相互不干渉は暗黙の取り決めであった。
この取り決めは明確に兄弟間で話し合われたものでもなければ誰の指図でもない。
二人の間には物心つく前よりこの関係が構築されており、それは長じてからも変わることはなかった。
しかしながらそうした関係性でありながらも兄弟仲は良好で、特にラウダにおいては兄に対して格別の感情を抱いてさえいた。
それは『リスペクト』などといった単純なものではなく、神経症な弟が抱くそれはもはや『信仰』に近い領域にまで成長してしまっていた。
そんなラウダであるから、折に付けては放逐された兄を見舞う度──彼の繊細な感性は兄から得られる情報に対し、ありとあらゆる想像を働かせてはグエルの境遇を妄想した。
──だいぶ痩せられたな……
そして今日のお題──もといラウダが抱いた兄の印象はそれであった。
事実、グエルが郊外において一人暮らしを始めてから3週間が経とうとしていた。
その間の食事に関しても兄が学園共同の学食に現れないことから、自力で食料の調達をしてやりくりしているであろうことは想像に難くなかった。
おそらくは最小限の食料から最大限の効果が得られるように創意工夫しているであろうことは察せられたが、それでも摂取量の減少は如実にグエルの姿形へと影響を及ぼしていた。
とはいえしかしラウダの心配をよそに当のグエルはすこぶる良好で、むしろ引き締められた肉体に捲土重来を期するべく気力を漲らせた今とあってはまさに、彼の心身はこの時にこそ最盛期を迎えていたと言っても過言ではなかった。
しかしながらラウダの捉える世界は違う。
ラウダの目に映る兄の現状は、磔(はりつけ)の枷を背に処刑場へと歩かされる殉教者さながらの不条理と悲壮さとを以て展開されているのであった。
──待っていて兄さん……必ず僕が救ってみせる。そして兄さんをこんな目に合わせた奴らには漏れなく制裁と、そして懺悔の悲鳴を上げさせてやる……!
そんな妄想の中で地球寮を火の海にしていると、いつの間にか兄との会見が終わっていた。
この場には自分達以外にも寮友である2年生のフェルシーとペトラもまた同伴させていた。
そもそもは今日の集まりが退寮手続きの書類整理を口実にしていたことから、その鞄持ちとして同行を許していたのだった。
──……本当なら兄さんと二人きりの時間を過ごせたのに!
苛立ちから前髪の裾をつまみ上げては、ラウダも毛根に覚える小さな痛みで感情の手綱を繰る。
もっともラウダの望む望まざるとに関わらず、兄が二人きりで会ってくれるかどうかは怪しかった。
ラウダが知る兄は多分に漏れずプライド高い性格であったから、今現在の落ちぶれた姿で弟と再会することを良しとはしない可能性が高かった。
そうなった場合、会話はおろか顔を合わせることすら難しくなることを予期したラウダは、その保険と大義名分も含めて部外者二人の同席を許したのであった。
しかし反面では、ラウダもまた兄と会うことを恐れてもいたのだ。
その勇気を後ろ押ししてくれたのは皮肉にもフェルシーとペトラの二人であり、それも踏まえて考えるのならば、二人きりは叶わずとも直接に顔を合わせて言葉を交わせただけでも収穫だとラウダは思うことにした。
そうして恙無く書類作業も終わり、一時場に沈黙が流れると──ラウダは意を決し、今日の来訪の『本来の目的』を果たそうとした。
「兄さん。これを……」
言葉少なげに切り出し、兄の顔は見ないよう視線を伏せながらラウダはアウトドアテーブル上に両手を滑らせる。
その左右に挟まれて差し出された物は、非常食となる固形ブロック食品の大箱であった。
「…………」
4本一箱の梱包が30個封入されたチーズ味のそれを、グエルは腕組みをしたまま憮然と見下ろしていた。
差し出されてから今に至るまで眉ひとつ動かさぬその表情の下にどのような感情が渦巻いているのかは知る由もないが、場に強い緊張が張り詰めていることだけは明らかであった。
そして一息すい上げてそれを胸に留めるとグエルは──
「持って帰れ」
改めてラウダに向き直るや、短くも鋭くそう言い放った。
それを受けラウダも僅かに顎を引いて表情を伏せるも、それでも上目遣いの視線は兄に留められたままである。
予想していた通りの反応だった。
けっして兄は弟の施しなど受けまい……それが同情などではなく、極論『貢物』とまで遜(へりくだ)ったとしてもグエルはこれを受け取らなかっただろう。
そんな兄の性格などは弟もまた分かっていた。
それでもしかし、
「受け取ってくれ兄さんッ。貴方のことが本当に心配なんだ!」
ラウダもまた引かなかった。
この時、ラウダのフィルターを通したグエルの姿は既に骨と皮の状態であり、一刻も早く何らかのカロリーを摂取しなければ今にも死んでしまいそうなほどの姿へとなり果てていた。
そして一方のグエルもまたそんな弟の性を知るからこそ、
「俺は死なん」
まずは一言そう置いた。
そして弟の申し出と同じくらい唐突に、
「ようやく俺は今、全部脱(ぬ)げたんだ」
そんな告白でグエルはラウダを言い諭す。
「俺は今までずっとジェターク家に……父さんに尻拭いをさせていた。糞まみれの尻を他人に向けることに何の恥も抵抗も無ければ、浅はかにも俺は『これがグエル・ジェタークだ』と声高に謳ってすらいたんだ」
「そんな……! 言ってくれれば僕は喜んで兄さんの尻を拭くよ!」
「最後まで聞け。……ようやく俺は、今そのことの恥ずかしさに気付いたんだよ」
いつしかグエルの目が遠いものになっていた。
その視線は正面にラウダを置きつつも、既にラウダを透かしてさらにその遠くへと転じられているかのような達観さがある。
「思えば、『恥』という感情すら無かった……生まれながらにして全てを持っているつもりになっていたが、その実は欠けていたものが幾つもあったんだ」
人は皆、勝ちを目指し戦うはずが──その実、『勝利』とは何も齎(もたら)せてはくれないものでもあったりする。
例えるに勝利とは着る行為であり、敗北とは脱がされる行為だ。
勝つごとに着込むほどに、人は身動きが取れなくなり自他の本質もまた見えなくなっていく……しかし敗北は、
「ジェターク家という産着を脱がされることで、改めて俺は等身大の自分に気付くことが出来た……」
権力の庇護の下、自分と向き合うことから逃げていたグエルはジェターク家という『箔』以外は何も持ち得てはいなかった。
しかし失うことでようやく己と向き合えたグエルは今、実に様々なことに気付き経験し、そして新たな力を手に入れていた。
「……赤ん坊はもう卒業だ」
「兄さん、それは………」
「むしろ今、やっと自分の足で立つことが出来たんだ。だから……もうこれ以降は過保護にしてくれるな」
そう言って寂しげに笑うグエルを前にラウダの思考がすべて停止した──。
それは初めて見る兄の顔であったからだ。
もはや完全に、兄が自分が知っていた人物とは別の存在になったことを実感した時……グエルに対して自分はどう接し、どう想えばよいのか分からなくなってしまった。
体中の血が抜け行くかのような虚脱感の中で辛うじて、
「………分かったよ、兄さん。余計なことだった」
それだけを告げるラウダに、
「あぁ。お前は引き続きジェターク寮を頼む」
グエルもまた事務的にそう締めくくっては会話を終えた。
永らく共に在った兄弟だ……弟の戸惑いと落胆もまたグエルは察していたが、あえて慰めや弁明の言葉は出さなかった。
そんな真似はせずともラウダは自分でこのことを理解し受け入れられるであろう信頼があったし、ラウダ当人もまたそんな兄の武骨で遠回しな気遣いに気付いていたからだ。
──貴方の言っていることは、正直僕には何一つ分からない……でも、貴方が孤独な世界で戦うことを選んだっていうのなら、決して一人にはさせない……
「共に戦うよ……兄さん」
誰にも聞き咎められなかったその言葉を、まるで自分自身に言い聞かせるよう呟いてはラウダも再び前髪の裾を指でつまんだ。
そんな二人のやり取りに一段落がついたのを見定めると、
「あー、んじゃアタシいいッスかー?」
末席で事を見守っていたフェルシーが片手を上げ割って入る。
「アタシもグエル先輩にお土産あるんスよー」
言いながら上着の両ポケットに手を収めると、なにやら腹部をまさぐりながら上体をテーブルの上に乗り出させた。
一体何をしだすものかとラウダが見守る中フェルシーは両手をポケットから取り出すと──取りこぼさぬように拳の付け根を合わせた両手をテーブルの上で広げた。
一同が見下ろすそこに広げられたものは少量の砂とクリップひとつに銅貨、そして……赤や黄色を散りばめた大量の小袋の数々であった。
それを前にしてなおさらにラウダは困惑を強くする。
目の前にあるものが何なのか分からないはずなのに、それらにはどこか見覚えもまたあったからだ。
そしてその正体に気付くと同時、フェルシーもまた自慢げにそれを報告した。
「ケチャップとマスタードとコーヒーの砂糖ッス。食堂から(※)ガめてきました♪」(※『ガめる』──盗む、拝借するの意)
目の前にあったものそれらは、様々な調味料の小袋であった。普段食堂の隅でナプキンと一緒にセルフで持ち帰れるように設置されているアレである。
その量たるや各調味料ごとに10袋ずつは手堅く、フェルシーの前の一角は山積みのそれらで埋められていた。
しばし呆然とそれを見守っていたラウダではあったが、フェルシーがこんなものをこの場に持ち込んだことを理解すると、鎮静化していた心の奥底に沸々と怒りが湧いてくるのが感じられた。
これが侮辱以外の何物であろうか?
いかに今は部外へと身を窶したとはいえ、目の前にいるのは恐れ多くも先のアスティカシア高等専門学園の前ホルダーであり、そして未来のジェターク社当主でもある人物なのだ。
そんな兄に対しもはやイタズラの範疇を越えた無礼を働くフェルシーに恫喝を浴びせようとしたその瞬間──
「う、うおおおおおおおぉぉぉ! こいつはすげえぇぇぇぇぇぇッッ‼」
斯様なラウダの怒りすらをも吹き飛ばしてしまう声が場に鳴り響いた。
それは兄のいた方角から聞こえた。
何事かと思いそこへ視線を転じれば目の前には──テーブル上の調味料へ引き込まれるがあまり首をかしげるほどに顔を寄せ、眼を剥きだしてはそれを凝視するグエルの姿があった。
最初はこんなもんを大量に集めてきたフェルシーを形ばかりに労っているのかとも思ったが、どうやらそれも違う……。
叫びの形そのままに歯茎を剥きだした口元と、喉やこめかみに血管を浮き上がらせた表情は強い興奮のそれであり、そこには演技や同情が疑われる余地は微塵も感じられなかった。………長年、グエルと行動を共にしたラウダだからこそそれが分かってしまう皮肉である。
さらにはそんなグエルへと隣のペトラもまた、
「私はスーパーの台の所に置いてある、あのシャカシャカした袋を集めてきましたよ? どうぞ!」
「マジかよコレ!? 100枚近くはあるんじゃねぇのかッ? お前らぁ……本当にすげぇな‼」
もはや完全に自分を置いてけぼりにして盛り上がる兄達を尻目にラウダは再び沈静化していき……ついにはテーブルに両肘をつくと、祈るように組んだ両手に額を付けた。
逃げればひとつ、進めばふたつ──しかし進むことでグエルが得た物は、もはや彼を取り返しもつかないほどに変容せしめていた。
数週間に渡るキャンプ生活により、奢侈なるグエルは節倹なる人へと変貌を遂げ、そして同時それはラウダの中の崇拝をも滅ぼす結果となっていた。
──よくも………よくも僕から兄さんを取り上げてくれたな……水星女ァ!
もはや片手では飽き足らず、両手を以て前髪をワシ掴むと力の限りに引きちぎりだすラウダ。
──許さんぞガンダムぅぅ………仲間の会社ともども、潰してやるぅぅ……‼
威嚇する猫科獣そのままに鼻頭へ憎悪の皺を刻み込むラウダの脳裏にはこの日二度目の、地球寮と株式会社ガンダムをディランザで火の海に変える妄想が繰り広げられた。
「うおぉぉぉおおおぉ────ッッ!!!」
「ギャハ! ッギャハハハハ!」
「んもー、グエル先輩ったらーwww」
「ん゛い゛ぃぃぃぃぃぃぃ………ッッ!!!!!!」
興奮するグエルの叫びにフェルシーとペトラの笑い声、そしてラウダの歯ぎしりと毛根の千切れる音とが響き渡る郊外の一角は──傍から見たらとても楽しげでもあった。
【 終 】