極悪少女は縛れない   作:どるふべるぐ

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壊れていく。崩れてゆく。
糸が切れて、仮面は割れて、天秤も倒れて、何もかもが壊れていく。

彼を弄んでいれば、この想いがただの愛着であると分かる筈だった。
彼はただの玩具であると、変わらない自分であると思えるはずだった。

だけど、人形劇の脚本はいつだって皮肉に満ちて。
少女は、偽りのデートで、偽れざる想いを知る。



ラストシーン『虚ろな彼と惑える彼女の決着《フィナーレ》~前篇~』

――わたしが何かと聞かれれば、絶対悪と答えよう。

 

 わたしは弄んで悦ぶ。わたしは壊して遊ぶ。

 わたしは愛情ならぬ愛着を以って、森羅万象を『愛する(もてあそぶ)』者。

 完全で完璧に完成された絶対る悪。それがわたしだ。

 そう造られたからではなく、わたしが願いわたしが誓った、そう在るべき『自己像(わたし)』だ。

 

 ――ああ、なのに。なんで、わたしは……。

 

 今、高鳴る胸を抑えられないのだろう?

 頭を掴まれ、彼の胸元に押し付けられ、口は彼の指で塞がれるという屈辱的な様に、どうしようもなく頬が火照り、胸が高鳴り思考がかき乱される。

 

 ――なに、これ?

 

 屈辱に瞳が歪むけど、同時に壊れた心臓が打ち震える。

 

 ――なんなの、これは?

 

 押し付けられた胸元から彼の激しい鼓動を感じる。互いに密着した肌は服越しでもその熱を伝えてくれる。荒い息が頬を撫で、その香りが鼻をくすぐる。その度に、頭のどこかが蕩けて、抗うための力が溶かされてゆく。

 知らない感情が心を満たし、ありえない感覚がこの身を侵す。

 弄んでいるわけでなく。玩具の健気な抵抗を楽しんでいるのでもなく。壊しても殺してもいないのに、

 

 ――何故、わたしはこうもときめくの?

 

 弄ぶのではなく、弄ばれている。蹂躙するのではなく、されている。

 それは本来ならば苦痛と屈辱以外の何物でも無いハズなのに、わたしは今、彼がもたらすその全てに――いいえ、彼そのものに、魅せられている。

 

 ――違う。違う違う違う違うこんなのは違うッ。

 

 揺らいでいく。崩れていく。壊れていく。

 何か、大切な、わたしが必死に守り、保とうとしていた物が、壊れていく。

 

 ――わたしはこんな物を求めてはいない。ときめくはずなんてない。何故ならわたしはただ弄ぶことでのみ快楽を得るモノ。ただの極悪。まごう事無き絶対悪そうで無ければならない。だってそうでなければわたしはただの――。

 

 困惑が満ち混乱に墜ちる精神が恐慌をきたす寸前に、その声はかけられた。

 

「……おい、大丈夫か?」

 

 たった一つの声に、意識が狂乱する思考の渦から現実へと戻される。

 いつの間にか拘束は解かれ、わたしは呆然と立ち尽くしていた。そして目の前には、そんなわたしを心配げな瞳で見つめる、彼が――御伽騎士(おとぎきし)が、いた。

 その姿を、顔を、瞳を目にしたその瞬間に。

 

 

 わたしの意識は、真っ白になった。

 

 

 停止したの思考(セカイ)の中で、頬が熱を持つのを呆然と感じる。脳髄が甘く痺れ、白い肌が燃え上がるように赤く染まる。そして、この胸が、今までに聞いた事の無い、あり得ない程の大きさで――ドクンッ、と鳴った。

 

「…ふぁっ…ぁ…ぁ…っ…」

 

 瞳が震え、頭は痺れて、総てが甘く燃え上がる。

 なに?なにこれなんだこれは?

 

 ――弄ぶ時の高鳴りでも、壊した時の昂りでもない、この未知の鼓動はなんなの?

 

 分からない。分からない分からない分からない。

 壊れてゆくわたしが分からない。壊していくあなたが分からない。

 

 ――わたしは、あなたは、一体……なに?

 

「なあ、どうし――」

 

 手が、伸ばされる。

 大きくて優しげな、何よりも恐ろしい彼の手が、わたしに伸びて、触れられたら――わたしは、どうなってしまうのだろう?

 その時、わたしを突き動かしたのは、紛れもない恐怖だった。

 

「――――ッ!!」

 

 パンッ――と、気がつけば、わたしはその手を打ち払っていた。

 

 驚愕に目を見開く彼の瞳と、その手を打ち払った掌を呆然と見つめるわたしの瞳。二人の眼差しは交わらぬまま、わたしはその掌をそろそろと胸にあてた。狂ったように鳴り響く熱い鼓動が、指先に己が激情を訴えかける。

 

「なに…これ……?」

 

 果たしてこれは何の高鳴りだろう。困惑か、恐怖か、それとも――。

 

「知らない……こんな……わたしは……」

 

 分からない。分からない。こんなモノ、わたしは知らないッ!!

 恐るべき未知が、身も心も打ち壊していく。何よりも大切な筈の『わたし自身』を容赦なく変えていくそれが、堪らなく恐ろしくて――。

 わたしは、心配げに声をかけようとする彼にすらもビクッと怯えて――逃げ出した。

 まるで小さな子供のように。ただの無力な女の子のように。

 行き先など決めず、ただ恐怖のままに、無我夢中で走り続ける。

 震える視界が霞む。悪寒が全身を包み込む。まるで暗闇の中をさ迷っているかのような感覚の中で――わたしの足が消え失せた。

 

「……ッ!?」

 

 違う。消えたのは感覚だ。ガクンとガラクタに成り下がった足が崩れ、視界が揺れるも、崩れ落ちる寸前に感覚が戻り、何とか体勢を立て直す。

 ああ、そうか。

 

 ――わたしにはもう、逃げる時間すら無いのね……。

 

 乾いた絶望が、虚ろな嘲笑となってわたしを自嘲した。

 

 ――なら、せめてどこかで……休みたいな。小さく丸まって、何もかも忘れて、震えていたいよ。

 

 そして気がつけば、わたしは、吸い込まれるように、あるいは見えざる糸に導かれるように、目の前の小劇場の扉をくぐっていた。

 その時、わたしはここで上演される人形劇のタイトルを目にして、あまりの皮肉に思わず苦笑する。だってそれは、わたしの原典(モデル)である物語だったのだから。

 

 その物語のタイトルは――『オズの魔法使い』

 

 ◇◇◇

 

 逃げ出した少女を追って、御伽騎士は小さな劇場の扉を潜った。

 

「……ハァ、ハァ…ッ…どこ、だ……?」

 

 荒い息を吐きながら、周囲に視線を走らせる。淡い照明が照らす薄暗い客席――無人のそれらが連なる伽藍堂(がらんどう)の中で、紫がかった銀色が小さく(うずくま)っていた。

 その姿に小さく安堵の息をつき、騎士は少女の下に歩み寄ると、座る彼女の隣席にそっと腰を下ろした。

 少女はシートの上で小さな膝を抱え、細い背を丸めてそこに顔を埋めている。隣に騎士が座った事には気付いているのだろけど、言葉は無く、ただぎゅっと膝を抱き寄せて沈黙する。その小さな姿はまるで、泣き疲れて蹲る幼子の様で、騎士は思わず手を伸ばし――。

 

「……ッ!!」

 

 近づくそれに小さな体が怯えるように震えて、彼はその手を止めた。触れる事も、撫でる事も出来ずに、虚空で停止した手は戸惑うように揺れて、力無く戻された。触れる事を言葉無く拒絶された彼は、せめてもと――そっと、その小さな背に自分の上着を掛けた。

 ふわりと、その儚くも壊れてしまいそうな程に華奢な身体を優しく包み込まれる感触を、少女は――拒絶すること無く、ただ小さく震えて、受け入れた。

 そして、抗えぬ沈黙が、無力な二人を包む。

 触れることも、語りかける事も出来ない、そんな時間が、二人きりの伽藍堂の客席に流れ、消えていく。

 やがて、そんな二人を覆い隠すように、淡い照明がふっと消えて、世界が闇に包まれた。

 そして開幕のベルが鳴り、幕が上がる。

 力無き小さな少年と人形が見つめる中で、人形劇が始まった。

 

 《アメリカ合衆国カンザスの大草原に暮らす少女ドロシーは、ある日家ごと竜巻に襲われ、愛犬トトと共に世界のどこにあるとも知れぬ摩訶不思議で奇妙な国に迷い込んでしまいました。

 

竜巻に運ばれたドロシーの家が落ちたのは、その国を支配する邪悪な東の魔女の上。魔女は家の下敷きとなって命を落とし、ドロシーはその奴隷にされていた小さく奇妙な人々『マンチキン』から感謝をもって迎え入れられました。

 

 でもドロシーは、両親のいるカンザスに帰りたい。だけど帰り方が分からない。居場所を失くし途方に暮れて泣き出す彼女の前に、優しい北の魔女が現れます。魔女はドロシーに、遠くエメラルドの都を統べる恐ろしくも偉大なる魔法使い『オズ』ならば助けてくださるかもしれないと告げて、護りの力を持つ祝福のキスと魔法の銀の靴を授けました。そしてドロシーは小さくも勇敢な愛犬トトと一緒に、エメラルドの都への摩訶不思議な旅に出たのです》

 

 それは初めて見る物語。それは知らないはずの童話。……だけど何故だろう。いつかどこかで、そして誰かと、この物語を楽しんだ事がある様な気がする。

 覚えの無い奇妙な既視感を感じて戸惑う騎士の前で、迷える少女の奇妙な物語は進んでいく。

 

 《エメラルドの都への旅の途中で、ドロシーは三人の風変わりな仲間たちと出会いました。

 一人は脳みその無い藁のカカシ。からっぽの頭を埋める知恵を求める無脳の藁男。

 もう一人、いえ一匹は勇気の無い臆病なライオン。胸にあるべき勇気を持たない百獣の王。

 そして最後の一人は、肉の身体を失い、愛しい人への愛をも喪った、優しくも哀れな――》

 

「――――ッ!!」

 

 その時、傍らの少女が、小さく震え息を呑む声を、聞いた。

 

 《――心の無い、ブリキの木こりでした。

 錆つき、動く事もできず壊れゆく所をドロシー達に助けられた彼は語ります。

 

『わたしはかつて肉の体を持つ人間でした。そしてある美しい娘と恋におち、結婚を誓い合いました。ですが結婚に反対する彼女の老婆とそれに頼まれた邪悪な魔女の呪いによって、肉の体と彼女を愛した『心』を失い、かわりにブリキの体を手に入れました。

 

でも慣れてみればそう悪い事ではありませんでしたよ。新しく手に入れたブリキの体はお日様の下で実にピカピカで、わたしはとても誇らしかったし、ブリキはちょっとやそっとでは傷つきませんからね。……でも恋人だったあの子への愛が完全に無くなったわたしは、結婚なんかどうでもよくなってしまいました。あの子は.きっと今でも、老婆の下でわたしを想っているのでしょうに。

 

――故に思うのです。実に多くを失くしたわたしですが、その中で最も大きかったのは『心』を失くした事だと。何故なら――』》

 

 少女はもう、俯いてはいなかった。顔を上げ、紫銀の髪を揺らし、赤い瞳を見開いて人形劇を――語るブリキの人形を見つめていた。

 

 《『――だから、わたしはオズに『心』をもらえるようお願いするのです。彼女を愛することのできる『心』をもらえたのなら、わたしはきっとあの子の想いに応えられる。愛し合う事が出来る。そうしたらあの子の下へ行って、結婚するつもりです』》

 

 瞳が見つめる。少女は見つめる。惑える彼らの人形劇を、己を創り上げた傀儡王が愛しただろう物語を。己の起源を――見つめる。

 

 《三人は、それぞれが求める物を得るために、ドロシーの旅に同行します。

 

 居場所を、脳みそを、勇気を、心を。それぞれがそれぞれの欠落を抱えた四人と一匹は、さまざま苦難と、危険と、恐怖を共に乗り越えて旅を続け、ついにオズのいるエメラルドの都にたどり着きました。そしてようやく、ドロシー達はオズに会う事が出来たのです。しかし、それぞれの欠落を埋める物を求める彼らに、偉大なるも恐ろしき魔法使いは無慈悲に言いました。

 

『この私の国では求める全てに代償が伴う。私の力を使って己が居場所に帰りたいと求めるのならば、まずは私の求めに応じなければならない』

 

 そして、自らの願いを告げました。

 

『邪悪な西の魔女を殺すがいい』

 

 ドロシーは、希望が砕ける音を聞きました》

 

 いつの間にか、二人は互いの事すらも忘れて、物語に見入っていた。否、魅入られていた。言葉も無く、動きも無く、どこまでもすれ違っていた二人の想いはこの一時だけ、一つになれた。

 

 《失意と絶望に涙を流すドロシーを、同じように求めを断られた三人の仲間達は励ましました。藁のカカシも、臆病なライオンも、そして、心の無いブリキの木こりも、みんなドロシーの事が大好きだったのです。

 

『恐ろしくも偉大なるオズよ。わたしはブリキの木こりです。温かな肉ではなく冷たいブリキでできたわたしには、心がありません。だから何者も愛することができません。故にオズよ。お願いですから心をください。他の人々と――ドロシーや仲間たちと同じになりたいのです』

 

 その求めはオズには届きませんでしたが、今はそれを忘れて、ただドロシーに元気になってもらいたくて励まし続けました――仲間たちと同じように。

 そんな彼らの想いに励まされ、ドロシーはついに絶望を乗り越えて、邪悪な西の魔女を倒す事を決意しました。誰も殺したくは無いけど、やるしかない。そして、小さな胸に大きな決意を宿したドロシーと、三人と一匹の仲間達の新たな旅が始まりました。西の魔女は恐ろしく邪悪にして、あの偉大なるオズですらも敗北した世界最凶最悪の魔女。ですが、ブリキの木こりに迷いはありませんでした。彼の冷たいブリキの胸には熱い想いと、そしてオズの言葉だけがあったのです。

 

『本当に『心』を望むのであれば、それを勝ち取らねばならない』》

 

 二人は寄り添い、想いを重ねる。何かを失くした少年と、心の無い少女は、欠落した彼らの物語を、欠落した魂で魅続ける。

 

 《それは、恐ろしくも危険な旅でした。エメラルドの都への旅路を遥かに超える困難と恐怖がドロシー達を襲いました。襲い来る西の魔女の軍団の猛攻に何度も晒され、戦い、その全てを打ち倒してなお終わらぬ戦いに、仲間達は傷つき、ドロシーすらも魔女に囚われてしまう程の苦難の果てに、ついにドロシーは恐ろしくも邪悪な魔女を滅ぼしました。

 

 そしてオズの願いを叶えたドロシー達は、ようやく自分達の望みを叶えてもらうためにオズの下へと戻ります。ですがそこで彼らは、驚くべきオズの真実を知るのです。オズは魔法使いではなく、ドロシーと同じようにこの奇妙な国に迷い込んだ只の人間でした。

 

失望するドロシー達に、ですが偉大なるペテン師はたしかに求めた物を授けました。カカシには『脳みそ』を、ライオンには『勇気』を、そしてブリキの木こりには『心』を、それぞれが求めた物を魔術ならぬペテンを以って『造り上げた』のです。

そしてドロシーには、カンザスに帰るための気球を用意しました。これに乗って一緒にカンザスに行きたいというオズと共に、エメラルドの都の全ての臣民が見守る中で気球を浮かべ、二人は旅立とうとしたのですが、なんとドロシーはふとしたトラブルから気球に乗れず、先に乗りこんでいたオズだけを乗せて気球は飛び去ってしまいました。

 

 一人残されたドロシーはまたカンザスに戻る希望が消えた事に涙を流しました。しかしすぐに立ち直ると、帰るための新たな方法を探しました。そして、善良な南の魔女グリンダならば助けてくれるかもしれないと聞いた彼女は、南の魔女に会うため、三人と一匹の仲間たちと共に新たな、そして最後の旅に出かけたのでした。》

 

 そして物語は進み、やがてクライマックスを迎え、大団円とともに終幕した。

 幕が下りる。物語が終わる。騎士は、気がつけば拍手をしていた。手を叩き、己の欠落を埋めた彼らの物語に賛辞と感動を伝える。そしてそれに重なるように、小さな、だが確かな拍手の音が傍らから聞こえた。見ると、儚げな紫銀の少女が、その小さな手で同じように拍手を贈っている。その赤い瞳は、何かを噛みしめるような、あるいは羨望するかのような眼差しで、幕が下りゆく舞台を静かに見つめていた。

 

「ねえ……」

 

 ぽつり、と、その唇から囁くように、小さな問いが掛けられた。

 

「もし、オズがいなかったら、ブリキの木こりはどうしていたのかしらね……?」

 

 霧のように微かな声が、宙に溶けて、消える。

 

「オズがペテンもできない只の人間で、ブリキの人形に『心』を作ってあげる事ができなかったのなら……彼は、『心』を求める事を諦めたのかしら……?」

 

 それは、はたして騎士への問いなのだろうか?あるいは、自分自身への――。

 

「錆つき、壊れ果てるまで涙を流して、それでも彼は……」

 

 ねえ、ナイト……。

 揺れる瞳が、静かな声が、傍らの少年に向けられる。

 

「本当に帰る手段が無くなっていたら、ドロシーはどうしていたのかしら……?」

 

 泣いて、迷って、惑って、どこにも行けなくなった小さな少女は……。

 

「行くべき場所も、帰るべき所も失くしてしまったら、どこへ行けばいいの……?」

 

 その声は、小さく、儚くて、問いかけるようにも、助けを求めるようにも聞こえるそれに、騎士は暫し言葉を発することができなかった。言葉無き薄闇の中、静寂が二人を包む。

 彼女の心が分からない。何故の問いのかも、そこに込められた想いも。だが、答えなければならない。これはきっと、そういう問いだから。

 

「……それは――」

 

 発せられた騎士の声は――場違いな音楽(ざつおん)に止められた。

 突然に鳴ったメロディーに二人はキョトンとし、少女は眉を顰めてその発生源である騎士の上着のポケットから、鳴り続ける無粋なスマートフォン(じゃまもの)を取りだした。

 同時に照明が点灯し、世界が光を取り戻す。照明に照らされたスマホの着信画面には『万馬殿安美(ばんまでんやすみ)』の名があった。

 とりあえず騎士は少女に「悪い」と謝り、スマホを耳にあてた。

 

「もしもし。なんだ安美?」

 

 騎士の応答に、聞き慣れた無気力気味の小さな声が返ってきた。

 

『……今、デート中?』

「ああ」

 

 その問いに答えると、電話越しに僅かに息を呑む音と、暫しの沈黙が流れる。

 

「……どうした?」

『……なんでもないよ。そっちはどう?上手く……いってるの?』

 

 思わず傍らの少女を見る。自分を見つめる瞳に嫌悪の色は無いが、物憂げな光があった。手を伸ばせば届く距離にいると言うのに、それを隔てる見えない壁を感じてしまう。

 

「…………」

『……やっぱり』

「うるせえ。俺も何が何だかよく分からねえんだよ……」

『……やっぱ童貞してるような奴は駄目だな(笑)』

「ああこちとら惚れた事はあっても惚れられた事の無い非モテ男子だよ畜生。おかげで女心なんて分かんねえよ……」

『…………だから童貞なんだよ……ばか』

 

 その呆れたような、拗ねたような彼女の声は、とても小さく微かで

 

「ん?今何て言ったんだ?」

 

 騎士には、届かなかった。

 

『……なんでもない、よ。……ねえ、ないと。電話、あの子に代わってくれる?』

「ああ。別にいいけど……なんでだ?」

『……秘密のガールズトークがしたいのです』

 

 なんだそりゃ?と首をかしげつつ、傍らの少女にスマホを手渡す。怪訝そうに眉を顰めて受け取った少女は、一瞬だけ躊躇うように動きを止めた後、それを耳にあてた。

 

「……なに?」

 

 僅かに硬い声で問いかけると、返ってきたのは――。

 

『……ドーモ、ニ○ジャスレイヤーです』

 

 ブチッと切ったらプルっと着信。

 

「おふざけなら切るわよ」

 

 ジト目で言うと、当の安美はまるで何事も無かったかのような口調で問いかけてきた。

 

『……デート、楽しい?』

「……ええ。おかげさまで、いきなり胸をつかんだり指を突っ込んでくる下衆な玩具を弄ぶ楽しいデートをしているわよ」

 

 せめてもの御返しに黒い皮肉を存分に込めた感想を贈る。だが返ってきたのは、凍ったナイフのごとく冷たく、少女の胸を鋭く抉る言葉だった。

 

『……ふぅん。……やっぱり、分かって無いんだね』

 

 ――ドクン、と、胸の奥が冷たく震えた。

 

『……それとも、分かっているからこそ、誤魔化しているの?』

 

 思わず発した声は、小さく強張り、震えていた。

 

「……なんのつもりなのよ。あんたは……ッ。そうやって何も知らない癖にズカズカと踏み込んで……わたしを掻き乱して……ッ」

『……だから、ないとはあなたを放っておけないんだね……』

「……え?」

『……ないとは、そういう女の子を放っておけないから……。きっと今もすぐそばで、あなたを救おうと頑張っているんだよね』

 

 でも、ね……。

 そして安美は憐れむような、悲しむような、慈しむような響きで、語る。

 

『……ないとは優しいし、情が深いけど、コレはそういうものじゃないの。まるで何かに追い立てられるように、駆り立てられるかのように、自分をかえりみずに救おうとする。そうやって、自分が傷つくことも厭わずに戦い続ける……』

「…………」

『……昔、あるどうしようもない女の子を救った時も、ないとは言ってた。「理由なんてねえよ。ただどうしようも無く、泣いてる女ってのがほっとけないだけだ」って……』

 

 そう語る彼女の声に、微かな懐古と後悔の色が混ざっているように思えたのは、はたして気のせいだろうか。

 

『……そんな彼を見ていると、怖くなる。そうやっていつか、戦い続けた果てに……ないとは壊れてしまうんじゃないかって……』

 

 憐憫と、恐れが混じったその声は、切なる祈りを語る。それに呑まれるように、少女も気がつけばその言葉に聞き入っていた。

 

『――だから、ないとには恋人を作ってほしいの』

「なによ……それ?」

 

 思いもしなかった言葉に呆然と問う少女に、安美は己が願いを、想いを伝えた。

 

『……泣いてる女の子を誰彼構わず救おうとするその心が。たった一人に向けば……もしかしたら、ないとの強迫観念の様な衝動も少しは治まるかもしれない。他の女の子なんてどうでもよくなるくらいに好きになれる娘が出来たのなら、もう誰かのために傷つこうとは思わなくなるかもしれない。……もし、そんな娘がいたのなら……』

「……それが、わたしってわけ……?」

『……あなたの踏み込んじゃいけない場所に踏み込んで、冗談まで言ってけしかけた』

「そして馬鹿なわたしは、あなたの思い通りにまんまとデートをしているってわけね……」

『……全部私のわがままだよ。あなたのためなんかじゃなくて、ないとと、そして私のための身勝手なわがまま。恨んでもいいし、憎いなら私には何をしてもいい……でもッ』

 

 小さな声に、切なる力が宿る。張りつめ、まるで哀願するように濡れて

 

『あなたが何を抱えて、何に苦しんで何を惑っているのかは知らない。けど、ないとならきっとあなたを救ってくれる。だからお願い……ッ』

 

 自分の想いすら犠牲にしてでも、ただ彼への想いを込めて願った。

 

 

 

『――ないとを、止めて……ッ』

 

 

 

 その、願いは――。

 

「 ふ ざ け る な 」

 

 それを託した少女によって、砕かれた。

 

「おまえの願いなんて知った事か。そんな祈りなんて知るものか。わたしはわたしだ。おまえの操り人形(マリオネット)でも、傀儡でもない。わたしはわたしのものだ。わたしの身も心も生も死もわたしだけのものだ」

 

 己が誇りを、矜持を弄ばれた憤怒と憎悪を以って、極悪の少女は切なる願いを粉砕する。

 

「覚えておけよ人間。『わたし』は『わたし』が決める――それほどに望み祈るのなら、おまえがやればいい……ッ」

『…………私に、そんな資格は無いよ』

 

 熱く凍える怒声に対して、静かに告げたその声には、何かに濡れた――悲痛があった。

 

『……私じゃあ、ないとを幸せにできないよ……ッ』

 

 そして、電話の向こうから何かが流れ、ぽたりぽたりと落ちる音が生まれて、冷たい沈黙が降りる。暫しの無言の後、そんな安美に少女の冷たい声が問いかける。 

 

「……なんで、わたしを選んだの?」

『……あなたなら、ないとを救ってくれるかもしれないと思ったの。ないとを想うあなたなら……』

「言ったでしょう。わたしにとってのナイトはただの玩具。それ以上でもそれ以下でも――」

『――どうして、自分の心から眼をそむけるの?』

「――――ッ!?」

 

 少女は、見えざる刃が己が胸を抉る音を、聞いた。

 

『……お茶会の時、ないととの事を話してるあなたは本当に楽しそうだった。私がないとを盗ろうとした時は、心の底から嫌がってた。あなたがその時に感じたそれはきっと、玩具なんかじゃ抱けない感情だよ。ううん。たぶん世界中でたった一人、ないとにしか抱けない想いだよ。あなたにとってのないとは玩具なんかじゃない。彼はきっと、あなたにとって初めての――』

「うるさい黙れ!わたしはそんなモノ知らない。あるはずが無い。わたしはただの絶対悪だ。そんなモノを――抱けるはずなんてないッ!!」

 

 振り払うように叫び、通話を切る。

 

「……そう、そのはずなのに…ッ…なんで…ッ」

 

 会話を断ち切ってなお激情のあまり荒く息をつく少女に、驚き戸惑った声がかけられた。

 

「おいどうした。そんな声を荒げて……ッ」

 

 ただならぬ様子に目を丸くする騎士に、少女は何でもないと告げ、厭わしげに重い息を吐く。そんな姿を彼は暫し無言で見つめ、眉を寄せ何事かを考えるように逡巡した後、気遣うように口を開いた。

 

「もし、安美が何か言ってきたせいで怒ってるなら、アイツの悪友(ダチ)として謝るよ。すまなかった……」

 

 少女の赤い瞳を見つめ、頭を下げる。

 精一杯の誠意と謝意を込めて。だがそれには同時に友への想いも込められていた。

 

「――でも、きっと悪気があった訳じゃねえんだ。あいつは正直何考えてるか分かんねえし、空気をあえて読まないとこもあるけど、言葉で人を傷つけて喜ぶような奴じゃねえ」

 

 憂いを帯びたその瞳に、不器用で伝わり難いがその心に確かな優しさを持つ――万馬殿安美という少女を伝える。

 

「あいつが何を言ったのかは知らねえ。けど、それはきっとお前のためを思って言った事なんだと思う。だから、その……あいつのこと、許してやってくれないか……ッ」

 

 真摯な想いを込めて、再び頭を下げた。

 顔を伏せた騎士は少女の顔を見ることはできない。ただ自分が出来る精一杯の行動で想いを示し、それが届く事を祈った。

 しばし、無言の時が流れ、やがて、小さなため息が生じた。

 

「……顔を上げなさい。あの子の言葉は別に、もう気にしてないわよ……もう、どのみち意味の無い事だから……」

「そう、か……」

 

 気だるげに言う少女の言葉に、小さく安堵し、顔を上げる。だが、その言葉はどこか投げやりで、騎士はそれに何か言い難い不安を感じた。だが、それが何かを考える間もなく、話は終わりだとばかりに立ちあがろうとした少女が――糸が切れたように崩れ落ちた事により、その思考は中断を余儀なくされた。

 

「――――ッ!?」

 

 間一髪の所で手を伸ばし支えたことで、倒れる事は防げた。だが、掴んだその腕や胴体から伝わる体温はひどく冷たく、その身体はがらんどうの様に軽い。まるで死体の様なその感触にゾッとしつつ、騎士は強い口調で尋ねた。

 

「やっぱお前体調が……ッ。おい大丈夫か!」

「……声が大きいわ。耳元でそんなに騒がないでよ」

 

 気だるげに答える少女の顔色は、骸骨のように白い。

 

「……っ!待ってろ、今救護室かなんかに連れてってやる!」

 

 そう言って少女の体をそっと背負った彼に、だが彼女はその背で緩慢に首を横に振った。

 

「いいわよ。別に……」

「馬鹿言うなよそんな顔してっ」

「……それよりも……ねえ、ナイト。わたし、行きたい所があるの……」

 

 後にしろと言うために振り向き――騎士は見た。少女の弱々しくも懇願するような瞳を。その奥に在る、切望にも似た光を。

 

「――お願い。わたし達のデートの、最期を飾らせて……」

 

 小さな唇が紡いだ願いを、騎士は断る事が出来なかった。

 

 ◇◇◇

 

 黄昏に、音が流れる。

 

 しゅん。しゅぅん。

 

 寄せては返す波のように、しゅんしゅんと流れる――水の音。

 風情ある日本庭園を染める黄昏の中で、青い少女は舞っていた。

 その手に握るは揺らめく水の刃。澄み渡る切っ先は空を斬るたびに、しゅんと水音を奏でる。それを振るう少女の瞳は静かに閉じられ、瞑想する僧のような、あるいは真理を求める哲人のような、侵し難くも凛とした美しさを纏っていた。

 

 一振り。しゅうんと水音が鳴る度に、細腕は新たな構えを取り、華奢な身体がすうっと踊る。

 

 その斬撃に、どれ一つとして同じ物は無い。上段、中段、下段はもとより、正眼、脇構え、八相、時には無構えすらも織り交ぜたあらゆる構えからなる斬撃が、絶える事無く繰り出される。一振り毎に目まぐるしく変わるそれらは、一切の統一感を欠いた物でありながら、青い少女の持つ人ならざる武技によって乱れ無き一つの流れとなる。

 

 澄み渡る刃が奔(はし)る。青みがかった髪が踊る。華奢な身体は美しき武を舞う。

 荒ぶる武と凛々しき美の舞は、黄昏の中で絶えずその勢いを増していき――唐突に止まった。

 すぅ……と、舞を止めた少女――雨宮凛花の瞼が静かに開かれ、深く澄んだ蒼海を思わせる碧眼が現れた。

 

「……久しぶりだな」

 

 形の良い唇から、誰もいない虚空へと澄んだ声が掛けられる。

 応える者などいないはずのそれに、だが、愉快げに応える声が生じた。

 

「おやおやまさかバレているとは驚いた!稼働率が落ちても相変わらずの鋭さ恐れ入ったよ!」

 

 どこからか響く甲高い声に、少女は驚く事無く、ただ小さく苦笑して、その声の名を言った。

 

「猫のくせに亀のように覗き見る。お前も相変わらずだな――チェシャロック」

 

 語りかける凛花の眼前の虚空が、ゆらりと揺らめき、

 

「久しぶりだねえ姉上。変わらぬ武と美しさ、壮健そうで何よりだ」

 

 慇懃な口上と共に黄色の猫人形が現れた。

 その姿を懐かし気に見つめ、凛花は眼を細める。

 

「お互い積もる話もあるんだろうが……。お前の事だ。そんな事を話しあうために来たのではないだろう――何の用だ?」

 

 その声に僅かな鋭さを纏わせ問う少女に、笑う猫は張り付いた笑みを深め言った。

 

「そう身構えないでくれよおっかニャい。いやなに、ちょっとしたお誘いだよ」

「お誘い……だと?」

 

 訝し気に眉を寄せる凛花。その姿をガラスの瞳で楽しげに観照し、布地の猫は誘う。

 

「ああ。楽しい楽しい人形劇への、ね」

 

 彼との彼女のクライマックスの舞台へと。

 

「我らが友――御伽騎士クンの魅せ場だ。是非とも共に鑑賞し盛り上げようじゃないか」

 

 笑い、誘った

 

「……何が起きる?」

「さあ?……でも、必ず『何か』は起こる。それを知るために、ミーはここにいるのさ」

 

 

 ◇◇◇

 

 二人が其処を訪れた時、世界はすでに夜の帳が下りていた。

 木々に囲まれた郊外の空き地。黒い夜闇に沈み、白い月明かりが照らすかつての自宅跡。二人が出会い、全てが始まった舞台に、騎士と、彼に背負われた紫銀の少女は舞い戻った。

 

「……ここで、いいのか?」

「……ええ。ありがとう」

 

 背中の少女に問うと、彼女は小さく頷き、ふわりとその背から降りた。

 

「っと、大丈夫か?」

 

 声をかける彼に淡い微笑みを返し降り立った少女は、澄み渡る月明かりの中、夢見るような足取りで歩きだす。

 降り注ぐ月光に鈍く輝く、紫がかった銀の髪。夜闇に浮かぶ屍蝋めいた柔肌はどこまでも白く、喪服のごとき黒の衣装と相まって、どこか不吉ながらも退廃的な美を感じさせる。

 月下に佇む紫銀の少女。その幻想的な美しさに、騎士は思わず息を飲んだ。

 やがて彼女は足を止め、騎士に振り返る。ふわりと揺れた髪が、紫銀の軌跡を夜闇に描いた。

 

「ここで、わたしとナイトは出逢ったのよね……」

 

 懐かしそうに呟く少女に、騎士もまた眼を細める。ほんの三日前の事だと言うのに、何故だか随分昔の事のように思えるのは、きっと少女との日々が経験した事が無いほどに濃密なものだったからだろう。

 

「ああ、そうだな……」

 

 忘れ難いそれらを思い出しつつ頷くと、少女が月光の白いヴェールの向こうから問いかけてきた。

 

「ねえ……ナイトはわたしに出会う前は、どんな人生を送ってきたの?」

「なんだよ、いきなり?」

 

 意図の分からぬ問いに首を傾げる。紫銀の少女はそんな彼に小さく微笑み、言った。

 

「知りたいの……そう、ただ何となく知っておきたいのよ。あなたの事が……」

 

 月明かりの中でそう語る彼女は、どこか淡く儚げで、まるで月光の中で咲き、日の出と共に枯れ果てる月下美人の花を思わせて――騎士は、気がつけば語りだしていた。己の人生を。精神を。その心に穿たれた虚ろな喪失感を。まるでそうしなければ目の前の少女が今にも消えてしまうのではないかと、そんな不可解な想いに駆られて、彼は自らの全てを語り聞かせた。

 少女は、ただそれに静かに耳を傾けていた。寝物語を聞く幼子のように、そっと瞼を閉じて、語られる彼の物語に聞き入っていた。

 そして、騎士の語りが終わり、場に静寂が落ちると、少女の伏せられていた瞼が静かに開かれ、現れた赤い瞳が揺れて、淡い唇が開かれる。

 

「――わたしは、玩具箱の中で生まれたの……」

 

 そこから紡ぎ語られるは、見えざる糸に縛られた極悪なる少女の物語。

 

「見るモノ。聞くモノ。生きるモノ。なにもかもが玩具に見える。そしてわたしの中には、それを弄ぼうとする『悪意』だけが在った」

 

 淡々と、懐かしげに、澄んだ声音で語る。

 

「『悪意』のままに玩具を犯して壊して弄ぶのは、とてもとても楽しかったわ。罪悪感も後悔も無く、わたしは確固たる絶対悪(わたし)として在ったし、望むままに望む事を成せるならただそれだけでよかった……のに、わたしはあの男に出会ってしまった。あのおぞましき害虫のような男――『害蟲王(コックロード)』に……」

 

 物憂げな瞳が、不快げに歪められる。身の内から湧き出る怖気を堪えるように噛みしめた奥歯が、ぎりりと鳴いた。

 

「『そのおぞましくも純粋な精神。迷い無く揺るがぬその在り方。なるほどまったく素晴らしい。我輩の様に迷いの果てに諦め尽くした弱者からすれば、実に眩しく焦がれる強者の生き様だ。……だが、同時にふと思うのだよ。カラクレア君、君の中に在る『悪意』は、君を満たす唯一の物は本当に君自身の『意志(こころ)』なのか、と。それとも単なるマリアネット・コード(つくりもの)に過ぎないのか……とね。ふむ……もしもそれがただのコード(ゼペットの道具)に過ぎないのだとしたら――さて、『君』は一体何なのだろうか?悪であることを望み、願い、悪を成すその意志は、思考は――果たして誰のものだろうねえ?』……そう言われたわ。まったく、今まで数え切れないほどの罵詈雑言を浴びてきたけれど、あれ程に只の言葉で深く抉られたのは初めてよ――深く、貫き、抉り、侵され、自我も誇りも何もかもが狂い壊れていく。まるでそう、蠍の針に刺されて、蜘蛛の毒を流し込まれたような感覚だったわ……」

 

 そう語る彼女の声が、小さく震えた。

 

「そしてわたしは、分からなくなったの。それまで何の疑問も、迷いも無く従っていた『悪意(わたし)』に、初めて迷いが生まれた。これは本当にわたしの意志なのか、『わたし』はわたしの物なのか……ってね。拠り所(アイデンティティー)が壊され、誇りとしていた物が叩き折られたわたしは、『わたし』が信じられなくなった。そうして生まれた自分が誰かも分からない虚ろな恐怖は、時と共に大きく育ってわたしを縛りつけていった」

 

 自らを縛る見えざる糸を確かめるかのように、白い手で腕を抱く。

 

「それからのわたしは、もう揺るがぬ絶対悪なんかじゃなくなっていた。ただひたすらに悪を成す。楽しいからでも、やりたいからでもなく、悪を成しているその時だけは、快楽がわたしを縛る不安と恐怖を忘れさせてくれるから。……でも結局、恐怖はわたしを放さなかった」

 

 

 その時の光景に想いを馳せるかのように、瞼を閉じた。閉じた瞼の向こう側には、一体どのような地獄が映っているのか、騎士はうかがい知ることも出来ない。

 

「そうして縛られていったわたしは、あの忘れもしない去年のクリスマスイブ――至高の魔導人形(マリアネット)を巡って三人の王が争った運命の夜に、再び害蟲王に対峙したの……」

 

 閉じた瞼が開かれ、赤く凍った瞳が現れる。凍てつく憤怒と殺意に光る瞳が、記憶の中の怨敵への憎悪に染まっていた。

 

「わたしは待っていた。待ち焦がれていたわその時を。害蟲王を殺す、その時を。弄ぶためでなくただ純粋に殺すために、わたしは奴に挑んだ。奴を殺せば、わたしをわたし自身への恐怖で縛り惑わせたこの男を殺せば、わたしはこの恐怖から逃れられる。確固たる絶対悪(わたし)になれると、そう信じて、祈り願い挑んで――負けた」

 

 静かに燃え上がる怨嗟にも似た声が、奈落へと沈む。かつての失意を滲ませて、暗い声音が屈辱を語る。

 

「敗北し、倒れ伏すわたしに、害蟲王は言ったの。『自身を縛りつける恐怖と自己不信から眼を背け、己が何かも分からず、ただ誰の物とも知れぬ『悪意』のままに誰もいない舞台の上で私は私と叫び踊り続ける。嗚呼まったく君と言う子は実に何とも哀れで愉快な――お人形だ』……ほほえましいものを見るかのように哂うアイツの顔は、今でも忘れられないわ……ッ」

 

 震える声と共に掌が握られ、ぎりりと呻りを上げる。

 

「わたしは害蟲王を殺せなかった。……だったらもう、わたしが『わたし』になるためには、この恐怖から解き放たれるには一つしかなかった。わたしを縛りつけるもう一人を――『傀儡王』ゼペットを殺す。その操り糸を断ち切れば、主の傀儡でなくなればコード(めいれい)に従わずにすむ。わたしはわたしの純粋な意志だけで悪を成せるから、きっとその時こそ、わたしは真の絶対悪(わたし)になれる――だからわたしは、マスター・ゼペットを殺したの……」

 

 切なる祈りと、願いを込めて、親殺しを語るその顔には、だが苦しみと迷いがあった。

 

「マスターを殺して、これでようやく、わたしは『わたし』になれると思った……なれたはずだった……のにッ」

 

 澄んだ声がか細く震え、その常に超然としていた美貌が――歪む。

 

「なんで……ッ……分からなくなるのよ……ッ」

 

 嘆きとも苦悶ともつかぬその声は、己への悲痛な惑いに濡れていた。

 月の光の中で立ち尽くし震える小さな姿には、笑いながら悪意を振るったあの力強さも、弄び笑う傍若無人さも無い。まるで冷たい雨に打たれる子犬のような、あるいは暗闇の中をさ迷い歩く幼子のようで――。

 

 騎士は、思ってしまった。

『守らなければいけない』と。

 それが何故かはわからない。優しさや憐れみとはまた違った、その身の内の最も深き淵から湧き上がり駆り立てる抗えぬ不可解な衝動が、彼を突き動かした。

 思考よりも早く、優しさも憐れみすらも抱く前に、気がつけば――彼は紫銀の少女を抱きしめていた。

 

「――えっ?」

 

 強く。強く。

 深く。深く。

 触れれば壊れてしまいそうな小さな少女を、壊すように。

 強く、抱きしめる。

 

「……ナイ、ト……?」

「っあ……」

 

 その声で、我に帰る。

 そして思わぬ自分の行動に自分で驚くも、彼は抱きしめるその腕を解こうとはしなかった。

 それは、小さな体が、震える肩が、か細い声が、少女の弱さを伝えていたから。

 感じてしまったから。少女の迷いを、惑いを、怯えを、『悪意』にしか拠り所を得られなかった彼女の苦しみを。

 

「やめて……苦しいよ……」

「やめねえよ」

「放して……わたし、壊れちゃうから……ッ」

 

 腕の中で震える悲鳴にも似た声が紡がれるも、放す事などできはしない――こんな哀れな程におぞましくも純粋な少女(あく)を知って、放せるはずなんてなかった。

 

 ――悪しか持たず。

 ――愛を知らず。

 ――恋を否定し。

 ――ただただ揺るがぬ『絶対悪(じぶん)』という理想像に縋る虚ろな少女。

 

「放さねえよ。放せねえよ……絶対にッ」

 

 そんなモノを知ってしまったのならもう――自分はただ……

 

「今だけは、お前を抱かせてくれ……」

 

 抱きしめる事しか、出来ないではないか。

 

 ◇◇◇

 

 ドクン、と。

 

 ――彼の腕の中で、わたしはわたしが壊れる音を聞いた。

 

 …ああ。もう、だめだ……。

 だめ、だめよナイト。こんな事、されたんじゃあ……もう、誤魔化せないじゃない。

 抱きしめられた腕から、触れ合う胸から、あなたの熱を感じる。鼓動を感じる。想いを感じる。

 そして――それにどうしようもなく高鳴る、わたしを感じてしまう。

 眼を背けても、耳を塞いでも、もはや逃れる術が無いほどに鳴り響くそれが告げている。

 この甘く切なく胸を締め付ける痛みの正体を。ただの玩具に抱くはずの無いこの想いの名を。

 愛着なんかじゃない。気の迷いでもない。

 

 ――わたしは、ナイトに恋をしてしまったのだと。

 

 そう気付いた瞬間、迸るように愛おしさが湧きあがる。

 彼を抱きしめたい。抱きついて、頬ずりして、唇を合わせて想いを伝えて、そして最期の時を迎えられたら。ああ、それはなんて甘く、幸せで……。

 

「――くそったれな、エンディングかしらね……」

 

 胸の鼓動が願っている、彼との幸せな終幕を飾りたいと。悪意ではない未知の恋情がわたしを染めていく。

 

 ――ああ……故に、だからこそ…

 

 わたしは、そっと――彼の頬に口づけた。

 

 ――…それを、受け入れてはいけない。

 

 刹那の口付け。捧げた唇は、甘く、痺れて、わたしを壊していく。

 

 ――だからこそ、ここに口づけを贈ろう。壊れたわたしが、愛しいあなたに捧げる手向けとして。

 

 そしてわたしは、彼の胸に手を置いて、とん……と、押しのけた。

 触れた指先から伝わる熱と鼓動を最後に感じて、胸を押されて後ずさる彼と、同時に身を引いて離れたわたしの体が、別れる。

 

 拒絶され戸惑う彼に、わたしは、別れを告げるように掌を向けて――大螺子を撃ち放った。

 

 どおん、と、魔力を結集させて作り上げた紫銀の大螺子は狙い違わず彼の左頬を掠めて背後の木に突き刺さる。すぐに大螺子は紫の粒子となって消えるも、突如攻撃をうけた彼の瞳は、消えざる驚愕に見開かれていた。

 

「――さあ、遊びましょうナイト」

 

 こうする事は決めていた。こうなる事は分かっていた。

 わたしが死期を悟ってから。彼をデートに誘った時から。……いいえ、彼と出逢ったあの時、一目見たあの瞬間に決めたのだ――彼で、わたしの終幕を飾ろうと。

 

 ここで彼を受け入れれば、きっとわたしは幸せな最期を迎えられたのだろう――何者にもなれず、己が心すらも持てなかったお人形として。

 

 そんなもの、ああそんな吐き気がするほどに甘く虚ろな終焉(エンディング)なんて。

 

「断固断るって、やつよねぇ……」

 

 ハッピーエンドなんていらない。悲恋だろうが上等だ。

 わたしは純粋で完全で完璧な絶対悪。恋に壊れたお人形なんて役柄は断固断る。わたしは……そう、わたしはただ最期の瞬間まで――極悪(わたし)で在れればいい。

 

 だから、笑え。胸が痛もうと、何かで視界が潤もうとも、笑え。

 

「さあ、殺し愛いましょうナイト。わたしを(こわ)すあなたと、あなたを(こわ)すわたしで――二人の決闘(デート)終幕(フィナーレ)を飾りましょう」

 

 高鳴る鼓動をねじ伏せて、燃え上がる想いを殺意で凍らせ、わたしは――極悪に笑った。

 

 ◇◇◇

 

「な、んで……」

 

 震える喉から、かすれた声が漏れた。

 愕然と眼を見開き立ち尽くすも、頬に刻まれた焼けつくような痛みと冷たく濡らす血の感触が、これが紛れもない現実であると告げている。

 

「なんで、そこまで……ッ」

 

 悪であろうとするのか。

 震える問いに、少女は答えた。

 楽しげに、邪悪に、極悪そのものの笑顔で。

 

「ゼペットを殺し、傀儡でなくなったわたしは、ずっと探し求めていた。わたしの終幕を飾るに相応しい玩具を。悲鳴で、苦痛で、絶望で、わたしが揺るがぬ絶対悪であると感じさせてくれる最高の玩具を」

 

 純粋に。切実に。祈りを。誇りを。

 

「あなたの全てで、わたしはわたしの『悪意(こころ)』を証明する」

 

『悪』として生れし故に、『悪意』しか知らなかった故に、『悪』にしか己を見いだせなかった『絶対悪』は、只一つの願いを告げた。

 

「――あなたを殺して、わたしは『わたし』になる!」

 

宣誓(いのり)と共に、殺意(ちかい)を込めて――大螺子(おもい)が、放たれた。

 




Q、ねえなんでデートなんてしたのん?
A、べっ別にわたしはナイトなんか好きじゃないんだからね!彼は単なる玩具なんだから好きになるわけないじゃないっていうかそもそもわたし恋だの愛だのそんなキャラじゃないし!……いや別に照れ隠しとかツンデレじゃないわよ!ああもういいわこうなったら証明してあげるんだからッ!

結果→返り討ちwww

そんなこんなで最終話……の前篇です。
誠に申し訳ございません。全開のあとがきで『次回最終話』とか言いつつ心理描写と説明文が長くなりすぎて前後編にする事にしました。
全ては作者の技量不足によるものです。ここまで読んで下さった全ての読者様に深くお詫びします。

というかほんとに心理描写があああああ!むずい!長い!そして酷い!
何だこのグダグダ感は延々と説明ばっかだしファッキンミー!
スピード感を!もっとスピード感を!ドライブよりもクロックアップ的なスピード感が欲しい!

次回は戦闘バリバリの文字通りの最終話です。スピード感を意識して執筆しますのでお待ちください。

※凛花の名字をキャライメージに合わせて漢字だけ一文字変えました。でもキャラ的には変更は無いのでご安心ください。多重人格にもプロファイラーにもなりませんよ。

※※ちなみにこの物語の『オズの魔法使い』は台詞をガンガン改変&独自解釈を入れまくり、原作とはほぼ別物になっておりますことをお伝えします。つまりは原作も超オススメですよドロシーたんカワイイ。
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