「クローチェッ!」
勢い良く開け放たれた、木扉の乾いた音と共に、
振り絞るような少女の叫びが礼拝堂に響き渡る。
やや意外そうに眉を吊り上げ、ワルドが冷徹な瞳を入口へと向け直す。
見据えた赤絨毯の先で、本来この場にいるはずのない緑髪の少女、
プリマ・プラムが特徴的な銀色の杖を振りかざす。
(……遠い)
ちらとワルドが眉をしかめる。
少女の秘めたる力が、ハルケギニアの魔法の理を凌ぐものである事は重々理解していたのだが、
それでも長年研鑽した己の業前が、年端もいかぬ少女にあっさり凌駕されたとあっては、
あまり気分の良いものではない。
とは言えそこは風のスクエアたるワルドである。
有効打とまではいかずとも、振り向きざまに強烈な疾風を浴びせてやれば、
素人娘の詠唱など容易に阻止できる状況にはあった。
だが、結局ワルドはその機を見過ごす事にした。
己が野心ゆえに、東方出のメイジを名乗る少女の実力を見極めたい、
と言う興味の一点が、あらゆる全てのリスクに勝ったのだ。
現時点までに少女の見せた魔法は、いずれも強力な詠唱には違いなかったものの、
あくまでこちらのメイジの使う、四系統の魔法の延長上にある力にすぎなかった。
ルイズがこそが『主』、ローザは『従』。
両者の秘めた力を、伝説に語る【虚無】に類する存在と信じつつも、
ワルドは二人の能力の差異について、そう判断を下していた。
先に主であるルイズさえ手中に収めてしまえば、従たるローザも遠からず篭絡できる。
彼女にあえて監視を付ける事もなく遠ざけ続けたのは、その判断があるゆえであった。
だが今、もしも彼女にこの窮地を覆すほどの力があると言うのであれば、
その評価は改められなければならないだろう。
狭い屋内、しかもワルドの背後には倒れ込んだルイズ。
単純に力の強い魔法を唱えるだけでは、守るべき主が巻き添えになる状況である。
プリマ・プラムの放つ奇跡に半ば期待しながら、ワルドは油断なく杖を構え直した。
『ティム・フォールナ……、メイッ!!』
――そして、刹那の駆け引きを終え、その詠唱が礼拝堂に響き渡った。
たちまち杖先から迸る輝きが、しかしふっ、と錯覚のように消え失せてしまう。
やや拍子抜けしたワルドであったが、間をおいてピクン、と体に悪寒が駆け抜ける。
魔法は不発だったのか、あるいはもう、何かの効力が働いているのか。
用心深く、ワルドが少女の一挙手一頭足に意識を傾ける。
少女が深紅のヴァージン・ロードを踏みしめ、一直線にこちらに向かってくる。
大きく息せき切って、まるで運動が苦手な幼女のようにバランスを崩しながら。
飛行魔法すらも忘れているような必死さが、妙に滑稽ではあるのだが、
何故だか今のワルドは、その無様な少女の姿から目が離せなかった。
彼女が礼拝堂の半ばまで差しかかった時である。
絨毯のたるみに足をとられ、まるで漫画のようにずるりと転んだ。
その弾みで、手にしていたポシェットが思い切り空中にスッポ抜ける。
異変はその時起こった。
少女の手元を離れたポシェットは、まるで空中に固定されたようにぴたりと静止して……、
いや、それも違う。
改めてまじまじと確認すれば、ポシェットは止まっているのではなく、
まるで優れたメイジにでも操作されているかのように、緩やかに運動を続けているのだ。
放物線の軌道を忠実に守りながら、ゆっくりと遠心力によって蓋が開き、
スロー・モーションのように空中に散乱する小物の中から、
やがて特徴的な可愛らしい小瓶の一つが、こちらに目がけて少しずつ距離を縮めてくる様を、
ワルドは思わずゆっっっっっっっっっっっっくりと瞬きをして見つめ直し……、
(――――ッ!?)
ようやくワルドは身に起きている異変に気が付いた。
体が動かない、視線を逸らす事も、驚きの声を上げる事も出来ない。
いや、厳密に言えば動かせないのではあるまい。
おそらくは回転する思考の速さに追い付けないほどに、
肉体が鈍重にしか動いてくれていないのだ。
そしてそれが、念動力や催眠術のような直接的な攻撃とは
まるで異質な現象である事を、周囲の状況は如実に伝えていた。
(何と言う事……! 俺もあの小瓶と同様、
この礼拝堂、すべての時の流れが緩慢になっているのだ、彼女以外の!
こんな魔法、四系統の組み合わせで生み出せる代物ではない、
だとすれば彼女が、彼女こそが……、虚無!?)
頭を一つ振るい、かろうじて立ち上がったプリマ・プラムが再び猛進してくる。
ワルドの顔面からゆっっっくりと血の気が引く。
かつて『閃光』の二つ名を誇ったトリステイン最強の戦士は、今や蝸牛にも等しい。
洗練された詠唱も、鍛え続けた精妙なる剣捌きも、眼前の素人娘の体当たり一つに及ばない。
『伝説』を侮った報いを、稀代のスクエア・メイジはその身で受けねばならなかった。
「ル、ルイズさああぁぁんッ!?」
が、どうした事だろう。
当のプリマ・プラムはと言えば、初めからルイズしか眼中に無かったかのように、
ぱたぱたとワルドの脇を駆け抜けていく。
カッとワルドの脳髄が沸騰する。
プリマ・プラムを斬る、返す刃で小瓶を撃ち落とす。
そんな刹那の判断を嘲笑うかのように、体はねっとりとしか動いてくれない。
一瞥も出来ぬままに、少女は一足一刀の間合いを走り去り、
入れ替わりに眼前目がけて小瓶が迫る。
(ぐっ!?)
屈辱をゆっくりと噛み殺し、ワルドが視線を小瓶に向き直す。
じりじりとした感情を押し殺し、徐々に視界を圧迫してくるそれに対し、
重油の海でも掻き分けるような懸命さでもって杖先を重ねていく。
「ルイズさんッ!」
ようやく堂内を駆け抜けたユリーシアが、壁際のルイズ目がけて飛び付く。
瞬間、魔法が解け、周囲を覆っていた空気がふっ、と軽くなる。
「おおッ!!」
ワルドが吠える。
眼前で突如勢いを取り戻した小瓶に対し、無我夢中で右腕を振るう。
『閃光』の二つ名が秘めたる業前は、この刹那に如何なく発揮され、
そしてそれが、この日のワルド最大の不幸となった。
決死の一閃は、迫りくる小瓶を弾き返す事なく真っ二つに断ち切り、
ゆえにワルドは、その中に入った液体を容赦なく顔面に受けるハメとなった。
「ルイズさん、しっかりしてください!?」
「ん……」
ユーリの懸命の呼び掛けに対し、呆けたようなルイズの吐息がこぼれる。
ほっ、とユーリが安堵の息を付く。
どうやらルイズは壁面に叩きつけられ気を失っていただけらしく。
外傷や流血の類も見受けられなかった。
「くっ……、うう」
背後からのうめき声に、反射的にユーリの両肩がピクンと震える。
同時にユーリは、自身が唯一無二のチャンスを失ってしまった事に気が付いた。
「……貴様、一体、何のつもりだ?」
背後で膨らんでいく殺気の渦に対し、手にしたレードルをきゅっ、と握り直す。
この土壇場を切り抜けられる術があるとしたら、
それは今しがた、無我夢中で放った『時間の歩みを遅くする言葉』しかない。
だが、それはわざわざ『使い方を誤ると危険』との文句が付くほどの高度な力である。
先ほどはたまたまうまく行ったものの、その大いなる力の連続使用に、
少女の器が耐えられる保証はない。
(……それでも今は、この言葉に頼るしかない)
昏倒した主の顔を見つめながら、ユーリがぐっ、と奥歯を噛み締める。
ゆらり、と背後の影が大きく揺らめく、
同時にユーリが勢い良く振り返りながら詠唱を重ねる。
「ティム・フォールナ……」
「ぬっ、う、うおぁ!?」
「ふぇ?」
だが、少女の決死の詠唱は、突如狼狽の声を上げるワルドを前に呆気なくかき消された。
ぽかんと大口を開けるユーリの前で、ワルドの体が見覚えのある淡い光に包まれて行く。
「この光……って、まさか!」
「こ、これはいったっ、なんどぅわああぁあぁぁぁぁ……!」
発光する全身が輝きを増す毎に、ワルドの断末魔は意味不明なものへと変じていったが、
やがてそのシルエットは、眩い光の中で徐々に小さくなり始め、
ついに光の消失と共に、ぽとりと長椅子の向こうに消えてしまった。
「これって、もしかして……」
おそるおそる、ワルドが消えた長椅子の真横へと回り込む。
そこに転がっていたは、無残にも分断された愛用の小瓶と、
どこか見覚えのある、不細工な狼の縫いぐるみだけであった。
「……ワルドさん、やっぱり私の変身薬を浴びちゃったんだ」
地面を濡らす液だまりを見ながら、ユーリが深い諦観の吐息を落とす。
その脳裏に、姉・エレーナが教えてくれた秘薬の知識が漠然と甦る。
『――さてユーリ、ステラウェバーが扱う秘薬は、
大きく二通りの種類に分けられるって言うのは、もう習ったよね?
体に影響を与える薬と、心に影響を与える薬。
前者は服用した者の外見や肉体に影響を及ぼす薬、
ユーリに預けた変身薬なんかもこっちだね。
後者はまあ、睡眠薬から惚れ薬まで、その種類は千差万別って感じかな。
『この内、レトロシェーナで扱うのに、
特に気をつけなければならないのは前者の薬よ。
外観に変化を及ぼす薬には、それだけフィグラーレの秘密を守る効能が強く働くの。
あなたに預けた変身薬だって、向こうの人間が口にすれば、
その力をコントロール出来ないままに、
たちまち身動きの取れない形態に陥ってしまうでしょうね。
『解除薬自体は星のしずくがあれば作れるけど、
しずくが集まる前に魔力が定着したり、
あるいは、その人の正体を他人に知られたりしたら、そこでおしまい。
その人は二度と元の姿に戻れなくなるわ……。
『だからユーリ、脅すつもりはないけど、薬の管理だけはしっかりとね。
特に変身薬は、普段はクロワに預ける事、用のない時は持ち歩かない、
紛らわしい容器にいれない、それに人前では軽々しくポシェットを開けない、
くどいようだけど、そう言う当たり前の管理ができて、
初めて一人前のステラウェバーなんだからね……』
「あ、ああ……」
心配性な姉の言葉を思い出し、がっくりとユーリがうなだれる。
今回の件は不可抗力に不可抗力を重ねた末の出来事であり、
そもそも元を辿ればワルドの身から出た錆であり、
結果的にはその不慮の事故によって、ユーリは事なきを得たわけではあるが、
それでも足元の変わり果てた衛士隊長の姿を前に、脱力せずにはいられない。
「ええっと、確か、こう言う場合は……」
こんな事もあろうかと姉が教えてくれていた、もしもの場合の対処法。
変身薬を直に服用してしまった場合は非常に危険。
薬の効果が定着する前に星のしずくを必要数集め、魔法を解くための薬を作らねばならない。
だが今回のように、
少量の薬が体内に入っただけならば大事には至らないとも、エレーナは語っていたはずだ。
時間の経過と共に魔法の効果も抜け落ちて、自然に元の姿に戻れる、と。
「う、うう、きっと大丈夫……だよね?」
力無くユーリが呟く。
姉の見立てを疑うつもりはないが、実際にワルドがどれほど薬を飲んだかは定かでないし、
ハルケギニアの二つの月が備えし魔力も忘れるわけにはいかない。
夜が明ける頃には薬が切れるのものなのか、あるいは新月まで待たねばならないのか、
それとも一生この姿のままなのか。
最終的には、ワルド自身の運が問われる結果となる事であろう。
今のワルドをトリステインに持ち帰る事は、ユーリの背負うリスクと言う観点からみても、
ワルド本人の進退と言った意味でも、どだい出来ぬ相談であった。
「ええっと……、ね、念のため!」
ユーリはレードルの先端をぬいぐるみに向けると、
そのままパシンと椅子の下へはたき込んだ。
運良くワルドが元の姿に戻れた時には、さぞや苦しい思いをするに違いないが、
とにかくこれで第三者に変身を見られる危険は少なくなるし、
その頃には彼のフィグラーレの魔法に関する記憶も、きれいさっぱり消えている事だろう。
「ん……、ローザ?」
「あ!?」
前途多難なワルドをたちまち記憶の隅へと追いやり、
ユーリが目を覚ましたルイズの元へと駆け寄る。
「ルイズさん、大丈夫ですか?
どこか怪我とかしてはいませんか?」
「んんッ、私の方は何ともないけど、
でもローザ、あなたはどうして……、それに、ワルドは?」
「あ……、えっと、ワルドさんは……」
間の悪い質問に対し、ユーリはじとりと横眼を椅子の方へと流したが、
すぐにブルブルと首を振るい、きっぱりと言い放った。
「ワルドさんは、わ、私がやっつけました!
後ろから魔法を浴びせたら、凄くびっくりしたみたいで
そのままどこかに逃げて行っちゃったみたいです」
「そう……、またあなたに助けられたのね――」
ふっ、とルイズの口元からこぼれかけた、安堵と自嘲の混じり合った吐息が、
しかし次の瞬間には、より諦観の色の濃いものへと変わる。
「――けれど、ウェールズ殿下が」
「……え?」
トクン、とユーリの心臓が一つ震え、先の光景が鮮やかにフラッシュバックする。
何故、あれほどまでに重大な情報を忘れてしまっていたのか?
ルイズの許に必死で走っている時も、ワルドの様子を探りに行った時も、
それは視界の片隅に入っていたハズだ。
あるいは、状況の慌ただしさに気を取られているように振る舞う事で、
そのショッキングな記憶を、知らず意識の片隅から追い出そうとしていたのかもしれない。
悲しげなルイズの視線を追いかけ、ゆっくりとユーリが振り返る。
はらはらと祈るような気持ちで、スカートの裾を握りしめながら。
「…………」
――そこにはただ、打ち捨てられた現実だけがあった。
仰向けに崩れ落ち、天井を見つめるウェールズの体、
その瞳には、先日の自嘲めいた寂しい色も、強い決意に満ちた誇りの輝きもない。
ただ光の潰えた茫漠とした無謬が、虚しく中空を捉えているのみだ。
凍りついてしまったかのような風景の中で、大理石の表面を滑る血だまりのみが、
淡々と時の経過を描写している。
「あ、ああ……」
理性よりも先に、本能が知らずユーリの両膝を笑わせる。
眼前に映る光景が、少女の中で徐々に理解に、そして恐怖へと変わり始める。
「お、王子様ッ!?」
そしてユリーシアは再び、バネで弾かれたように飛び出していた。
心が現実に塗りつぶされてしまう、その前に。
立ち止まる事を恐れるあまり、一直線にウェールズの許へとすがりつく。
誇り高きプラム・クローリスの正装が、血の色に染まる事も厭わず。
「王子様、しっかりしてくださいッ!」
抱え起こそうとした王子の半身の重さが、両腕にずしりと響く。
立ち上がる意思を放棄した、砂袋のような重さ、
震える腕がぬるりと滑り、ユーリの指先を通して紅く染まった王子の両頬が、
力なく少女の膝の上へと崩れ落ちる。
「ローザ、残念だけど、殿下はもう……」
「そんな……、そんな事、ありません!」
遠くから聞こえるルイズの声に、いやいやと、ぐずるようにユーリが鼻を鳴らす。
「こっちの世界の治癒魔法は、私たちの国よりもずっと優れてますから、
それに……、そう! トリステインは水の魔法使いさんの国です。
学院の先生だってすごい人たちばかりだし、きっと、きっと王子様を治せる人がいます!」
ひどく楽観的なユーリの思いつきに対し、力なくルイズが首を振るう。
「ローザ、そうしているあなたの方が分かっているでしょう?
どれほど優れたメイジが居たとしても、一度失われた命を呼び戻す魔法なんて存在しない。
……それに、私たちにはもう、この国に関わっている時間は無いの」
「どうして!? いじわるを言わないで下さい!」
「意地悪じゃないわ、何度も説明したでしょう?
今、この国の置かれた状況。
これから一刻も早くこの国を脱出しなければ、私たちは……」
「そんなの、そんなのやだぁ!!」
「ローザ……!」
――パンッ、と乾いた音が聖堂に響き渡る。
何をされたのか分からないまま、ユーリの思考が真っ白にリセットされる。
ちらりとルイズの姿を仰ぎ見る。
こちらに差し出された右掌と、次第に熱を持ち始めた左頬の痺れから、
ようやくそこでルイズからぶたれたのだと把握できた。
驚きのあまり、呆然とルイズの顔を見つめ返す。
勝手に部屋を抜け出した時も、秘密で屋上に上った時も、
言い付けを破ってルイズの後を追い駆けた時でさえ、
ユーリは彼女から手を挙げられた事など無かったのに、だ。
「……お願いローザ、落ち着いて聞いて」
意外なほどに抑えの利いた声色で、淡々とルイズが言葉を紡ぐ。
「ウェールズ殿下を襲ったワルドは、レコン・キスタの内通者だったの。
すぐに表の本隊が、これから城内に攻め上がってくるはずよ」
「ワルドさんが……、そんな……?」
真っ白に塗り直された思考の上を、ルイズの言葉が虚しく通り過ぎていく。
心ここにあらずと言った風のユーリを呼び戻すべく、ルイズが強く言葉を重ねる。
「ローザ、あなたは無事にここを逃れなきゃダメ!
学院であなたの帰りを待っているユーリのためにも、
あなたの事だけは、私が何に代えてでも守ってみせる」
「…………」
「……けれど、今はもう、二人で力を合わせても脱出が難しい状況なの。
他の事に気を取られている余裕はない、
ウェールズ殿下の事も……、お願い、分かって、ローザ」
苦渋の心境を押し殺したルイズの瞳から、思いの丈が一滴溢れる。
はっ、と、ようやくユーリが顔を上げる。
目の前の少女の流す涙の意味は、きっと昨日のそれとは違う。
昨夜の彼女は、捨てきれぬ眩いばかりの理想の為に泣いていた。
今の彼女は、守り続けた理想との決別の為に泣いている。
(……やっぱり、ルイズさんもトリステインの貴族なんだ)
悄然とユーリが理解する。
ルイズはハルケギニアの「今」を貴族として生きる人間だ。
例えその内面に無垢な少女を宿し、どれほど現実に対し深く傷ついていたとしても、
本当の窮地に立てば、誇りある貴族として守るべき者を選び取れる。
そんな風に骨髄に染み渡るまで薫陶を受けて生きてきた人間なのだ。
知らず、ユーリの瞳からも大粒の涙が零れる。
ルイズの判断は正しい、まともに周りも見えていない自分よりも、きっと。
そう頭で分かっているのに、千切れかけた心を立て直す事ができない。
心が乱れれば、スピニアは奇跡の少女足り得ない、ルイズを助ける事さえ叶わない。
それを知りながら、なおユリーシアの幼い心は、過去の弱さへと流されてしまう。
(私が……、私がいけないんだ……)
不毛な思考が、押し付ける蓋の隙間からとめどなく溢れてくる。
(あの時、私がすぐに飛び出していたら、
王子様を助けるチャンスだってあったのに……!)
礼拝堂まで辿り着いた時、その時点までウェールズは確かに生きていた。
からくも命を拾ったルイズ同様、ユーリの判断が一瞬早ければ、
それだけで王子の運命は大きく変わっていたはずである。
(もしも……、もしももう一度……)
それだけに一層、後悔の念も拭い去れない。
詮無き事と知っていても、ユーリの想いはどうしても後ろ向きに縛られてしまう。
その唾棄すべき感傷を願わずにはいられない。
――もしも、もう一度時を、戻せたならば……。
・
・
・
「「……えっ?」」
どこか遠くから、金属が共鳴するかのような耳鳴りが室内に響き渡り、
反射的に二人が同じ方向へと振り返る。
やがて赤絨毯の中ほど、椅子の陰から溢れ始めた、
どこか見覚えのある輝きが、両者の視線を釘付けにする。
「この光……まさか!?」
一瞬早く状況を理解したユーリが、息せき切って光の許へと走る。
果たして椅子の裏側では、散乱する荷物の中に混じって発光する【開かずの魔導書】、
名も無き偉大なスピニアの足跡を記したレシピが、淡い輝きを放っていた。
「……そっか! あの、あの言葉だったら、もしかして!」
天啓の命じるままに、震える手でレシピを拾い上げる。
未熟なスピニアを導くように鍵が外れ、緩やかにページがめくれ始める。
「……それは、開かずの魔道書!?
ローザ、どうしてその本がここにあるの?」
ようやく追いついたルイズが驚きの声を上げるも、今のユーリには届かない。
ユーリの意識は今や、開いたページの片隅へと注がれていた。
「……これなら、確かに……、でも……」
しばしの間、食い入るように書物を見つめて続けていたユーリであったが、
やがて大きく息を吐くと、本を閉じて静かに立ち上がった。
「ローザ、あなた、一体……?」
「……今は、何も聞かないでください」
ユーリは一瞬、寂しげな瞳をルイズに向けたが、
すぐにきっ、と表情を正し、まっすぐにルイズと向き合った。
「ルイズさん……、少しだけ時間を下さい!
どうしても一つだけ、試して見たい事があるんです」
・
・
・
――再び、ユーリが物言わぬウェールズと相対する。
心を染める恐怖をぐっ、と噛み殺し、
先ほどの荷物の中から拾い上げてきた小瓶を胸元へと持ってくる。
(……本当は、カトレアさんのために作ったお薬だったんだけど)
軽く頭を奮って逡巡を追い払い、蓋を開ける。
そのまま瓶を傾け、透明な液体のひとしずくを自分のレードルに、
次いで残りをウェールズの体へと振り掛けていく。
「ローザ、その液体は何なの?」
「これは私たちの国で、難しい魔法を使う時に用いるお薬です。
一時的にですが、魔法の力を高める作用があります」
「難しい魔法?」
「はい」
そこでユーリは言葉を区切り、静かに顔を上げた。
「私はこれから『時を戻す言葉』で、王子様の時間を巻き戻します。
王子様がまだ、『ワルドさんに刺されていない時間』、生きていた時間まで」
「時を……!」
荒唐無稽なユーリの言葉に、ルイズの背中がぞわりと粟立つ。
常のルイズなら、そんな御伽噺は一笑に付す所であろう。
だがそれは同時に、このハルケギニアの魔法体系に縛られる事の無い、
ロバ・アル・カリイエの魔導士、プリマ・プラムならばあるいは、と言う、
何か得体の知れない恐ろしさを秘めた一言でもあった。
「時を戻す……って、そんな事が可能なの?」
「正直、私にも分かりません。
この魔法は私たちの国の魔法使いさんの中でも、
本当に一部の天才にしか扱えない大きな力なんです。
例えば小さな枯れたお花くらいなら、
咲いていた時間まで戻すのが可能だって聞いた事があります。
けど、それがこんなに大きな、人間の大人となると……」
ルイズの疑念に対し、力なくユーリが眉を歪める。
事実、その呪文は先の『ティム・フォールナ・メイ』以上に習得の難しさで知られ、
ゆえに未だ研究の進んでいない言葉であった。
時を戻す言葉を、人間に対して使った事例が上がってこない理由として、
一つは先に上げたとおり、会得した者が少ない、と言う事情が挙げられるのだが、
更に、この言葉自体のコントロールの難しさもまた、そう言った状況に拍車を掛けていた。
心技ともに充実したスピニアの力に加え、経験豊かなステラウェバーのサポート、
それにフィグラーレの魔力が充実する満月、と言う天の時を得て尚、
この言葉の行使には、力の暴走と言う多大なリスクが付き纏うのだ。
――そして、今ひとつ付け加えるならば、
この言葉で仮初の時を戻した所で、通常は何一つ問題が解決しないのだ。
この言葉の効果は、あくまで対象の時を僅かばかり巻き戻すのみ、
呼び戻された者は、再び病や老いと向かい合いながら、
愛する者との別離の時を迎えねばならない。
そして一度、魔法の効果が尽きれば、次の満月は一月後、
再び時間を巻き戻すチャンスは、実質ゼロである。
歴代のスピニア達は、この言葉の虚しさを理解するがゆえに、
人間に対して使用した記録を残してこなかったのであろう。
いや、本来ならばこの言葉は、
そうした悲しみを弁えられる者にしか習得できない代物なのかもしれない。
(……けど、今だけは状況が違う。
五分だけ、王子様の時間を巻き戻せたならば)
五分。
若きウェールズの命を奪ったのは、老いでもなければ病でもない。
五分前の忌まわしき事故さえ無かった事に出来たならば、
王子を取り巻く運命は大きく変わる事となるのだ。
無論、未熟なユーリが行使するには、この言葉はあまりにもリスクが大きい。
けれど、たまたま持っていた偉大な先駆者のレシピ、
偶然にも用意していた、ステラウェバーの賜物たる秘薬、
そしてスヴェル……、強大なる力をスピニアにもたらす満月の時――。
まるで始めから用意されていたかのように、
全ての舞台が今日、この時のために誂えられていた。
ゆえにユーリもまた、自身の実力ではなく、今宵の運命の導きを信じる事にした。
「いつもより大きな力を使います。
ルイズさん、少しだけ下がっていて下さい」
ユーリに促され、ルイズが無言で数歩後ずさる。
言葉から緊張が伝染し、
これからのローザの集中は決して妨げてはいけないと、ルイズに強く意識させた。
「……お姉ちゃん、クロワ、クローチェ、お願い」
口中で小さく祈りを捧げ、そしてユーリは静かにその『言葉』を口にした。
『――ティム・フォールナ・プリンシパトゥ』
――刹那、杖先より白色の閃光が溢れ、強大なる圧力が堂内を満たし始めた。
「ひぁっ、くっ、くうッ!?」
思わず浮きかけた両足を踏みしめ、力いっぱいにレードルを握り直す。
今まで体験した事もない膨大な魔力が杖先より溢れ出し、
油断すればレードル諸共、
あらぬ方向に弾き出されそうなほどの衝撃が、ユーリの両腕を襲っていた。
「うぅっ、で、でも、これほどの力なら、きっと……!」
ぐっ、と奥歯を噛み締め、光の先にいる王子を見つめ直す、
ここまで強大な力を制御する術をユーリは知らない。
ゆえにただ一心不乱に祈る。
王子が無事に戻ってこれるように、と。
「これが……、ロバ・アル・カリイエの魔法?」
か細い両足を震わし、ルイズが光の先にいる二人を見つめる。
眼前の光が秘める強烈な未知のエネルギー、
理屈は分からずとも、その力の膨大さは直に精神を圧迫する。
『……彼女たちの力、
あれは伝説の【虚無】に由来するものでは無いだろうか?』
思い出したくも無い男の言葉が、不意にルイズの心臓を刺し貫く。
未熟なメイジが、唐突に虚無や先住魔法の脅威に曝された時に感じるだろう理屈抜きの恐怖。
カタカタと噛み合わない奥歯が震え、同時にじわりと目頭が熱くなる。
王子を助けようと必死に頑張っているローザに対し、
そんな感情を抱いてしまう自分が、たまらなく悔しかった。
一瞬とも永劫とも分かりえぬ時間の中、
膨大なる魔力の中心にあって、しかしウェールズは何ら反応を示さない。
(……おかしい)
震える指先とともに、
紙魚のように湧き出した不安の一つが、疑念となってユーリを捕らえる。
『言葉』自体は無事に成功する事ができた。
溢れ出した魔力についても、制御し切れているとまでは行かないものの、
それでも何らかの変化が見えても良い頃合に差し掛かっているはずである。
だが同時に、ユーリ自身の本能が、心の底で何かが足りないと警鐘を鳴らし続けている。
一体なにが不足していると言うのか?
――レシピに刻まれた言葉自体に間違いは無い。
――直前に用いた秘薬も、姉の覚書とシエスタの資料を照らし合わせながら調合したものだ。
――そして何より今のユーリの体には、ハルケギニアの二つの月がもたらす魔力が……。
(……あ!)
不意に盲点に気付き、ユーリの心臓がドクンと跳ねる。
フィグラーレの言葉の中でも特に危険と言われる『時間に干渉する言葉』。
その身の丈に過ぎた力を、ユーリは直前に一度、唱えてしまっている。
膨大な力を浪費してしまったユーリ自身が、更に強大なる力の制御に追い付いていないのだ。
「――ッ! きゃあっ!」
ぐらりとユーリの視界が揺らぎ、魔力の乱れでレードルが大きく跳ね上がる。
「――ローザ!?」
「ち、近付かないでッ!」
鋭くルイズに釘を刺し、体勢を立て直すべくレードルと向かい合う。
だが、スピニアにとって心の乱れは、そのまま力の乱れである。
考えてはいけないと分かっていてはいても、魂が不安に押し潰されそうになる。
バチリと帯電するレードルが青白い稲光を放ち、魔力が暴風となってプレッシャーをかける。
不意に嵐の中の小船に飛び込んでしまったかのような恐怖。
先ほどまで、自分がどのように力を抑え込んでいたのか、それすらも思い出せない。
『……未熟な心のまま、強い言葉を使い続けるのはとても危険な事よ、
強すぎる力は、それだけ大きく、使い手の心を揺るがせる。
心が揺らげば力を制御できなくなる。
そうなってしまえば自分だけじゃない、周りの人たちまで危険に巻き込む事になるわ』
どこからか大好きな姉の言葉が聞こえる。
限界であった。
これ以上この力を行使し続ければ、やがてレードルが魔力を支えきれなくなり、
ユーリはスピニアの力を、自分自身の夢を失う事となる。
いや、それだけではない。
制御できない力はエネルギーの暴走へと変わり、
ユーリ自身を、そして、傍らにいるルイズをも危険に巻き込む事となるであろう。
今は一刻も早く魔法を中止し、レードルを手放さねばならない事態であった。
だが……。
「…………」
出来ない。
レードルを手放すと言う事は、そのままウェールズの命を手放すと言う事だ。
あの優しかった王子を救うチャンスは今しかない。
一縷の望みに縋り付いた少女は、知らず自らを心の袋小路へと追い込んでいたのだ。
「……ぅ、ひぐっ」
膨大な魔力が荒れ狂う堂内に、場違いな少女の嗚咽が零れる。
「なんで……、なんでうまくできないの……?」
「……ローザ?」
「あ、あと少しなんだよ……?
王子様を助けられるのは、今だけなのに……、
わたし……、わたしが頑張らなきゃダメなのに……!」
偉大なるメイジの称号も虚しく、未熟な少女へと変わり果てたユーリの哀願とは裏腹に、
稲光はついに烈風を孕み、徐々に暴力の牙へと変わっていく。
この場に留まるのは危険だと、素人であるルイズにすら本能が告げる。
「お願い、お願いだよクローチェ、
こんなの……、こんなの嫌だよぉ!
あきらめたくないの、助けて、助けてよクローチェーッ!」
「――ッ!」
だが、その本能すら片隅に追いやって、ルイズの瞳は少女に釘付けとなっていた。
知っている。
まるで童女のように泣き叫ぶあの女の子の事を。
不思議な光のゲートをくぐり、ルイズの前に姿を現した少女、皐ユリーシア。
姉のよう素敵なスピニアになりたいと言っていたユーリ。
そのユーリと瓜二つの姉、プリマ・プラム。
この場に存在する筈の無い学院の至宝【開かずの魔道書】
この世界の理で語る事は不可能な、未知なる魔法の数々……。
わずか二週間ばかりのうちに体験した、彼女たちとの様々な場面、様々な記憶が、
取りとめも無く胸をついては消えていく。
そして何より、小賢しい理屈を打ち払い、ルイズ自身の霊感がただ一つの真実を告げていた。
――ユリーシアが泣いている。
――あそこで泣いているのはユリーシアだ、と。
「……ユーリッ!」
思考が理解に変わる前に、ルイズの肉体は走り始めていた。
力なく崩れかけたユーリの体を、後背からがっしりと受け止める。
「……えっ? ル、ルイズさ」
「このォ、おとなしくしなさいッ!」
「あっ、ダ、ダメッ!?」
ユーリの諌めも聞かず、帯電するレードル目掛け片手を伸ばす。
後悔はすぐにきた。
最初に感じたのは、熱ではなく鋭い痛みであった。
暴走を始めた銀色の杖は、溢れ出た魔力を抑えきれずに高熱を持っていたのだ。
あまつさえレードルは、第三者に触れられるのを忌避するかのように痙攣を増していく。
「だから……、何だって言うのよッ!」
手の内で暴れるレードルを強引に握り直し、
更にユーリを抱きすくめる形で、無理やり残った左手を重ねる。
「お願い! やめて、やめてルイズさん!?」
「私の、私の事はいいから……、それよりよく見て、ユーリ!
ウェールズ殿下、ううん、王子も含めた、その周りの風景を」
「ふぇ、王子様の……?」
ルイズに促され、ユーリが両目を瞬かせる。
あらためて観察しても、ウェールズに変化があるようには思えない。
だが、確かに何かしらの違和感が引っかかる。
「分からない?
王子の周りの血溜り、さっきより一回りだけ小さくなっているの。
それだけじゃない、あなたの服を染めていた血の色も、いつの間にか消えているわ」
「……あ」
「きっと、時間が戻りかけているんだわ。
ユーリ、あなたは私とは違う!
あなたの魔法は失敗してなんかいないのよ!」
「で、でも私、もうダメなのッ!?
さっきまでどうやって力を抑えていたのか、それももう思い出せないの!?」
「できる、よ」
両脇に力を込めてユーリを抱きかかえ、そのままルイズは少女の肩へと頬を寄せる。
「舞踏会の夜、ユーリは教えてくれたでしょう。
人の心の在り方が、あなた達の魔法に力を与えてくれるんだ、って」
「……うん」
「フーケと戦った時も、この間のラ・ロ・シェールでも、
あなたはローザとして、私たちの事を助けてくれた。
ううん、魔法を使っていない、小さなユリーシアの時でさえ、
私はいつも、あなたのひたむきさに救われていたわ」
「…………」
「あなた自身には分からないかもしれないけれど、
でもユーリ、私はあなたがすごく強い気持ちを持ってるって知ってるから。
だからユーリ、今だけは私を信じて、もう一度やってみよ?」
「ルイズさん……」
ルイズの言う強い心が本当に自分にあるのか、ユーリには分からない。
だがルイズの言葉は、孤独の淵にいたユーリに強い安堵感を与えてくれる。
ふっと意識が緩み、次の瞬間、
ユーリは自身が抑えていた『蓋』がバチンと弾け飛んだように感じた。
たちまち強大なる魔力が噴出して、最悪の事態を想定したユーリは、思わず瞳を閉ざした。
「これ……、光が……」
「え……?」
呆然とするルイズの呟きに、恐る恐る瞳を開ける。
魔力はすでにユーリの制御できる範囲を超え、手の平にはレードルの感触すらない。
にも拘らず周囲に満ちた光からは威圧感が消え去り、
導かれるようにウェールズの許へと収束していく。
柔らかな光の中、はっきりと目に見える形で周囲の血溜りが引いていく。
胸元を染め上げる赤も徐々に薄くなり、心なしか王子の皮膚に張りが戻り始める。
「すごい……、すごいよユーリ!
見て! 出来てる! ちゃんと時間が戻ってるよ!」
(ううん……、違うよ、ルイズさん)
じんわりと目頭が熱くなり、一滴の涙が溢れる。
思いの丈が胸につかえ、言葉がうまく言葉にならない。
かつてフィグラーレの授業でも、そして家でも二人の姉が教えてくれた。
強力な言葉を使う際、第三者がレードルに触れてはならない。
レードルの震えが心を乱し、より力の制御を困難にしてしまうのだ、と。
そんなスピニアたちの常識を軽々と飛び越えて、
ルイズの強さが今、ユーリに一つの奇跡をくれる。
(この想いの強さ……、これが、これが本当のルイズさんの魔法なんだよ!)
――やがて光は潰え、礼拝堂に静寂が戻る。
魔法の消えたウェールズの姿に、少なくとも外傷の跡は見えない。
返り血はおろか、破れた服のほつれすらも、すっかり消えてしまっている。
心配げに肩を震わすユーリを制し、ゆっくりとルイズが王子に近付く。
「……大丈夫だよ、ユーリ。
気を失っているみたいだけど、呼吸も脈拍も正常だわ」
「ほ、本当? よか……」
「ユーリ!」
緊張の糸がほどけ、たちまちぐらりと波打ったユーリの体を、
慌てて駆け寄ったルイズが抱き止める。
「大丈夫!? ユ……、えっ?」
「あ……」
ユーリの体から、不意に赤色の淡い光が溢れ始める。
魔力を使い果たしたユーリは、ルイズの腕の中で見動きする事すら叶わない。
「ユーリ! ユーリ、しっかりしてッ!?」
淡い光に溶け込むように、腕の中のユーリがどんどん小さく、軽くなっていく。
ぞっ、とするような喪失感を打ち払うように、
ルイズが手の内の少女を力いっぱいに抱きしめる。
――そして、魔法はいつか解けてしまう。
「…………」
静寂の礼拝堂で、二人の少女がまじまじと向かい合う。
ロバ・アル・カリイエの聖女、プリマ・プラムはもういない。
今、ルイズの腕の中にいるのは、ただのちっぽけな少女、皐ユリーシアだった。
「ルイズさん……」
ぽつりとユーリが呟く。
少女の瞳はやがて、ルイズの手の平へと導かれていく。
白磁のような美しい手を横断する、赤黒くただれた火傷の跡。
今日、ニューカッスルで行われたものは、有り触れた奇跡ではない。
ルイズも、そしてユリーシアも、
すでに奇跡にふさわしいだけの代償を払ってしまっていたのだ。
「……大丈夫よ、ユーリ。
見た目ほど酷い傷じゃない。
きっとさっきの魔法で、私の手も少しだけ時間が戻っているんだわ。
魔法学院で治療を受ければ、こんな傷、すぐに消えちゃうから」
視線の意味に気付いたルイズが、静かに笑って首を振るう。
だが、ユーリの吸い込まれそうなサファイアの瞳から、やがて大粒の涙が零れ始める。
「うう……ひぐっ、ルイズさ……、
ごめん……、ごめんなさい……!」
「私は大丈夫だから、泣かないで、ユーリ」
そっ、と新緑のボブカットに手の平で撫ぜる。
だが少女はまるでぐずるように、いやいやと首を振るう。
(……きっとこの子は、どこか遠い所から来たんだ。
多分、ロバ・アル・カリイエよりもずっと……)
泣きじゃくる少女を前に、取り留めの無い妄想が浮かんでは消える。
少女が何に心を痛めているのか。
どう言えば心の傷を癒して上げられるのかが分からない。
「……言えない事は、何も言わなくていいの。
あなたが今日した事は、本当に立派な事だったって、私がちゃんと知ってるから。
悲しい事なんて何一つ無いから、だから……」
「ううん、違うの、そうじゃないの……」
そこからはもう言葉にならなかった。
泣きじゃくるユーリを前に、ほとほと困り果てたルイズであったが、
やがて優しく少女を抱き寄せると、かつての姉の真似をした。
「おいで、ユーリ……」
・
・
・
どこか遠くから、少女の鳴き声が聞こえていた。
上も下も、右も左も分からない、光の中の奇妙な世界。
ただ耳に響く少女の嗚咽だけが、その漠然とした空間の中で把握できる唯一の方角であった。
しばらく呆然と虚ろな世界を漂った後、
とりあえず彼は、その泣き声を標に進んでみる事にした。
「……ん」
眩い光を瞼の裏に感じながら、ゆっくりとウェールズは瞳を開けた。
ごつごつと鈍い痛みを感じ、たまらずに頭を上げる。
そこでようやく自分が石畳の上に寝ていた事を知り、ふっ、と自嘲を漏らした。
頭を軽く振るい、ゆっくりと辺りを見回す。
視線の高さの違いから把握が遅れたが、そこは確かにニューカッスルの礼拝堂であった。
「声……!」
夢の中で聞こえた少女の鳴き声が、未だ耳元に響いている事を知る。
振り向いた視線の先にいたのは、泣きじゃくる童女をあやす、薄桃色の髪の毛の少女。
遠巻きに、軍靴の音が聞こえる中、
ウェールズはしばし呆然と、その光景を見つめ続けていた。