月に寄りそう乙女達 ~Irish Fairy~ 作:トライアヌス円柱
そして少女は、誓いの言葉を口にする
32話 裏タイトル 【やっぱり妖精じゃないか!】
32話 さようなら、『Diana』
「だみだー、紅茶の善し悪しがさっぱりわからん」
「もったいない、こんなに美味しいのに」
「香りがいいけれど、私はもう少し甘いほうが好きですね。ちなみに1人当りの紅茶使用率は我が国アイルランドが一位です、ブリなんとかではありません」
「いやそもそもウチら葉っぱから淹れる紅茶なんて贅沢なんスよ、ウチらには午後のやつか冷蔵庫にある紙パックのやつで十分」
「紙パック、ですか?」
「アイルランドには無いかな? 即席インスタントの紅茶だよ。すこし甘すぎるけど、安物にしちゃ中々ちゃんとしてる」
「ふぅん、銘柄や茶葉なんかも特にないブレンドなんですか?」
「あー、どだったかな、ウチの冷蔵庫にあるやつはなんだっけきゅうたろう」
「確かセイロンとかなんとか書いてた気がする」
「セイロンって、スリランカのことですか? かの極悪国家が搾取を続けてきたあの」
「スリランカの紅茶といえば、ファイブカインドが有名だね」
「なんすか大蔵さん、その戦隊ヒーローみたいな名前は」
「ウバ、キャンディ、ヌワラエリヤ、ディンブラ、ルフナの5つの茶葉のことだよ」
「おー、かっけー、ウバレッド参上! とか言えそう」
「他は何色だよ、つか誰と戦うんだよ」
「無論、悪の組織ブリテーンですね。親玉は大怪人ヴィクトリアンです」
「同じ日曜朝枠でも、その名前はなんかプリキュアの悪役っぽい」
「私それよく知らないんだよね」
「え? プリキュア知らない女子って日本にいたの?」
「つかなしてギャラッハさんは戦隊モノ知ってたんだ?」
「こっち来てから見始めました。お陰で日曜に早起きすることが出来ることになりましたよウフフ」
「こうして日本のサブカルに染められる外国人がまた一人」
『ぱるぱるしるばー』は今日も通常営業、止まることのない雑談の中、でもきちんと作業を続けている。私が皆が飲んだ紅茶を片付けてキッチンに引っ込んだ間も、みんなの会話は止まることがなかった。
6月に入り、作業の進捗もまあ順調。この調子で行けば無事に納品は出来るだろう、何かの事故が起こらなければ。例えば
「そうだ、パル子、あの地下アイドルの人から注文あったぞ、今度のライブの衣装が欲しいって」
「うひ~ 嬉しいけれど、今手を離せっかな、どうすか大蔵さん」
「ん、このままの工程だと、まあ、2週間は抜けても大丈夫かな。最後の追い込みには付き合ってもらうことになりそうだけど」
そう、こういう別口の注文が入った時だ。今は映画の注文に注力しているから、新規のデザインをHPに載せていないけれど、こういう購入履歴がある人の注文は、春心さんも断りたくないので受けている。
そのためメイン作業者である春心さんが抜けるのは厳しいが、それでもそこは私とお嬢様で対応出来るレベルだ。お茶の片付けが終わったので、私もそれを告げるために会話に加わる。
「大丈夫です。まもなく私のクワルツ賞の衣装が完成しますから、私の手は今まで以上に空きます」
「おーサンクスメイドさん、ありがてぇありがてぇ」
「いやでもメイドさんだから無理はさせられん。だからお前は無理して早くそっちの注文終わらせろよ」
「格差ひどくないですか。美少女贔屓はんたいでごわす、銀条断固抗議するでやす」
「かわいいは正義なんですよね? 日本の言葉でそういうのがあるって最近知りました」
「アイルランド人のネットミームの影響が強い。でもそのとおり、言ってることは正しい」
「春心さんはご自分のペースでなさってくださって大丈夫ですよ。私がなんとか頑張りますから、やる気マンゴスチンです」
「あ、いや、やっぱ銀条頑張るっす。メイドさんは無理しないでくだせぃ」
「でもま実際、作業の正確さと速さはメイドさんが頭一つ抜けてっから頼りになんだよな。私より10倍速いスピードで縫ってるもん」
「でも私は弓さんの1/3しか働けません」
「でも10÷3で、3.3倍ですな。3倍の速さのギャラッハさんより上だあ、ちなみに私はきゅうたろうとあんまスピード変わりません」
「まあその分丁寧だけどなお前は。それでも作業自体は私よりはずっと早いぞ、お前が遅いのは始めるのが遅いのと、途中で怠けるからだ」
「頼りになる私の朝陽。そう、私の朝陽ウフフ」
「アイルランド島沈まないかな」
そんな最中に、65階のフロアに訪いを告げるチャイムが鳴り響いた。ああ、あの子が来たんだ。
「私が行ってきます」
「誰だろう?」
「私たち以外でエストさんのフロアに来る人なんている?」
「あのルミネさん? 人を友達少ない人みたいに言うのはやめてください」
私が玄関のドアを開けると、そこにはやはり妹のアトレが立っていた。
「いらっしゃいアトレ、ようこそ」
私はアトレを他家のお嬢様としてではなく、自分の妹として出迎えた。
「お姉様とお友達の皆さんが奮闘中と聞いて、陣中見舞いを持って馳せ参じました」
「九千代が作ってくれたお菓子だね。喜ばれるよ、特にお嬢様が」
「あら、わたしもお手伝いしたんですよ? これでも年頃の乙女ですから、お菓子作りも好きなんです」
「でも私より下手でしょ?」
「ああ、失礼なお姉様! 少しは妹に遠慮してください」
そんなやり取りをして笑い合ったあと、私たちは連れ立って皆が作業しているアトリエに入った。
「お嬢様、お客様がお土産を持って来てくれました」
妹と2人きりの場合では姉妹として気安く話せても、お嬢様の前では、私はあくまで従者。アトレは桜小路家のお嬢様になるので、改めて敬語を使う。
「ああ、アトレさん、いらっしゃい」
「え、アトレさん?」
お嬢様は珍しいお客様だと歓迎の態度を取るが、ルミねえはやや怪訝な表情になった。彼女は私とアトレの関係のこじれ具合を知っていたため、妹がここに来ることの異常性を分かっている。
しばらく私とアトレの顔を交互に見たルミねえは、「そっか」というような表情浮かべたあと、「よかったね」というように笑みを浮かべてくれた。持つべきものは理解力の速い姉である。
「おおお、THEお嬢様 って感じのひとがいらっしゃったー」
「お前いい加減初対面の人に対する失礼やめろ」
春心さんがアトレに対する素直な感想を述べ、弓さんがそれを窘めていると、アトレは彼女たちに向かって挨拶をした。
「貴女たちが『ぱるぱるしるばー』の一丸弓さまと銀条春心さまですね。姉がいつもお世話になっております。お姉さまの妹のアトレと申します」
彼女はペコリと頭を下げると、ニコニコとした顔でつまらない物ですが、とお土産のお菓子を差し出した。
アトレの言葉に春心さんたちはちょっとだけ戸惑いの表情を浮かべたあと、遠慮げにアトレに尋ねた。ちなみに、お菓子は改めて私が受け取り、みんなのお皿を用意して配膳している。
「ええと、もしかして大蔵さんの妹さんですか?」
たしかにルミねえとアトレは血縁だから、その顔立ちには面影がある。実際姉妹と見られても違和感はない。
「いいえ、私のお姉様はその、誰よりも綺麗で素敵な白いお姉様です」
アトレ、その紹介は流石に恥ずかしいよ。弓さんや春心さんだって驚いて…… はあんまりいないみたいだ。
「お~ メイドさんの妹さんでしたかー。いやーやっぱり似たもの姉妹ですなぁ。雰囲気というか気品というか、そういう格式高さがおんなじです」
「いやそこは格調高さだろ、慣れない言葉を無理して使うな。そっか、メイドさんの妹さんか、そういえば前妹さんいるって言ってましたもんね」
「おー! じゃあちゃんと仲直りしたんだー」
「もともとしてないって話だっただろ、この鳥頭」
「そでした」
いえ、むしろ普通の喧嘩よりこじれた関係でした。でも、貴女たちのお陰でこうして仲の良い『姉妹』になることが出来たんです。
とは流石に今は言えないので、ちょっと言葉を濁すことにした。
「いえ、春心さんの言うとおり、ちょっとギクシャクした関係だったのは確かです。でも、こうして私の職場に挨拶に来てくれるようになりました。お二人のおかげです」
「はい、その節は姉に色々とご助言くださり、ありがとうございました」
「いえそんな、私らなんも」
「まあなんにせよえがったえがった。それにしても綺麗な姉妹だ、黒と白でまるでオセロみてえ」
「せめてチェスの駒くらいには例えようよ銀条さん」
「すません」
姉妹揃ってぺこりと頭を下げる、弓さんは恐縮したようにいやいやと手を振って謙遜してくれ、春心さんはいつもどおりにおどけ、ルミねえがそれにツッコミを入れてくれる。
そして、この場で黙っていたもう一人もまた、私とアトレに向かって優しく微笑んでくれた。アトレが私を『お姉様』と表した時も、この人は特に驚きも見せず、黙って私たちをじっと見てくれていたのだ。
「アトレさん、貴女のお姉さんには、いつも良くしてもらっています」
「エストさんも、以前は大変差し出がましいことを言ってしまい申し訳ありませんでした。でも今は姉の主人が貴女であってくれて良かったと、心から思っています」
「そのお言葉が聞けて嬉しいです。これからもこの子に相応しい主であることに努めます」
「お姉様をよろしくお願いいたします」
どうやら、私が知らない所で、お嬢さまとアトレには何かがあったようだ。そのことを聞くつもりはないし、もう2人の間で解決したことのようなので、私が口を出すことは何もない。
「おーうまそうなお菓子! ジブン食べていいっすか!」
「うわコレどこで買ったやつですか。なんかすごく高そうですけど」
「大丈夫だよ一丸さん、アトレさんの持ち込みなら、これ多分アトレさんの友人の調理科の生徒の手作りだから」
「はい、ルミねえさまの言うとおりです。これはわたしと友人の九千代が作ったものです」
「おお、さすがはメイドさんの妹さん、ハイスペックさも姉譲りか」
「いやアトレさん話盛ったでしょ。これ何割九千代さん作?」
「8割以上は……」
「まあなんでも出来るお姉さんに並びたくて、背伸びしたい気持ちも分かるよ」
「うう、恥ずかしい。でもそんな完璧なお姉様がわたしは大好きです」
「あ、なんかとたんに親近感わいた」
「なんだやっぱりお姉さん大好きなんじゃないですか」
それも貴女の助言のおかげの果ての関係です、弓さん。
それと九千代は私たちの年代の中でも腕前は突出してるから仕方ない。別にウチの妹の腕前は悪くありません。その製作者は私のために調理科に入ってくれてるけど、本来はパティシエ科に行くべき子なだけです。
「今度はそのお友達も是非連れていらしてくださいね」
「はい、ぜひそうしますエストさん」
「お嬢様、口元にクリームが」
「ああ、こうして仲良い姿を見せられると、やっぱりちょっと嫉妬しちゃいますね。時々でいいから返してください」
「ううん、朝陽は優しいから、妹さんに頼まれたら中々戻って来づらそうだし」
「この半年以上ずっとエストさんに貸しっぱなしなのですから、少しばかり妹に甘えさせてくれてもいいでしょう? わたしのお姉様なんですから」
「いやいや、私の従者なの」
「フフフ」
「ウフフ」
「じゃあここは漁夫の利で私が」
「「やめてください! ルミネさん(ルミねえさま)に来られると勝ち目がない!」」
アトレは砕けた様子で話してくれた、でもそうか、これがきっと友人と話している時の『普通』のアトレなんだ。
『僕』には見せまいとしていたその飾らない姿を、『私』には見せてくれることが、とても嬉しかった。
この後も妹は和やかに話をしたあと、作業の邪魔をしてはいけないと帰っていった。その姿を見送ったあと、肩をポンと叩かれたので、振り返るといつの間にかルミねえが背後に立っており、静かだが感情が込められた言葉で告げられる。
「良かったよ。そして、良くなるよ」
その短い言葉には、多くの気持ちが込められていることを、私は理解している。そう、ルミねえの言うとおり。
私の選んだ道はこれで良い。私たち姉妹の関係もこれで良い。そして、この先の未来も良いものであるようにしていこう、と。この頼りになる姉は言ってくれている。
だから、そのための最後の仕上げを今夜行おう、あの人はもう分かってくれていたけれど、やはり私の口から話さないといけないことだから。
そうして、桜小路才華はエスト・ギャラッハ・アーノッツにすべてを話した。
アトレが来て『姉』と呼んだことにより、その真実の一端はすでに明かされているし、その直前に贈られた衣装は、エストの決意を磐石にするに十分なものであった。
4月から2ヶ月かけて作られた、エストのために作られたケルト風のドレス。
アイルランドの土着の色、シャムロックの緑、立ち込める霧の白に布地に、煌く光をイメージした装飾、特に目を引く月の如き銀のティアラで彩られているそれは、まさに月(才華)によって彩られるアイルランドの貴人(エスト)の相応しき、晴れ舞台の衣装。
それに袖を通し、鏡を見たエストに、もうこの白く愛しい少女のすべてを受け入れない理由などなかった。
「私の本当の名前は、桜小路才華といいます」
それは、すでにエストも分かっていたこと。桜小路アトレの姉なのだ、桜小路の人間であることは間違いない。
「そして先天的に日光に当たれぬ肌を母のルナから、身体を内側から蝕む肺の病を、アイルランドの祖母から受け継ぎました」
それも、以前に話されたこと。新しく明かされたことは、母親の身元のみ。だがそれも、外見が桜小路ルナの生き写しである才華を見れば、予想はすでについている。
なので、最後の秘密はこの一点。
「最後に、実は私は生まれた時には、男性の性を得て生まれてました」
「…………っ」
エストは言葉を発せられなかった。性別を偽られたことに憤ったわけではない。男性に身を晒していた過去を恥じたわけでも無論ない。
エストの去来した思いは、“男性なのにその華奢さなのか”ということだ。
女性ならば、まだ良かった。平均より小さいとは言えそこまで離れているわけではないし、現に銀条春心などは平均よりずっと低い。
だが、男性というならば、その春心よりもさらに平均より低いということになる。つまりそれだけ“成長することが出来なかった”ことを意味している。それを思うとエストの胸は強く痛む。
やはり、この子の事情はとても重い、と感じたが、それでもそのすべてを受け入れる覚悟は、今の彼女には出来ている。
この2ヶ月、毎日眺めてきた。慈しみの表情で、穏やかな笑みで、自分のための衣装を縫うその姿を。
そして先ほど完成したその見事な衣装を、確かな愛情を感じさせるドレスを着せてくれたこの子を、拒めることなどできようはずもない。
だが、今の言葉にはそれとはまた別に気になることもあった。
「生まれたときは……?」
「はい。ですが、2次性徴は起こりませんでした。だから私は戸籍上は男性と区分されても、男性としての能力はありません」
「朝陽!」
やはりエストにとってはこの子は『桜小路才華』ではなく『小倉朝陽』なのだ。彼女は衝動のままに才華、いや朝陽の名を呼び抱きしめていた。
その行為は、この先何を聞こうとも、例え貴女の身体にどんな事情があるとも離さないという意志の顕れに他ならない。
「お嬢様……」
「ごめんね急に抱きついちゃって、まだ話は続くんだよね? でも聴き終わる前にもう言っておくね、私は絶対に貴女を手放す気はないし、側にいるつもりだよ」
「………はい、ありがとうございます。でも、ちょっと待ってくださいね」
エストの行動に感極まった朝陽は、涙を拭くのと呼吸を整えるのにしばしの時間を要したが、その後また続きを語りだす。
「私の身体は今もまだ、男性と女性に別れる前の子供のままです。でも、一応は未熟なままでも男性器はついているので戸籍は男性なのですが、そうもいかない事情が出来ました」
「それは……?」
「癌です。不要となった精巣などの臓器が老廃物に転じて、癌化するリスクが生まれています。より詳しくは、癌と似て非なる悪性アテローマという区分らしいですが、似た症例もないのであまり病名に意味は無いそうです」
「……!」
思わずまた抱きしめたくなる衝動に駆られたエストだが、今度は踏みとどまった。しかし、今度の衝動は愛情と憐憫の他に、怒りも混じっていた。
それはこれまでの才華とアトレがずっと抱いていた感情、この世の不条理に対する怒りだ。もし神がこの場にいたら、間違いなくぶん殴っている自信がある。
だが、そう、癌である。肌や肺の病とは違い、人種の違いなくなじみの深い死病。今現在の人類においても死因の上位に君臨し続ける自滅の病。
ならばそんな『身近』な病が、このか細い身体を襲わぬはずもなかったのだ。
「それで、どうなるの?」
「当然、切除が必要です。しかし私の身体は外科手術には耐えられません。幸い、私の主治医はアメリカ指折り、いや世界指折りの名医です。癌化する前に徐々に私の体内に溶かす薬を特製してくれています。当然、身体への負担がないわけではありませんが、全身麻酔の外科手術よりは遥かに」
「流石大蔵家だね……」
アトレの兄妹、いや姉妹ということは、即ち大蔵家の血縁ということ。バックアップには世界有数の大富豪が付いているのだ。
いや、そんなバックアップがあってようやく保てている命、と評した方が正確だろう。エストもそれを理解する。
子宮癌の転移を防ぐために、子宮を全摘する外科手術の前例は数多くある。けれど、才華のように複合の死病に侵されている身体に発生する癌は極めて少ない。そもそも、幼年期を超えることなく患者が死んでいるからだ。
まして、性成熟期を迎えるまでに生き延びる事ができたからこそ新たに発生した癌化のリスクなど、世界中の症例をかき集めても片手の指に足りぬほどしか見つからない。
「今までは、その癌化のリスクを知りながらも薬の服用に躊躇いがありましたが、今はもうありません」
「それは、アトレさんが関わることだね」
半年以上一緒にいた。ずっと側で笑い合った。だから、エストには朝陽のことの、精神的なことは大体が察せられる。
もうこの主従の絆は、深く深く結ばれている。シャムロックの強靭な蔦束のごとくしなやかで、アイリッシュハープの弦のごとくに強靭に。
「はい、薬の効用は長期の抗癌剤治療に似て“細く長く”です。私は、あの子の『兄』であることにこだわりました」
癌の早期発見や治療法に関するジレンマそのものは、ある意味でありきたりとも言える。特に、“一家の大黒柱”として生計を立てる働き手だったならば尚更に。
経済力に限界がある一般家庭ならば、“抗癌剤治療を経済的理由で諦める”こととて珍しくはない。それよりも身体が動くうちに騙し騙し稼げるだけ稼ぎ、癌による死を己の寿命として受け入れる道も、人それぞれの選択肢に含まれる。死した後に残せる財産こそ、家族への愛だと考える者もいる。
桜小路才華が『兄』として、男性として生きるならば、薬の服用は己の身体の行動限界を狭めてしまう枷としかなり得ない。
だから、夢で見たあの雄々しい“彼”は、決して服用することはなかったのだろう。
「でも、それは所詮私の自己満足で、あの子も誰も幸せにしないことを、ようやく認められるようになったのです。エストお嬢様、貴女のおかげで」
「うん、貴女の役に立てて良かった」
私は何もしていない、とは言わない。自分の存在がこの子の後押しをしたのなら、それは喜ばしく誇らしいことだから。
「なので、私は近い将来男性ではなくなります。それでもこの体ですから、癌のリスクは常にありますが」
太陽光は、無慈悲にその肌を焼き、皮膚癌を発症させる。そのリスクから逃れることは、出来ない。
「そっか…… ん、じゃあ本物の女性になることになるの?」
「いえ、大きな形成手術やホルモン処理などをすれば体の負担になるので、女性になれるわけではありません。私の身体では、従来型の性転換手術ですら耐えられませんから。ただ、男性器はなくなりますので、そうなると女性としての戸籍のほうが都合がよくなる、というだけです」
ある意味では乳幼児の如く繊細で脆い身体。全身麻酔の手術というだけでも、死のリスクがつきまとうほどの負担となってしまう。
元々からして、性別の別れる前段階の体だったのだ。それでも今までは一応の男性器があったから戸籍をそうしていたが、今後はなくなるので、その場合は女性の戸籍の方が面倒が少なくなる、というだけの話である。
何せ薬の服用後は、才華の身体が男性のものであると主張できる要素は何一つなくなるのだから。生まれた時から『当たり前』にあったものを失うこと、それが決して軽いものであるはずがない。
そんな身体状態の説明を改めて聞くとエストは痛ましい気持ちと怒りが再燃するが、それを抱いてもこの子のためにはならないと、誇り高き志でそれを胸に封じ、己の従者を今度は優しく抱きしめる。
「うん、わかった、ありがとう話してくれて」
そして少し不謹慎ではあるが、性別がないという事が、なんだかこの妖精のような子には、それが相応しいようにも思えてしまう。それだけ彼、いや彼女の存在は幻想めいていて、だから触れて存在を確かめたくなるのだ。
「これで、もう話していないことは何もありません。エスト様」
伝えるべきことは、全て告げた。己の心の全てを晒して、寄りそうように、寄りかかるように。
尊敬する伯父のように強くはあれず、貴女を支えることも覚束ない薄弱な細身でしかない全てを呑み込んででも。
「これが私です、病だらけで、弱くて脆くて、次へ繋がる命を残せない身体の人間。それでもどうか、貴女のお側にいさせてください」
朝陽は静かに、エストの背中に腕を回した。
2人は初めて抱きしめ合う形を取っている。そしてその姿はもう誰が見ても、少女と少女の睦まじい抱擁にしか見えはしない。
「頼まれたって離さないよ。貴女は私の生涯のパートナー、愛しいホワイトクローバーなんだから」
「まるでプロポーズですね」
「そうだよ、アイルランドは同性婚を国民投票で許可した世界初の国なんだから」
エストの言葉に少しの間だけその紅玉の瞳を見開いた朝陽。
あとほんの少しだけ、乙女として全霊をかけて、ちっぽけな勇気を絞り出して。
噛み締めるように、搾り出すように、語りだす。
「―――ああ、では、誓いましょう、貴女の側にずっといます」
そこで言葉を一度きり、まさに人生を乗せた言の葉を紡ぐ。
「死が二人を分つまで」
その時の白い月の少女の表情を、声を、美しさを、エスト・ギャラッハ・アーノッツは生涯忘れない。
2人は月の下で誓を結ぶ。主従の誓と、伴侶としての誓を。
生きとし生けるもの誰にもいつかかならず来る、近くもなく遠くもないその日まで、一緒にいることを。
輝く月に、誓を立てた。
そうして彼は、全ての顛末を聞き届けた。
「そうか、決意したか」
「はい、ようやく決めることができました」
「早いほうがいいとは言え、一朝一夕では決められまいよ。だが良く決断した、俺も安堵をしているよ」
甥の報告を聴いた衣遠の言葉に嘘はない。才華の癌化のリスクを知っていたのは、両親の遊星とルナ、そして衣遠だけだったが、その中でもっともその解決に手を尽くしたのは衣遠である。
病の女性の過去も、大蔵家の因縁も、全ての始まりに関わり続けた重い宿業を背負い続けるその道こそ、覇道などよりも己が行かねばならぬ道と決めた男は、この時もまた、いつも通りの泰然とした態度を崩すことはない。
そんな彼をして幾度も諦めかけたほど、難題は山の如くあった。生まれた時から持っていたアルビノの肌、3歳の時に発症した肺の死病、そして、2次性徴を引き換えに何とか体調が安定に向かい始めた矢先、思春期の後半に3つ目の病が降り掛かった。
それでもこれで、当面は死神から才華を遠ざけることが出来たと、彼は本当に心から安堵した。癌ほど、早期発見が全てを決める病もない。どんな些細な病の兆候であろうと、時に“京”や“富岳”らを駆使してでも常に監視と分析を続けた衣遠の執念の勝利とも言える。
心の多寡などおよそ計れるものではないが、それでもプールから才華を引き上げられた時の大蔵ルミネの安堵に似て、それを遥かに上回る人生の重みが、大蔵衣遠の歩んだ道のりにはあった。
そしてその安堵は、続く才華の言葉を聞いてより深まっていく。
「アトレとも、よく話しました。今までのことと、これからのことを」
「ほう、お前たちがか、それは何より喜ばしい。心の底からお前を褒めよう、才華。本当に、よく頑張った」
この言葉に込められた思いは、余人が察するよりも遥かに重い。だが妹にただならぬ蟠りを抱えていた兄が、それを放棄し和解したということは、衣遠にとってまたとない喜びなのだ。
なぜなら衣遠もまた、妹にひとかたならぬ思いを抱いていた男だったから、彼もまた『妹にはあるのに自分にはない』という、才華と同じ気持ちを長いあいだ抱えて生きてきた過去がある。
同じ血を引いているのに、妹のりそなにはあって、兄の自分にはない。才能も意欲も自分が上なのに、『それ』を持っていないというだけで、全てが上塗りされる、そんな境遇を、衣遠と才華は共有していた。
衣遠が持っていなかったのは『大蔵の血』で、才華が持っていなかったのは『健康な体』という違いはあれど、妹が持っているそれさえあれば、という共通点は全く同じである。
だから、衣遠は才華の行く末を危惧していた。あの『Diana』のデザインを見たときにはその危惧はより強まったものになる。
他ならぬ衣遠だからこそ分かる。自分よりも遥かに、根が優しい才華に覇道の適性はない。どうあってもそれは命を燃やし尽くす片道切符にしかなり得ない。
けれど、あのアイルランドの少女、エスト・ギャラッハ・アーノッツと出会ってからの才華には、その危惧を感じさせる雰囲気は薄れていった。
それはエストと才華が共にある日々を重ねていくうちに弱まり、5月を迎えるころには全く感じられることはなくなった。
まさに、衣遠の過去をなぞるが如しだ。アイルランドのあの女性の息子遊星が、自分の妹りそなへの昏い感情を無くしてくれたように、アイルランドの乙女は、才華からアトレへのそうした感情をなくしてくれた。
日本でアイルランドは愛の国と書く。彼の底抜けに明るい友人の言ではないが、まさに『愛だよ、愛!』ということだろうか。
そんな感傷に浸る自分を苦笑しながら、衣遠は才華に別のことを尋ねる。
「『Diana』のことも、お前の主人に話したのか?」
「いえ、もう『Diana』は過去であり、いません。もうあのデザインは私には描けないのです。だから、言う必要もないと思いました」
「それにも別れを告げたか」
「はい、一抹の寂寥感はありましたが、それでも必要なことでしたので」
もうそのデザイナーはどこにもいない。例のネットショップもそのためかもう解散し、残ったのは流星のごとく現れ消えていった、狂熱のデザイナーの伝説。
それはもう、過去に置き去るべきもの。胸の中にあった狂熱は骸となり、才華は『さようなら、Diana』という言葉と共に、すベてのデザインを処分した。
「本当に、よく頑張ったな」
「伯父様が支えてくれたおかげです」
「こんなものはただの年の功にすぎん。お前の倍以上は生きているのだ、この程度できなくてはな」
「それで、あの、その上で伯父様にお願いしたいことが」
「分かっている、戸籍のことだろう。それもこちらで手配済みだ。安心しろ」
実は衣遠はすでに、半年以上前に才華の戸籍を『女性』にする書類手続きは済ませてある。だがそれを『事務上のミス』として受理されていない状態にしていただけだ。
才華がこうして決めた以上、その処理は滞りなく実行される。申請した日付で以てそうなるので、才華はフィリアに入る前から戸籍が『女性』であったと証明できる。
そうなれば後は簡単だ。すでにフィリア日本校には、『戸籍は女だが、身体はまだ男性』という人間が従者として通っていた前例がある(その時の学院長は衣遠であり、その従者も彼のよく知る人物であった)。
この国で前例は何よりも重要視され、力となるのだ、衣遠にとって馬鹿馬鹿しい前例主義も、利用すれば便利な手管だ。
「もうこの言葉をなんど言ったか分かりませんが、本当に頼りになる伯父を持てて、私は幸せ者です」
「お前という甥、いやこれからは姪だな。それを持てた俺こそ果報者だ」
これは衣遠の偽らざる本音だ。この今や姪となった才華の存在があったおかげで、彼の心の底に澱んでいた罪の意識は払拭された。
だから、衣遠もまた月を見上げて願う、何者かに願いを向けるなど、俺も老いたなと自嘲しながら。
どうか、才華の生涯が幸福であらんことを、と。
そして同時に決意を強める。人事を尽くしてこその訪れる天命だ、己がなせることはすべて成そう、と。
彼はこれからも、才華を守り続ける。誰よりも力強く、何よりも雄々しく。立ち塞がるものは病魔であれ何であれ、力でもって捻じ伏せる。
それこそが、大蔵衣遠の流儀で、生き方なのだから。
もしも、神という悪辣な脚本家から、主役に選ばれてしまった存在が居たならば
最も運命に玩弄されながら、最も己の無力さを呪いながら
時に道を間違え、失ってはならぬものを手放し、苦しみ悩んで藻掻きながら
抗い続け、戦い続け、どんな時でも諦めることなどありはしなかった
ついに彼が勝ち取った、守り通した一つの華よ
どんな才能よりも、どんな栄光よりも、これほど華々しき誇りなどあろうか
その頃の
「まさか、『Diana』が才華だったとはな」
「でも、もうあのデザインは描かないと、言ってた」
「あのデザインが失われるのを、デザイナーとしての私は残念に思っているよ」
「母親としての君は?」
「安心している。あのデザインを才華が描いたと知ったときは心底驚いたし、私としたことが恐れすら抱いた。だが、もう描かない、いや描けないと聞いたときに、これほどの安堵をしたことがないというほどホッとしたものさ。はは、私もやはり母親だったか」
「僕も同じだよ。あの危うさと攻撃性に満ちた、魅力的だけど、それ以上に破滅的なデザインを才華が描いていたと知ったとき、目の前が真っ暗になった」
「実際、私が支えてやらねば倒れていたな、君は」
「不甲斐ない夫でごめん。でもあの子がそんなに凄まじいものを抱えていたことを分かっていやれなかった自分が恥ずかしい」
「それは嘘だ」
「…………」
「君は知っていただろう、あの子の危うさを。だからこそ、誰よりも愛を注ぎ、その危うさを取り除こうとした。そうだろう?」
「ありがとう、やっぱり君はなんでもお見通しだね」
「ああ、君が隣にいる限り、私は完璧なんだ。知っているだろう?」
「うん」
「そのエストという少女に感謝しないとな、その子が、才華の生きる道を示してくれたのだから」
「僕が君と出逢えたことで人生が変わったように、才華もそういう人に出逢えて、本当によかった」
「しかし…… この先その少女と我々はどういう関係になるのだろうな?」
「どういうこと?」
「才華の身体の事情を考えれば、嫁に迎える形にも婿に出す形にもならんだろう」
「え、じゃあもしかして才華をお嫁に出すことに……?」
「それはあの子がこの先をどう選ぶか次第だが、君から見てあの子が性に固執すると思うか」
「あの子は僕とは違うよ。男性であることに拘りはない、きっとね」
「ならば、やはりアーノッツ家に嫁に出すことになるのか」
「ううん、複雑だな……」
「息子が娘になることに抵抗が有るか? 私はないぞ、というより君の才華への態度はむしろ娘に対する溺愛ぶりだったと記憶してるが」
「僕もないよ、ただ父親として、娘を嫁に出すことにやはり抵抗が」
「ああ、そっちだったか、だが、うーん」
「なに?」
「むしろ姉にしか見えない君の姿が、どうしても『娘を嫁に出すのを渋る父』というイメージからほど遠くてなぁ」
「では、主のご令嬢が嫁がれるので、それに付いていきたい使用人になります」
「急に朝日になるな! まったく、君は本当に才華のことになると人が変わるな」