文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars.   作:悠里@

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73.屋烏の愛

 

 

風が吹く――。

 

少し肌寒くもあるが、三月も半ばも過ぎて徐々に暖かくなってきた。

冬木市は名前に反して、日本の平均よりも暖かい土地だ。

もしかしたら、そろそろ桜が咲き始める頃なのかもしれない。

 

退院の手続きは、すでに済ませてある。

完治したわけではないが、衛宮士郎は本日付で退院する。

担当医に無茶を言って、退院させてもらったと言うのが正しいだろう。

だから暫くの間は、週のうちの何回かは通院する生活だ。

付き添いはいない。

一応の保護者である藤ねえは、教師としての仕事がある。

本人は来てくれると言っていたが、俺が断った。

 

逆に期待していたのは、ほぼ毎日来ていたイリヤだ。

だがどうしてか、退院日の今日に限って病院に来なかった。

退院する日は、もう何日も前に伝えてある。

付き添いを頼んだわけではないが、少しだけ残念だった。

それでも彼女のおかげで、長い入院生活を退屈せずに過ごせた。

それを考えたら、恨み言を言える立場じゃない。

 

運動は厳禁と言われているので、タクシーを使う。

新都から深山まで歩けなくもないだろうが、病院が手配してくれた。

今日まで散々お世話になったのだ。無下に扱うわけにはいかない。

 

「あれか」

 

病院の前にある道路、そこに一台のタクシーが停まっていた。

普段から使う習慣がないので、少しだけ緊張してしまう。

 

「…………」

 

どこかで見た覚えのある運転手だった。

眼鏡が少しずれているのは、暗示とは関係なかったらしい。

……そういえば、遠坂に割り勘のタクシー代を払っていなかったな。

それにセイバーのカルンウェナンも、今も行方不明のまま。

動けない俺に代わりに、イリヤに探しに行ってもらったが、結局見つからなかった。

失くした場所は、センタービル前という冬木の心臓部だ。当然だが、人の通りも多い。

見つけるのは、もう絶望的だろう。

遠坂に土下座をする覚悟を、そろそろ決めないといけない。

 

タクシーの後部座席に座り、大まかな目的地を告げる。

病室のベッドから立ちっぱなしだったので、少し疲れてしまった。

一か月以上の入院生活によって筋力は落ちたが、日常生活を送る分には問題ない。

リハビリの甲斐があったのだろう。

大きな後遺症が残らなかったのは、本当に運が良かった。

それよりも問題なのは、魔術の鍛錬を入院期間はずっとサボってしまったこと。

27本の魔術回路は、盛大に錆び付いてしまっている。

魔術回路はイリヤに開けてもらったので、鍛錬途中で死にはしないはず。

 

 

目的地まであと少しのところで、料金を払ってタクシーを降りる。

ここから先は、リハビリも兼ねて歩くことにした。

二ヶ月も経ってないのに、見慣れたはずの道が懐かしく感じてしまう。

 

「…………」

 

最近は、空を見上げる回数が増えた。

雲一つない、青く透き通った空。

俺は無意識のうちに、射命丸文の姿を探してしまっている。

彼女はもう、幻想郷に帰ったのだ。この空にはいない。

 

幻想郷――。

どれだけ手を伸ばしても、絶対に届かない場所。

二度と会えないのは、わかっていた。

 

「…………ふう」

 

乗り越えたはずだった。

お互いに納得もしたはずだった。

『ありがとう』と言えた。『さよなら』とも言えた。

だけど……『愛している』とは言えなかった。

 

胸が苦しい。

そのことが、俺の中で消化不良になっているかもしれない。

……そんな感情もまた、いずれは記憶の奥に沈んでしまうのか。

だが彼女との記憶を風化させるのは、最後の約束を違えてしまう。

 

それだけは、どんなジレンマに陥ろうとも、絶対にしてはいけなかった。

 

 

 

 

そうして歩いているうちに、衛宮家についた。

長い間、家を放置していたので、まずは窓を開けて換気をしよう。

その後は、積もり積もった埃を掃除しなければならない。

 

「よし!」

 

声を出して、自分に活を入れる。

そして、玄関の戸を開けようとすると――鍵が掛かっていなかった。

それに藤ねえに頼んで戸締まりした窓も、見える範囲で全て開いていた。

屋敷に張ってある結界は、警報を鳴らしていない。空き巣や、強盗の類ではないはず。

 

「もしかして……藤ねえかな」

 

桜の可能性もあったが、あの状態の彼女がこの家に来るとは思えなかった。

玄関先で考えていても仕方がないので、ゆっくりと戸を開ける。

 

「ただいま……」

 

誰かがいる確信を持てなかったので、つい小声になってしまう。

しかしその声に反応して廊下の先から、とてとてと軽快な足音が聞こえてくる。

 

「退院おめでとう! シロウ!」

 

イリヤだった。

どういうわけか三角巾を被って、体中を埃で汚している。

少女の埃塗れの顔は、満面と呼んでいい笑みをたたえていた。

 

「……あ、ああ。ありがとう。だけど、どうしたんだ?」

 

意外な人物の登場に驚いてしまう。

それより驚きだったのが、その不釣合な恰好からして、彼女が掃除をしていたらしいことだ。

退院の時に顔を見せなかったのは、この家の掃除をするためだったのか。

 

彼女の掃除は、完璧とは言い難い。

廊下は目を覆いたくなるほど水浸しだった。それでも、ある程度は綺麗になっている。

やり方を知らないだけで、努力した形跡は見て取れた。

このまま彼女が手伝ってくれるなら、今日中に掃除を終わらせられるかも知れない。

 

「掃除なんて初めてだったから、ちょっと上手くできなかったけど……。でも可能な限りやってみたわ」

 

城住まいのお嬢様であるイリヤが、掃除をする姿はあまり想像ができない。

畳敷きの部屋がどうなっているか不安だったが、それでも頑張ってくれたのは素直に嬉しい。

 

「……ありがとうな、イリヤ」

 

頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細める。

 

「えへへー。だって、今日からわたしも住むんだもの。シロウだけに負担をかけさせないわ」

「――――は?」

 

なにか、思いも寄らない発言を聞いてしまった気がする。

……聞き間違いの可能性も高い。いや、聞き間違いであるはずだ。

 

「……すまない、イリヤ。もう一度言ってくれるか?」

「だーかーらー! 今日からわたしもこの家に住むの!」

 

うん。聞き間違いではなかったようだ。

 

「なんでさ」

「なによー! シロウはわたしと一緒にいたくないって言うの?!」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 

そういえば、ドイツにあるアインツベルンの城にはもう帰らないと言っていた。

新都郊外の森にあるイリヤ城も、セイバーの宝具によって崩壊している。

そうなると、俺の家に住むことに……なるのだろうか?

 

「ダメかな……?」

 

期待通りの返事が返ってこないためか、雪の少女はしゅんと落ち込んでしまう。

いやいや、その上目遣いは反則だろう。人としての良心がズキズキと痛む。

 

もう、答えは出ているようなものだった。

 

「……ああ、わかった。好きにしてくれていい。一緒に住もう」

 

この後の展開が恐ろしくもあるが、難しく考えるのは疲れてしまった。

それに掃除だけではなく、入院中にも色々とやってくれたのだ。

そんなイリヤを、追い出すような真似なんて絶対にできない。

 

「わーい! 今日からよろしくね! お兄ちゃん!」

 

さっきまで沈んだ顔をしていたのに、今は諸手を挙げて喜んでいる。

喜怒哀楽がころころと変わるのは、見ていてとても楽しい。

 

「ああ、よろしくな。イリヤ」

 

何にしても、今は掃除の続きをしよう。

靴を脱ぎ廊下に上がると、突然イリヤが抱きついてくる。

俺との身長差が文以上にあるので、腰に抱きつかれた状態だ。

 

「おい、こら!」

「へへへー、シロウー!」

 

やんわりと振りほどこうとすると、余計きつく抱きつかれてしまう。

 

「まったく……」

 

そんな時、玄関の戸が開いた。もう、悪い予感しかしなかった。

 

「士郎ー? もう帰ったのー?」

 

藤ねえだった。

悪い予感というのは、得てして当たってしまうもの。

それは、聖杯戦争で何度も痛感した。

というよりも、なんで藤ねえがこの時間に……?

今はまだ昼下がりで、仕事の終わるような時間じゃないはずだ。

いや、それよりもこの状況を見られるのは非常にまずい。

 

「……あ、ああ。ついさっき戻ったよ、藤ねえ」

「…………士郎?」

 

俺の言葉は、藤ねえに届いていなかった。

考えてみたら……入院中、藤ねえとイリヤは一度も顔を合わせなかった。

少女は、藤村大河という知らない顔に表情が険しくなる。

というよりも、とても怖い。

やはり文とイリヤは、こういう二面性も含めてよく似ていた。

そんな中でも、俺に抱きつく手を放そうとしないのは何故だろうか?

 

「……あなた、誰よ?」

 

さっきまでの甘く柔らかなものとは違う、冷酷なイリヤの声。

普段は天真爛漫な少女なのだが、聖杯戦争で最も恐ろしいマスターなのだと実感してしまう。

 

「って、なんじゃこりゃーー!!!」

 

だがそんなイリヤの声は、虎の咆哮によって飲み込まれてしまった。

 

 

 

 

その後の悶着は、筆舌に尽くし難いものだった。

 

玄関での前哨戦は、膠着状態のまま終了した。

決戦の舞台は衛宮邸の居間へと移り、そこで話し合いが開始された。

当然、議題はイリヤについてだ。

 

衛宮家の食卓は、長方形であって円卓ではない。

だから『藤ねえ対イリヤと俺』という図式が自然と出来上がってしまう。

この時ばかりは、居間の机をちゃぶ台にしなかったのを後悔する。

いざとなれば、ひっくり返せるのも強みだった。

 

イリヤがここに住むという話をすると、烈火のごとく反対する冬木の虎。

そんな藤ねえの猛攻を、冷静に冷徹に受け流していく雪の少女。

何度かイリヤに助け舟を出したが、虎には届かず、ことごとく一蹴された。

この家の家主は俺のはずなのに、ヒエラルキーは常に最下層だった。

畳の下で何故かイリヤと手を取り合っていたが、俺が援護をする度に強く握ってくれた。

 

 

小一時間ほど平行線のまま話が続くと、突然イリヤは立ち上がる。

そして、藤ねえの耳元で何かを囁く。

こちらを気にしている様子だったので、俺には聞かれたくない話らしい。

 

「――――」

 

イリヤの言葉で、これまでの興奮が嘘のように藤ねえが素面になる。

といよりも、少し顔が青い。

彼女のこんな顔を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。

 

その結果、虎の牙が折れてしまったらしく、一緒に暮らすのを了承してくれた。

藤ねえの家に住むという案も出たが、イリヤはどうしてもこの家に住みたいらしい。

収拾がついたとは言い難いが、軍配は雪の少女に上がった。

 

「うわぁぁああん!! 文ちゃんに言いつけてやるんだからー!!」

 

そう最後に言い残して、藤ねえはどこかに走り去ってしまった。

家と学園のある方角とも違うし、本当にどこへ行ってしまったんだ。

折角来てくれたのなら、掃除を手伝ってもらおうと思ったのに。

それだけは、少し残念だった。

どうやら冬木の虎にとって、イリヤは天敵だったらしい。

倍以上年齢が離れた少女に言い負かされる、藤ねえも藤ねえだけど。

 

「……さっき藤ねえになんて言ったんだ?」

「んー。秘密」

 

そう言って、イリヤは目を逸らしてしまう。

その様子からして、どう訊いても教えてくれないだろう。

 

そういえば、藤ねえの中だと俺と文は今も恋人同士なのか。

あの恋人宣言は、彼女のからかいと、その場を収めるための奸計でしかなかった。

文について、藤ねえにどう説明しよう……?

振られてしまったと言えば、それで済むだろう。同時に凄く怒られそうな予感もある。

 

「…………」

 

でも彼女に振られてしまったのは、あながち間違った話でもなかった。

 

 

 

 

虎襲撃の一悶着の後、休憩を挟んでから家の掃除を再開した。

玄関から廊下、トイレ、風呂、台所を終わらせたので、次に個室の掃除を始める。

イリヤは途中で飽きてしまったらしく、随分前に戦線離脱してしまった。

それでも十分頑張った範囲だ。彼女に感謝は尽きない。多分。

 

「ふう……」

 

廊下の突き当たり。聖杯戦争の間、文が使っていた部屋に入る。

当時はいつ見ても、節操なしに散らかっていたが、今は彼女のいた痕跡すらない。

おそらく俺が入院していた間に、ここを訪れて掃除をしたのだろう。

 

「…………」

 

もしかしたら手紙でもあるかと思って探してみたが、当然そんなものなかった。

……彼女との別れは、もう済ませてある。

これ以上、何かを望むのは俺の我儘でしかない。

 

そのはずだった。

 

「…………文」

 

胸がとても苦しい。ガラクタの心が、今にも壊れてしまいそうだ。

 

 

…………。

 

 

「シロウー。土蔵に変なものが落ちてたよー」

 

縁側から、少女の声が聞こえた。

土蔵に遊びに行ったイリヤが、戻って来たのだろう。

あそこは魔術の鍛錬所なので、他人に見せるような場所ではない。

だけど彼女には、聖杯戦争の最中に俺の魔術鍛錬をすでに見せていた。

 

その時、イリヤは文の見ている前で俺に……。

 

「いや、それは忘れてしまおう」

 

いつの間にか、少女は俺のすぐ隣まで来ていた。

 

「……それで、変なものだって?」

「うんこれ。変でしょ」

 

イリヤに、筒状の木材を渡される。

……土蔵はガラクタだらけではあるが、こんなものは置いてなかったはず。

賞状筒と同じ形状をしており、素材は杉でできていた。

匂いを嗅いでみると、精油の良い香りがする。

 

「……うん、ここだな」

 

切れ込みを見つけたので引っ張ると、ポンと小気味良い音とともに蓋が取れた。

技術はそれなりにいるだろうが、単純な構造の木製細工だ。

 

「おおー!」

 

間近で見ていたイリヤが、大げさに声を上げる。

外国人の女の子には、それなりに面白いものなのかもしれない。

筒の中を見てみると、紙束が丸めて入れてあった。

 

「ん……? なんだこれ。新聞か?」

 

引っ張り出してみると、やはり新聞で間違いなかった。

 

「……中身は、ちょっとつまんないね」

 

一変して、落胆するイリヤ。

まあ新聞なんて、そうそう面白いものじゃないけどさ。

 

「いやだけど、新聞って……!」

 

新聞というワードに、ピンと来るものがあった。

慌てて、新聞名を確認する。

そこには、一際大きな文字で『文々。新聞』と書かれてあった。

その名前を目にした瞬間に、胸が大きく跳ねた。

 

「文々。新聞……! 文の書いた新聞だ……!」

「え、ウソ? アヤの!?」

「イリヤ……これは、土蔵のどこにあったんだ?」

「言われてみれば、アヤが召喚された魔法陣の上にあったかも。何の魔力も感じなかったから、気にしてなかったけど」

 

筒の奥を覗いてみたが、新聞以外は何も入っていない。

文が使っていたテーブルに新聞を広げて、読み始めてみる。

 

「…………」

 

ひと通り目を通してみたが、俺に対してのメッセージはなかった。

文の住んでいる幻想郷についての記事が、紙面の殆どを占めている。

幻想郷を知らない俺でも、本当に何でもない記事であるのがわかった。

新聞としてどうかと思うが、彼女なりの知見も書いてあって、それなりに面白い。

 

この世界を紹介する記事もあった。

それについては、世界を代表してでも間違っていると伝えたい。

そして聖杯戦争については、一文も記述がなかった。

『文々。新聞』に書かれた記事の傾向を見るに、その理由は何となくわかる。

 

「うーん……?」

 

イリヤも俺の隣で、難しい顔をして文の新聞を読んでいた。

彼女には入院中、文についてある程度だが教えてある。

それでもイリヤが、こんな顔をしているのもわかる。

 

「……多分これは幻想郷から、文が送ってくれたんだと思う」

「えっ?」

 

不可解な話だが、状況的にそうとしか考えられない。

 

「そんなこと可能なの!? それって、第二魔法に触れているようなものじゃない!」

 

驚きを隠そうともせずに、イリヤが語調を荒げている。

 

「……第二魔法って?」

「ええ、並行世界の運営ね。わたしは魔術師じゃないから、そこまで詳しくないけど。……詳しく知りたければ、リンに訊いてみるといいわ。第二魔法は遠坂の領分だから」

 

魔法というのは、現代の科学では決して到達できない奇跡だ。

イリヤが驚愕するのも無理はない。半人前の魔術使いである俺も驚いている。

 

「そうだとすると文は新聞を届けるために、この世界最大の奇跡に触れたのか?」

 

いくら精神分野で発展を遂げた幻想郷でも、そんな簡単なことじゃないだろう。

イリヤが疲れたような顔をしている。

いや、呆れ果てていると言ったほうが正確か。

 

「……それなら世界一馬鹿げた新聞配達ね。やっぱり、リンには言わない方いいかも。もしかしたら、卒倒するかもしれないから」

 

新聞配達……。新聞配達か。

 

「……そういうことなんだな、文」

 

この新聞は、何か特別な意図があるわけではない。

たったそのためだけに、送られたもの。

 

ああ――実に、彼女らしい話じゃないか。

 

「シロウ?」

 

イリヤが不思議そうに俺の顔を見ている。

気づくと、俺は笑みを作っていた。

当然、何か面白くて笑っているわけじゃない。

 

「……もしかしたら、新聞を発行する度に送ってくれるかもしれないな」

 

文と一緒に過ごした時間は、二週間にも満たない。

千年を生きる射命丸文にとって、瞬きにも満たない一瞬だ。

だが彼女は、こうして繋がりを残してくれる。

 

それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「…………文」

 

庭に出て、空を見上げる。

雲一つない、青く透き通った空がそこにあった。

彼女とは、もう二度と会うことはない。

 

だけどその空は、かつて見たものよりも、少しだけ高く感じた。

 

 






おわり


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