月に寄りそう乙女達 ~Irish Fairy~ 作:トライアヌス円柱
誇りに想うお母様、安らぎをくださるお父様
何よりもアトレ、貴女が大切な妹だから、いつでも笑い合っていたいから
31話 裏タイトル 【お兄ちゃんはおしまい(激重)】
どうぞう様、誤字報告ありがとうございました!
銀糸の繭より、羽化登仙の時は来たれり
卵から出てもろくに動けぬ芋虫は、一度死んで繭になり、生まれ変わりの時を待つ
例えそれが、猛禽の翼など持ちはしない、彼方へも飛べもしない、夜にしか生きられぬ儚い蛾に過ぎずとも
貴女という光に寄りそうため、
そうして
長く不思議な夢から目が覚めたあと、才華はすぐに主であるエストに、今日はどうしても外せない用事が出来てしまったので、休みたいという希望を述べ、それは受け入れられた。そして、すぐにある作業に取り掛かる。
衣装を、才華は作り始めた。簡素で、しかし艶と気品を感じさせる純白のワンピース。
これは、夢の中のもう一人の自分が誰よりも輝いていたあの瞬間の衣装を模したもの、だが、決定的に違うことが一つ。
簡素であっても、夢の自分がまとっていたのは『男性用』と分かるモノだった。古代ローマの将軍や執政官の纏うトーガを彷彿とさせる雄々しさをこれでもかと放っていた。
だが、このワンピースは明らかな『女性用』、幼気な少女の雰囲気を高めるには、最高の一着となるだろう。
簡素であるがゆえに、才華の技術をもってしまえば数時間で完成する。そして、出来上がったそれを纏い、その自身の姿を姿見で確認する。
―――少女だ
間違いない。鏡の向こうには華奢で儚い雰囲気の少女がいた。ようやく、それを実感できた。そうだ、お嬢様やルミねえや朔莉さんが見ていたのは、この少女なのだ。
装い一つで、人は変わる。変えられる。衣装に込めた変わりたいという意志が、世界を変えていく。
たしかに、これは守りたくなるな、と他人事のように才華は思う。そして思い出したようにおかしくなった。文字通りに一目瞭然なのに、どうしてこんなことに気づけなかったのだろう、と。
―――男性なんて、どこにもいない
そうだ、いないのだ。それはどこにも。才華の心の中にすら、もう。エストと共に生きる道を選んだ時に、意識が切り替わっていた。
だから、落ち着いた気持ちで彼女を待つことができた、
妹を、アトレを。才華をここまで連れてきてくれた人であり、これまでの才華という人物を形成してきた、血を分けた存在を。
妹の帰りを待つ間、部屋の中でじっとしているのも芸がないと思い、才華は部屋を出て一階のエントランスへと降りていった。
最初は壱与のもとへ行こうかと思ったが、彼女は今仕事中なので、邪魔をしてはいけないと考えなおし、ロビーのソファに座って窓に映る景色を眺めることにした。
今はもう梅雨時なので、才華にとっては都合よく天気は晴れていない。しかし雨も降っていない。明るくもなく、かと言って暗くもない、なんとも不思議な空模様。
才華は思う、これはアイルランドの空だ、と。行ったことのない国のことなのに、才華にはそれが心の奥からの感触で分かる。
うん、自分はそういう道を選んだのだと、空を眺めてしみじみを思い、自然と笑みが浮かぶ。
そんな才華の様子を、通りかかったマンションの住民や、一階にあるレストランに行こうとしていた人などが驚いたように眺めていた。
それに気づいた才華も、もう以前のように不思議がりはしない。自分は稀に見る美少女で、その上着ているのは肩を紐で通しただけのワンピース。こんなに露出がある女性用の服を着たのは初めてで、だからこんなに注目される。
それを証明する人物も、折りよく前に現れた。
「姫、今日は一段と綺麗ね。貴女がそんな服を着てるなんて、とっても珍しい。この上ない眼福」
八日堂朔莉の姿がそこにある。彼女はなんの衒いもなく才華を『姫』と呼ぶ。もうその素性をすべて知っているにも関わらず。
これまで才華は、そんな朔莉の言動を、自分の素性を知って秘密を守ってくれている善意に寄るものだと思っていた。無論それもあるだろうが、しかし今となっては別の見方も出来てくる。
もしかして彼女は、心の底から自分を『姫』と思っているのではないか、という見方が。
「こんにちは朔莉さん、今日は撮影のお仕事ですか」
「―――ええ、だから学院に行くのは、重役出勤どころじゃない時間帯ね」
才華の返答に、朔莉は一瞬だけ瞠目したが、すぐに常の平静さを取り戻していた。今、才華は「朔莉お嬢様」ではなく「朔莉さん」と言った。ならばそれは、『桜小路才華』としての言葉だということになる。
だというのに、その言葉には『小倉朝陽』のように女性らしい柔らかさを帯びているのだ。
「お疲れ様です。学生との両立も楽ではないでしょう」
「いいえ、貴女ほどではないわ。私は健康優良児だもの、羨ましい?」
「はい、とっても。ふふ、意地悪ですね朔莉さんは」
「そう言う貴女はとっても可憐。今までよりも一段とね。そのワンピース、とっても素敵よ」
「ありがとうございます。私としては、ちょっと冒険してみました」
「その冒険心に大感謝。滅多に見れない貴女の綺麗な肌と、官能的な鎖骨が見られて鼻血を出さないようにするのが大変なの、分かってくれる?」
朔莉としても今の言葉は冒険だった。しかし、才華の心境を確認するために必要だと思ったので、一瞬の判断でそれをすることを選んだ。そしてそれはどうやら正解だったようだ。
朔莉が意識の中で『貴女』としているように、今の才華は『才華』であるのに、女性的だ。
もともと男性さなど感じられなかったが、今の才華からは少女の気配が薫っている。朔莉としては、天使が少女になった、とでも評すべきか。
「でも、いい、今の貴女を見ているとすごく安心する。本当にそのワンピースは貴女に似合っているわ」
「実は、今日の朝から作り始めたものなんですけどね」
「あら驚き。本当にすごい才能なのね。でも、私は服に関しては素人だけど、言えることがあるとしたら、きっとその服と着ている貴女の相性がとてもいいからだと思うわ」
「そう、思いますか?」
「うん、その『女性用』の服は、今の才華さんにピッタリ」
「………はい」
才華は、改めて目の前の女性を感嘆の色が込められた瞳で眺めた。自分の変化をひと目で看破し、そして、才華本人すら気づいていなかったけれど、その実言って欲しかった言葉をかけてくれる、この八日堂朔莉という女性を。
本当に、自分は周囲の人に恵まれた、と自身の幸運に感謝した。
「本当に綺麗」
対する朔莉も、彼女は何も万能の天才ではない。誰に対しても今のような洞察力を発揮できるはずもないのだ。
だが、彼女にとって才華は特別な存在だ。ある種の信仰対象であり、彼女の美意識の原点。誰よりも美しく在って欲しい、純白の月の姫。
だから、その変化に関しては、自身の全身全霊の能力を以て理解に努める。常に才華を遠くに眺め、その様子を目に焼き付けている、どんな微細な変化も漏らさない。
そんな彼女だから、今才華に言うべき言葉を見つけることが出来ている。今までも、そしてこれからも。
「朔莉さんにとって、私は、桜小路才華は、どういう存在ですか?」
だからこの質問に対しても
「この世で誰よりも綺麗な、真っ白い女の子よ」
これからの才華を後押しできる言葉を紡げるのだ。
「おかえりなさい」
桜小路アトレが自室に帰ってくると、珍しく兄が出向かえてくれた。いや、珍しいというか初めてではないだろうか、なにしろ才華は従者としてエストの部屋にいることが普通なのだ。
ただでさえ19:00以前にこの部屋にいる方が珍しい上、こちらの部屋、アトレと九千代のスペースの方に来ることは、今までに無かった。
だから、これは初めてのことなのだ。そして、初めてなのはそれだけじゃない。
「アトレ、私の格好が珍しいのは分かるけど、玄関で立ったままなのは良くないよ。リビングに来て、ちょっと話したいことがあるから」
「はい………」
まず格好、才華は今白い肩が露出したワンピースを着ている。そんなに肌が出る格好を、まして自分の前でしたのは、初めてだとアトレは過去を思い出しながら考える。
それに、さらに初めてのことが今一つ増えた。今、兄は自分自身のことを『私』と言った。これまでも『小倉朝陽』としてや、衣遠のような目上の立場の人物相手ならそうしたこともあったが、今ここにいるのは、妹の自分だけ、これもどういうことだろうか。
彼女は急な事態にやや混乱しながらも、促されるままにリビングのソファに座る。
「お茶はなにがいい? 緑茶? ほうじ茶? アトレは日本茶のほうが好きだもんね」
「あ、ではほうじ茶で」
「うん、はい、どうぞ。紅茶は最近淹れ慣れたけど、日本茶を煎れるのには全然慣れていないから、味の方は期待しないでね」
「いえ、お気になさらず」
しばらく兄妹でお茶をすすっていたが、改めて対面に座る才華の姿を眺めると、なにか心の中でひっかかるというか、兄の姿に、今まであったものが無くなり、無かったものが加わったように思えてならない。これは、八日堂朔莉とはまた違う、才華をずっと見てきたアトレだからこそ分かること。
「この格好で日本茶は合わないね」
ふふ、と笑う才華の姿は、可憐な少女そのものだ。
そう、それだとアトレは理解した。才華は、兄は、今まで自分の前では『兄』であること、自分より先に生まれた『男兄弟』であることを意識していた。
でも、その意識が今の兄からは感じられない。
その代わりにあるのは、ルミネやエストが常に感じていた、少女としての雰囲気。思わず守りたい、と感じてしまうほどの、庇護欲をそそられる在り方。
最近の兄の心境に変化があったことは、アトレにも感じていた。となると、これはその結果が形として現れたということなのだろうか。
「ねえアトレ、僕と君が、桜屋敷で遊んでいた記憶って、ある?」
ところが、急に一人称が『僕』に戻った。さすがのアトレでも、今の才華の心境を慮ることは難しい。
だが、兄がこうして自分に話しかけてくれたことは、なにか良い変化に繋がるような予感がある。だから、とりあえずの疑問は脇に置き、会話に意識を向けることに決めた。
「そうですね…… なんとなく、お兄様の背中を追いかけていたような記憶があります。とてもぼんやりなのですけど」
「ぼんやりなのは仕方ないよ。だって、そのときアトレは、まだ2歳だったもの。むしろ何も覚えていない方が普通」
「お兄様は、覚えていらっしゃいますか?」
「僕も同じ、ぼんやりと僕を追いかけてくる、ちっちゃな子供の君の姿があるだけ。その頃の僕は3歳だからね」
才華が3歳の頃に、胸の病は彼を襲った。ならば必然として、どこにでもある兄妹のような形で2人がいっしょにいられた光景は、才華が3歳、アトレが2歳のころにしか存在しない。
それは時間にして1年にも満たない、刹那のような儚い思い出。それでも、確かにあった兄と妹の始まりの光景。
そして、それ以降の十数年を、2人はとても近くにいながらすれ違って過ごしてきた。
「小さい頃の僕はね」
「はい」
「自分のいる境遇に、あまり疑問を持たなかったんだ。気づけば身体は動かずに、ベッドにいるのが当たり前になっていたから、それを普通じゃないとは思わなかった」
それに、あまりにも変わらぬ時間が続いたため、才華は自分が3歳から7歳のことを、あまりよく覚えていない。
「でも、君が僕に、いっしょに遊ぼうと言ってくれたことはよく覚えてる。でもごめんね、そのお願いに応えてあげることは、一度もなかった」
「いえ、小さい頃のこととは言え、わたしも考えが足りませんでしたから、お兄様が謝られることでは」
「ふふ、5歳や6歳の子供に、そういうことを分かれという方が無理だよ。あのルミねえだって、子供の頃の自分は分別が0だった、って言ってるんだから」
「ルミねえさまを引き合いに出されては、頷くしかありませんね」
今では理屈を並べたら、いや屁理屈であっても自分の意を通してしまうのが大蔵ルミネである。2人の評価もむべなるかな。
「でも、アメリカに渡って、君が学校に行くようになってから、自分のいる環境を分かり始めた」
「…………」
ここは兄が語るに任せたほういい場面だとアトレは思い、聞き役に徹することに決めた。
「僕にとって、外のことは別の世界の出来事で、自分が関われることだと思うこともなくなってた。でも、君がそこから僕のいる部屋にやって来て、外のことを色々と話してくれる。それは、お父様の昔話とは違う面白さがあって、僕は君の話を聞くのが好きだった」
遊星が語るのは過去の話で、それはとても魅力的な話だが、やはり今の世界にはない光景の話だ。だがそれに対しアトレの話は、今まさに外の世界で行われていること。
「でもそうして時が過ぎていくうちに、君の話を聞くのが辛くなってきた。だって、僕には君に返せるものが何もないから」
才華は、自室に縛られたまま、家庭教師の授業を受けるという、同じルーチンの繰り返しの日々。起こる変化は極微細であり、そこで起きる大きな変化とは即ち体調の急変になるから、妹に話せる内容ではない。
「だから、君と僕は次第に会話が減っていったね。お互いを大事に思っている気持ちはあるのに」
彼らは決して互いを嫌ったりはしない、ただ、違いすぎただけなのだ。
「でも、やっぱり言っておかないとダメだと思うから、言うよ。アトレ、僕はね、君がずっと羨ましかった」
それは、アトレにも分かっていた。
病をいくつも抱える兄に対して、妹の自分はどんな運命の悪戯か、まったくの健康体。風邪すら滅多に引かないこの身体は、兄の苦しみを1割どころか1%も理解することができない。
私と貴方は、同じじゃない。その気持ちを本当に分かることなんて出来るはずもなかった。
「君が経験したこと、学校で友達を作ったり、遊びに出かけたり…… すべて僕には出来なかっただから そんな“普通”の君が羨ましかった。何より、君と話すことによって、自分のいる環境の異常さが浮き彫りになるのが嫌だった」
妹は、普通の子供で、だからこそ誰もが経験する『当たり前』が出来る。けれど、妹の話の中の『当たり前』を、才華は何一つ経験していない。それを知ってしまうことが嫌だったし、なによりそれによって妹を羨んでしまうことを忌避した。
「僕の中ではね、さっき言った自分を追いかけてくる君の小さな姿が残っていた。だから、兄として妹を守ってあげたいと、そんな当たり前の感情があった、いや残っていたんだ」
才華が有していた、ほとんど唯一の『当たり前』が、アトレに対する感情だった。だがそれも、徐々に過酷な現実に押しつぶされ、摩耗してしまう。彼には妹を守ることなど叶わない。そんなことが出来る身体に生まれていない。
その現実を、受け入れざるを得なくなる。それを受け入れないためには、死を覚悟する他ない。だから夢で見た“彼”は死を超えて飛翔した。
「ねえ、君はどう思っていたの? 『当たり前』じゃない兄を、どう感じていたの?」
才華にも、概ねのことは察している。だが、いやだからこそ、本人の、アトレの口から聞きたいのだ。
「わたしにとって、貴方は、お兄様は遠い人でした」
アトレは語りだす。今まで自分が溜め込み、外に出すまいとしていた感情を。
「貴方はわたしと全然違う。外見も、才能も、美しさも、何もかもが私より上でした」
外見と美しさという、同様のことを繰り返す形になったが、それこそアトレの偽りのない本心だろう。白い肌も髪も、アトレは持っていないし、浮世離れした美貌も持っていない。彼女はあくまで通常の範囲内での『かわいい子』でしかなのだから。
「なのに、すべてがわたしの方が先なんです。学校に行くのも、友達が出来るのも、学校行事のお祭りをするのも、同じように教会のミサに行くのも。全部わたしが先」
この兄妹の歪さはそこに集約される。アトレはたしかに妹なのに、対外的なことは彼女が先に行う。
「おかしいんです。家に帰ればお兄様はたしかに居るのに、わたしに笑いかけてくれるのに、学校に行けば、家の外に出てしまえばお兄様の影も形もない。学校でのわたしは桜小路家の『ひとりっ子』でした」
兄の経験や失敗談を聞いて自分はどう出来るだろうか、と思うこともない、学校で友人と兄妹の話をすることもない。当然だ、才華は学校にいないのだから。
「お兄様の姿を誰も知らない。でもかといって友達を会わせることも出来ない。どうして、なんで、と考えない日はなかったです」
才華の容態は、子供には重すぎる。例えアトレが連れてきた友人の悪気はない行動でも、万が一があっては才華にとっては文字通り致命傷になりかねない。
なにしろ、その前例もあるのだ。かつてアトレの友人になったルミネの行動が、幼い才華を苦境に追い込んだ。あの出来事はルミネにとって忘れ難いことであると同時に、アトレにとってもそうであったのだ。
「だからいつも思っていました、いったいお兄様が何をしたんだ、と誰にもぶつけられない怒りを抱えていたんです」
妹の告白に、才華はああそうか、という理解を示す。彼の想像と、さほど離れていなかったからすんなりと納得できた。
「ありがとう、僕のために怒ってくれて。僕は、君に嫉妬していたというのに」
「いえ、わたしが逆の立場なら、もっとひどかったと思います」
とはいえ、アトレはどこまで行っても健康体。病人の才華の立場を完璧に知ることは出来ない。だからこそもどかしい想いをしてきたのだ。
「それに、わたしもお兄様に嫉妬していたこともありましたから」
それでも、こうして本心を語り合えることを、アトレは嬉しく思う。だから、なるべくなら隠しておきたい気持ちも素直に出すことが出来る。
「それは、お父様とお母様を僕が独占してしまってたことについて?」
「はい。とくにお父様はお兄様にべったりでしたから。もしかしてわたしはお父様の子じゃないんじゃないかと思うくらいに」
「おやおや、お父様が聞いたら泣いてしまうよ。だけどアトレはお父様によく似ているね」
「反対にお兄様はお母様そっくりですね。まあ子供は反対の性別の親に似るとはよく言いますが… それと、両親だけではありません、屋敷の人も親戚の人も、みんなお兄様第一でしたから。わたしなんて放っておいても育つだろうという、畑の作物程度にしか思われてないんじゃないかと思うこともありましたよ」
「それは農家さんに失礼だよ。流石にきちんと追肥と農薬散布しないとダメだし」
「やはりお兄様はどこかピントがずれていますね、まあそこも可愛らしいと思えてしまうのが反則なのですが」
こうして、軽口を言い合えることが嬉しい。今までは気遣い合って、ゆえに遠く離れていた2人だったからこそ、こうしてあたりまえの家族の距離になれていることが何よりも楽しい。
「それに、お兄様は何をやらせてもわたしより上でしたから」
「でも、僕はすぐに疲れて動けなくなる」
「それももどかしかったです。どうして健康なのがお兄様じゃなくて自分だったんだろうって、何度思ったか分かりません」
「そっか…… うん、ありがとう」
遊星の影響を強く受けたおかげだろう。才華は、「どうして病気なのがアトレじゃなくて自分なんだ」と思うことはなかった、アトレのような体が欲しいと思うことはあっても、病を妹に押し付けたいと思うことはなかった。
「お兄様は、わたしに最初に服を作ってくれたのがご自分だと覚えておりますか?」
「え……? そうだった? お父様やお母様じゃなくて、僕が最初?」
「ふふ、やっぱりご存知なかったんですね。わたしの服を最初にデザインしてくれたのもお兄様ですよ」
これは事実であり、アトレはたしかに両親にとっても『後回し』にされる存在だったが、それでも遊星とルナである、娘に愛情を注がない訳が無い。
そんな2人が、服飾に携わるものであるにも関わらず自分たちで子供に服を作らなかったのは、才華にも作っていなかったからだ。『妹の方だけに』作ることを2人はしなかった。
才華の服とはつまり衣遠や駿我が医療専門の業者に作らせた、肌の負担が小さくて済むもの。そこにデザイン性は一切求められない。なのでルナの出番はなく、だから遊星も関わらない。そうした意味では兄妹は平等に『伯父からの贈り物』は受けてきた。衣遠とて、アトレへのプレゼントは欠かしていない。
「屋敷では誰からも『2番目』だったわたしを、貴方だけが『1番目』として見てくれていたんですよ、お兄様」
「アトレ……」
才華にとってアトレは初めての妹、唯一の血を分けた兄妹。九千代もその後才華の意識の中で『妹』になるが、そうなるとやはりアトレが『1番目』になるのである。
「だから、貴方はわたしにとって、誰よりもかけがえのない人でした」
「うん」
それはもちろん、才華にとっても同様に。
「だから、わたしは貴方に誰よりも輝いて欲しいと思った。自分が知る一番綺麗で、才能が有るあなたに」
誰よりも近くに才華を見ていたアトレだから、才華の才能の大きさを理解していた。
彼女は成功した才能ある両親の子供として生まれながらも、その資質は受け継ぐことはなかった。桜小路アトレは、ごく平凡な少女として生まれていたのだ。しかしその平凡さを咎める人間は周囲におらず、彼女は恵まれた環境の中で育っていた。
しかし、先ほどの服の件をきっかけに、そうした観点で兄を見ていると、その違いは歴然であり、アトレの中にある感情を芽生えさせるのに十分であった。
才華は、その名が示すように、才能の塊として生まれていた。母のデザインの才能、父の型紙の才能は特に突出していたが、それ以外のあらゆることに対する才能にも恵まれていた。
「なのに、そのお身体のせいで、それも叶わない。それをわたしは悔しく、もどかしく思います」
「うん、僕もそう思っていた。この体のせいでどこにも行けない自分を呪わしく思った」
アトレが現在形に対し、才華のそれは過去形だ。才華は、もうそうは思うまいと決めている。そうでなければ、エストの側で生きることはできないから。
「でも、僕はもうそれを悔しく思わないようにするよ。お嬢様の隣にいるために」
「お兄様……」
それはある種の決別だった。妹の願いを聞き入れることはもうないと、才華は今宣言したのだから。
アトレは、兄の才能が花開く日が来ることを夢見た。そうでなければ兄が気の毒すぎると思っていた。
だが、才華の方で、それを諦めると言ったのだ。才能を発揮させず生きることを良しとしたのだ。
この病に冒された体であっても、受け入れて生きていく道を、才華は選んだ。
「それは…… うん、よかった、ですね」
アトレもすぐにはすべてを納得できるはずもない、だが、彼女とて分かっている。
才華の才能が発揮される日が来るということは、彼の死を意味するということを。
まさに、今日才華が夢で見た光景が現実になるということを。
分かっていたから、安堵もするのだ。兄が死なないようになってくれて良かった、と。
「それでも、やっぱりすぐには意識を変えるのは難しいね」
アトレがそうであるように、才華もまた後ろ髪を惹かれる想いを消せない。自分に訪れたかもしれない栄光の道を、簡単に忘れることは難しい。
だから、友人の力を借りることにした。銀条春心と会話した内容から得た天啓を、活かすことに決めたのだ。
きちんと妹と向き合った末に、これまでの自分と決別するために。
今日は僕が死んだ日、そして、私の誕生日。
「ねえアトレ、もし君が弟だったら、ぼくたちはどうなっていたかな」
提示するのは、もしもの可能性。その中に、実現可能な答えがある。
「わたしが弟だったら、ですか」
唐突な問ではあったが、それは今までになかった観点だったため、アトレも興味深く思い、よく考えてみた。
自分より才能あっても病弱な兄…… 同性の弟してならどうか? 妹としての自分は、妹を守ろうとする兄の気持ちを尊重したがゆえ、こうしてここまで来てしまったが、弟だったならばどうするか。
やはり守ろうとするのではないだろうか。いや、それでも兄を弟が、という気持ちはあるのか。
しかし兄であっても、これほどに美しい人なのだ。いやむしろ、この美しさと儚さの前で、性別など些細な問題だろう。
そして、妹ではなく弟ならば、男性として健康な身体をもって生まれていたら自分はきっと、いや間違いなく……
「お兄様を、守ろうと決めていると思います」
「やっぱりそうなるんだね」
春心の弟と、同じ結論になったことを、才華はすこし面白く感じた。そして、やはり自分の外見はアトレにとっても“そう”なのだと理解できた。
「じゃあ、僕が姉だったらどうなっていたと思う?」
「お兄様が、姉だったら……?」
今度の質問は、アトレは当惑した。実のところ、彼女は心の奥ではそうした意識を持っていたからだ。
そもそも、才華に男性性を見つけろという方が無理である。これまでアトレが才華を『兄』として見ていたのは、それが才華の望みだったからこそである。
では、その前提を無くして見れば、前述した通りに、ただただ美しい人がそこにいるだけだ。
儚く、繊細で、嫉妬することすら出来ないほどの、美しい人。
それが、姉だったら。
「きっとわたしは、あなたをひたすらに綺麗だと思っていたと思います。この人が姉なんて、自分はなんて幸せなんだろうって」
「へぇ……」
この答えは少々才華には予想外だった、とくに予想していた答えもなかったが、まさか弓が冗談も交じりに言った言葉が来るとは思っていなかったのだ。
けれど、この答えは悪くない、期待通りのものであった。
ならば言おう。両親と伯父と主治医以外はまだ誰も知らない、自分の事実を、妹にも話そう。
「ねえアトレ、驚くと思うけど、黙って聞いてね」
「はい、わかりました」
「僕の身体は、多分近いうちに性別がなくなる」
「…………」
「あれ、あんまり驚かないね」
「……もしかして、とは思っていました」
才華に2次性徴は訪れなかった。ということは、子孫を残すことが出来ないと同時に、生殖器が意味を成さないということを意味する。発達はせずとも、器官そのものは体内にあるのだ。しかし、それが無用の存在となった。
無用であるうちはまだいい、しかし、人間の身体はいつまでも無用を抱えてもいられない。それが、元々の体力がない病人なら尚更のこと。
体外に排出されぬ老廃物は、やがて悪性の細胞と化して、正常な細胞から栄養素を奪い出し始める。
常人の身体においても常に発生し続け、免疫系に駆逐されるそれらは、弱った身体に複合して発症すればたちまちにして命を奪う。
“それ”が子宮に発症したがため、女性特有の器官を切除しなくてはならなくなった症例は、数限りなく存在している。
「だから、君の『お兄様』ではいられないんだ」
「ああ………」
いくら身体に変化が訪れようとも、精神的なジェンダーは持ち続けることは出来る。自分は兄で、男だという意識を持ち続ようと思うことは出来るけれど。
「そうする意味が、もうないから」
「そう、なのですね」
だけど、今の才華にはそれに固執する動機がない。これまでは『アトレの兄である』ことが彼のジェンダーを維持してきたが、エストと共にあることを選んだ時点で、それは過去となった。
才華には、2人を大事な人にすることが出来ない。それを許される身体に生まれていない。だからエストを選んだ以上、『アトレの兄である』矜持は、即ち才能への未練へと直結してしまう。
“二兎を追うものは一兎をも得ず”、ああ、それは何と残酷な真理であることだろうか。
才華の才能が花開くことを望んでいたのはアトレ、それを叶えた果ては、断崖への飛翔になる。
「弱い僕でごめんね、アトレ」
「……いいえ、私こそ、兄に甘えたい妹のままで、ずっと、ずっと………いいえ、ええ、はい」
この兄妹は、本当に似たもの兄妹だった。兄は妹の望みを汲んで叶えようと思い行動を起こし、妹はそんな兄の想いを汲んで、兄を立ててきた。
その果てに才華はエストに出会った。そして彼女から祖母の故郷の風を感じたことにより意識が変革し、今この時を迎えたのだ。
この結末は、この兄妹の苦悩の果てに得た答えと言えるだろう。
だから、アトレも意を決して言葉にするのだ。
「わかりました。もう、わたしのお兄様はいないのですね」
微笑みながらも、その頬にはつぅ、と零れ落ちるものがある。それはこれまでの積み重ねであり、過去そのものだ。
「うん、そう思ってほしい」
涙しながらも微笑むのは妹だけにあらず。才華もまた、兄としての自分を過去として、瞳から溢れさせ、頬から流れ落とす。
白と黒の兄妹は手と手を取り合い、静かに涙しながら、かつての自分たちに別れを告げた。
元来が、『妹を守る兄』になどなることは出来なかったのだ。アトレも、才華から性としての男性を感じたことなどただの一度もない。
その姿のすべてが、美しく儚い少女そのものだから。
そう、今まさにそれを体現するような衣装のように。無地のワンピースが似合う、可憐な人。
「ああ、だからそのワンピースをお召なのですね」
アトレは忘れない。忘れることなど絶対に有り得ない簡素なワンピース。
両親を真似て兄が最初に作ったそれこそが、妹に贈った純白のワンピースだった。
一生を決める門出のこの時の服に、思い出の衣装を選んでくれたこと。
それだけで、自分が兄の妹であったことの意味はあったのだと、胸を張れる。
「それでも服を作ることは、
そして才華は再び自身を『私』と呼んだ。この格好に、そしてこれからの自分に相応しいように。
桜小路アトレの姉として、相応しいように。
涙を流しながらも、白と黒の2人は微笑み合う。
「ふふふ、ならばこれからもどうかよろしくお願いしますね。わたしの自慢の、誰よりも綺麗な
「こんな姉だけど、よろしくね、アトレ」
才華が『兄』を捨てることで、2人はようやくごく普通の兄妹、いやこれからは姉妹のように笑い合えることができるようになった。
―――そこに一抹の寂しさを感じないと言えば嘘になる。
それでも姉妹は涙で潤んだ互いの瞳を見つめ合い、手を取り合いながら強く思う。これでよい、これでよいのだ、と。
これが自分たちが『生きる』ための道なのだと、強い確信を抱いて。
「そうと決まれば、さっそく色々としましょうね。服を交換したり、お化粧をし合ったり…… ああ、やりたいことが多すぎます!」
「あはは、お手柔らかにね」
もうすれ違うことなどなく、ようやく二人は、心の底から笑い合えた。
桜小路アトレの生き方は、これまで迷路の中にあった。兄のためになろうとは思っていても、それの方法が分からなかった。
けれど今、答えが出た。この人を、もう『兄』として見ることはない。ただ急に『姉』とするのも難しい。
だから、子供の頃から、心の奥でずっと思っていたことをそのままするのが、一番自然。
―――わたしはずっと、傍にいます。才華。 誰よりも美しい白百合のような貴女。
この人は、月の化身のように美しい。ならば自分はそれにそっと寄りそう生き方をしていこう。
近づきすぎず、離れすぎず、礼節を守って、妹という立場を律し、静かに支える。
それが、
才華とアトレの父親である、大蔵遊星はその日、死にました
衣遠に拾われ、ジャンに憧れ、「ああ、楽しかった!」と最後に告げるべき人生が始まった
これで安心。彼が、自分の人生の選択を後悔する日はもう来ない
そして、息子であった桜小路才華にもまた、生まれ変わりの時来たれり
装い一つで、人は変わる。変えられる
衣装に込めた変わりたいという意志が、世界を変えていったのです
~父と母~
「義兄から連絡があった、君も聞いたか」
「うん、何かをしているとは思っていたけど、まさか才華がそんなことを考えていたなんてね」
「まったく、無茶をしてくれる。無茶の度合いで言えば若い頃の君以上だ」
「必要だったんだよ、あの子が生きるためには」
「当初の目標は、私たちの学生時代に並ぶ、ということだったようだが、本当の目的は、自分が生きる道を見つけるためだったそうだ」
「才華…… うん…… あの子は立派になった。そしてどんな道であろうと、生きる未来を探してくれたことが、嬉しい」
「私としては、やはり蚊帳の外に置かれたことが少々腹立たしい」
「でも、途中で聞いてしまったら、少なくとも僕はすぐに才華の元に駆けつけちゃうから、それはあの子の妨げになってしまったんだろうね」
「そうだな、私も経験が無いわけではないから分かるが、厚すぎる愛情は、ときに成長を阻害する。だが、私には言っても良かった気がするぞ、なにせ私は放任主義だからな」
「ふふふ、もう、威張って言うことじゃないでしょ? でも、やっぱりそれも無理だと思うけど?」
「む、どうしてだ」
「だってルナ、僕に嘘や隠し事できないでしょ」
「ふん、侮るな。この私が隠し事の一つや二つ、できないとでも思っているのか」
「小さいことや、サプライズならね、でも家族に関わることを、君が僕に隠したままでいられるとは思わない。そうでしょ?」
「………降参だ。そうだな、君の言うとおり、きっと私は君に話してしまうだろう」
「だから、今回に限っては蚊帳の外で良かったんだよ、なにより衣遠お兄様が側にいてくれたんだから、その点は安心できていた」
「君があの義兄に向ける信頼ほどではないが、才華への彼の配慮は間違いのないものなのは、確かだ」
「だから、これで良かったんだよ。才華とアトレが、これからはもっと仲良くなるのも嬉しい」
「あの2人は、互いが互いを遠慮していたからな、親でも、いや親だからこそ、言うべき言葉が見つからなかった。別段仲が悪いわけでもなかったからというのもあるが、こればかりは当人同士でしか解決できんしな」
「2人はちゃんと向き合ってくれたね。これも、エストという少女のおかげなんだろうか」
「いや、私は君のお母様のお陰だとも思うぞ」
「お母様の……?」
「才華の守護霊は、間違いなく君のお母様だ。その人が才華とエストという少女を結びつけたのだろう、そう思うよ」
「………うん、そうだね。君がそう言ってくれるなら、きっと間違いない。ああ、ありがとうございます、お母様」
「これからも私たちの子を、貴女の孫をお守りください」