文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
風が吹く――。
少し肌寒くもあるが、三月も半ばも過ぎて徐々に暖かくなってきた。
冬木市は名前に反して、日本の平均よりも暖かい土地だ。
もしかしたら、そろそろ桜が咲き始める頃なのかもしれない。
退院の手続きは、すでに済ませてある。
完治したわけではないが、衛宮士郎は本日付で退院する。
担当医に無茶を言って、退院させてもらったと言うのが正しいだろう。
だから暫くの間は、週のうちの何回かは通院する生活だ。
付き添いはいない。
一応の保護者である藤ねえは、教師としての仕事がある。
本人は来てくれると言っていたが、俺が断った。
逆に期待していたのは、ほぼ毎日来ていたイリヤだ。
だがどうしてか、退院日の今日に限って病院に来なかった。
退院する日は、もう何日も前に伝えてある。
付き添いを頼んだわけではないが、少しだけ残念だった。
それでも彼女のおかげで、長い入院生活を退屈せずに過ごせた。
それを考えたら、恨み言を言える立場じゃない。
運動は厳禁と言われているので、タクシーを使う。
新都から深山まで歩けなくもないだろうが、病院が手配してくれた。
今日まで散々お世話になったのだ。無下に扱うわけにはいかない。
「あれか」
病院の前にある道路、そこに一台のタクシーが停まっていた。
普段から使う習慣がないので、少しだけ緊張してしまう。
「…………」
どこかで見た覚えのある運転手だった。
眼鏡が少しずれているのは、暗示とは関係なかったらしい。
……そういえば、遠坂に割り勘のタクシー代を払っていなかったな。
それにセイバーのカルンウェナンも、今も行方不明のまま。
動けない俺に代わりに、イリヤに探しに行ってもらったが、結局見つからなかった。
失くした場所は、センタービル前という冬木の心臓部だ。当然だが、人の通りも多い。
見つけるのは、もう絶望的だろう。
遠坂に土下座をする覚悟を、そろそろ決めないといけない。
タクシーの後部座席に座り、大まかな目的地を告げる。
病室のベッドから立ちっぱなしだったので、少し疲れてしまった。
一か月以上の入院生活によって筋力は落ちたが、日常生活を送る分には問題ない。
リハビリの甲斐があったのだろう。
大きな後遺症が残らなかったのは、本当に運が良かった。
それよりも問題なのは、魔術の鍛錬を入院期間はずっとサボってしまったこと。
27本の魔術回路は、盛大に錆び付いてしまっている。
魔術回路はイリヤに開けてもらったので、鍛錬途中で死にはしないはず。
目的地まであと少しのところで、料金を払ってタクシーを降りる。
ここから先は、リハビリも兼ねて歩くことにした。
二ヶ月も経ってないのに、見慣れたはずの道が懐かしく感じてしまう。
「…………」
最近は、空を見上げる回数が増えた。
雲一つない、青く透き通った空。
俺は無意識のうちに、射命丸文の姿を探してしまっている。
彼女はもう、幻想郷に帰ったのだ。この空にはいない。
幻想郷――。
どれだけ手を伸ばしても、絶対に届かない場所。
二度と会えないのは、わかっていた。
「…………ふう」
乗り越えたはずだった。
お互いに納得もしたはずだった。
『ありがとう』と言えた。『さよなら』とも言えた。
だけど……『愛している』とは言えなかった。
胸が苦しい。
そのことが、俺の中で消化不良になっているかもしれない。
……そんな感情もまた、いずれは記憶の奥に沈んでしまうのか。
だが彼女との記憶を風化させるのは、最後の約束を違えてしまう。
それだけは、どんなジレンマに陥ろうとも、絶対にしてはいけなかった。
◇
そうして歩いているうちに、衛宮家についた。
長い間、家を放置していたので、まずは窓を開けて換気をしよう。
その後は、積もり積もった埃を掃除しなければならない。
「よし!」
声を出して、自分に活を入れる。
そして、玄関の戸を開けようとすると――鍵が掛かっていなかった。
それに藤ねえに頼んで戸締まりした窓も、見える範囲で全て開いていた。
屋敷に張ってある結界は、警報を鳴らしていない。空き巣や、強盗の類ではないはず。
「もしかして……藤ねえかな」
桜の可能性もあったが、あの状態の彼女がこの家に来るとは思えなかった。
玄関先で考えていても仕方がないので、ゆっくりと戸を開ける。
「ただいま……」
誰かがいる確信を持てなかったので、つい小声になってしまう。
しかしその声に反応して廊下の先から、とてとてと軽快な足音が聞こえてくる。
「退院おめでとう! シロウ!」
イリヤだった。
どういうわけか三角巾を被って、体中を埃で汚している。
少女の埃塗れの顔は、満面と呼んでいい笑みをたたえていた。
「……あ、ああ。ありがとう。だけど、どうしたんだ?」
意外な人物の登場に驚いてしまう。
それより驚きだったのが、その不釣合な恰好からして、彼女が掃除をしていたらしいことだ。
退院の時に顔を見せなかったのは、この家の掃除をするためだったのか。
彼女の掃除は、完璧とは言い難い。
廊下は目を覆いたくなるほど水浸しだった。それでも、ある程度は綺麗になっている。
やり方を知らないだけで、努力した形跡は見て取れた。
このまま彼女が手伝ってくれるなら、今日中に掃除を終わらせられるかも知れない。
「掃除なんて初めてだったから、ちょっと上手くできなかったけど……。でも可能な限りやってみたわ」
城住まいのお嬢様であるイリヤが、掃除をする姿はあまり想像ができない。
畳敷きの部屋がどうなっているか不安だったが、それでも頑張ってくれたのは素直に嬉しい。
「……ありがとうな、イリヤ」
頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細める。
「えへへー。だって、今日からわたしも住むんだもの。シロウだけに負担をかけさせないわ」
「――――は?」
なにか、思いも寄らない発言を聞いてしまった気がする。
……聞き間違いの可能性も高い。いや、聞き間違いであるはずだ。
「……すまない、イリヤ。もう一度言ってくれるか?」
「だーかーらー! 今日からわたしもこの家に住むの!」
うん。聞き間違いではなかったようだ。
「なんでさ」
「なによー! シロウはわたしと一緒にいたくないって言うの?!」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
そういえば、ドイツにあるアインツベルンの城にはもう帰らないと言っていた。
新都郊外の森にあるイリヤ城も、セイバーの宝具によって崩壊している。
そうなると、俺の家に住むことに……なるのだろうか?
「ダメかな……?」
期待通りの返事が返ってこないためか、雪の少女はしゅんと落ち込んでしまう。
いやいや、その上目遣いは反則だろう。人としての良心がズキズキと痛む。
もう、答えは出ているようなものだった。
「……ああ、わかった。好きにしてくれていい。一緒に住もう」
この後の展開が恐ろしくもあるが、難しく考えるのは疲れてしまった。
それに掃除だけではなく、入院中にも色々とやってくれたのだ。
そんなイリヤを、追い出すような真似なんて絶対にできない。
「わーい! 今日からよろしくね! お兄ちゃん!」
さっきまで沈んだ顔をしていたのに、今は諸手を挙げて喜んでいる。
喜怒哀楽がころころと変わるのは、見ていてとても楽しい。
「ああ、よろしくな。イリヤ」
何にしても、今は掃除の続きをしよう。
靴を脱ぎ廊下に上がると、突然イリヤが抱きついてくる。
俺との身長差が文以上にあるので、腰に抱きつかれた状態だ。
「おい、こら!」
「へへへー、シロウー!」
やんわりと振りほどこうとすると、余計きつく抱きつかれてしまう。
「まったく……」
そんな時、玄関の戸が開いた。もう、悪い予感しかしなかった。
「士郎ー? もう帰ったのー?」
藤ねえだった。
悪い予感というのは、得てして当たってしまうもの。
それは、聖杯戦争で何度も痛感した。
というよりも、なんで藤ねえがこの時間に……?
今はまだ昼下がりで、仕事の終わるような時間じゃないはずだ。
いや、それよりもこの状況を見られるのは非常にまずい。
「……あ、ああ。ついさっき戻ったよ、藤ねえ」
「…………士郎?」
俺の言葉は、藤ねえに届いていなかった。
考えてみたら……入院中、藤ねえとイリヤは一度も顔を合わせなかった。
少女は、藤村大河という知らない顔に表情が険しくなる。
というよりも、とても怖い。
やはり文とイリヤは、こういう二面性も含めてよく似ていた。
そんな中でも、俺に抱きつく手を放そうとしないのは何故だろうか?
「……あなた、誰よ?」
さっきまでの甘く柔らかなものとは違う、冷酷なイリヤの声。
普段は天真爛漫な少女なのだが、聖杯戦争で最も恐ろしいマスターなのだと実感してしまう。
「って、なんじゃこりゃーー!!!」
だがそんなイリヤの声は、虎の咆哮によって飲み込まれてしまった。
◇
その後の悶着は、筆舌に尽くし難いものだった。
玄関での前哨戦は、膠着状態のまま終了した。
決戦の舞台は衛宮邸の居間へと移り、そこで話し合いが開始された。
当然、議題はイリヤについてだ。
衛宮家の食卓は、長方形であって円卓ではない。
だから『藤ねえ対イリヤと俺』という図式が自然と出来上がってしまう。
この時ばかりは、居間の机をちゃぶ台にしなかったのを後悔する。
いざとなれば、ひっくり返せるのも強みだった。
イリヤがここに住むという話をすると、烈火のごとく反対する冬木の虎。
そんな藤ねえの猛攻を、冷静に冷徹に受け流していく雪の少女。
何度かイリヤに助け舟を出したが、虎には届かず、ことごとく一蹴された。
この家の家主は俺のはずなのに、ヒエラルキーは常に最下層だった。
畳の下で何故かイリヤと手を取り合っていたが、俺が援護をする度に強く握ってくれた。
小一時間ほど平行線のまま話が続くと、突然イリヤは立ち上がる。
そして、藤ねえの耳元で何かを囁く。
こちらを気にしている様子だったので、俺には聞かれたくない話らしい。
「――――」
イリヤの言葉で、これまでの興奮が嘘のように藤ねえが素面になる。
といよりも、少し顔が青い。
彼女のこんな顔を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。
その結果、虎の牙が折れてしまったらしく、一緒に暮らすのを了承してくれた。
藤ねえの家に住むという案も出たが、イリヤはどうしてもこの家に住みたいらしい。
収拾がついたとは言い難いが、軍配は雪の少女に上がった。
「うわぁぁああん!! 文ちゃんに言いつけてやるんだからー!!」
そう最後に言い残して、藤ねえはどこかに走り去ってしまった。
家と学園のある方角とも違うし、本当にどこへ行ってしまったんだ。
折角来てくれたのなら、掃除を手伝ってもらおうと思ったのに。
それだけは、少し残念だった。
どうやら冬木の虎にとって、イリヤは天敵だったらしい。
倍以上年齢が離れた少女に言い負かされる、藤ねえも藤ねえだけど。
「……さっき藤ねえになんて言ったんだ?」
「んー。秘密」
そう言って、イリヤは目を逸らしてしまう。
その様子からして、どう訊いても教えてくれないだろう。
そういえば、藤ねえの中だと俺と文は今も恋人同士なのか。
あの恋人宣言は、彼女のからかいと、その場を収めるための奸計でしかなかった。
文について、藤ねえにどう説明しよう……?
振られてしまったと言えば、それで済むだろう。同時に凄く怒られそうな予感もある。
「…………」
でも彼女に振られてしまったのは、あながち間違った話でもなかった。
◇
虎襲撃の一悶着の後、休憩を挟んでから家の掃除を再開した。
玄関から廊下、トイレ、風呂、台所を終わらせたので、次に個室の掃除を始める。
イリヤは途中で飽きてしまったらしく、随分前に戦線離脱してしまった。
それでも十分頑張った範囲だ。彼女に感謝は尽きない。多分。
「ふう……」
廊下の突き当たり。聖杯戦争の間、文が使っていた部屋に入る。
当時はいつ見ても、節操なしに散らかっていたが、今は彼女のいた痕跡すらない。
おそらく俺が入院していた間に、ここを訪れて掃除をしたのだろう。
「…………」
もしかしたら手紙でもあるかと思って探してみたが、当然そんなものなかった。
……彼女との別れは、もう済ませてある。
これ以上、何かを望むのは俺の我儘でしかない。
そのはずだった。
「…………文」
胸がとても苦しい。ガラクタの心が、今にも壊れてしまいそうだ。
…………。
「シロウー。土蔵に変なものが落ちてたよー」
縁側から、少女の声が聞こえた。
土蔵に遊びに行ったイリヤが、戻って来たのだろう。
あそこは魔術の鍛錬所なので、他人に見せるような場所ではない。
だけど彼女には、聖杯戦争の最中に俺の魔術鍛錬をすでに見せていた。
その時、イリヤは文の見ている前で俺に……。
「いや、それは忘れてしまおう」
いつの間にか、少女は俺のすぐ隣まで来ていた。
「……それで、変なものだって?」
「うんこれ。変でしょ」
イリヤに、筒状の木材を渡される。
……土蔵はガラクタだらけではあるが、こんなものは置いてなかったはず。
賞状筒と同じ形状をしており、素材は杉でできていた。
匂いを嗅いでみると、精油の良い香りがする。
「……うん、ここだな」
切れ込みを見つけたので引っ張ると、ポンと小気味良い音とともに蓋が取れた。
技術はそれなりにいるだろうが、単純な構造の木製細工だ。
「おおー!」
間近で見ていたイリヤが、大げさに声を上げる。
外国人の女の子には、それなりに面白いものなのかもしれない。
筒の中を見てみると、紙束が丸めて入れてあった。
「ん……? なんだこれ。新聞か?」
引っ張り出してみると、やはり新聞で間違いなかった。
「……中身は、ちょっとつまんないね」
一変して、落胆するイリヤ。
まあ新聞なんて、そうそう面白いものじゃないけどさ。
「いやだけど、新聞って……!」
新聞というワードに、ピンと来るものがあった。
慌てて、新聞名を確認する。
そこには、一際大きな文字で『文々。新聞』と書かれてあった。
その名前を目にした瞬間に、胸が大きく跳ねた。
「文々。新聞……! 文の書いた新聞だ……!」
「え、ウソ? アヤの!?」
「イリヤ……これは、土蔵のどこにあったんだ?」
「言われてみれば、アヤが召喚された魔法陣の上にあったかも。何の魔力も感じなかったから、気にしてなかったけど」
筒の奥を覗いてみたが、新聞以外は何も入っていない。
文が使っていたテーブルに新聞を広げて、読み始めてみる。
「…………」
ひと通り目を通してみたが、俺に対してのメッセージはなかった。
文の住んでいる幻想郷についての記事が、紙面の殆どを占めている。
幻想郷を知らない俺でも、本当に何でもない記事であるのがわかった。
新聞としてどうかと思うが、彼女なりの知見も書いてあって、それなりに面白い。
この世界を紹介する記事もあった。
それについては、世界を代表してでも間違っていると伝えたい。
そして聖杯戦争については、一文も記述がなかった。
『文々。新聞』に書かれた記事の傾向を見るに、その理由は何となくわかる。
「うーん……?」
イリヤも俺の隣で、難しい顔をして文の新聞を読んでいた。
彼女には入院中、文についてある程度だが教えてある。
それでもイリヤが、こんな顔をしているのもわかる。
「……多分これは幻想郷から、文が送ってくれたんだと思う」
「えっ?」
不可解な話だが、状況的にそうとしか考えられない。
「そんなこと可能なの!? それって、第二魔法に触れているようなものじゃない!」
驚きを隠そうともせずに、イリヤが語調を荒げている。
「……第二魔法って?」
「ええ、並行世界の運営ね。わたしは魔術師じゃないから、そこまで詳しくないけど。……詳しく知りたければ、リンに訊いてみるといいわ。第二魔法は遠坂の領分だから」
魔法というのは、現代の科学では決して到達できない奇跡だ。
イリヤが驚愕するのも無理はない。半人前の魔術使いである俺も驚いている。
「そうだとすると文は新聞を届けるために、この世界最大の奇跡に触れたのか?」
いくら精神分野で発展を遂げた幻想郷でも、そんな簡単なことじゃないだろう。
イリヤが疲れたような顔をしている。
いや、呆れ果てていると言ったほうが正確か。
「……それなら世界一馬鹿げた新聞配達ね。やっぱり、リンには言わない方いいかも。もしかしたら、卒倒するかもしれないから」
新聞配達……。新聞配達か。
「……そういうことなんだな、文」
この新聞は、何か特別な意図があるわけではない。
たったそのためだけに、送られたもの。
ああ――実に、彼女らしい話じゃないか。
「シロウ?」
イリヤが不思議そうに俺の顔を見ている。
気づくと、俺は笑みを作っていた。
当然、何か面白くて笑っているわけじゃない。
「……もしかしたら、新聞を発行する度に送ってくれるかもしれないな」
文と一緒に過ごした時間は、二週間にも満たない。
千年を生きる射命丸文にとって、瞬きにも満たない一瞬だ。
だが彼女は、こうして繋がりを残してくれる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「…………文」
庭に出て、空を見上げる。
雲一つない、青く透き通った空がそこにあった。
彼女とは、もう二度と会うことはない。
だけどその空は、かつて見たものよりも、少しだけ高く感じた。
おわり