月に寄りそう乙女達 ~Irish Fairy~ 作:トライアヌス円柱
20話 裏タイトル 【白に滴る赤】
下々の者さま、どうぞう様、誤字報告ありがとうございました!
マンションの65階のエストさんの部屋に到着。ここはたしかにエストさんの部屋であるのだけれど、少しずつ僕の持ち物も増えている。特に服飾関係の道具の、針糸、鋏、スケール、生地類は大抵こっちに持ってきている。
これまでも、8:00~19:00までの就業時間、休憩を挟みつつもこの部屋でエストさんと一緒にいることが多かったので、生活の大部分はこっちの部屋に移っている感がある。
1月に初めて会った時、エストさんは住み込みを希望されていたけれど、もう半ば住み込み状態になってるように思うは気のせいだろうか。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、お嬢様」
帰宅の言葉を告げる主人に、隣にいる僕が出迎えの言葉を言うという行為も、この2ヶ月半で慣れ親しんだ習慣だ。散歩から帰ったあとの僕らの、決まりごとのようになっているやり取り。
「では、しばらくお待ちくださいね。今日は腕によりをかけますから」
「わぁ楽しみ。それでいつもより5割増量にしてくれると、とっても喜ぶ私がいます」
「承知しました。お嬢様は相も変わらず健啖家ですね」
「妹からはポリバケツと言われていたよ。あの子が残していた分は、私がいつもおいしくいただいていたから」
「そ、それは、なんともコメントに困る2つ名ですね……」
ポリバケツのエスト、なんてB級ホラーのクリーチャーの様じゃないだろうか。
でも実際、エストさんはよく食べる。しかも美味しそうにたくさん食べてくれるので、作る方としてはとてもありがたい人。その満面の笑顔を見るたびに、頑張って作って良かったと思わせてくれる。
一方で、僕は非常に作りがいのない存在だ。そもそも人の半分も食べない上、重たいものはNG。つまり手間暇かけて肉料理や油料理を作られた日には、全力でごめんなさいする他ない。
従者の立場になって、壱与や九千代に非常に申し訳ない&面倒くさいことをさせていたのだとしみじみと実感。申し訳ありません壱与先生。
さて、せめてその分エストさんのために、壱与先生仕込みの料理を頑張ろう。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
本当にいつもの5割増の量をぺろりと平らげてしまった。どうしよう、今度からもっと量を増やしたほうがいいのかな。
「あ、次からは量はこれまでどおりでいいよ」
「はい…… え? 私、口に出していました?」
「私は心が読めるスーパー主人なのウフフ。なんて冗談、顔に書いてあったもの。朝陽の表情はわかりやすいから」
むぅ、メイドたるもの常に瀟洒に主の側に控え、どんな事態でも冷静に笑顔で対処するもの、という勝手なイメージがあるが、僕はそれとは程遠いらしい。
「ということは、今日はたくさん食べたい気分だった、ということなのでしょうか」
「そうだね。やっぱりちょっと気疲れしてる」
………この人は学校では常にアイルランドの子爵家の人間として振舞っていた。いや、それ以外でも八日堂さんや梅宮さんなどの、他人の前ではいつもそうしてきた。
でも、僕と一緒にいるときはソファでだらけていたり、偶に半裸姿でベッドで熟睡していたりと、だらしない姿も見せてくれる。だからこの人は決して完璧超人というわけじゃない。
僕にとってりそな叔母さまは完璧な女性というイメージだったけど、ルミねえの話では、実は相当だらけた所もあるみたいだし、それと似たようなものかな。
だとしたら、彼女にとって僕は『身内』になっているんだ。そしてそれと同じ気持ちを、僕は彼女に抱いている。
もう彼女には、秘密を打ち明けても良いと、思っている。けれど、中々きっかけが掴めない。もしくは単に、今の関係が心地いいから、このままでいたいだけかもしれない。
「お嬢様は、とても立派に振舞われていました」
「そうだね。でもそれはやっぱり虚勢なの。私一人だったらあんな風に出来なかった」
「え?」
「貴族を貴族たらしめる存在はね、きっとその従者、使用人、領民…… そうした人たちだと、貴女と会って思うようになったの。貴女が私を『お嬢様』と呼んでくれるから、私は貴族に、貴女の主でいられる。貴女に相応しい『お嬢様』でいようと思える」
それは僕もだ。貴女が僕を『従者』として庇護しようとしてくれているから、その立場を理解し、支えようという気持ちになれる。
「それは…… その、光栄です。私も、貴女がそうして気丈に振舞われるからこそ、相応しい従者であろうと思えます」
でも、それだけじゃない。貴女以外が主だったらならば、例えば今日であったパリのお嬢様が主だった場合は、僕はきっとここまで、貴女に対するような愛情を持って誠心誠意従っていない。
「パリの貴族の人、たしかラグランジェさんだったよね。フランスの名家、私でも知ってる立派な家。さっきは私の家名までは知られなかったけれど、聞いたらきっと私の家のこと知っているだろうね。内容の意味は違うけれど」
「お嬢様のご実家の、よくない噂ですか」
「事実だよ。やっぱりあんまり公に出したいことじゃないもの。それでね、臆病な私は、今日あのパリの人に名前が知られなかったことを安堵してるの」
「お嬢様……」
こういう時、何といえばいいのだろう。エストさんは、今きっとすごく疲れているし、弱っている。それは家庭の事情によるものだから、僕から何か言うことではないし、言う言葉も浮かばない。
「貴女がいてくれるから、貴女が私を主と呼んでくれるから、ようやく私は貴族のお嬢様として立っていられる。でもね、貴女がいなくなったらどうなるか分からない」
貴女の傍から離れません。
そう言えたら、どれだけいいだろう。けれど、『
「あのパリのラグランジェさんを見たとき、『知られたくない実家のこと』を言われたらどうしようって思ったの。でも、貴女がそれを遮ってくれた」
それは怪我の功名だ。僕にそうした意図はなかった。もっと単純に、服装の意味を示しただけ。そこにエストさんの実家についてのことまで考えてなどない。
「お嬢様。それは買いかぶりです。あの時の私には、お嬢様を庇おうという意図はありませんでした」
「それはそれで嬉しいの。だって、貴女の中で『アーノッツ家』は恥じるべき存在ではないと認識されているということだから」
たしかに。そういうことを考えたこともなかった。けれど、それは単に。
「私は世間を知らないだけです。家同士の、貴族どうしのやり取りやその力関係など、考えも及ばないだけです」
「そんな真っ白な貴女が好き。見た目も、心も白い貴女が。そんな貴女が故郷の薫りをいつも運んでくれるから。私は遠く離れた東洋の国で、心細い思いをしないでいられるの」
それは…… それはお互い様です。僕も貴女といると、不思議と心穏やかでいられる。
「同じことを私も思っています。貴女と一緒にいると、見たことがない光景、知りもしないはずの言葉が自然と浮かんでくるのです。貴女が、私の血の中にある遠い国を教えてくれている。貴女でなければ、私もこんな穏やかな気持ちになれてない」
実際、もっと苦痛と苦難の道だと覚悟していた。でもエストさんといると『
精神状態が安定しているから、肉体にも良い影響が出ているのだろう。僕の数値的な健康状態は良くはなっていないが、悪くもなっていないのだから。
伯父様の危惧のとおり、『外の世界』は僕には厳しい。それが『現状維持』でいられているのは、貴女が側にいてくれているからです、エスト・ギャラッハ・アーノッツ様。
「嬉しい。でも不思議だね。この国に来て、きっと一番嬉しいことが、一番最初に起こったなんて」
「はい」
「故郷の人、故郷を感じさせてくれる人と一緒に居るって、こんなに心強いものなんだね。肌も言葉も違う人たちの中だから、もっと心細いと考えてた」
「はい」
「折角だから話しちゃおうか。私はね、ロンドンやニューヨークでは、実家の噂に晒されるのが耐えられなかった。だから誰も私の家のことを知らなそうなこの国に来たの」
……事情は違うけれど、その思いには共感できる。僕も『小倉朝陽』としてならば、病人であることを知られずにすんできてるから。
「格好悪いよね」
「私も……」
「ん?」
「私も、見たくない現実があります。そして今こうしている私は、その現実から目を背けるのに最適なのです。だから、貴女の気持ちも分かります」
「そっか……」
「それが何なのかは、まだ話す勇気はありません。でもいつかお話したいと思っています」
「うん、それでいいよ。私だって何でもかんでも話せるわけじゃないもの。どんなに親しく思う人にだって、話せないことくらいあっていいと思うの」
「親しく思う人だからこそ、ということもあるでしょうし」
「なんだか重たい空気になっちゃったね。う~ん、気分転換にプールで泳いでこようかな」
「ご一緒します。私は泳げませんけれど、お嬢様の衣服を奪われないように見張っていないといけませんので」
「朝陽…… うん! しっかりと見張っていてね!」
そうして、プールで泳ぐ彼女を見ている。
その姿は美しい。水と戯れるその姿は、まさにケルト神話のエスニャそのもの。本当に彼女を欲してその衣服を奪おうとする男が現れてもおかしくないと思わせるほどに。
僕は一度も泳いだことはないけれど、やはり気持ちがいいものなのだろう。ウチの家族で泳げるのはお父様とアトレ。お母様は僕の仲間。
やっぱり、塩素の入った水は、僕やお母様の肌には辛い。その上僕は、呼吸が苦しくなった日には、そのまま水底へ直行だ。
エストさんと一緒にプールに来る日は割とあった。手持ち無沙汰な僕は、いつもは刺繍をしたり編み物をしたりと、なんらかの暇つぶし道具を持ってきていたけど、今日は黙ってエストさんの様子を眺めている。
僕の視線に気付いているのか、時折彼女はこちらに手を振ったり、微笑んだりしてくれる。
ふと、先ほどのやり取りを考える。僕はエストさんに多くの秘密を抱えているけれど、エストさんも同時に僕に知られたくない、何かがあるようだ。
僕は基本自分のことで手一杯なので、他人の心境を慮る余裕がない。だからどうしてもそういうところに鈍感になってしまう。
でもまだ始まったばかりだ。今日から始まった学院生活の中で、お互いの事をもっとよく知ることが出来るはず。
知られたくないけど、知ってほしい。なんて二律背反だろうか。
でも、そう思える人に出会えたことは、きっと何よりの幸運だと思う。エストさんが言ったように、最初の出会いが最高の出会いになったんだと、僕も思う。
お父様も、お母様に出会ったとき、こんな気持ちだったのだろうか。そう考えると、ちゃんと両親の歩んだ道を辿れてるのかな、と少し嬉しくなれる。
そうやって考えを自分の中で纏めあげて、もう一度視線をエストさんに戻した時、異変に気づいた。
「――っ! ごぼっ!」
―――溺れている? なぜ? どうして。
「ごぶ、んぐ! い、息が!」」
―――彼女が、死ぬ? おかしい、そんな話はない。だってそれでは順番が違う。
「足が、攣って! ご、ごぼ」
―――ああ、死神よ、どうか遠くへ。彼女は生に溢れているのだから、どうかその手で触らないで
いや、そんな考えはどうでもいい。必要なのは救助だ。冷静になろう。
でも、僕は泳げない。だからこのまま飛び込んだところで2人揃って溺れるだけだ。
ああ、『命の危機』に慣れてるせいか、思ったよりも思考は冷静だ。けれど、自分と他人ではわけが違う。僕にできることは何がある? 僕の体で何ができる? せめてここにいるのが壱与だったら。
「そうだ、壱与だ」
すぐに連絡しなければ。彼女は僕に何かあった時のため、緊急専用の連絡端末を持っている。それだけは、どんな時でも電源を入れてあるはずだ。
そしてそのとおり、壱与はすぐに出てくれた。
『若、お返事できますか?』
これは“僕に何かあった時”用の連絡端末だから、壱与は当然そうした事態を想定してくれていたみたいだ。僕と違い冷静な声色。流石は壱与、本当に頼りになる。
「壱与、僕は大丈夫。でもエストさんが溺れてるんだ、マンションのプールで、すぐに助けてほしい」
慌てて大声を出すということはなかった。冷静になったというよりは、『大声を出す』という行為自体を、僕がしたことがないからだ。
今の僕は、冷静というより、むしろ冷淡と言ったほうがいい。これは今までの経験で培われた、命の危機という事態に対する、僕の条件反射だ。
『エスト様が? 分かりました、すぐに向かいます。若は出来たら浮き輪を投げてあげてください。プールサイドに常備されていますから』
「うん、そうする」
壱与の的確な助言に従い、僕はプールサイドにある浮き輪に駆け寄った。救命用のものではなく、泳げない人や子供用のものだ。たしかにいくつか常備されている。
ビニール製で軽いため、僕の頼りない腕力でも簡単に放り投げられたものの、それはエストさんまで届かなかった。ああ、非力な自分が恨めしい。
このプールは結構な上階にある。1階のエントランスにいた壱与が来るまではやはり時間がかかるだろう。その間に、きっと彼女は完全に溺れて、水の底に沈んでしまう。
エストさんも投げられた浮き輪には気づいたようだが、その手は届かず、無情にも水面をもがくだけ。
――よし、行こう。
なんら躊躇なく、思考するまもなく、彼女の苦しみに満ちた姿を見た瞬間身体が動いた。
浮き輪は掴みづらかったので、浮き板、たしかビート板という名前だったと思うが、それに捕まり、服を着たままプールに飛び込む。このメイド服は着脱に時間がかかる。脱いでいる時間はない。
僕ができることは、すべきことはただ一つ。エストさんの側に浮いている浮き輪を、彼女の元に押してやるだけ。それだけなら、こんな僕でもきっと出来るはず。
「はぁ、はぁ、はぁ」
浮き板につかまり、もがくように進む。たった数メートルだというのに、なんて遠くに感じるのだろう。水を含んだ衣服は、こんなにも重いのか。
それでも、なんとか浮かんでいる浮き輪を押して、エストさんが掴める位置まで動かせた。ああ、良かった、彼女もなんとかそれにしがみついで、沈むという事態だけは避けられた。
「げほ、げほ」
それでも、掴む力が弱々しい。このままではまた水の中に逆戻りになってしまう。
でも、僕は自分を維持するだけで精一杯だ。人を助ける力は、無い。今下手に動けば一緒に沈むだけ。
やはりこんな事態はおかしい、だって彼女は健康体の筈なのに。順番が狂っている。そうじゃない、そうじゃないだろう。
……ああ、あの子はいつも、僕が『
2人揃って危険な状況にいるところへ、ドボン! という誰かが飛び込むような音が聞こえてきた。良かった、間に合ったんだ。
「若、ご無事ですか! さあ捕まって!」
僕の何倍もの速さで、あっという間に僕たちの元へ泳いできた壱与は、なんと僕とエストさんを担いでいこうとしている。
「壱与、エスト、さんは、意識が、ほとんど、ない。優先して、あげて」
流石の壱与でも、2人同時は無理がある。2人分の重さの人間ならできるだろうけど、体制的に不可能だ、人間の手は2本しかない。両腕が使えない状態では泳ぐのは無理だ。
それに、エストさんは危険な状況だ、岸にあげてそれで終わりじゃない。適切な処置が必要なはず。
こういうときは、必要な処置をいかに早くするかでその後の経過がまるで変わってくる。状況は異なれど、何度も経験がある僕がそうだったのだから、間違いない。
「分かりました!」
そうと決めたら壱与は一目散にエストさんを担いで岸に泳いでいった、やっぱり僕の何倍もの速さで。
でも、これでエストさんは安心だ。壱与ならば適切な処置をしてくれるだろう。
後は、僕も浮き板につかまりながらもどるだけ。
「はぁ…… は、ぁ…… ぁ……」
………のはずなんだけど、身体が異常に重い。水を吸った服が重いというだけではなく、少し足を動かすだけのことなのに、すごくだるい。エストさんの無事を悟って気が緩んだせいか、疲れが、消耗が、一気に訪れた。
あたまも、いたい。しめつけられるようだ。
なにより、くるしい。うまくいきができない。こきゅうをととのえられない。
そうか、これがうんどうなのか。ボクがはでにうんどうすると、こんなふうになるのか。しらなかったな。
それでも、自分がなにをしているのかも良くわからない状態ながらも、来た経路を戻ってプール岸のそばまで来ていた。人間、やればできるものだ。
けれど、そこまでだった。岸までは着いたが、そこから重い衣服を引きずって体を水から上げる動作を、僕は出来ないでいた。
――あ、まずい
沈む。浮き板を掴んでいた手から力が抜け、水の中に僕という存在すべてが埋まりかけたその瞬間――
「才華ちゃん!」
――僕の手を掴み、必死で引き上げようとする、ルミねえの顔が、意識が朦朧としてぼんやりとした視界に入ったのだった。
「ごほ!、ごほ!」
「……ぅぐ、っがぅ」
エストさんと僕は、2人揃ってプールサイドで咳き込んでいた。
エストさんの傍には壱与が、僕の傍らにはルミねえと、八日堂さんがいる。
驚くべきことに、八日堂さんも一緒に僕を助けてくれたようだ。ルミねえの腰を掴み、2人がかりで僕を引き上げてくれたのだ。たしかに、僕は軽くても水を吸った服は重い、ルミねえ一人の力では無理だっただろう。ありがとう八日堂さん。
エストさんは壱与に救急処置をされて、なんとか危ない事態は脱したようだ。飲んでしまっていた水を大量に吐き出して、ずっと補給できなかった酸素を取り込もうと、悪戦苦闘している。まだ起き上がれない状態のまま、なんとか水を吐き出している。
それに対し僕は、溺れたわけじゃない。ただ体力を消耗しただけ。死ぬところだったエストさんと違い、命の危機に瀕してはいなかった。吐き出した液体の量も、エストさんに比べれば少ない。倒れ伏しているわけではなく、座った体制で口元を両手で覆って咳き込んでいる状態。
そんな状況の僕たちだけれど、明確な違いが2つある。
1つ目は、吐いた液体の色。彼女は透明だったが、僕は赤だった。
それに付随する2つ目は、彼女は命の危機をからくも脱したが、僕はむしろこれからということだ。
口元を覆った両手から、ツゥと赤い液体が滴り落ちる。なんだか久しぶりだな、と他人事のように考える。
「朔莉さん、それ取って!」
「うん! これやね!」
ルミねえによって付けられた呼吸器によって、新鮮な空気を送られたが、僕の意識をつなぎ止めるまでの役割はしてくれなかった。
「しっかり! 大丈夫! 私がついてるから!」
僕が最後に覚えていたのは、細いけれど力強く僕を抱きとめる女性の腕の感触だった。
ああ、そうだ、こんな状態の僕を『
でも、薄れゆく意識の中、ぼんやりと思う事がある。
それは、神様は不公平で、そして公平だということ。
“死”は、健常者のエストさんだろうが、病人の僕だろうが、平等に触れようしてきた。あんなに溌溂とした健啖なエストさんでも、そんなことはお構いなしに、彼女の命を奪おうとした。
“死”の前では僕(病人)もエストさん(健常者)も関係はない。すべてが平等。
でも、“生”は違う。“死”が去った後になると、その差が顕著に現れた。エストさんの身体は、その生命力に溢れた若さもあり、危うくなった自分の体を元に戻そうと、急速に回復されようとしている。
対して僕は、今の方が危険な状況だ。下降していた状況を上昇に転じさせようとしているエストさんと違い、僕の体は下降線のまま。
共にプールから上がったこの状況で、明と暗がはっきりと分かれている。
なにかの本で書かれていたことを思い出す。生命の神と死の神、どちらがより尊い存在か決めるため、貧しい人間にそれを問うたところ、彼は厳粛にこういった。
「生命の神は不平等な人生を与えるが、死は全てに平等だ」
故に、死の神こそが尊い存在である、と。
今回のことは、それを実感させられた。たしかに僕の身体は弱く、平等じゃない。
でも、死だけは、誰の頭上にも予期せずに訪れるものだと理解した。
僕は、他の人たちとは違うと、ずっとそう思っていた。でも、そうか。
絶対的な“死”の前では、誰も彼もが平等なのだ。そこに健常者も病人もない。すべてが対等。
お父様も、お母様も、僕も、アトレも、誰だっていつか死ぬ。僕が最初であったとしても、それだけは変わらない。
はなはだ不謹慎な話だけれど、この一点において僕は誰とも変わらないと思えると、身体は苦しいけれど、心は穏やかな状態で、意識を手放すことができた。
才華の人生は翻弄される嵐の連続で、この日もそんないつもの訪問者がやってきた
ああやはり君こそは大蔵家の災禍、華麗なる一族と思い上がったバベルの塔に下された審判の鉄槌
罪人の子孫は走り、手を伸ばす。今度こそ、失ってはいけないものを零さぬように
~桜小路邸~
「…………才華?」
「………君もか」
「なんだか今、才華の身に何か大きなことが起こったような気がしてならない」
「私も、なんだか胸騒ぎがする。義兄に連絡を取ろう」
「衣遠お兄様も壱与もいるから、大丈夫だと信じたいけど」
「信じよう、彼らは頼りになる人だ。だから我が子らを任せた。その信頼を裏切るような人たちじゃない」
「うん、そうだね。僕が慌てていても仕方ない、落ち着かないと」
「ああ、深呼吸をしろ、さあヒッヒッフー」
「ルナ……」
「人が場を和ませんと体を張ったジョークに、なんて目を向けるんだ君は」
「うん、でもありがとう。どんな時でも君が冷静でいてくれて、とても安心できる」
「ふふん、出来る妻を崇め、敬い、奉るがいい」
「じゃあ、朝日のときのように三々九度で礼拝しようかな」
「え? 君そんなことやっていたのか?」