文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
目を覚ますと、異常な渇きを覚えた。
更には目が痛くなる眩しさと、尋常ではない気分の悪さも。
頭も鈍化しており、状況がまったく掴めない。
何よりも全身が痛くて、身じろぎすらままならなかった。
そんな苦痛に耐えていると、明順応が進んで視界が開けてくる。
目が痛いまでの白一色。それと消毒剤の匂い。
清潔なベッドに寝かされており、腕からは点滴が伸びていた。
つまり、ここは病院のようだ。
ギルガメッシュを倒した後、俺は意識を失ってしまった。
そうして、今は生きて病院にいる。
あの後、文がここまで運んでくれたのだろう。
……だけど、その彼女はどこなのか? 俺以上に酷い傷を負っている。
自分よりも先に、あの子の心配が来てしまう。
今すぐにでも、文に会いたかった。顔が見たかった。
「…………う、く」
だが、どうやっても立ち上がれそうもなかった。
というよりも、身体が少しも動かない。
意思に反して、穴の空いた風船のように力が入らない。
「…………駄目だ」
暫くは、こうしているしかなさそうだった。
それから数分後、点滴の交換に看護師が入室した。
声を掛けると、俺の話を聞かずに慌ててどこかに行ってしまう。
すぐに担当医らしき男性が姿を見せて、検査を開始する。
それが済むと、何種類かの経口薬を渡された。
効能の説明を受けたものの、鈍った頭ではあまり理解できない。
薬を飲むと眠気に襲われて、再び眠りについてしまった。
それからまた目を覚まし、ようやく今の状況を確認できた。
どうやら俺は、五日間も寝たままでいたようだ。
つまり、聖杯戦争はとっくに終わっていた。
病院に運ばれた時、俺はかなり危険な状態だったらしい。
そのため、緊急手術をした。
もっとも意識がなかったため、手術自体は覚えていない。
その甲斐あって、何とか一命は取り留めたが、今や全身包帯まみれだ。
「士郎~~!! お姉ちゃん心配したよ~~!!!」
その直後、息を切らした藤ねえが駆けつけてきた。
そういえば、彼女は俺の保護者にあたる人物だった。
そんな当たり前の事実を、改めて実感する。
その時の状況については、彼女の名誉のため割愛しよう。
◇
その後はずっと、ベッドの上で身動きが取れない日々を過ごしている。
担当医曰く、俺の傷の治りは目を剥くほど早いらしい。
それはあくまで常識的な範囲内であり、聖杯戦争での回復力は失われていた。
何にしても、今はリハビリが可能な段階まで快復する必要がある。
あれから藤ねえや一成などの見舞客は来たが、文の姿は一度も見ていない。
その代わりと言うべきなのか、警察が来るようになった。
まともに話ができるようになったのを、見計らったようなタイミングだ。
怪我の経緯について尋ねられたが、どう答えていいのかわからなかった。
まず初めに慎二の起こした学園の惨事が、脳裏に浮かんでしまう。
正直に話したい気持ちもあったが、やめておいた。
とても信じてもらえる内容ではない。俺の正気を疑われて、おしまいだ。
最悪、別の意味で入院が伸びる結果になるだろう。
結局、警察には記憶がないと言ってはぐらかした。
頭には、ギルガメッシュの宝具で殴られた大きな傷がある。
その影響で、記憶が一部喪失してもおかしくない。
怪我の功名と言っていいだろう。
ただあの時の苦痛を思い返すと、手放しで喜べるものではなかった。
そして一番驚いた来訪者は、イリヤだった。
彼女は心のどころかで、もう二度と会えないと思っていた。
お互い手を取り合って、再会を喜び合う。
これまでどうしていたのかと尋ねると、あの戦いの後、言峰綺礼に拉致されたらしい。
つまり、聖杯戦争の背景には、監督役であるはずの言峰綺礼の暗躍があった。
……今は定かではないが、気絶する前の懸念もあの男だったはず。
そして、俺が気絶した後の顛末を教えてくれた。
聖杯のこと、イリヤのこと、遠坂のこと、言峰のこと……文のこと。
俺が眠っている間に、全て終わっていた。
教会へと現れた彼女が、その場を滅茶苦茶にしたと言う。
もっともイリヤも意識がなかったらしく、遠坂から詳細を聞いたらしい。
俺はその間、呑気に気絶していた。
正義の味方を目指す者として、実に情けない話だ。
そうやって自己嫌悪に陥っていると、イリヤがこれでもないくらい慰めてくれた。
少女の献身にこそばゆさを感じたが、安らぎを覚えたのも確かだ。
『シロウは、正義の味方なんて目指さなくてもいい』とまで言ってくれた。
だがそれは切嗣から託された、俺自身の理想。
それだけは誰の頼みであっても、頷くわけにはいかなかった。
それを聞いたイリヤは、とても悲しげに笑っていた。
その顔は俺の目に焼き付くほど、印象的なものだった。
「うん。わかった。じゃあね。シロウ……」
雪の少女はそう言って、病室から去っていった。
その時、一抹の寂しさを感じた。
なぜなら、今度こそ彼女に会えなくなると思ったからだ。
「こんにちは! シロウ!」
そう思った翌日、彼女は再び会いに来てくれた。
それからイリヤは、一日も欠かさずに見舞いに来てくれる。
ドイツにあるアインツベルンには、もう帰らないそうだ。
見舞いというのは本人談だが、俺には遊びに来ているようにしか見えない。
それでも頼み事を色々と聞いてくれるので、退院した後は頭が上がらないだろう。
イリヤによると、どうやら遠坂もこの病院に入院したらしい。
そして一度も顔を合わせないまま、彼女は一足先に退院してしまった。
俺は立つのもままならないので、退院の前に一度は会って欲しかった。
……そういえば、セイバーのカルンウェナンはどうしたんだろうか。
あの後、文はちゃんと回収してくれたのか?
カルンウェナンは、遠坂から一時的に借りたものでしかない。
ギルガメッシュ戦のゴタゴタで失くしたなんて言ったら、ただじゃ済まされないだろう。
文と未だ会えないものあるが、それもまた懸念の一つだった。
……桜は、見舞いに来ていない。
最後に会った時、彼女は深い絶望にいたのを覚えている。
あれから一度も、連絡を取れていない。
文は何か知っているようだったが、詳しくは聞けていなかった。
『彼女から話してくれるのを待つべき』と言っていた。
それなら、直接会って話を聞いてやらなければならない。
退院したら、真っ先に彼女の元に行く必要があった。
もし言いたくないようなら、何も話してくれなくていい。
その時に側にいてやるぐらい、俺にだってできる。
それに、慎二のこともあった。
今はまともな精神状態ではないが、学園で多数の死者を出す暴挙に出た。
どんな形になるにしても、あいつとは決着をつけなければならない。
聖杯戦争は、冬木に大きな傷跡を残している。
俺の知る範囲でも、両手の指じゃ数え切れない人が死んでしまった。
俺にもう少し力があれば、救えた人もいたかもしれない。
だけど、そう考えるのは無意味だった。
10年前の大火災と同様に、過ぎてしまった過去はやり直せない。
だから、彼らの死をいつまでも忘れてはいけない。
決して、なかったことにしてはいけない。
そしてそんな犠牲を踏みにじる者を、絶対に許してはいけない。
それだけが、死んでしまった人たちにできる俺のすべてだった。
◇
病室で文を待つ。
目を覚ましてから、今日で二週間が経った。
リハビリのためのハンドグリップを握りながら、窓の外を眺めている。
「ふう」
恥ずかしい話だが、一日千秋の想いだった。
会って話したいことも沢山あるが、とにかく今は彼女の顔が見たかった。
今日に至るまで……つまり、聖杯戦争が終わってから一度も会っていない。
その理由は、わからない。
聖杯戦争が終わった今、俺の存在など瑣末事であり、どうでもいいのかもしれない。
今も姿を見せない理由を考えると、そんな可能性も十分にある。
もしそうだったら、とても寂しかった。
それでも文は、必ず俺に会いに来る必要があるのは事実だ。
その一点だけで、俺と彼女はまだ確実に繋がっている。
聖杯戦争で召喚されたサーヴァントは、聖杯の魔力によって現界している。
しかしイレギュラーである射命丸文は、その枠組みから完全に外れていた。
現代に生きている彼女は、己の肉体を持っており、マスター無しでも存分に力を振るえた。
そして聖杯の力を失った今でも、この世界から消えていない。
未だ現界していると、確信を持って言えた。
その証拠に、本来は消えるはずの令呪の一画。それが、今も左手の甲に刻まれている。
つまり俺が令呪を使わない限り、文はこの世界から離れられない。
だから幻想郷に帰るために、必ず俺に会う必要があった。
それを俺は、ずっと待っている。
そして、それは呆気なく実現された。
梅の開花を報せるような、少し暖かい日だった。
陽が沈みかける黄昏時。
面会時間の終わる、一時間ぐらい前。
少し遠慮がちなノックが、二回鳴った。
「こんにちは、士郎さん。……あら? 外の様子からして今はこんばんはですかね」
「……文」
病室のドアから、夕日に染まった少女が顔を出す。
「まぁどっちでもいいや。どうもお久しぶりです。射命丸文です」
窓から来ると構えていただけに、少し拍子抜けな再会だった。
日がな一日、外を眺めていたのが少し馬鹿みたいだ。
だが、今はどうでもいい。
再会は劇的ではなかったが、何も変わらない彼女の姿に感動してしまう。
「うん。久しぶりだ」
天狗のトレードマークである、頭襟と高下駄は外していた。
一般の見舞客と同じように入ってきたのだろう。今更ながらの適応力だ。
「おお、個室なんですか! 意外とお金を持っているんですね。衛宮家の財力を侮っていました」
普段と変わらない軽妙な語り口で、話し掛けてくる。
こうして態度を変えず接してくれる少女に、笑みがこぼれそうになった。
「藤ねえみたいな騒がしい見舞客が来ると、他の入院患者の迷惑になるからな」
俺もまた、彼女に倣って軽口で返す。
つい藤ねえに悪態を吐いてしまったが、言うまでもなく、彼女にもその程度の良識はある。
そもそもこの個室は、藤ねえの家である藤村組が懇意で手配してくれものだ。
「なるほど……?」
気のない返事をして、備え付けのパイプ椅子に座った。
肩に掛けていた大荷物を、病室の床に置く。
最初から持っていた旅行鞄と、新たに増えた大きなスポーツバッグ。
この世界に来た時より、所持品が増えていた。
それを見た瞬間に理解してしまう。これが彼女と会う、最後の機会なのだと。
「……帰るのか? 幻想郷に」
「はい。ここでの用事も大体済みましたからね。まあ……多少の心残りはありますけど」
にべもなく答えると思っていたが、何か未練もあるらしい。
それが何なのか気になったが、尋ねても教えてくれない気がした。
「それで、怪我の具合はどうですか?」
「……まだリハビリを始めたばかりだけど、大きな後遺症は残らないかもしれない。医者が驚いてた」
暫くは、点滴生活が続きそうではある。
食欲は戻ってきているので、味の薄い病院食が続くのは少し気が滅入りそうだ。
入院患者のありがちな話ではあるが、油っ気のあるものが食べたかった。
「ほほう、それはなにより。……あ、林檎剥きましょうか」
文の目線を追うと、フルーツの詰め合わせが入ったバスケットがあった。
藤ねえが病室に訪れた時、持ってきてくれたものだ。
持ってきたその日に、自分で食べ尽くすんじゃないかと思っていた。
藤ねえは俺の姿を見て、泣き腫らした顔でずっと手を握ってくれた。
普段とは違う一面に驚いたが、女性のものとは思えない握力にもっと驚いた。
やはり、彼女の名誉のため早々に忘れてしまおう。
「悪い。頼めるか?」
林檎ぐらいなら今の俺でも剥けると思うが、ここは文に甘えよう。
多分こんな機会は、もう二度とない。
「私も食べたいですしね。……お、この林檎は蜜が多そうです」
「……文の傷は、大丈夫なのか?」
ナイフで手際よく林檎を剥いているが、指先まで巻かれた包帯が痛々しかった。
ある程度は回復しているようだが、万全とまでは言えないだろう。
「おや、私ですか? まあ、後遺症という意味では私の方が重傷かもしれませんね」
そう言って、自分の背中を覗き込む素振りを見せる。
文の背中の翼は、バーサーカーにもぎ取られて、ギルガメッシュに掻き回された。
今は隠しているので確認できないが、そう簡単に治るものではない。
人間には、翼はない。
だが空を自由に駆ける烏天狗に取って、翼を失うのがどういう意味なのか。
それは、想像に難しくない。
「もし、俺が……」
「おっと。その先は言わせませんよ。なに自分が悪いみたいな顔してるんですか。心外ですね。あなたは初めから戦力に入れていません。気にされるだけ不愉快です」
『あなたの責任じゃない』と、慰めているようも聞こえる。
だが彼女は、射命丸文だ。
本心でそう思っている可能性が高い。というか、本心だろう。
『俺が強ければ、そんなことにならなかった』なんて仮定は、彼女への侮辱でしかない。
「まあ、飛んだり跳ねたりする分には問題ありません。……どうぞ」
出された皿の上には、ウサギの形に切り揃えられた林檎が並んでいた。
不機嫌を露わにしていても、手元ではとても可愛らしい作業をしていたようだ。
「…………」
たまにこういうところを見せるのは、この少女の計算なのか。
「どうかしました?」
ウサギの林檎を美味しそうに食べる姿を見るに、割と天然なのかもしれない。
◇
「それで、今日まで何をしてたんだ?」
「ネタ探しの取材旅行です。熱くなった頭を冷すために、日本各地を行脚していました。聖杯戦争よりもずっと有意義な時間でしたね。百年ちょっとで変わりすぎですよ」
先程までとは打って変わり、興奮した様子で話し出した。
本職が新聞記者なだけあって、好奇心は人並み以上にある。
長く生きて感動が薄らいでいると言っていたが、本当かどうか怪しくなってきた。
……ここは別世界の日本ではあるが、そこまで大きな違いはないらしい。
「これはお土産です。見舞い品ということにしてください」
そう言って、マトリョーシカ人形を渡された。
人形のなかに人形が入っている民芸品だ。……どこに行ってたんだ?
「あ、ああ……ありがとな」
ニコニコと笑みを浮かべる文を、邪険にするわけにもいかない。
……そうだ。お土産と言えば、俺からも渡すものがあった。
幻想郷に帰る日のために用意したものだが、おそらくそれは今日になる。
「これ、俺からのお土産。イリヤもお金を出してくれた」
動けない俺の代わりに、買いに行ってくれたのもイリヤだった。
本当は藤ねえに頼もうと思ったが、学園での事件もあってか、かなり忙しいらしい。
あの少女には、本当に頭が上がらない。
「ほうほう、ありがたくいただきます」
手渡した直後に開封してしまう。
せっかくイリヤと二人で、綺麗なラッピングをしたのにあんまりだった。
「……おおおおお! デ、デジカメじゃないですか! いいいいいいですか!? ほほほほほほ本当にいいですか!? 返せと言われても、もう絶対に返しませんよ!? やった! やったやったーーー!!!」
とんでもない喜びようだった。
一眼レフのデジカメ。
入院中、文がとても欲しがっていたのを思い出した。
初心者が使うエントリーモデルではなく、プロが扱うようなハイエンドモデルだ。
バイト代だけではどうにもならなかったので、イリヤに一部を出してもった。
城住まいだけあって、お金には困ってないらしい。今もホテルに暮らしているとか。
「喜んでくれて俺も嬉しい。記録用メディアと望遠レンズも入れてある。あとは説明書を見てくれ」
そう言うより先に、分厚い説明書に目を通している。
デジカメを手に取る少女の瞳は、今日までの付き合いで一番輝いていた。
……ひょっとして、この世界の心残りってデジカメだったのか。
まあ、幻想郷では現像するのも一苦労だろうが、妖怪の一生は長いらしい。
そこは、気長に頑張ってもらおう。
顔も知らないが、彼女の知り合いというエンジニアの河童には心の中で謝っておく。
こうして顔を綻ばせる文は、どう見ても普通の少女だ。
彼女は、それを意識しているわけではないだろう。
これはもう最初に会った時から、ずっと感じていたこと。
射命丸文は恐ろしい妖怪であると同時に、見た目相応の女の子だった。