪い。だが、疾く自害すれば許してやらんでもない。…………これ以上、我に刃向かうようであれば、わかるよな?」
赤い瞳に射抜かれる。
それだけで、身体の自由を奪われてしまいそうだ。
だがここで怖じ気づくわけにはいかない。
圧倒的な存在感に飲み込まれないよう、肺の空気を入れ替えた。
悴みそうになった手に、血を通わせて強く握る。
……この身体は、思う通りに動いている。
なら大丈夫だ。俺は成すべきことを成すまで。
大きく息を吸い、二本目の矢を弓に番えた。
これで残された矢は一本だけ。
弓構えの作法もデタラメに、最速で男に向かって矢を放つ。
「フン、どこまでも愚かよ」
ギルガメッシュは気だるい表情のまま、眉一つ崩さない。
だが、風向きが変わるように殺意が俺に向けられる。
あいつが初めて見せた敵意。自らの死を容易く連想させてしまう。
これで、英雄王が俺を殺すのは確定した。
……ただの矢なら、ギルガメッシュに届く前に俺が殺されるだろう。
だがあの矢は、音を超えて対象を貫くもの。
矢が届くのを確認しない。
放った瞬間に後ろを振り返り、全力で走り出した。
結果はすでにわかっている。ギルガメッシュに矢は絶対に当たらない。
それは不意打ちの時点でわかっていたこと。
それでもあいつは、重傷を負っている。
いくらサーヴァントであっても、回避行動なしに反撃には移れない。
今はただ、目的の場所に向かって走る。
文の計画通りに進めるだけ。ギルガメッシュとの距離は、約50メートル。
サーヴァント相手にするのは、あまりにも短い距離。
それに、中距離戦を得意とするギルガメッシュ相手では格好の餌食だ。
闇雲に路地を走るだけでは、すぐに殺されてしまう。
ビルの合間を通るようにして、決して背中を見せない。
いくらギルガメッシュでも、オフィスビルごと俺を殺すのは骨が折れる。
あの傷なら、すぐには追いつけないはず。
俺を殺すために、追ってきているのは間違いない。
その証拠に、背後から感じる気配が徐々に濃くなっていく。
否応なくあいつが俺に近づいているのがわかる。
後ろを振り向く余裕はない。そのタイムロスが、俺の生死を決める。
目的地までは、そこまで遠くない。視界にずっと入っている。
疲労もピークに達していた。連日の疲れもある。
それよりも、後ろから伝わる緊張の影響が大きい。
英雄王と呼ばれる最強のサーヴァントが、俺を殺すために迫ってきてる。
これに勝る緊張など、この世には存在しない。
だけど、あと少し。あと少しだ。
◇
目的地まで続く最後の道に入った時。
何者かに後ろから押されたように、背中に衝撃が走った。
「なんだ……?」
後ろを確認しようとしたが、身体が思うように動かない。
しかし、背中を確認しなくても原因は判明した。
豪華な装飾が施された刀身が、俺の脇腹を貫いていたからだ。
「――――!」
触れて確認するより先に、身体がつんのめるように転倒する。
これは……まずい……。
「う、ぐあああああああ…………!!」
転倒から数秒間遅れて、腹部から激痛が走った。
名刀の鋭さから刺された直後は痛みを感じずに、衝撃だけが伝わったのだ。
俺は人より我慢強いと自負していた。だが、そんな考えが一瞬で吹き飛んでしまう。
「ぐう、うううう……!」
覚悟を曖昧にさせる苦痛が、腹と背中の両方から襲ってくる。
苦痛に呻くが、内臓を無理やり押し上げられる気持ち悪さがこみ上げる。
口の中に、酸味の混じった血の味が広がっていく。
地面の上でのたうち回りたかったが、痛みのあまりにそれすらも叶わない。
「違う……今は、そんな場合じゃない……」
立ち上がろうとしたが、痛みと熱が増すだけで身体が動かない。
背後からコツコツと硬質の足音が近づいてくる。
間違いなく、ギルガメッシュだった。
ふざけるな……。
こんなところで寝転がっている場合じゃないのに……。
痛みが増す刃傷を無視して、前へ前へと進もうとする。
両腕を使って這うように移動しても、この程度の速度じゃ何の意味もない。
そうしているうちに、足音が俺のすぐ後ろで止まった。
「さて、下らぬ余興はここまでだ。……何を企もうとも、我に通じると思ったのか?」
振り向いて、確認するまでもない。
ギルガメッシュは、もう手の届く距離にいる。
……サーヴァントを出し抜こうなんて、甘い考えだった。
あいつからすれば、俺なんていつでも殺せた。
「――フン」
そして、俺の背中に刺さった剣を無造作に引き抜いた。
「……あああああ!!!!」
肉が更に裂けて、激痛に追い打ちが掛かった。
穴を塞ぐ栓が抜けて、アスファルトの地面を更に血で汚していく。
「雑種の血で我の至宝が汚れてしまったわ」
剣が抜けたおかげで、身動きだけは少しだけ取りやすくなった。
そこからなんとか上体だけ起こして、ギルガメッシュと対峙する。
「王に弓を引く不敬者を、ただ殺すのもつまらぬな。…………あの烏女はどうした? まさか貴様だけで我に歯向かおうとしたわけではあるまい?」
ギルガメッシュは、まだ文の居場所を察知できていない。
「……まあいい。あのような出来損ないなど、我自ら探すのも面倒だ。貴様を殺し、聖杯戦争を終わらせるとしよう」
血で濡れた切っ先を、俺の胸に向けた。
その剣をあと少し前に突き出せば、衛宮士郎の命は終わる。
「…………」
……俺は、こんなところで死ぬのか?
文から託された計画も、切嗣から託された理想も成し遂げないまま?
駄目だ! そんなのは絶対に駄目だ!
体は………この体は、もう動かないのか!
腹の傷を無視して、全身にありったけの力を込めた。
後でどうなろうと、知ったことではなかった。
ここで死んでしまえば、何もかも同じだ。
「う、く……! ああああ……!!」
手は動いた。足も動いた。
……ああ……なんだ……だったら、何も問題ないじゃないか!
両脚がこうして無事であるなら、立てない道理はない。
俺の目の前にはもう、新都センタービルが聳え立っている。
それなら、立ち上がらなければ――立ち上がらなければならない。
そうでないと、彼女の計画が水泡に帰してしまう。
失敗しても、文は恨まないと言ってくれた。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
一度だけでもよかった。
俺はあの子に、射命丸文に認められたかった。
これまでずっと、俺の存在をつまらなくて、取るに足らない存在として見ていた。
出会った日から今に至るまで、その認識も大して変わってないだろう。
それは、痛いほどわかっている。言葉に出していたし、態度でもわかった。
だから俺は、射命丸文に――好きな女の子に、あっと言わせたかった。
そんな子供のように、みっともない感情。
だが、その感情が他の何よりも大きかった。
対等なパートナーとして、彼女の隣に立ちたい。
それが叶えられないのなら、俺は正義の味方になんて絶対になれない。
たった一度だけ。
あの子が、本心から驚く顔をたった一度でもいいから見たい。
それだけが、俺を動かす原動力になっている。
膝に力を入れて、アスファルトに足をつけた。
失血の影響で膝がガクガクと震える。硬い地面なのに少しも安定しない。
今にも崩れ落ちそうだ。
倒れて楽になれと、高ぶる精神に反して身体が警告する。
そんな身体からの抵抗にも無理やり抗って、膝へ力を込めていく。
腹に開いた穴から、粘度のある血が溢れた。
「ぐうううう……!」
だが立てた。
呼吸も定まらず、両腕も弛緩したように垂れているが、立てている。
それなら、文のところに行かなければ……。
「ほう。その傷で立ち上がるとはな。……さて、それでどうするつもりだ? 我は、貴様を殺すことに感慨なぞ一つもないぞ?」
立ち上がって初めて対峙する形になったが、ギルガメッシュは表情を崩さない。
言葉以上に、感情の揺らぎがない。
ギルガメッシュの剣の一振りによって、俺は何の抵抗もできずに死ぬ。
だがそんなことは、重要ではない。
これ以上は何も考えないで、俺は英雄王に背を向けた。それは逃げるためではない。
「はあ、はあ……」
こうして立って動ける以上、文の計画はまだ破綻してはいない。
俺は、その計画を遂行するだけ――。
「此度の聖杯戦争は、これにて仕舞いだ。ク――あまりにも下らぬ幕切れだったな、言峰よ」
すぐ背後から、自嘲的なギルガメッシュの言葉。
そして俺を殺すべく、英雄王が剣を振り上げるのを感じた。
◇
今際の際になって、ふと疑問に思った。
ギルガメッシュは、文に気づいていなかった。
逆に彼女は、ギルガメッシュに気づいていないのか?
……いいや、そんな筈はない。
冬木を一望できる場所にいて、英雄王に気づかないはずがない。
だったら、今のこの状況も当然――。
疑問が氷解するのと同時に、馴染みのある風の力を感じた。
俺の頭上に突風が通過すると、背後からの金属の衝突音。
ギルガメッシュが俺を殺すために振り上げた剣が、弾き飛ばされて宙を舞った。
「ハ、そこか――!」
ギルガメッシュが、冬木センタービルの屋上へと視線を向けた。
ここから100メートルほど離れた、冬木で最も高いビルの屋上。
そこに、一人の少女の姿があった。
屋上の塔屋に立って、他者を見下した可愛げのない笑みを浮かべている。
指先をくいくいと動かし、ギルガメッシュを挑発した。
「この我を笑うとはな。死に損ないの化物めが」
ギルガメッシュに、初めて表情と呼ばれるものが生まれる。
直前まで殺そうとしていた俺の脇を通り過ぎて、ビルに向かって歩き出した。
「よかろう。このような結末に興が冷めていたところだ。ならば、この英雄王が直々に決着をつけてやろうではないか!」
それは、ただの独り言だった。俺に言ったわけではない。
俺には一瞥も与えず、何の関心も示さない。
小さくなっていく、男の背中。
どうやら首の皮一枚で、命が助かったようだった。
僅かに緊張が解けたが、そこに安堵はない。
「う、あ……」
腹の傷が痛む。
口から血と胃液が混じった味がして、吐きだしてしまいそうだ。
気が緩んだ瞬間に、気を失ってしまう。
失神して、この苦痛から一時でも解放されるのなら……。
そんな甘美な誘惑に負けそうになったが、それは俺自身が許さない。
今回、俺が文に頼まれたことは一つ。
『ギルガメッシュを冬木センタービルの屋上に連れて行く』というもの。
それ以上の詳細は聞かされていない。あとは何とかすると言われた。
こうして、あいつが自発的に目的地に向かった以上、俺の仕事は終わっている。
「文……」
ギルガメッシュはビルに侵入して、屋上に向かっているだろう。
「…………」
俺の身体は、自然と歩き出していた。
こんな場所で何もせずに、じっとしているなんてできない。
走ることは、不可能だった。
腹の傷を庇うように、文のいるビルに向かっていく。
呼吸が浅く、傷が焼き付くように熱い。
こんな無茶をしたところで、俺には何もできない。
こうして歩くのもやっとな状態。それで何ができるというのか。
だけど、歩くのをやめようとは思えない。
全てが終わる瞬間をただ待っているだけなんて、絶対にできなかった。