文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
「ま……人間じゃここが限界か」
衛宮士郎が意識を失ったのを確認すると、射命丸文は赤い瞳を鋭く細めた。
たったそれだけで、少女の印象が酷薄なものに変貌する。
「ふう」
士郎の身体は見た目以上に筋肉質だったが、軽々と持ち上げて肩に担ぐ。
10センチ以上の体格差があるため、どうしてもアンバランスな姿になってしまう。
朝の6時を過ぎて、段々と空が明るくなってきた。
少しずつだが、人の気配も感じる。
致死性の怪我を負った少年少女。少年に至っては、意識を失っている。
誰にも見られてはいけない。見つかると面倒になる。
羽はズタズタで空は飛べないが、それでも隠密行動は得意だった。
蒙昧な人の目など、容易に搔い潜れる。
救急医療機関は、新都内に存在している。そう遠くもない。
「では、行きますか」
そう呟いた瞬間、少女の姿は冬センタービル正面から消えていた。
少々乱暴な運び方だったが、文は病院に士郎を届けた。
無事に届けたわけではない。
宣言通り、病院のエントランスに放置しただけ。
ただ身元がわかるように、気絶した士郎の上に身分証入りの財布を置いた。
傷だらけで倒れている少年。遠目からでも目立つ存在だ。
「……ちょっと心配だけど、無視されることはないわよね」
もっとも、ただの事故では片付けられない傷がある。
意識が回復した後は、警察からの尋問で忙しくなるだろう。
しかしそれは、文の関知することではない。今の彼女は、その程度には優しくない。
これで自由になった。やるべきことはまだある。
「さてと――面倒だけど、最後の後始末をしますか」
次の目的地も、同じ新都にあった。
同じ地域ではあるが、郊外に位置するため往来の良い場所ではない。
小高い丘の上に立つ教会。
聖杯戦争の監督役である言峰綺礼の住む冬木教会が、最後の目的地だった。
◇
良質のオーク材で作られた重厚な扉。
聖杯戦争の初日。かつて訪れた時とは状況が違う。
律儀にノックなんてしない。
鍵は掛かってないかもしれないが、確認するのも面倒なので蹴り破る。
「おっはよーございますー! 清く正しく、そして聖杯戦争の勝者である射命丸ですー!」
明朗快活な声が、教会に響き渡る。
そして、屋内の様子は文の想像以上の有様だった。
神事を執り行う場所では、絶対にあってはならない光景。
薄暗い壁に飛び散る、真新しい血液。
入り口から中央奥、祭壇の前にいる長身の男。
その傍らに倒れた二人の少女。
「…………」
鮮度の良い血の匂いが、烏天狗の胃袋を刺激する。
くうくうと鳴る空腹感。
ギルガメッシュの血肉を喰らったせいで、理性どころか意識も酷薄になっている。
高位の妖怪として、行きすぎた感覚だった。
これでは、本能で生きる獣と変わらない。自重しなければ。
「……中年男の足下に、年端のいかない少女が二人。ふむ。一面を飾ってもおかしくないネタですが、生憎今日の私はカメラを持ってきていません」
初めて会った時と変わらぬ態度で佇む、言峰綺礼の姿。
闖入者である射命丸文を見ても、何の動揺も見せない。
そんな人並みの感情を感じさせない姿は、屍蝋を彷彿とさせた。
倒れた少女の一人は、数時間前に顔を合わせたばかりの遠坂凛。
赤い服の上からでもわかる血の染み。方法は不明だが、腹部を的確に抉られている。
返り血を浴びた姿を見るに、下手人は綺礼で間違いないだろう。
彼女のような聖杯戦争を戦い抜ける強かな魔術師に、無傷で傷を負わせている。
言峰綺礼は、相当な戦闘力を有していると考えていいかもしれない。
彼女は長椅子に寄り掛かり、傷を押さえている。意識は失っていない。
出血は激しかったが、すぐに死んでしまう類の傷ではなかった。
「あんた……? どうしてここに……?」
文の突然の襲来に、驚きを隠せないようだった。
「ふむ、凛はしゃべれる程度には元気みたいね。……カメラといえば、あのデジカメほしかったなー。それだけは心残りかも」
必死に声を絞り出した凛を適当にあしらうと、もう一人の倒れた少女を見る。
「…………!」
幻肢痛――失ったはずの片翼が疼いた。
「……イリヤさん?」
もう一人の少女。
それは、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールだった。
気を失っているが、遠坂と違って外傷は見当たらない。
しかしどうにも様子がおかしい。
姿形は人間と同じもの。だが――これは本当に人間なのか。
人の因子は、間違いなく持っている。
だが溢れる魔力が、常軌を逸していた。
こうして知覚できる範囲でも、一人の人間の抱えられるような魔力量ではない。
人ではなく、魔力で満たされた広大なプールを見ているようだった。
(…………??)
射命丸文は、魔術についての見識は深くない。
彼女をこの世界に送った魔女なら容易く看破できるだろうが、それは無意味な仮定。
これ以上考えても詮無いと判断し、本来の目的である男に視線を戻した。
「改めまして、おはようございます! 素晴らしい朝ですね!」
軽く手を挙げて、挨拶をする。
その右手は、ミキサーへ突っ込んだようにボロボロだった。
「ふっ……本来であれば、よくきたとでも言うべきだろう。しかし、今は状況が悪いようだ。何故ここを訪れた?」
傷だらけの手をあえて見せたのは、からかい程度の脅しだったが、男は眉一つ動かさない。
少しも意に介さず、淡々と自身の疑問を告げた。
「聖杯戦争に勝ち残ったので、聖杯を受け取りに来ました」
これは、男にとってアキレス腱とも言える質問のはず。
僅かな表情の変化でも見逃さないよう、文は綺礼の顔を凝視する。
「……ほう。聖杯がここにあると思ったのかね?」
それも無駄に終わってしまう。男には何の変化も見られなかった。
これ以上の脅しや牽制は、言峰綺礼に意味はないだろう。
「…………」
片や遠坂凛は、気まずそうに目を逸らしていた。露骨に文の右手を見ないようにしている。
ここまでの荒事には、免疫がないのだろうか。年相応の少女の反応だった。
「あはは」
あまりの愛らしさに口角が上がりそうになったが、寸前のところで抑える。
(……嗜好が露悪に傾いている。もう少し美意識を持たないと)
壊れた理性に人喰い――。彼女は、体裁というものを失っていた。
血の匂いを嗅いだ時の高ぶりも含めて、まともとは言えない精神状態。
セイバーと戦っていた際の高ぶりとも違う。あの時と違って、今の彼女は極めて冷静だった。
射命丸文はもはや、かつての自分を再現しているだけに過ぎなかった。
「あなたは前々から怪しいと思ってましたからね。聖杯を掠め取っても不思議じゃありません。……そしたら、こんな素敵な光景が広がってるじゃないですか!」
「私としても、教会を血で汚すような真似はしたくなかったのだがね。凛の訪問がなければ、すでに聖杯の力を行使していただろう」
「おや、すんなりと自白した。……しかし、その聖杯はどこに?」
てっきり白を切ると思っていただけに、少々鼻白んでしまう。
「君が気づいていないだけで、あらゆる奇跡を可能とする願望器はすでに顕在化しているのだよ」
「はい? 私は聖杯戦争の勝者なんですけど、そんなものはどこにも顕れませんでしたよ?」
「目聡そうに見えて、意外と鈍いのだな。……君の目の前にいるアインツベルンの少女こそが、此度の聖杯だ」
文は言われて、ようやく気づく。
イリヤスフィールこそが、聖杯そのもの。
これで、彼女が抱える膨大な魔力に納得ができた。
聖杯戦争――。
聖杯がその名の通り、杯である必要はない。
幻想郷に住みながら、固定観念や常識に囚われていた。
「それにしても、やけにべらべらと喋りますね」
「……おまえは私を殺しに来たのだろう? 私が何を言おうが、その意志は変わらないと思ったのでね」
「へえ――そういうのわかるものなんですか。おくびにも出してないつもりでしたが」
「クク。神の家を蹴破りながらよく言うものだな。……今日まで聖職者として生きてきたのだ。他者の心も判らずに告解など聞けぬよ」
「ごもっとも」
今や射命丸文の存在は、人間社会における悪そのものだった。
苦痛と不幸に、幸福と喜びを見出してしまう。
人間の苦しむ姿を見るのが、楽しくて仕方がない。
それを自分の手でやれば、もっと楽しいだろう。
「……………………」
……だから何としても、元の自分を保たないといけない。
そうじゃないと、きっと取り返しのつかないことをしてしまう。
それは困る。とても困る。
人間がどうなろうと知ったことではないが……彼を、衛宮士郎を悲しませたくない。
「……ところで、君一人かね。衛宮士郎の姿が見えないようだが」
会話が途切れたところで、綺礼がそう尋ねる。
強く観察してないとわからなかったが、語調にも変化があった。
「彼ならもうリタイアです。今ごろ集中治療室でしょう」
「そうか、それは残念だ。この状況で衛宮切嗣の息子に会っておきたかったが。……まあいい。それでアーチャー。貴様はどうする?」
「あなたが何をしようが、私の知ったことじゃありません。ですけど、士郎さんに義理立てする程度には世話になってますからね。悪いけど、ここで完全に死んでもらいます」
ここで初めて、男は表情らしきものを浮かべた。
「……『完全に』か。ふっ、言い得て妙な言葉だ。……だがこの仮初めの命が動く限り、抵抗はさせてもらおう――」
いつの間にか綺礼の手には、幾つもの剣が握られていた。
その指の間に挟むようにして構える剣は、黒鍵と呼ばれるもの。
聖堂教会に所属する代行者の正式武装であり、刃渡りは1メートルにも満たない。
斬ることには向かず、投擲を主とした概念武装。
文の位置は、投擲武器を武装した言峰には絶好の間合。
だが少女は、黒鍵を見ても構えようともしない。赤い瞳は、男の顔だけを捉えていた。
「あんた、ボロボロじゃない。そんなんで大丈夫なの……?」
凛の言うとおり、ギルガメッシュ戦での傷は少しも癒えていない。
今の文は、幻想郷最速と言われた頃の面影はない。空だって飛べないまま。
「息も絶え絶えな凛には言われたくない言葉ですね。…………ま、いま出せる実力は、ざっと見積もって絶好調時の5パーセントほどですけど。人間相手ならラクショーでしょう」
「綺礼を甘く見ないで……! 私の兄弟子でもあるし、異端狩りのエリートである埋葬機関の代行者なのよ……! あんたが思っているほど、一筋縄でいく相手じゃないわ……!」
気の抜けた文の言葉とは違って、凛の声色は怒りすら感じる。
「ふーん。……で、その大層な経歴の神父さんは私に勝てるつもりなんです?」
言峰綺礼を見る天狗の瞳が、突き刺すように細められる。
「……代行者が生半可な覚悟で黒鍵を執ることはない。我らができるのは、常に自身の行為を是とするだけだ」
「はあ、そうですか」
言峰は姿勢を低く構えると、両の手に持つ黒鍵を少女に向けた。
「今まで私は退治される側だったけど、あなたたちは私に喰われる側。……そこのところを理解してます? これは理屈じゃない、もっと単純な本能の話。……こんな台詞、三下の雑魚が言うものだけど、今回だけは言わせてもらうわ」
彼女の言葉と同時に、黒衣の男は黒鍵を投擲した――。
8本の剣の矢が、少女を狙う。
ある程度の広さのある教会でも、戦闘をする空間ではない。
均一に備え付けられた長椅子も、行動範囲を狭めている。
高速で飛来する剣の群を前に、未だ少女は男を睥睨したまま動かない。
……文の前にいるのは、人間だった。
これまで戦った英霊とは違う。魔を滅ぼし、歴史に名前を残すような英雄英傑ではない。
極限まで鍛え上げた、ただの人間。
これは、人間が妖怪と平等に戦うための弾幕ごっこではなく。
ただの殺し合いに、人間が妖怪に挑む。
それがどういう意味なのか、誰も理解していない。
「あまり天狗を舐めるなよ――人間ども」
閉ざされた教会に、暴風が鳴る。
放たれた黒鍵は一本も届かず、無慈悲に弾かれた。