月に寄りそう乙女達 ~Irish Fairy~ 作:トライアヌス円柱
葬送の儀はどれほど悲しくとも、女王陛下にも劣らぬほど厳かに、華やかに
ああ、血を吸いて才華は開花せん
ああ、乙女よ、貴女は死を選んでしまった
誰も責められる者など居ない、誰が責めることができようか
二人の想いはどんな恋情も及ばぬほどに、断崖の先へと飛翔したのですから
26話 裏タイトル 【紅い婚礼】
それが桜小路才華の現実。この弱い身体の限界値。
………本当に?
「ぃいや、まだだ」
桜小路才華は、人生初となる行動を取っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
これまで彼は発作が起きたときは、直ちにそれを止めるための処置を行ってきた。まず人を呼び、治療を受けるために病院へ行き、場合によっては入院する。
それがあたり前であり、周囲もそれ以外を許してこなかった。
「だい、じょうぶ。耐え、られる」
しかし、今回初めて彼は『我慢』をしている。
発作が起きたのにも関わず、壱与や九千代にも知らせず、精神力でそれを抑えこめようとしているのだ。
絶対に譲れない、譲ってはいけない想いがある。この病に侵された身であっても。
諦観の言葉など要らない。ここで終わっていいはずがない。終わってはならない。
意地を張れ、無理を通せ、体が弱いお前に許された無茶は、心にしかない。
身体が動かないなら、精神を奮い立たせろ、道理を引っ込めて、無茶を貫け。
なぜなら、ここで倒れたことが分かってしまえば。
「あの、子が、いっしょ、う、くる、しむこと、になる」
それだけは認められない。彼女にこのことを負い目に思わせてはならない。
「君、の、こころ、は、僕が……守る、んだ……ぜっ、たいに!」
そう、彼は決めたのだ。今までの庇護されるが故に穏やかであれる人生を捨て、途方もない苦難と輝きに満ちた道を、かつて伯父が歩まんとした悪鬼羅刹の外道ではない、見るものすべてをその光輝でひれ伏させ、近づかせない天道を進むことを。
~ Noah ノア ~
桜小路才華にとって、妹のアトレは唯一無二の存在だった。
彼が物心ついてまもない頃の光景を、彼はずっと覚えている。自分の後をトコトコとついてくる、1歳違いの妹の小さな小さな姿。早熟な彼は、その姿を見て「守ってあげたい」と思っていた。
しかし、そんな時間は瞬く間に終わり、彼は病室と変わった自室に閉じ込められる、それから7歳を迎えるまでの間、彼の世界は自宅どころか自室内で完結していた。
その期間ことを、彼はあまり記憶していない。闘病で意識が朦朧としていることも多かったためであり、変わらぬ毎日を送っていたためでもある。記憶していないというより、記憶に値することが起きなかったと言ったほうが正しい。
その期間で彼が覚えているのは、苦しむ自分を和ますために父が語ってくれたお話くらい。彼には「自分がなにかをした」という類に記憶はなにもない
残っているのは、常に守られていたということ。優しい父に、誇り高い母に、献身的なメイドに、多くの人達から守られていたことは印象強く記憶にある。
しかし、そんな中にあっても、妹のアトレは「守ってくれた人」の対象の外にあり続けた。彼の容態が安定したときは妹も見舞いに訪れていたが、その時の姿も、まだ彼が健康だったときの印象と変わっていなかった。
彼の周囲にいる近しい人間たちの中で、唯一妹のアトレだけが、彼を『庇護対象』とは見ていない。後年、その中に山吹九千代が加われるが、才華にとってアトレがその最初だった。
「はやく良くなって、いっしょにあそびましょう」
そう無邪気に言ってくれる妹の存在は、彼にとって希少であり、無二のものだった。
その時すでに自分が誰かを守れる存在ではないことを、嫌というほど理解していた才華だが、物心ついて抱いたその想いは、消えることなく残っていた。
自分より年下の家族を、守ってやりたいという、どの家庭の兄妹でも生まれる感情は、たしかに才華にも芽生え、残り続けていたのだ。
彼はとても特殊な体質と才能を持って生まれたが、精神に突出した部分があったわけではない。とりわけ強い精神性を持って生まれたわけでも、異常な感性を有していたわけでもない。
あくまで、普通の心の持ち主として生まれたのである。故に、彼の常人とは違って見えるその無垢な精神性は、後天的に培われたものだ。父遊星の教えの賜物であり、重病ゆえに世間というものを一切知らなかったが故に形成されてきた。
幼い頃の彼は、それでもいつかは自分も元気になり、妹の無邪気な願いを聞き入れられる日がくると思っていた。体が良くなり、妹を守る兄になれる日が来ると、信じていたのだ。
だが、そんな日は訪れることはなかった。
彼の身体は『今すぐ危険』という状況を脱したものの、だからといって常人と同じように生活できるわけではない。彼は3歳の頃からずっと重病人のまま。日本にいようと、アメリカにいようと、それは変わらない。
そう、彼の日常に一切の変化は訪れない。あいかわらず自室の中で、点滴に繋がれながら通信教育を受けるのが、彼の日常。友人が出来ることなどありえず、どこかに出かけて思い出を作るということもない。
学校になど、いったこともない。
けれど。
「今日は、お友達のナンシーさんのお宅に遊びに行ってきました」
妹は、そのすべてを経験している。自分には到底できないことを、苦もなく出来てしまっている。
陽の光の下で歩くことも、学校で友人を作ることも、その友人たちと運動して遊ぶことも、すべて、すべて。
この兄と妹の関係を表するのなら、まさに光と影という言葉が相応しい。光の下で友人たちと戯れる妹に対し、兄は暗い部屋の中で動くことを許されない。
才華は、周囲の人間に対して羨望や嫉妬を覚えたことはない。自分と他人が違うことはどうしようもないことだと分かっているし、経済的な環境ではとても恵まれていることもわかっていたから文句もなかった。
その唯一の例外が、妹のアトレなのである。
かつては守りたいと想っていたその感情が裏返された如く、妹に対する嫉妬と羨望の気持ちが湧き上がって止まらない。
同じ父、同じ母、同じ家庭環境の中、自分と妹はあまりにも違いすぎる。
妹が持っているものを、彼は持っていない。何よりも欲しく、それさえあればと望むものを、けれど妹はなんの苦労もなく有していた。
健康な体という、才華が欲しながら、決して得られることはないそれを。
幼い頃に芽生えた想いと、父の教えによって作られた穏やかな人格のため、才華はその自身に芽生えた妹への嫉妬という暗い情念を、表に出すことなく押さえ込んでいた。
だから、ある程度の年齢になった頃の2人の関係は、表面上とても仲の良い兄妹に見られていたし、その認識は別に間違いではない。
二人はたしかに互いに大きな愛情を抱いていたし、仲違いや喧嘩をしたことなど一度もない。
ただ、お互いの本音を言い合うことがない兄妹であっただけ。
互いに本音を隠したまま、すれ違った関係でいたから、良好な関係を築くことができていたのだ。だからこの2人の間には、普通の家庭の兄妹には一度はあるだろうささいな諍いはない。それこそ、口喧嘩でさえ。
常に遠慮を含んだ兄妹関係。それが才華とアトレの2人だった。
才華は、妹に醜い本音を語るのが嫌だった。怖かった。それでも。その姿を視界に収める度に生まれる想いは、決して消えて無くならない。
――アトレ、君が羨ましい、君の体が欲しい。
妹の様な健康体でありさえすれば自分は…… という想いに染まってしまう。それは年齢を重ねるにつれ、妹が成長するたびに強くなっていった。
才華の身体は、その病魔が故に性を分ける前の身体のまま。けれど妹は当たり前に大人の体に成長していく。
欠陥品である自分とは違い、不自由ない体に生まれた妹。その差が顕著になればなるほど、彼の羨望と嫉妬、そして自身の境遇に対する怒りの想いが強くなる。
彼はその誇るべき両親から、人としてあるべき心の形を教わった。だが同時に、人として恥ずべき感情は、妹の存在によって生まれていった。
嫉妬、羨望、怒り、憎しみ。そうした感情は、すべて妹と自分を比較することによって生まれていったものなのだ。
だが、それこそが才華という人間に個性を与えた。『Diana』という顔がまさにそれであり、この存在は妹のアトレなくては生まれえなかったものである。
病室でただ守られる存在として終わるしかなかった才華に、行動を起こさせたのはアトレの存在があったからである。
彼に命と才能を与えたのは母ルナ。彼に優しい心を与えたのは父遊星。だが、彼に人生の意味を与えたのは、他ならぬ妹のアトレなのだ。
彼が初めてデザイン画を書いたの時も、服を作ったの時も、その発端となったのはアトレ。
彼が『Diana』とというデザイナーになったのも、こうして日本で無茶な計画を行っているのも、常にアトレという存在が傍にあったから。
『Diana』のデザインの源泉は、常にアトレと自分との比較であった。妹への嫉妬と、そうさせる世界へ怒りが、彼のデザインを輝かせてきた。
善感情からであれ、悪感情からであれ、どんな時でも才華が何らかの行動を起こすときには、その根底にアトレがいる。
自分が欲しいすべてを持っている妹。何も違わないのに、全てが違う妹。
そして、誰よりも愛しい健気な妹。
才華は、ずっとアトレを見てきた。絶対に無視できない存在であるがゆえに、見ないでいることなど出来なかった。
だから分かる。この妹が、常に我慢をしてきたことを。
この妹が、こんな弱く醜い兄を慕ってくれていることを。
だから才華はアトレに対する感情をずっと保留にしてきた。自分でも持て余してきた、長い期間をかけて込められた感情を、封じてきた。
そして、今この瞬間それは爆発したのだ。不意に見た妹の、大人として成長した裸体を見て、彼の心は千切れんばかりに乱れ、そしてその脆い身体を直撃した。
封じていたものは溢れ出した。ならばこの変化は不可逆である。
この先にある道はもはやたった二つ。妹と向き合うことなく病魔に蝕まれ墜落するか。
それとも、向き合った果を飛翔するか。
桜小路アトレにとって、兄の才華は唯一無二の存在だった。
彼女は常に『2番目』だった。周囲の大人たちは常に病弱な兄のことを見ており、自分はいつも後回しにされる存在だと、幼心で思っていた。
小さな頃は、それを不満に思うこともあった。まだ兄の身体の状況を理解できない時は、どうして兄は自分といっしょに遊んでくれないのかが不満だった。
それは可愛い子供の拗ね心にすぎない。彼女はただ単に兄と遊びたかっただけで、幼稚園の友達の話のように、兄妹で楽しく遊びたかっただけだった。
なので、それを遊びに来ていた従姉妹のルミネに話したことも、彼女の純粋な心から出たものであり、悪意などは微塵もない。
「おにいさまは、部屋にこもりきりで、学校にもいっていない」
しかしその言葉を発した結果は、アトレの思いも寄らないものとなった。ルミネの人格形成に大きな影響を与えた一件は、同時にアトレにも多大な影響を及ぼしていたのだ。
この日から、彼女は兄に関してなにかを求めることを止めた。いや、絶対にしてはならないと誓った、というほどの決意だったと言っていいだろう。
そうして彼女が年齢を重ね、多くの事柄を知っていくようになるにつれ、兄の才華が置かれた環境の重さを理解していく。
やがて、彼女は自分が外では『一人っ子』であることに気づく。アメリカに渡った後に出来た友人たちとの会話の中で、彼女は兄の話題を出したことはない。友人から兄に会いたいと言われて、それが兄の負担になることを恐れたからだ。一歳違いでありながら学校に『行けない』才華といっしょに登校したことも、当然ながら存在しない。
彼女は有名なデザイナーの両親を持ち、その両親は名家と言える人物と多くの交流を結んでいたため、そうした席や催しには、いつも彼女は連れて行ってもらった。華やかで綺麗なパーティに、まだ子供のアトレが目を輝かせ、それを大いに楽しんだとて、それを責めるものなど誰もいない。
学校の行事でクラスメイトといっしょに盛り上がること、友人たちと街に出かけて買い物をすること、そうした当たり前の学校生活、青春時代、それをアトレは過ごしてきた。
だが、そのどれ一つとして、兄と経験を共有したことはない。
彼女にとって、才華という兄は、非常に近く、そして遠い人物だった。
家に帰れば、兄はいる、ほとんどがベッドの上の姿であるが、そこにたしかに存在しているのだ。彼は部屋にやってきた妹を歓迎し、彼女の話を笑顔で聞いてくれる。
だというのに、家から外に一歩出れば彼女は『一人っ子』になってしまう。兄の存在を知る者は外の世界にはおらず、桜小路の家に子供は彼女一人という認識がほとんどであり、誰も才華を知らない。
どうして、なぜ、兄がいったい何をしたというのか。
アトレのそうした想いは、日に日に強くなっていく。
そうした日々の中で、彼女は家庭においては自分が『2番目』であることを嫉妬したり拗ねたりすることはなくなる。どうしたって彼女は家の外に出れば『1番目』なのだから。そしてその『外』と『内』の差に、彼女の心は揺れ動く。
そして、家の中で『2番目』である自分を唯一『1番目』として見てくれるのが、他ならぬ兄その人だった。
「アトレ、君に似合うといいんだけど」
最初に才華がデザインしたのは、妹のために描いたデザインだった。
最初にアトレに服を作ったのは、両親ではなく兄だった。
服に関しては、両親にしてみればアトレをないがしろにしたわけではない。むしろ平等に扱ったゆえの結果である。病身の才華には、服をプレゼントするどころではなかったから、才華の病状が安定した後は、兄妹そろって誕生日や特別な日には服を贈ってあげている。
しかし、アトレに服を最初に作って上げたのは才華だった。多少体調が持ち直し、両親を真似て最初に作ったそれこそが、妹に贈ったワンピース。それは出来栄えとしては簡素なものだったが、とても病身の7歳の子供が作ったものとは思えない出来であった。
そのことはアトレの中の才華の存在を大きくするとともに、ある事実を彼女に気づかせるきっかけにもなった。
兄の才能が、自分とは比較にならないほどのものである、という事実に。
彼女は成功した才能ある両親の子供として生まれながらも、その資質は受け継ぐことはなかった。桜小路アトレは、ごく平凡な少女として生まれていたのだ。しかしその平凡さを咎める人間は周囲におらず、彼女は恵まれた環境の中で育っていた。
しかし、その服のことをきっかけに、そうした観点で兄を見ていると、その違いは歴然であり、アトレの中にある感情を芽生えさせるのに十分であった。
才華は、衣遠が贈ったその名が示すように、才能の塊として生まれていた。母のデザインの才能、父の型紙の才能は特に突出していたが、それ以外のあらゆることに対する才能にも恵まれていた。
例えば、英語に関してである。桜小路一家がアメリカに渡った時、当然アトレは慣れない言語に戸惑った。一生懸命覚えようとしたが、流石に一朝一夕というわけにはいかない。
彼女がカタコトの英語でもなんとか学校に行っていたある日、帰宅したとき珍しく玄関近くにいた才華に、英語で話しかけられたのだ。
「アトレは、これから英語で友達と話す必要があるんだから、僕が練習相手になるよ」
必要性があるアトレと違い、部屋の中で過ごす才華には、英語を習う必要性はない。だが、兄は慣れない言語に苦労する妹に対して、なにか出来ることはないかと、英語を覚えてくれた。
妹より遥かに速く、妹より遥かに上手に。
そのあまりの才能に、アトレは圧倒された。そうして兄を見ているうちに、才華の才能の異常性に気づいていく。
才華は動ける時間は多くない。しかし、その少ない時間で習い覚えたことは、アトレよりも上手で的確だ。アトレが10動けるところを才華は3しか動けないが、アトレが1をやっているうちに、才華は10をやってしまう。それほどの差が、兄妹の間にはあった。
その事実に、アトレは怒りを覚えた。
才華の才能に嫉妬してではない。その怒りは、そんな才華を部屋に押し込め続ける理不尽に対してだ。
自分とは違う兄のその能力を、アトレはただ純粋に賞賛した。山吹九千代もそうであるように、アトレもまたそうであった。
そして、だからこそ、込上がってくる感情がある。
どうして兄ではなく、自分なのだ、と。
幼少の頃から才華を見てきたアトレには、痛いほど分かる。才華が、その持って生まれた才能を華開かせることはできないのだと。
だというのに、自分にはそれが出来る身体がある。
この世界の理不尽に、アトレは強く怒り、憎んだ。
ここで、『自分に兄の才能があれば』ではなく『兄に自分の身体があれば』と思うところが、やはり彼女も遊星とルナの子供である。
また、彼女は才華を、誰よりも美しい存在だと思っている。
八日堂朔莉が経験したと同じような想いを、アトレは才華に向けていた。むしろ、彼女こそ誰よりも最初に、白で彩られた才華の姿に魅了された人物だった。
自分はどこまでも平凡で俗っぽい性質だということも、アトレは知っている。友達とおしゃべりすることは好きだし、街に出かけることも好き。夜ふかしして遊ぶことも、パーティに行くことも好きな、普通の少女。
だが、その全ての対して彼女は気負いを感じてしまう。罪悪感のようなものを抱いてしまう。なぜなら、それらすべて兄はしたくても出来ないことだから。
しかし、そうして兄を見つめている中で、あることに気づいた彼女は愕然とした。『兄はしたくても出来ない』と、彼女なりにそう思い罪悪感を抱いていたことは、その実才華は『したいとも思っていなかった』のだ。
彼にとってそうしたことは別世界のことで、自分とは無縁なこと。兄が心からそう感じていたことを知った時の衝撃は計り知れない。
彼女は、兄が自分を羨ましいと思ってることには、なんとなく気づいていた。彼女も多感な少女なので、そうした想いには敏感だ。しかしそれは、前述のような『したくてもできない』ことに対してだと思っていた。
だが違った、才華はただひたすら『苦労をしないで呼吸ができること』『太陽の光を浴びられること』『まっとうに成長できる身体』を羨ましがっていたのだ。
その時ほど、彼女――桜小路アトレは、自分の兄、桜小路才華の存在を遠く思ったことはない。
そして、どんなに願っても、その願いが決して叶うことのない兄に涙した。
彼女が思ったよりもずっと、兄は純粋で無垢だった。無垢でしかいられない境遇にいた。
だというのにこの世界は、その美しく純粋で、才能ある兄が輝くのを許さない。
彼女の中の怒りは、そうしてどんどん膨れ上がっていく。
アトレはそうして才華を見つめながらも、しかし自分に出来ることがないことも分かっている。
彼の周囲には両親も有能なメイド達もいる。自分が、自分だけが出来ることは、特にない。
それでも、彼女は兄から離れられない。どうしても、見たい姿が、眺めたい光景があるから。
だが、その果てにある未来の展望も分かってしまう。ゆえに彼女の怒りは強くなる。
――お兄さま、あなたの体が呪わしい。
兄が健康でさえいてくれたら、自分はこんな出口のない気持ちを抱えることはなかっただろう。
いつまでわたしは、こんな気持ちを抱えていなければならないの。
なぜ、どうして、あなたはそんな不自由な形で生まれてしまったのですか。
どうして、あなたはわたしから遠くへ行ってしまうのですか。
桜小路アトレが望むのは、兄が、その名の通りに、その才能に相応しい栄光に輝くこと。その姿を間近で見ること。
自分が思う、もっとも美しい人が、もっとも輝いてほしいという、ごく当たり前の願い。
だが、そんな願いすら才華の身体は叶えてくれない。なぜなら、それをしようとすれば彼の体が耐えられないから。
燃え尽きて、自分の前から永久にいなくなってしまうから。
そうした彩模様のごとく複雑で入り組んだ想いを、アトレは才華に抱いてきた。
その想いは恋に似て全く異なり、愛憎という言葉ですら言い表せないほど重く深く沈む。溶岩のように熱さと粘性を帯びながら執着するのに、噴火することだけは絶対にない休火山。
才華に“惚れた”乙女たちが、例外なく一度はアトレに畏れを抱いた理由がそこにある。自分達とは根源からして比較にならない想い、熱量、重さを、才華だけを見つめるアトレの瞳から刺すように痛いほど伝わってくるから。
それゆえにアトレは、兄を正面から見つめることを避けてきた。それは、なにかどうしようもない不吉を孕んでいるから。
自分が兄に対して抱えてきた望みを打ち明け、それを兄が受け入れてしまったら―――昇ってはいけない白夜が、訪れる。
そう思ってきたから、兄妹はこれまですれ違ってきた。
だが、それにも限界が来る。当然その場合、先に限界を迎えるのは才華の方だ。彼の繊細な器では、いつまでも抑えていることには無理があるのだから。
ストレスとは、どこまでも残酷に病人の身体を痛めつけるもの。病魔はストレスを呼び、ストレスが病魔を深める。
2人は、互いに向き合う時が来た。
もう少し歯車の噛み合いが異なれば、別の未来もあったのだ。しかし、運命が愛と緑の国ではなく、兄妹の縁の方をより強く結びつけた。
これが桜小路の兄妹の真実だ。
どんな慕情も恋情も、二人の想いを超えられない。一方的な執着の対極にあって、渦を巻くほどに強い双方向の愛と憎悪が、兄と妹を結びつけている。
兄は妹の存在を疎んだ。君さえいなければ、自分はもっと素直に両親の庇護に甘えることが出来たかもしれない。君という血を分けた存在がいるから、自分の存在の弱さを一層痛感する。けれど、君という妹がいたから、自分は成りたい自分、在りたい姿を見つけることができた。
妹は兄の存在を疎んだ。貴方さえいなければ、私はこんな苦しい思いをしていない。貴方という才能の塊が苦しんでいるのに、何もできない自分の無才を思い知らされる。けれど、貴方がこうも美しく生きているから、兄に恥じぬ妹であろうと自分を律せる。
この兄妹は誰よりも互いを愛し、そして憎んだ。互いの存在を疎ましがりながらも、互いの人格を誰よりも愛した。
その想いは呪いめいて、鎖のようで、けれど絶対に捨てることなどあり得ない。
そしてこれ以上、今までの関係でいられないことも、気づいている。
どうして君は先に行ってしまう。
どうしてあなたは私の側にいてくれない。
君さえ、あなたさえいなければ、自分の人生はもっと楽なものだっただろう。
けれど、君の、あなたのいない人生など、絶対に御免こうむる。
才華は、それでも『兄』でありたい。唯一庇護対象であった彼女のわがままを聞いてやれる頼もしい存在でいたい。
アトレは、才華に誰よりも輝いて欲しい。彼こそが世界で一番美しい存在だと信じているがゆえに、彼の命が燃え尽きることになろうとも、それを示してほしい。
兄妹は誰よりも近くにあり、離れ続けてきた。
だが、今その想いは、ひとつになろうとしてる。
それが例え、最後には残酷な別れの待つ、美しくも悲しき愛の末だとしても。
今までの才華は『
羽化を遂げたその姿は、しかし優しい光を放つ翅持つ、緑の大地によく似合う
才華は、決め、立ち上がる。羽化を果たしたあとに残された蛹の中に、これまで受けた、そしてこれからも受ける多くのいたわりと愛情、優しさを残して。
「さようなら、朝陽」と、己の蛹を振り返ることなく、前を向いて。
――そうして、兄妹は生家である桜屋敷の一際大きな桜の木の下で対峙する。
才華は母の進んだ道を、いや、その母をも超えることを決めた以上、この場所でそれを行うことは必須だから。
この桜屋敷の主は、今も昔も桜小路ルナ。だがそれもこれまでの話。これからは、桜の咲き誇る屋敷の主は己であり、その姓を聞いて思い起こさせるのは、母ではなく自分にするために。
桜屋敷の主は常に気高く誇り高く、誰の庇護も受けたりしない。
だからこそ、その屋敷の象徴の中で、もっとも存在感を誇る木の下で、才華は後には引けぬ決意を表明するのだ。
彼をここまで連れてきた、妹に対して。
今はすでに葉桜になっているが、その少し前には咲き誇るその威容に、見るものを感嘆させていたその大木。
桜小路才華は、まさにこの木の如き、いやそれをもはるかに凌駕せんという決心を胸に収めたまま、妹、桜小路アトレと桜の木の下で対峙し一つの詩を詠む。
―――仏には さくらの花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば―――
彼が詠ったのは、心楽しいアイルランドの唄ではない。楽しげで人生を謳歌しようと呼びかける賑やかさなど、そこにはひとかけらも見いだせない。
あるのは、その真逆の性質。この詩は、どういう心持ちの人物が、誰に向けて送ったものか。意味を知らぬものであろうとも、その言葉に込められた意味は理解できるであろうほど、美しい言葉の綴り。
それは、長い年月をかけて培われた日本の文化であるものだ。なぜならば、妹はどこまでいっても日本人だから。己とは異なり、異国の要素を持ち合わせていないから。
和の美意識を持ち、和の国を愛する妹に、愛の国への郷愁は受け継がれていない。
だから、妹に向けるものは、この国の詩でなければならない。
「ああ………」
その詩を受けた妹は、その詩に込められた意味と兄の決意の深さを誰よりも正しく理解する。彼が選んだ道、選んでしまった道の意味と、その愛情を。
「君が望んだ姿は、こういうことだ。だからアトレ、君はこれから僕の言うことに従い、僕のために尽くし、僕のために生きろ。君の生まれた意味はそのためなのだから」
「はい、お兄様」
2人は進んでいく。光り輝く道を。2人だけで進んでいく。多くの者たちの悲しみを振り切って。
そして、最後は一人になるのだろう。この道はそうしたものであるのだから。
だが、そう決めた。彼は戦うと決めたのだ。
その身が自らの才能によって焼き尽くされる、その最後の瞬間まで。
世界で誰よりも輝く兄の姿を、妹に見せるために。
夢は儚く、されど貴く
誰かが見る夢は、別の誰かにとっての現実なのかもしれない
持っていないからこそ憧れる。選ばなかった可能性だから恋い焦がれる。
ああ、愚かなるかな。愚かなるかな。
でもそれは、呆れるほどに人間的な二律背反。
きっと何よりも、才華が一人の人間であった証。
to be continued episodes 30