月に寄りそう乙女達 ~Irish Fairy~ 作:トライアヌス円柱
1話 裏タイトル 【知らない故郷だ】
1話 桜小路才華の帰国
喜劇 桜小路才華の人生
大層な表題をされているが、これまでの自分の人生にこれといって特筆すべきところはない。
いや、恵まれない環境に生まれた人から見れば、ふざけるなと罵られるかもしれないほどに僕は環境に恵まれた。そのためもあって僕の人生にはこれといったドラマがない。
裕福な家に生まれ、素晴らしい両親を持っている。周囲の人たちはみないい人ばかりで、僕を宝石のように大切にしてくれた。それこそ、壊れ物を扱うかのように。
才能にも恵まれた。素晴らしい両親のそれぞれの才能を受け継ぎ、幼少の頃から褒められてきた。
だから、山あり谷ありの人生というものを、これまでに経験していない。お父様が僕の年齢の頃は、波乱万丈とはかくの如し、とばかりの人生を送っていたし、お母様もお父様ほどではないとはいえ、苦労が多い経験をされてきた。
お二人の人生に比べ、僕の人生は平坦だ。なにも起伏はなく、色は単色。同じ部屋で、同じ毎日。
だから、これからだ。これから僕の人生が試される。幼い日から聞き、憧れた物語に、今から挑むのだ。
桜小路才華は、今日からようやく歩き出す。
「疲れたな」
飛行機を降りて空港のターミナルに立った時の僕の第一声はそれだった。なんら飾ることのない、ただの感想。
身体が重い。長時間同じ体勢で居続けたせいか、血流が悪くなっているのかもしれない。というか間違いなくなっている。飛行機移動というのは大変だな。
ここは日本の首都圏に近い国際空港。周囲が日本語だらけで、周りが日本人だらけなのだから間違いない。
ここに見覚えはないけれど、周囲の様子から、ここが日本だと実感させられる。
けれど、これといって感慨は浮かんでこなかった。文明が発達したどこの国でも、国際空港ならば、こういうものじゃないだろうか。NYの空港と、そんなに差があるとは思えない。
この国で生まれた身でありながら、薄情なことを考える。でもそんな考えを弄んでいても仕方ないので、僕は後ろにいる2人に声をかけた。
「2人は、大丈夫? 疲れていない?」
僕と一緒に飛行機から降りた2人の少女。
「はい、懐かしい故郷の地を踏めましたので、少し心が浮き立っていますね」
「わたしも問題ありません。お嬢さまと同じく、日本は久しぶりなので、懐かしい気持ちはあります、若は、お疲れですか?」
妹の桜小路アトレと、桜小路家に仕えるメイドの山吹九千代は、姉妹のような息の良さで返事をくれる。うん、九千代、僕は少し疲れてるよ。
でも、それを素直に九千代に言ってしまえば、彼女は困ってしまうだろう。最初の呟きは声が小さかったから、九千代には聞こえてなかったようでよかった。
「どうかな。でも、かれこれ10時間以上同じような姿勢でいたら、人間は疲れるものだと思うよ」
多分、僕でなくとも多少の疲れは覚えるものじゃないかな。国際的な商社に務める方は、純粋にすごいと思う。
「でもお兄様、少しお顔の色が優れません」
「そうです。どこか休める場所で、少しお休みしましょう」
おおっと、ここで2人が結託してしまった。純粋な気遣いはありがたいけど、これくらいでへばっていたら、僕がこれからやろうとしてることなど到底無理なので、ここはやせ我慢をさせて欲しい。
それにしても、2人にはあまり疲れの色は見えないな。やっぱりこういうところでも違いがでるのか。まあ、当然といえばそうだけど。
「いや、大丈夫だよ。でも、2人がそう言うなら、お手洗いで顔でも洗ってこようかな」
ここはこれで譲歩して欲しい。2人にそう告げて視界に入ったトイレのマークのもとへ行こうとすると、後ろの2人が何かを言おうと口を開きかけたが、言葉を飲み込んで黙ってしまった。言おうか言うまいか逡巡しているように見える。
いったいどうしたんだろうと訝しむ気持ちはあるけれど、ともかく顔を洗ってスッキリしよう。日本の水道の質は世界有数なので、僕の肌にも問題ないはずだ。
けれど、結果として僕はトイレに入れずじまいで2人のもとへ帰ることになった。
「注意されちゃった。でも、別に僕は間違ってないよね?」
「たしかに間違ってはいませんけど、他人から見たら間違いになってしまいます」
「若、やはり女性と間違えられたのですね?」
「うん、空港の係員の方が、流暢な英語で『お嬢さん、そちらは男性用です』って紳士的に言ってくれたよ。日本のサーヴィスはとても丁寧だね」
ああ、2人が僕が男性トイレに向かおうとしたところで、声を掛けようとしたのはそれだったのか、でも……
「今の僕、女性に見える……?」
今僕が着ているものは、コットンの白無地のシャツに、黒のウールのパンツ。靴は黒のプレーントゥで、タイも黒。だけどモード系のソリッドタイなので、喪服には見えないはずだ。
このスタイルは、親戚の方を参考にさせていただいた。出来れば衣遠伯父様の着こなしを参考にしたかったけれど、僕の体型で彼の真似は到底無理なので、伯父様よりはシャープな体型の従兄弟叔父にあたる駿我さんのスタイルならば、僕でも出来ると思って。
お父様ととても仲がよく、よく僕の部屋で世間話をしてくれていた駿我さん。今もあの常にフラットな物言いは変わっていないのだろうか、
ともあれこの服装はすべて男物の上、ジャケットは着ていないから、身体のラインも隠れていない。だから女性らしい体つきを示す要素はないはずだけど。
「若の顔はお美しいですから……」
「それに、今のお兄様の雰囲気では、なおさら」
どんな雰囲気を纏っているんだろう僕は。こればかりは自分で分からないから、鏡を見るためにお手洗いへ、って駄目だ。それじゃ同じことの繰り返しになる。
2人に言われて、近くにあった仕切りのガラスに歩み寄る。鏡ほどしっかりは映らないけど、空港にあるガラスは業者の方がしっかりと仕事をされているからか、僕の全身姿をしっかりと写してくれていた。
「……うん」
写っているのは、小柄な男性……だと僕は思うのだけど、そうは見えないのだろうか。それに、これといった特殊な雰囲気も感じられない。
たしかに僕はお母様にそっくりだ。けれどお母様よりは身長があるし、体のラインは…… あまり変わらないかもしれないけど……
『あ?』
なぜかお母様の怒った声の幻聴が聞こえたが、きっと気のせいだ。
でも、僕はお母様の身体のラインはとても素敵だと思っています。バランスが美しく、完璧なお身体です。お父様はなぜか身体に丸みがあって男性としては少々特殊ですが、僕はやわらかいお父様に抱きしめられるのは大好きです。今ころNYは朝でしょうか、これからお仕事頑張ってください。
例えば叔母さまのように、身長が低いのに胸が大きいのは、バランスが悪くていけません。僕は断然お母様のお身体を支持します。
『はぁ?』
今度は叔母さまの声の幻聴が聞こえた気がするが、これもきっと気のせいだ。
いけない、思考があらぬ方向に行っている。僕の容姿、姿のことだった。
でも、僕自身は自分が男だと見えるんだけどなぁ。
「男には、見えない?」
妹たちに尋ねても、2人は首を横に振るだけだった。2人とも嘘がつけない性格だから、他人から見た場合はそうなんだろう。
そうか、僕は女性に見られてしまうのか。となると、その原因は。
「髪の影響かな」
僕は腰より下まで伸びる長い自分の髪に触れる。お母様譲りの、白い髪。僕が誇れる唯一の体の部分。毎日手入れは欠かしていないから、今日もいい髪質を保てている。
たしかに、ここまで長い髪の男性というのは少ないだろう。僕も自分以外では一人しか知らない。
でも、2人の反応は僕の予想とは違うものだった。
「たしかに御髪の影響もあるでしょうけど」
「それ以上に、若が綺麗だからです」
綺麗? うん、まあ、僕はお母様そっくりだから、顔立ちが整っているのは間違いないけど。
考えてみれば、たしかにお母様が男物のシャツとパンツを身につけたからといって、男性に見えるはずもない。なら、こういうことだろうか。
「もう少し背が欲しいね」
あと10cmでも背があれば、男性に見られたということだろう。とはいえ、何が何でも男性に見られたいわけじゃないけど、ちょっと予想外だったから、少し、残念だ。
「そういうことでもないのですけど…… ともあれ行きましょう。壱与が入口で待っていてくれているそうですから」
「そうなんだ、うん、待たせたら悪いね。急ごう」
アトレはまだ何か言いたそうだけど、このまま立ち話し続けるもの疲れるので、早く出口に向かうことにした。どうやら入口で、長いあいだ通信でしか話していない、八十島壱与が車で待機してくれているようだ。
彼女の大きな体に抱えられたことは、忘れていない。僕の第二の母とも言える人。むろん第一の母は…… あれ? 第一の母を頭に浮かべたらお父様の笑顔になった、おかしいな。
出口に向かう途中も、僕たちは注目を集めた。僕の白い肌と髪、それにアトレのアレンジがされた和服が珍しいからだろう。周囲に妹の様なファッションの人物はいないので、とりわけ目立つ。
それでもその表情に感嘆の色が見られるのは、きっと僕たちの服が良いからに違いない。僕の服の合わせは簡素だけど、皺一つに寄らないように縫った中々の自信作。アトレの方も、叔母さまの経営する企業の一つである服飾ブランドで作られた、サイズぴったりの仕立て品だ。目を惹かないはずがない。
国際空港だから、日本人ばかりというわけではなく、外国人の人も多く見かける。そんな彼らも僕たちを見るとしばらく瞠目している様子だった。
行き交う人々を不意に眺めていると、いろいろ発見することはある、NYの空港でも思っていたことだけど、本当に世界には人が多いんだな、僕が知らないことばかり。そして、みな歩くのが早い。いや、これはもしかしなくても僕たちが遅いだけだろうか。
僕、アトレ、九千代。みな低身長で見事なまでに歩幅が短い上に、スポーツをやっているわけでもない。それでも自分のペースで歩くしかないけれど。
そう思いながらしばらく進んでいると、たしかに僕は女性にしか見られないだろうことを理解した。世界的に身長が高い方とは言えない日本人でも、男性ならほとんどの人が僕よりずっと背が高い。女性でも僕より高い人が多く見られる。いつの間に日本人女性の平均身長は伸びたんだ。
……NYの空港なら、人種の違いのせいにできたけど、日本人でもこうとなると、間違いなく僕の背は低く、その上髪も長いとくれば、女性にしか映らないだろうことを認識させられる。
その事実に、少し目を細めて俯いた。
「若、やはりどこかで少し休憩しましょう。八十島さんには少し遅れることをわたしから連絡致しますので」
そんな僕の様子を見てか、九千代が気を効かせてくれる。たしかに疲れているけれど、すぐさま休憩が必要なわけじゃない。それに、今は休まずに目的地まで行きたい気分なんだ。
「いいえ九千代、それは壱与に悪いですよ。ただでさえ長時間私たちを待っていてくれているのだから」
九千代の提案をやんわりと取り下げたアトレは、そんな僕の気持ちを察してくれたのだろう。よく出来た妹だ。
飛行機から空港の出口までくらいは、休まずに歩きたい。……でも、思ったよりも広いな、日本の国際空港。
足取りが重くなった頃に、空港の入口が見えた。その入口から見える夜空に、綺麗な月が架かっている。日本の月は、懐かしい。
ああ、このときようやく僕は生まれ故郷を「懐かしい」と思えたのかもしれない。
その後僕たちの姿を認めて近づいてくる大きな人影があった。壱与だ。最後に直接見たときと変わっていない姿からは、2度目の「懐かしい」を感じさせてくれた。
けれど、その後壱与の運転する車の窓から見える夜の街並みは、ただの知らない風景だった。知らない国の、知らない街。流れていく家並み、道路、街路樹、全てが初めて見るもの。隣の妹たちが言うような「記憶の中の街と違う」「街並みが変わって別の街のようだ」ではない、ただ単に僕はこの街を知らない。
どうやら東京の街は、僕の故郷ではないようだ。
「長旅お疲れ様でした。桜屋敷に到着です」
だから、僕が「故郷」「懐かしい場所」と表することが出来るのは、ここしかない。僕が生まれ育った桜屋敷。春にはその名のとおり美しい桜が咲き誇る庭園。
僕が知る、知っていた世界が、記憶の中の姿のままにある。それはとても嬉しかった。
この屋敷には多くの思い出がある。お父様に抱かれて夜の庭を散歩したこと。お父様の膝枕で屋敷のソファーで眠ってしまったこと。お父様と一緒に入ったお風呂のこと。お父様は本当にここの浴室がすきだったなぁ。あれ? なんかお父様との思い出ばかりだ、おかしいな。お母様は…… そういえば僕がお父様といっしょにお風呂に入る際に「息子に取られた……」と呟いていらしたっけ。我が母ながら何やってるんだろう。
「さあ、ぼっちゃま、中に入りましょう」
車から降りたまま動かない僕を見て、壱与がそう促してくれている。ありがとう壱与、僕の体調を気遣ってくれているんだね。でも大丈夫だよ。
空港で僕の姿を認めたとき、壱与は少し驚いた表情と、同時に納得したような表情を見せた。それはほんの些細な動きで、隣の九千代はそんな壱与の様子に気づいた様子はなかったが、アトレも察したようだ。壱与とは電話やメールで連絡をすることはあったけど、直接会うのは数年ぶりになる。
「こんなことを言うのはおかしいとお思いでしょうけど、おぼっちゃまを車で出迎え、こうして後ろに控えながら屋敷の門をくぐると、20年前のことを思い出します」
日本と桜屋敷、それと壱与に別れを告げてアメリカに渡ったあの頃と比べれば、僕もアトレも九千代もずっと成長した。そして僕はお母様そっくりの外見になったから、そんな僕と一緒にいると壱与はお母様が学生時代だった頃を思い出すんだろう。
お母様が服飾生徒だったとき、屋敷から学園へ送迎していたのは壱与だったから。
「このお屋敷も、きっと喜んでいるはずです。桜屋敷の主が戻られたことを」
桜が咲き誇る美しい屋敷には、月に愛された白い主人が住んでいた。
けれど、僕にその資格があるだろうか。僕の外見はお母様とそっくりだけれど、それだけだ。この屋敷の主人を名乗るには、足りないものが多すぎる。
「そうかな? 僕には屋敷の、半人前が主人面するなという声が聞こえる気がするよ」
「そ、そんなことありません。若は立派な桜小路家のご嫡男なのですから、この屋敷の主足る風格を備えています!」
「ありがとう九千代。でも、やっぱりこの屋敷の主はお母様だよ、昔も、今も、たとえこの場にいなくとも」
屋敷は、僕たちを『主の子供たち』として歓迎してくれている。でも決して『主』としてじゃない。
「若ぁ……」
「いい子だね九千代は」
「うう」
それでも僕を立てようとしてくれる九千代の気遣いは、純粋に嬉しい。隣にいる妹も、そんな僕たちの様子をみてクスクスと笑っている。
「ダメですよ九千代、お兄様を困らせては。壱与、これからは九千代をビシビシと鍛えて上げてください」
「あら、そういえば私に久しぶりに部下が出来るのね。覚悟してちょうだい山吹さん、私、厳しめ乙女になって、ビシビシと指導しちゃうから」
「お、お手柔らかに、八十島メイド長」
主がいなくなった屋敷からは、それまで勤めていた人たちも辞めていった。実家の都合や寿退社など、理由は様々だけど、そうして残ったのは八十島壱与ただひとり。一人で、この広い屋敷を守っている。こうして、主の家族が帰ってくるのを迎えてくれる。
彼女がいなければ、僕たちは明かりが消えた、荒涼とした雰囲気の屋敷を見ることになっただろう。でも、眼前にある屋敷は温かい光で出迎えてくれている。
この光の暖かさは、壱与の心の暖かさだ。僕にはとても真似できない、お父様のような本当に心の温かい人が、この屋敷を守ってくれたことが嬉しく誇らしい。
だからその感謝を素直に言おう。
「この屋敷で待っていてくれたのが、壱与で良かった。ありがとう、お母様の思い出の場所をずっと守ってくれて」
「まあうれしい! ぼっちゃまったらお優し乙女、いえお優し紳士ね!」
優しいのは壱与だよ。
屋敷の中も、思い出の中の姿のままだった。それは、壱与がずっと思い出の姿を保ち続けてくれたことの何よりの証拠。誰もいない屋敷で、楽しかった思い出のままの姿を維持するのなんて、誰にでもできることじゃないよ壱与。あ、まずいなんか涙が出てきそう。屋敷のエントランスで僕はしばらく心ここにあらずの状態になってしまった。
妹も同じだろうかと思って様子を見てみたら、さほど変わらない様子で夕食のことについて壱与と話していた。あれ? 感傷に浸ってたのは僕だけ?
自分よりずっとしっかりものな妹は頼もしいけれど、遅れをとってはいけない、僕も会話に参加しよう。
「アトレお嬢様と山吹さんは機内食を食べられたそうですが、若は召し上がっていないのですよね?」
ん? 壱与の僕への敬称が『若』になってる。どうやら横に居る九千代が注進したようだ。ぼっちゃまでも別に良かったんだけどな。
「うん、機内食は重くて」
「それでは、遅いですがなにかお召し上がりになりますか? 言ってくだされば、なんでも用意しますよ」
「ううん、気持ちはありがたいけど、食欲はないんだ」
「そうですか、それは残念です」
「明日は、壱与の自慢の料理を振舞ってね」
「ありがとうございます。そう言われては、はりきり乙女にならざるを得ないわね。皆様、明日の朝食のご希望はありますか?」
「わ、わたしはいっしょに用意する側なので」
「やはり日本に帰ってきたのだから、和食がいいですね。ご飯と、お味噌汁と、お魚と…… それ以外は壱与に任せます」
「僕も同じ、あ、でもご飯はお粥でお願い」
「了解しました。明日を楽しみにしてらしてね!」
「はい、楽しみにします。それで壱与、荷物を置いたらどちらに」
「応接室でお待ちです。私がお嬢様の荷物を運ぶので、山吹さんは若の荷物をお願いね」
アトレの言うとおり、この屋敷には壱与以外にも僕たちの到着を待ってくれている人が居る。荷物を置いたらすぐ挨拶に行かないと。
僕たちはそれぞれの部屋に荷物を運んだ。いや、正しくは壱与と九千代に運んでもらったんだけど。
僕は幼少の頃に僕の部屋だった部屋、アトレは仮で用意した来賓室へ。日本を離れるときアトレはまだ幼く、自分だけの部屋を持っていなかったからこういう配置となった。
そして、僕たち兄妹が荷物を置いて応接室へ向かうと、そこに知らされているとおりに僕たちを待っている人の姿があった。
「無事に着いて何よりだ」
「お久しぶりです。衣遠伯父様」
「伯父様もお元気そうでなによりです」
大蔵衣遠伯父様。お父様にとってとても仲の良い自慢のお兄様で、僕は子守唄代わりになんど『大蔵衣遠伝説』をお父様から聞いただろうか。でも話を聞くたびに、『ああ、お父様は伯父様のことが大好きなんだ』と思ったものだ。どんな人が相手でも良いところを見つけて好きになろうとする、すごいお父様だけれど、お母様と伯父様のことを語るときは、ほかの人より一層、いや三層くらい? の熱がこもる。
「ああ、ふむ」
そんな伯父様は、僕とアトレの様子を観察するように眺めたあと、口元を緩ませてくれた。
「思ったよりは元気そうだ。積もる話もあるが、才華、お前は今日はもう休め」
「あ、はい。ですが伯父様」
「でもはなしだ。思ったよりは、と言っただろう、顔に疲れが浮かんでいることは確かだ、だから今日はもう休め。積もる話は明日にしよう」
「しかし、伯父にはお仕事があるのではないのですか?」
「お前たちの到着に合わせ、ここ数日の予定は融通が効くように調整してある。俺のことは心配するな、その分を自分に向けろ」
衣遠伯父様の性格は苛烈で自他ともに厳しい方。甥と姪である僕らには甘い一面も見せてくださるけど、今のような場合では有無を言わせない迫力を持つ。でも『大蔵衣遠伝説』の中の彼はもっと恐ろしかったから、これでも往年の1/10程度。
でも、伯父様がこういう態度をされるということは、そうか、やっぱり壱与は気を遣ってくれていたんだな。
「ありがとうございます伯父様。お言葉に甘えて休ませていただきます」
「お兄様がお休みになるなら、私だけが伯父様を独占するわけにもいかないので、私もそうさせていただいてよいでしょうか」
ありがとうアトレ。本当に察しがよくて気の利く妹だ。
「ああ、かまわん。アトレの言うとおり、才華だけを除け者にするわけにもいくまいよ」
伯父様もありがとうございます。僕は本当に家族親族に恵まれた。
部屋に戻って見ると、すでにベッドメイキングがされていた。この手腕はおそらく壱与だ。九千代も十分優秀な使用人だけど、そこはやはり年季の差だろうか。
疲れはあるけど、今日はまだデザインを一枚も描いていない。壱与と再会し、彼女の在り方に感銘を受けた今日だからこそ描けるデザインがある。だから今日のうちに描いておきたい。身体が動く限りは、1日に一枚もデザインを描かないというのは怠慢だと僕は思っている。荷物の中から、紙とペン一式だけを取り出し、作業にかかろう。
…………………
思うような結果は得られなかったけど、伯父様に言われたこともあるし、今日は3枚でやめておこう。
寝間着に着替え、寝る前の支度をして横になったものの、なにやら落ち着かない。体は疲れているのだから、すぐに眠りに落ちるだろうと思っていたけど、そうもいかないようだ。原因はなんだろうかと考えてみると、普段していた日課を行っていないからだ。
先ほどしまった櫛を取り出し、部屋を出る。とはいえ、誰の元に行こうか。選択肢は四人。アトレ、九千代、壱与、伯父様……。 うん、壱与がいいかな。彼女の知る僕にはなかった習慣だし。
そう思って壱与の元へ向かおうとしたけれど、そういえば彼女の部屋がどこかまだ知らない。屋敷に着いた時に聞いておけば良かったと後悔しているところへ、廊下で本人とばったり出くわすことになった。
「あら若。お眠りになられないなら、なにかお飲み物でもお持ちしましょうか」
「ううん、ちょっと寝る前の体操みたいなことをいつもやってるんだけど、それをしにいくところ」
「それはそれは。……習慣ということは、いつもやっていることなのですよね?」
しまった、体操という比喩はまずかった。壱与に無用の心配をさせている。
「体操というより、おまじないの方が近いかな。寝る前の読書、のほうが的確だね。今度壱与にもやってあげたいから、今は秘密にさせて」
「ふふ、若ったら焦らし上手ね」
「壱与は見るところまだ仕事中だよね? だからまた今度」
「ええ、おやすみなさい若」
明日の朝食のための仕込みかな。僕は料理をする方じゃないから手伝えないのが残念だ。もっとも、料理できていても手伝わせてはくれないだろうけれど。
「壱与はダメとなるとあとは……」
伯父様、アトレ、九千代になるけど。伯父様は僕のこの習慣はご存知だけど早く休めと言われた手前、訪ねにくい。となるとあとは二択。
……二択? 違う、僕は分かっている。この場合、僕が向かう先はいつも同じ。
「九千代? まだ起きてる?」
「若ですか? はい、まだ眠っていません」
「入っていい?」
「ど、どうぞどうぞ。若はわたしの主なのですから、遠慮なんてしないでください」
「親しき仲にも礼儀有りだよ。ではお邪魔します」
九千代の部屋はアトレのような来賓室ではなく、屋敷のメイド用の一室のようだ。それほど広くはない。でも小奇麗でさっぱりしていて、それでいて華があるのは、この部屋の主が可愛らしい存在だからだろうか。
彼女の寝間着姿も、もう見慣れたものだ。本来若い男女が深夜に二人でいることは健全じゃないとされているそうだけれども、僕の中では九千代は家族。彼女にとってもそうであってくれると嬉しいけど、九千代は使用人意識が強いからなぁ。
「それで若、わたしに御用ですか」
「うん、さて九千代。僕がこの時間に部屋に訪ねてくる理由は、なんでしょうか?」
少し意地悪く質問すると、九千代はあ、と気づいてたちまち顔を赤くした。結構してるはずだけど、やっぱりまだ恥ずかしいのかな。
「ええ、と。はい、分かります。あ、でもメイド長にしてあげてはどうでしょうか!?」
「残念、壱与はまだ仕事中だったよ。僕も壱与にしてあげたかったけど、流石に悪いと思って」
「で、では、どうぞ」
討ち入りにいかんとする浪士のように決意を込めた吐息をしながら、九千代は僕に背を向けてくれた。
「ありがとう、九千代の髪を梳くのは、いつ以来かな」
「ええ、と。結構前だと思います」
「一か月前くらい?」
「いえ、三週間ほどでしょうか」
「そっか。でもいつもどおり綺麗な髪だよ九千代。手触りも滑らかで、櫛にもひっかからない」
「うう、畏れ多いのに嬉しい……」
僕の趣味、というか習慣は、人の髪の手入れをすること。
元々は、髪を伸ばし始めた僕に、手入れの仕方を教えてくれたお父様が、上達するには人の髪を整えてあげるのがいい、と言ったことから始まった習慣。
それ以来、僕はお父様が家にいるときは、必ずお父様の髪を整えるようになったし、お父様も僕の長くなった髪を手入れしてくれるようになった。長髪の手入れの練習をするには、対象も当然長髪が望ましいので、僕が髪を伸ばすと、お父様も合わせて伸ばしてくれていった結果、お父様の髪は僕と同じくらい長い。
そのためか、他所でアトレと二人でいると、高い確率で姉妹に間違われるらしい。お父様は実際の年齢よりずっと若く見えるので、仕方がないことだ。
とはいえ、お父様も忙しい方だから、毎日というわけにもいかない。でも習慣として身についてしまった僕は、眠る前に誰かの髪を手入れしないと寝つきが悪くなってしまった。お父様のおかげで自分の髪の手入れは完璧と言えるくらいの自信はあるけれど、どうしても手が誰かの髪を整えることを求めてしまう。
そんなとき、いつも僕のお願いを聞いてくれるのが九千代だった。基本ぼくの言うことには逆らわない彼女だけど、僕だって相手が嫌がることはしたくないし、困らせたくない。
「はぁ~~」
うん、こうして僕に髪を梳かれてヘアクリームを塗られる九千代は、とても気持ちよさそうだ。だから僕もやりがいがある。ありがとう九千代、僕のわがままで喜んでくれて、本当に助かる。
「う~~、気持ちいい…… 主人に髪の手入れをさせる従者なんていちゃいけないのに……」
「大丈夫。僕は九千代のことを、もうひとりの妹だと思っているから」
それでも納得できないのかう~う~と九千代が唸っている地に、セットは終わった。うん、これなら明日起きた時も九千代のキューティクルは万全だ。
「ありがとう九千代。これでぐっすり眠れる」
「これって、本来わたしがお礼しなきゃいけないんじゃないでしょうか……」
「僕のわがままだよ、僕がお礼をいうのが当然。というか、こうしてお父様と離れた環境になったから。もしかしたら毎日になるかも」
「毎日!? それは流石に九千代の心臓が持ちません!」
真っ赤になってしまった九千代に別れを告げて、僕は部屋に戻る。明日も壱与が遅くまで仕事してたら、よろしくね。
部屋に戻りもう一度ベッドに入ると、今度はすぐに眠りにつける状態だと分かる。体から力が抜けていき、再び起き上がることが非常に億劫になっていくのを感じる。
意識が遠ざかる。ヒュプノスの誘いに乗りながら、僕は『彼』が近付いてくるを感じる。
違う、来るな、しばらく君は来なかっただろう。これから新しい生活が始まるんだ、それなのに『彼』が来てしまえば、始まるものも始まらない。
薄れゆく意識を総動員し、『彼』の来訪を食い止める。………うん、大丈夫のようだ。
しばらく様子を見ていたかったが、どうやらそこが限界のようで、今度こそ僕の意識はヒュプノスの園へと旅立った。
その頃の桜小路家
「才華とアトレは、無事に日本に着いただろうか」
「なんだ夫、さっきから同じことを繰り返しているぞ。予定ではあと少しで到着、空港には壱与が向かえに行き、義兄も桜屋敷で出迎えてくれる予定だ。もし何かあっても対処できる」
「それは分かってるんだけど、心配なものは心配だよ。まだなんの連絡もないし」
「桜屋敷に到着したあとに連絡が来る予定だろうに、緊急の連絡あった方が問題だ。やれやれ、君のその心配ぶりは、一人娘が初めて旅行にいく時の父親のようだな」
「いや、確かに父親だけど才華は息子だし、アトレも九千代も一緒にいるからその例えはおかしいよ。」
「おかしいのは君の心配ぶりだ…… と言いたいところだが、まあ、君の気持ちも分からんでもないよ。私とて、同じ肌を持つあの子が、ちゃんとやれるかは気になる。その上、あの子が抱えているものは私以上だからな」
「うん、才華もしっかりした子だし、あまり心配しすぎるのも悪いとは思うけれど、どうしてもね」
「ただ、君と違って私は失ったことはない。本当のところで君の気持ちを理解してやれないもどかしさはある。だが、今は私たちの自慢の子供を信じてやろうじゃないか」
「うん、そうだね、ありがとうルナ」
「それに、才華ばかり心配していては、もう一人がへそを曲げるぞ」
「もちろんアトレも大事な子供だし、心配もしてるよ」
「これも大蔵家の血筋のなせる業か…… 君の一族のほとんどは遊コンだが、当の君は息コンときた」
「変な言葉作らないで」
「ともあれ、今日は久しぶりに私の特等席が帰ってきて、大変に気分がいい。ここ最近は息子に取られっぱなしだったからな」
「あ、もう、ルナったら」
「大丈夫だよ。私たちの息子も娘も、日本でしっかりやれる。君と私が若い頃そうだったように、多少の困難は克服してみせるさ」
「うん、そうだね。ありがとう、ルナ」