文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. 作:悠里@
イリヤスフィールとバーサーカーの主従は、冬木の夜に紛れて姿を消した。
先刻までのセイバーとバーサーカーの戦いが嘘だったかのように、寂静が辺りを包む。
遠坂とは変わらず敵対関係であり、話せるような雰囲気でもない。
「…………」
特にセイバーは、文に対し並々ならぬ敵意を剥き出しにして、翠の双眸で睨み続けている。
文は、セイバーの睥睨を知ってか知らずか、俺から渡されたカメラの状態を確認していた。
満身創痍だったセイバーの傷は、遠坂の魔力によって時間を戻したかのように塞がった。
だけど、あのダメージだ。
こうして外見は取り繕えても、完治までには至ってないだろう。
『じゃまたね──エミヤシロウ』
俺の耳には、イリヤスフィールが別れ際の言葉が残っていた。
この先、俺たちもバーサーカーと対峙する時が来るのだろうか。
それは、途轍もない恐怖だ。
先の文が弄した手が、再び通用するとも思えない。
もし通用したとしても、あんな小さな少女が殺されるなんて許されるはずがない。
それに、文にだって手を汚して欲しくなかった。
そう思っていても、俺にはあの化け物への対策は何も思い浮かばずにいた。
「ふう……」
でも今は、文の努力によって得た束の間の安息を受け入れよう。
誰一人として欠けずに、サーヴァントの戦闘を終息させたのだ。
聖杯戦争で、こんな奇跡はもう二度と起きないかもしれないのだから。
「……今回は何度も助けられたわ。一応、礼だけは言っておく。ありがとね、衛宮君」
静寂のなかで、遠坂が口火を切った。
それだけ言って少女は背を向け、イリヤスフィールが消えていった方角を見る。
ここからでは、表情は確認できない。
それでも、握られた手が微かに震えているがわかった。
研鑽を積んだ魔術師だとしても、俺と同年代の少女があれだけの目に遭わされたのだ。
何も感じないはずはない。
今になって押さえていた恐怖と緊張がぶり返したのかもしれない。
「遠坂……」
掛けられる言葉は見つからなかったが、つい彼女の名前を呼んでいた。
「…………」
返事はなかった。
その代わりなのか、遠坂は震える手をより堅く握った。
それで、俺は理解した。
ああ、これは恐怖なんかで震えているんじゃない。
遠坂は悔しいのだ。
イリヤスフィールに負けたこと。俺たちに助けられたこと。
そんな悔しさから彼女の手は震えているのだと。
文が言っていた。
俺たちと彼女では聖杯戦争に懸ける覚悟が違うのだと。
魔術師としての遠坂は、今回の聖杯戦争に自身の半生を費やしてきたのだろう。
……悔しくないはずがない。
遠坂の魔術師として。遠坂凛という一人の少女として。
俺が知る遠坂凛という少女は、優等生でいつも自信に満ち溢れていた。
俺もほかの生徒に混じって、ミーハー気分で遠坂に憧れていた。
それは彼女の優れた見た目だけではない。
己の才能に胡坐をかかず、努力を怠らない。
彼女の、才能と努力に支えられた揺るがない顔が好きだった。
……だったら、今の遠坂の顔には翳りが差しているのだろうか。
そんな彼女の心中を察した俺は、もう何も掛ける言葉が見つからなかった。
彼女の背中を、ただ見ているだけの自分がどうしようもなく情けない。
そう思った矢先、不意に遠坂が振り返った。
その時の顔は、俺の勝手な想像と違い、何の揺らぎもなかった。
そこにあるのは、遠坂凛という少女のいつも見せる顔。
自信に満ちており、その目に宿らせるのは確固とした決意のみだ。
「次は負けない。負けられない。あんたたちの力も借りない。──そうよね、セイバー」
それはセイバーだけではなく、自分自身にも言い聞かせるような声。
「凛、それは当然です。今回は不覚を取りましたが、私は全力を出してはいません。私には宝具がある。それに私は、あなたの剣になると誓った身だ。あのような醜態は二度と許されない」
セイバーは、仕えるマスターの期待に応えてみせた。
それを聞いた遠坂は、満足そうにセイバーの言葉の一つ一つを噛み締めて。
「ええ、期待しているわよ! セイバー!」
迷いもない力強さで、己を奮い立たせた。
ああ……敵わないな。素直にそう思う。
俺は、遠坂凛という少女を勝手に侮っていた。
彼女の強靱な精神と聖杯戦争を戦おうとする決意は、この程度では決して揺るがない。
遠坂凛は、俺にもその強い視線を向ける。
「……衛宮君、悔しいけど今回は一つ貸しにしてあげる。だけど、忘れないで。私たちは今も敵同士だということを。そんな相手を助けるなんて正気じゃないわ。──次にあんな無茶をしたら確実に死ぬわよ」
「……ああ」
決意の定まっていない俺は、形ばかりの気の抜けた返事をしてしまう。
今も、遠坂たちに傷ついて欲しくない気持ちは変わらない。
もし同様の状況に遭遇したら、俺は同じ行動を繰り返すだろう。
それは、彼女たちのプライドを傷つけてしまう行為なのかもしれない。
それでも死んでしまったら、何もかもおしまいなのだ。
遠坂は、俺のそんな曖昧な返事をどう解釈しただろうか。
「……ふん。行くわよ、セイバー」
見透かしたように鼻を鳴らすと、それ以上なにも言わずに背を向けてセイバーとともに歩き出した。
彼女たちがこの後なにをするかはわからないが、俺に聞ける権利などなかった。
「みなさん、行ってしまいましたねえ」
文の口からは、何の感慨もなく、ただ起きた事実を述べただけの言葉。
「……そうだな」
最後に残されたのは俺と天狗の少女だった。
術者を失った人避けの結界もいずれは消えてしまうだろう。
戦いの痕跡が残るこの場所にいるのは得策ではない。俺たちも退散しよう。
それから、10分足らずで家に着いた。
すぐ近所であんな戦闘があったのに、家に入ると途端に夢のように思えてくる。
だが、あれは間違いなく現実なのだ。
バーサーカーの咆吼は、思い出すだけで肌が粟立ってしまうものだった。
俺を容易く殺した朱槍のランサー。
強靭な肉体に守られ、蘇生を繰り返すバーサーカー。
そして、荒々しくも絶技と呼べる剣の担い手であるセイバー。
俺たちはあんな規格外の存在と、これから同じ舞台で戦わなければならない。
それだけではない。
ほかに三体ものサーヴァントが残されていた。
未だ遭遇していないサーヴァントはライダー、キャスター、アサシンの三騎。
そこに俺の召喚した射命丸文を含めた、七騎のサーヴァントとそのマスターにより、一つの聖杯を勝ち取るための争奪戦。
つまり、血を血で洗う凄惨な殺し合いが行われる。生き残るのは、ただ一組だけ。
……勝ち残れるかはわからない。
それでも、正義の味方を目指す者として、やらなければならなかった。
今までの日常は、もう過ごせないかもしれない。
普通を過ごすには、俺はあまりにも知りすぎた。
そして、自らの足で踏み込んだ。
最初は、巻き込まれた形だったとしても、引き返せるタイミングはいくつかあった。
俺は自分の判断で、聖杯戦争に参加すると決めたのだ。
だったら、こんな馬鹿げた戦いは絶対に止めてみせる。
「それで文は、洋間と和室のどちらがいい?」
聖杯戦争の間、文にはこの家で過ごしてもらう。
この家は武家屋敷だけあって、部屋数だけは無駄に多いのだ。
せっかくだし、彼女には快適な生活を送ってもらいたい。
「洋間!! そ、それは、ちょっと心惹かれますね。……ですが、慣れた和室でお願いします」
「よし。わかった」
玄関廊下の突き当たりから、左側にある空き部屋に案内する。
部屋に入ると、ツンと畳の匂いがした。
疲労はピークだったが、色んなことがあったせいで、五感が研ぎ澄まされているかもしれない。
決して黴臭いわけではではなく、畳に使われた藺草の匂いだった。
使われていない部屋でも暇があれば掃除をしているので、汚れてはいない。
「じゃあ、この布団で寝てくれ」
押し入れから布団を取り出して畳へと敷いた。
干していない布団を客人に使わせるのは気が引けるが、だからと言って俺の布団を貸すわけにもいかない。
申し訳ないが、文には今日だけ我慢してもらおう。
「私も手伝いましょうか?」
「いや、文はお客様だし、そんなことはさせられないよ」
「何もそこまで気を使わなくてもいいと思いますけど」
「いいや、絶対にダメだ! 部屋の準備だけは俺にやらせてもらう!」
「えええ……。士郎さん、ちょっと怖い」
衛宮家の家長として、客人を働かせるわけにはいかない。
何があろうと、それだけは絶対に譲れない一線だった。
俺が部屋の準備をしている間、文は旅行鞄を広げて所持品の整理をしていた。
新聞記者と名乗るだけあって、フィルムやインク、原稿用紙などが目立つ。
ほかにも、歯磨きやタオルといった日用品の類もあった。
「……!」
一瞬、下着らしきものが目に入ったので、慌てて目を逸らした。
本当に一瞬だったので、文には気づかれてない。
疲れていたとしても、人様の、しかも女の子の荷物をじろじろ見るなんて、何を考えているんだ俺は……。
それから暫くすると、様々な道具が机の上に溢れていた。
やっぱり、ちょっと気になるな……。
当然これは、知的好奇心からであって、決して下卑た下心からではない。
「もし気になるんでしたら見てもいいですよ?」
「いいのか。だって……」
「ふふふ。下着の類は鞄に隠してありますので、お気になさらずに」
ばっちりと気づかれていた。
彼女は、この世界とは隔絶した世界の住人という話だが、意外と俗っぽさがあるなと変な関心をした。
浮世であっても幽世であっても、生きている以上は日用品も必要なのだろう。
「ん?」
そんな机に並べられた日用品の一つに、茶色の瓶に入った錠剤を発見した。
もしかしたら、何かしらの常備薬だろうか。
勝手な先入観から、天狗のような存在は病気と無縁だと思ったが、実際は違うかもしれない。
「あ、これ、気になります?」
物珍しそうに見る俺の視線に気づいたのか、薬を手に取って俺に見せてくれた。
ラベルすらも貼っていない茶色い瓶だ。なんだか、すごく怪しいぞ。
「文、その薬は?」
「胡蝶夢丸ナイトメアです」
勿体ぶらずに、教えてくれた。本当に怪しかった。
ナイトメアってなにさ。
「……参考までに効能は?」
「ぶっ飛ぶ夢が見られます。おひとつどうです?」
ニコニコと笑っているが、つまりはヤバい薬ってことだ。
多分、現代の日本だと認可されていない成分が含まれているやつだ。
「……いやいい。いらない」
俺は何も見なかったし、何も聞かなかった。
屈託のない笑顔で、怪しい薬物を勧められたのは、人生初めての経験だった。
他には、どんなものがあるのだろうか。
烏天狗の私物というのはやはり気になる。
日本酒らしき一升瓶があるが、ひょっとして彼女は見た目に反して酒豪なのだろうか?
だとしても酒なんて、旅行鞄に入れてまで持ってくるものなのか?
念入りに旅支度をしたのか、着替えの類も充実している。
今も着ているブラウスに似たデザインの衣服も何着かあった。
射命丸文という少女は肉体を持っており、魔力によって編まれたエーテル体ではない。
だから他のサーヴァントと違って、新陳代謝も俺たちと同じようにあるのだろう。
「ん……?」
あれ? この綺麗に折りたたまれた白いもの……これって、下着じゃないか?
その手の類のものは鞄に隠したと言ったはずだったが。
「うーん……まだわからないことばかりね」
少女は独り言ちながら、手帳とにらめっこしており、俺が下着を見たことに気付いてない。
ならこれは、彼女の罠でもなんでもなく、ただのうっかりミスか?
いや、そもそも許可を得たとしても女性の私物を見るなんて、どうかしているのだ。
俺の最も身近な女性が、そんなデリケートさとは無縁の虎だったのがいけなかった。
うん、そうだ。何もかもあの虎が悪い(責任転嫁)。
そういえば……。
彼女は、スカートで空を飛び回っているが、不思議と下着は見た記憶がない。
空中にいる彼女を何度となく見上げたが、夜のせいなのか何も覚えてなかった。
まあ、彼女は不思議を体現したような存在だ。
そんな不可解もあるんだと納得しよう。
もちろんこれは、純然たる疑問であって、彼女の下着が見たいわけではない。
悔しくない。悔しくない。
さらに、念を押してもう一度言っておくが、決して悔しくなんかない。
「まったく……どうかしている」
強くかぶりを振った。
こんな馬鹿みたいな思考になるなんて、俺の脳も疲労で相当悲鳴を上げている。
「じゃあ文、おやすみ。家にあるものは何でも自由に使っていいからな」
「はい。おやすみなさい、士郎さん。素敵な部屋を用意してくれて、ありがとうございます」
出会ってから、一度も笑みを崩さずにいた少女の部屋を出る。
天狗という奇妙な同居人だが、今のところはうまくやっていけるかもしれない。
つかみどころがなく皮肉屋でもあるが、基本的には社交的で人当たりのいい娘だ。
彼女のような美少女と同居するのは恥ずかしくもあるが、現状はそうも言っていられない。
当然、嬉しいという感情もないわけじゃないけど。
シャワーを浴びて、汗や血の汚れを落とした後、一日の最後──魔術の鍛錬のため土蔵に入った。
土蔵は文が召喚された場所のはずだが、痕跡はどこにもない。
「ふう……」
今にも意識は崩れ落ちそうだったが、この身体は魔術訓練をしないと眠れなかった。
土蔵の空気は、どこか気分を落ち着かせる。
日頃、修理のために使う、機械油の匂いがそうさせるかもしれない。
冬の冷たく湿った空気によって、多少の疲労と眠気が吹き飛ぶ気がした。
……でも鍛錬が終わると同時に、俺は意識を手放すだろう。
「よし、やるか──」
普段の工程通りに魔術回路を生成させ、固く握ったパイプに強化の魔術を行使する。
今夜は、夢を見ないほど深く眠れそうだった。
聖杯戦争一日目終了。