文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
食い千切られた英雄王の首から、夥しい血液が噴き出した。
少女は全身にその熱い液体を浴びるも、気にする様子もない。
それどころか、妖艶とした表情を浮かべている。
手についた血に舌を這わせ、頬を紅潮させる艶姿は、見る者を倒錯させる。
英雄王の顔もまた、自らの血によって染まっていった。
出血を止めるため喉を押さえようとしたが、空を切るばかり。
何故なら左腕は、少女の腹の中に浮かんでいるから。
ぷらぷらと千切れかかった手首を、彼女は滑稽なものとして見ていた。
「……ガ、ハ……ゴッ!」
ギルガメッシュはパクパクと口を開けるが、言葉として成り立たない。
代わりに鮮血だけが、ゴボゴボと吐き出されていく。
声を発するのも叶わない。そのために必要な器官もまた、少女の腹のなか。
「あ、ははははははは――――ッ!!」
元凶である一体の妖怪は、腹を揺すって笑った。
本当に楽しそうに、見た目通りの子供のように、無邪気に笑った。
こんなのは品性がないし、自分の在り方から大きく逸脱している。
少女はそう思ってはいたが、胸から込み上げる感情を止められない。
心が、極端に残酷になっている。
砕け散った理性では、とても抑え切れない。
心の偏執。報復の履行。
人間を貶めて苦しめるのは、こんなにも気持ちがいい。
恨みつらみを晴らすのは、こんなにも気分がいい。
全身にゾクゾクとした快感が走る。
骨肉ごとグチャグチャにされた背中の痛みすら忘れてしまう。
圧倒的な快哉の奔流。
性行為すら比較にならない快感に、妖怪としての本能が満ちていく。
生きている実感というものを、存分に味わっている。
妖怪は精神生物だ。
人の常識では、測れない存在だ。
心に深刻なダメージを受ければ、それは妖怪を殺す。
逆に心が十分に満たされれば、それは身体の傷を治す。
人間の肉は妖怪にとって、栄養価が高いものではない。
人間を捕食するという行為そのものに、妖怪としての不変的な意味がある。
つまり妖怪を生かすも殺すも、結局は心の在り方でしかない。
射命丸文は今この瞬間のために、自分の千年は存在していたと錯覚してしまう。
極上の酒ですら味わえない酩酊感。それが少女を存分に酔わせている。
人類最古の英雄王であるギルガメッシュを言葉通り喰い殺した。
それで膨れぬ、腹と心はない。
決着はついた。
こうして喉を食い千切られれば、英雄王と言えど生きてはいられまい。
…………満足だ。
そして二人は、地上に叩き付けられた。
◇
それは、水袋が破裂したような音だった。
人体は柔らかく、同時に硬くもある。
そんな肉と骨でできた混合物質であるが、大半は水分で構成されている。
70メートル近くの高さから落下すれば、人体なんて水袋と大差ない。
ギルガメッシュの抵抗によって、高度はビルの半分程度になった。
それでも人を殺すには、十分すぎる。
射命丸文は受け身も、飛行も、風を起こすことも許されない。
満身創痍の少女にとって、高度70メートルからの落下は、想像を絶する苦痛を生んだ。
「が、はっ……!」
肺腑から奇妙な音が漏れると同時に、血反吐を撒き散らす。
ギルガメッシュの血肉も喉元まで逆流したが、これは吐き出せない。
外に出してしまえば、それで彼女は終わりだ。
逆流する胃酸と一緒に血肉を飲み込み、無理やり胃袋に戻す。
落下の衝撃によって、酸素を取り込めない。呼吸ができない。
(苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい……!)
頭の中が、苦痛だけで満たされた。
内臓が、ぐちゃぐちゃに掻き回されている。
ほぼすべての臓器に、甚大なダメージを受けている。
眼球が破裂しかかっているのか、視界全てが赤い。目の前がチカチカと点滅している。
再び吐き気が襲ってきた。それもまたギリギリのところで飲み込む。
何とか呼吸をしようにも、喉からは蛙を踏み潰したような音が鳴るだけ。
(これは、ヤバいかも……)
気絶することも、死ぬことも許されない。
自らの不条理な頑丈さを呪ってしまう。
「~~~~ッッッ!!」
少し遅れて、手足からも激痛が襲ってくる。
どうにか動かそうと思っても、頭からの命令を受け付けてくれない。
……落下の衝撃によって、四肢が飛び散ってしまったのか?
そんな疑問が、脳裏に浮かんでしまう。
なんとか首を持ち上げて、自分の手足を確認する。
四肢は欠けずに存在していたが、決して無事とは言えなかった。
左手が、見慣れぬ方向へと曲がっていた。
特に右足が酷い。折れた脛骨が皮膚を突き破っている。
はみ出た骨が血に濡れて、ピンク色に染まっている。
そんな様子が、どこかおかしく感じてしまう。
損傷の度合いからして、足から地面に落ちたようだった。
「ふっ、ふっ……」
息を重ねようとする文の視界に、ギルガメッシュの姿が映った。
男はそう遠くないところで倒れていた。少女とは逆の、うつ伏せの状態。
食い破った喉を中心に、鮮血が舗装路に広がっていく。
……頸動脈ごと喉を喰らった。その時点で死んでもおかしくない。
追い打ちのように、彼女と同じ高さからも落下している。
生きているはずがない――。
生きているはずがないのに、どうして乖離剣を地面に突き立てている……?
使い物にならない左腕も使って、どうして起き上がろうとしている……?
……そもそも、呼吸はできているのか?
呼吸器官は、首から逆流した血によって満たされている。
つまり、自分の血で溺れている状態だ。
それなのに、ギルガメッシュは立ち上がろうとしていた。
あり得ない。
だがそんなあり得ない奇跡を成し遂げるから、英雄は英雄と呼ばれるのではないのか?
「――――」
ギルガメッシュの顔は、文以上に蒼白だった。
表情筋がすでに機能してないのか、感情は掴めない。
それでも赤い瞳は少女を完全に見据えており、熱量を失ってはいなかった。
大量出血、呼吸障害、筋肉の弛緩、微弱な痙攣――。
エクスカリバーによる裂創も常人であれば、絶命するもの。
死んでなければおかしい。意識があるのも信じられない。
決して折れない黄金の精神は、生理現象すら跳ねのけるのか。
「…………」
こんな状況なのに、文は痛みを忘れて感心してしまった。
紛れもなく、ギルガメッシュは全てのサーヴァントを凌駕するサーヴァントだ。
英雄の中の英雄。まさに英雄王の名に相応しい。
あり方は人間とは比較にならない。比べるのも烏滸がましい。
精神的な発展を遂げた幻想郷に住む人妖含めて、これほどの魂の持ち主はいない。
そして、ギルガメッシュは立ち上がった。
折れた足を引きずって、文に歩み寄る。確実に殺すために。
男のように、少女は立ち上がれない。
右足が開放骨折している以上、物理的に不可能だった。
まともに動けず、何もできない。王による裁定の時を待つだけ。
ギルガメッシュは、少女の目の前で歩みを止めた。
発声器官を失っており、言葉を話せない。
そのため、瞳が雄弁に語る。
『貴様の負けだ』と――。
今度こそ悠長に眺めずに、英雄王は乖離剣を構えた。
左腕と喉を食われて、高所から落下しても手放さなかった乖離剣エア。
宝具の解放は、もう不可能だ。
しかしその刀身は王の期待に応えるように、回転を続けていた。
「今更、負けるかよ」
文は、そう憎々しげに吐き捨てた。
四肢で無事なのは、右腕と左脚だけ。魔力枯渇でそよ風すらも起こせない。
つまり、彼女は何もできない。
ギルガメッシュは、文の心臓に乖離剣を振り下ろした。
その時、少女は笑っていた。
それは、諦観から来るものではない。
とても嬉しそうに笑っていた。
実は、頬も少しだけ赤かったかもしれない。
さっきの言葉も、決して虚勢ではなかった。
射命丸文は、気づいていたから。
そして、少女の胸に乖離剣が届くよりも先に、一本の矢が英雄王の胸を貫いた。
◇
出血を続ける腹の傷を押さえながら、なんとか冬木センタービルから抜け出した。
「ハァ、ハァハァ……」
呼吸も不規則で、全身に血液がちゃんと循環してないのがわかる。
エレベーターがなければ、間違いなく途中で倒れていた。
それよりも今は文の安否だ。地上に落ちた彼女を探さなければならない。
「いた……」
拍子抜けなほど、簡単に見つかった。
ビルの真下の舗装路に、文とギルガメッシュを発見した。
二人とも生きている。
どちらのものかも判断できない血で、全身を染めていた。
文もギルガメッシュも、酷い有様だった。
……地上に至るまで、何があったのかわからない。
高所から落ちただけでは説明できない傷も、互いに存在している。
だが二人の明暗は、はっきりとしていた。
倒れて身動きの取れない文に、ギルガメッシュが剣を持って近づいていく。
「…………!」
声を上げそうになったが、ギルガメッシュに気づかれてはいけない。
これまで使っていた弓は、腕で腹の傷を塞ぐために捨ててしまった。
だから、一から作り直さないといけない。
……こんな状態で、魔術を使えばどうなるかわからない。
だが、この矢を使うためにどうしても必要だった。
『――
弓の投影に成功した。
魔術回路を開いていなかったら、確実に死んでいただろう。
「うぐ……」
激痛に耐えかねて、涙が流れたと思った。
頬を伝う液体を袖で拭くと、赤色をしていた。
無茶をした結果、目の奥の血管が切れたのかもしれない。
「…………ふぅ、ふぅ」
文の力が込められた矢。最後の一本。絶対に外すわけにはいかない。
弦を引くと、気が遠くなりそうな激痛が襲う。
それでも、痛みだけなら制御できる。
手先の震えが止まらず、視界もずっとぼんやりとしている。
ギルガメッシュの頭を狙う余裕はない。だから、次に急所の集まる箇所を狙う。
……外せない。外せば全てが終わってしまう。
頭は、どんな時だって冷静でなければならない。
熱くなれば、当たるものも当たらなくなる。
距離も大したことはない。15メートル程度だ。
万全なら、絶対に外す距離ではない。
これまで二度放った矢は、全てギルガメッシュに躱された。
深呼吸――。
数秒の間でも、呼吸の乱れを抑えなくてはならない。
狙いは定まった。後はもう弓を放つだけ。
この距離であれば、放つと同時に矢はギルガメッシュに到達する。
あいつが、文を殺そうとした瞬間を狙う。それがきっと最良のタイミングだ。
そして、ギルガメッシュが剣を振り下ろした。
矢を放つ――。
反動が射手である俺を襲ったが、何とか転倒せずに済んだ。
転べばそれまでだ。もう二度と起き上がれない。
そう安堵した時には、矢はギルガメッシュを貫いていた。
これまでの結果が嘘のように、呆気なく矢は胸の中心に命中した。
「やった……!」
文によって強化された矢は、ギルガメッシュの身体を貫通する。
勢いを落とさずに、ビルの壁面に突き刺さった。
矢羽以外は、普通の矢と何ら変わらない。
それなのに、コンクリートの壁に半分以上めり込んでいた。
だが、ギルガメッシュは倒れなかった。
「うそ、だろ……」
胸の穴は、間違いなく急所を貫いている。
そのはずなのに、英雄王は生きていた。
耐久力の問題ではない。
心臓が破壊されている。死んでければおかしいのだ。
表情のない男の顔が、ゆらりと俺を捉えた。
「…………!」
英雄王には、喉というものが存在しなかった。
抉り取られた首から、骨が覗いている。
……それなのに、あの目の滾りはなんだ?
息が詰まる。殺されると思った。
それも束の間、ギルガメッシュは再び剣を構え直した。
焼き直しのように、少女に向かって剣を振り下ろそうとする。
矢はもうない。全て使ってしまった。
そうだとしても、このまま見過すなんて絶対にできない!
不要になった弓を捨てて、文の元に走る。
走っているとは到底言えない状態だ。歩いているのと変わらないスピード。
それなのに、腹の穴が今まで以上の悲鳴を上げている。
一歩進む度に、俺の命は確実に縮んでいく。
……だけど、それがなんだ。
彼女の命が助けられるのなら、俺はいつ死んでも構わない。
「間に、合わない……」
たったの15メートルの距離がどうしようもなく遠い。
文が死んでしまう……! 殺されてしまう……!
駄目だ駄目だ……! それだけは絶対に駄目だ……!
「文ーーッ!!」
ありったけの力で、少女の名前を呼ぶ。
それが何になる。名前を叫んでも意味はない。
ギルガメッシュの剣が、突き立てられた。
目は絶対に背けない。
これで彼女が死んでしまうのなら、それは俺の責任だ。
「…………!!」
文は寝返りを打つように身を翻し、刺突をかろうじて避けた。
今まで少女がいた舗装路が、粉々に破壊されている。
あんなものを喰らえば、間違いなく命を落としてしまう。
俺は、無意識のうちに腰にあった短剣を握っていた。
遠坂から託された、セイバーのカルンウェナン。
この短剣は、この瞬間のためにあったのだろう。
「う……く……!」
ギルガメッシュは、文の胸を踏む。
これでもう、彼女は身動きが取れなくなってしまった。
だけど、あと少し。あと少しだ!
文がギルガメッシュの攻撃を躱してくれたおかげで、何とか間に合う!
俺がこんなに近くにいても、あいつは文から目を離さない。
この男も余裕がないのだ。これなら俺でも――。
「――――!?」
強い衝撃の後、気づけば地面に倒れていた。
………………何が起きたのか理解できない。
ただ俺は文と同じように地面の上に転がっていた。
……平衡感覚を失っている。
起き上がろうとしても、地面がどこにあるのかもわからない。
頭がどうしようもないくらい痛い。吐き気が止まらない。
側頭部に生暖かい感触。
手を伸ばすと、頭がぱっくりと割れていた。
ギルガメッシュの間合に入った瞬間、薙ぎ払いを受けたのだ。
剣の側面に刃は付いておらず、鈍器で強打されたのと同じ状態だった。
これは……やばい……。
意識が……意識が、急激に遠のいていく。
「あ……うあ……」
目の前にいる少女の名前を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。
視界が急激に狭くなって、目の前が暗くなっていく。
意識を失う。文の顔を一瞬だけでもいいから見たかった。
そうする理由は何なのか。後悔、憐憫、同情、贖罪、自己嫌悪……。
どんな理由をつけても、不甲斐ない自分を納得させる材料にもならない。
ギルガメッシュは、俺など見ていない。
今の攻撃も纏わりつく虫を払う程度のもの。現に俺は、抵抗もできずにこの有様。
英雄王の剣が振り下ろされる――。
それなのに少女は、ギルガメッシュではなく……俺を、俺の目を見ていた。
でも何も浮かばない。意識が飛ぼうとしている。
「最後に格好いいところ見せなさい! 正義の味方!」
そう彼女は、言った。
その直後、英雄王の剣が少女に突き立てられた。
「…………ッッ!!」
文は咄嗟に右腕を使って、急所だけを庇った。
しかし、高速回転する刀身には殆ど無意味だった。
彼女の腕は、たちまち細切れにされていく。余計に苦しむだけの抵抗。
悲鳴は上げない。歯を食い縛り、一秒でも長く身を削って防ぐ。
それはかつて『この右手が残っている限り大丈夫』と言った記者の腕だった。
正義の味方。
それは、一瞬も忘れなかった、爺さんとの盟約。
生涯を捧げると誓った、俺自身の夢。
熱が入った――。
ああ、わかっている……。わかっているさ!
だったら、こんな時に何を呑気に眠ろうとしているんだ!
ここで好きな女の子すら守れなくて、何が正義の味方だ!
……セイバーのカルンウェナンは、今も握られている。
気絶なんて、ただの防衛本能だ。
それなら本能に抗って、身体を起こせばいい。
虚脱感と苦痛が全身を蝕む。いま死んだって構わない。
下肢に力を込めるが、膝から下の感覚が無く動かない。
それなら上体だけ起こす。膝立ちになって、両手で短剣を持つ。
「うあああ――ッ!!」
倒れ込むように、カルンウェナンを英雄王の腹に突き刺した――。
「…………!!」
腹に刺した短剣は、複数の重要器官を破壊しているはず。
その直後、ギルガメッシュの手首のない左腕が、俺の身体を撥ね飛ばした。
サーヴァントの膂力によって、再び地面に倒されてしまう。
「…………」
だが、ギルガメッシュは倒れない。
一歩二歩と後ずさったが、黄金の男は倒れない。死んでいない。
不死身の化物と戦っているような錯覚。
宝具によって、命を再生するバーサーカーの方がまだ理解できる。
英雄王は、己の精神力だけで持ち堪えている。理解を完全に超えていた。
そしてギルガメッシュが、文にとどめを刺そうとした時――。
「えい」
仰臥の状態で放たれた少女の蹴りが、腹に刺さった短剣を押し込んだ。
たったそれだけで、ギルガメッシュの動きが止まる。
ゴボゴボという奇妙な音と共に、喉と口から気泡混じりの血が流れた。
文は足に力を込める。
より体内深くに押し込まれた短剣は背中を突き破って、切っ先を朝日に晒した。
そしてギルガメッシュが、ついに膝をつく。
「――――」
言葉は遺さない。
前のめりに倒れると、英雄王の身体は暁の空に散った。